フー、千尋の谷に落ちる

今回また武山さんの記事を参考にさせていただきます。
https://takeyama-y.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-1d6b.html
ハワイの問題解決の秘法にオホノボノとかいうのがあるらしいですね。それは何でも、
>この手法は、まず最初に、すべての問題が生じた責任は自分自身にある、と見定めて問題解決【の元である記憶=情報】の浄化(消去)の手法を取ります。
というものらしいです。
しかし、顕在意識レベルで暮らしている人には、いくらそんなこと言ったって理解しませんし、できません。
清き一票と言う嘘を手にさせられて、手足もがれて、いつまでも権力者の言いなりになるだけで、何にもできない者にどんな責任があるんだと言いたくもなるはずの人間です。
表向きの現実はそうにしか見えないです。
理解に至るには、従来の科学観を以てする虚構の堆積した砦の柵を超えなくてはなりません。
武山さんがどのような基礎に立たれているかは、彼の説明を聞くしかありませんが、相当破天荒な、天と地がひっくり返るような理論なくしては、語れないでしょう。
手前味噌ながら、私が1980年代に構築した”超宇宙を考えるためのモデル概念“(右リンクに掲げてます)は、統一場理論などではありませんが、おやっ?という発想で、この宇宙だけでなく、それを含む超次元多次元世界のすべてを平易に概念化することのできる新理論です。
それからすれば、人は誰でも(ダミーは除く)創造主なのであって、自分の趣向に合わせた時空の造り主ということになります。そこにはダミーがどれほどか。あたかも人口多数でバラエティー豊かなように演出されていますが、ほんらいはたったひとりかも知れないところの創造主であり、天上天下唯我独尊と言うべき存在なのです。
現出する世界は、あなたの想いを叶えてくれるのものになっています。
最近、その流れについて簡単に示した掲示板があります。ご覧願えたら幸甚。
https://itsukakit.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6734691
その中で、天使と堕天使について言い及んだ箇所。
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マーヤのゲームです。
ゲームは面白くするために善悪混交のストーリーを展開します。
天使はそれを自分に属さない映画として鑑賞します。
ところが、自分に属することとして意識し始めたとき、善悪を鋳型に刻み始めるのです。これが崩れだすきっかけです。
彼はやがて、善悪の要素を駆使すればこんな世界もありうるだろうという世界を鋳型によって、データーベースから検索して引っ張り出してきて、自分の鑑賞する映画として見始めます。そして、さらに映画に自己同化して、新たな善悪の種を鋳型に刻み込むことをします。鑑賞する世界はやがて、ありとあらゆる善悪の種が組み合わさった複雑怪奇なストーリーになっていくことでしょう。天使崩れ(堕天使)は、自らそのようなストーリー世界に至ったものでかつ、映画と自己同化してやまない状態を言います。
現在の諸相の複雑さは、からみあった糸のようになっていて、単純な解決法を見出すことが困難です。それは平和とは異なる状態です。戦争の反対語ではなく、ですね。
それから、天使と堕天使以外は、プログラム上のダミーキャラクターということになります。
コメントの上のほうの
>いわゆる邪な、自己中心の極まった想いを固定化して頑張っている人を「邪神」というのでしょう。
善悪、邪と正義、いずれの方向にも想いを固定化(自己同化)してがんばってる人を堕天使といい、邪悪の極にある邪神はストーリーが設定しているダミーキャラですね。
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は、なかなか秀逸と我ながらホレボレ。
つまり、外界(あなたを取り巻く世界、あるいは環境)は、あなたの願いに適うようにローディングされてきたプログラムの、演算実行された結果の観測データーというわけです。
邪神や配下のイルミやメーソンなどは、あなたの興趣を満たすために動くようプログラムされた舞台設定なんです。だから、ストーリーが設定するダミーキャラ(魂の無い人形)というわけで、彼らをどう動かすかはあなたが決めているから、責任があるというわけです。
私は知らないオホノボノよりも、アブリボアゼのほうがよほど意味深でいいように思いました。
私には、生まれたこの星の将来について、ごく自然に責任があるんだということです。
今日はさきほど他所猫の侵入を阻止するために、移動可能な橋を取り外していたのですが、フーが過って足を踏み外してしまい、5m下の切り株やらいろいろある地面に落ちてしまいました。もし、生命が危険な状態なら、お約束どおりこのブログを閉鎖します。
と、こう書いていたら、なんとフーが濡れ鼠になって帰ってきました。なんと、無傷で私の掌からドライフーズをいっぱい食べること。
またひと周り大きく大人になって帰ってきたようです。獅子の子は千尋の谷に突き落とされて、なおあがってくる。
このブログ、もう少し続けます。

他所猫の定着で・・・うちで生きた狛犬(獅子)たちがしのぎを削ってます

狛犬(獅子)は聖地を守護するために、参道の両側に座って、通過しようとする者の資質を確かめる役目をします。そしてそれは、つがいの夫婦(オスとメス)であるとされています。オスが「阿」、メスが「吽」。
ところで、うちの家はどうやら神社のようになってきているようで、すでに白虎の両親が夫婦として猫(ブーとウー)に化身して来てくれていました。夢に出てきたその姿は、ボーリングピンのずんぐり型。どてらかちゃんちゃんこを着て、耳はフードに覆われていたためか、無いように見えました。ただ、目が三つあり、神通力ある生物の感を醸してはおりました。
狛犬に三つ目のある例はないようなので、そのままそうだとは言えないのですが、寺院を背景に出てきていたわけですから、いちおうここは狛犬獅子としておきましょう。
あるいは沖縄のシーサーなら、様々な変化形があるわけなので、もし上記のようなシーサーをどこかで見かけたぞとお気づきなら、どうかお教え願えたらと存知ます。
さて、そのような鳴り物入りの猫たちながら、幼猫だった三匹を、他所猫軍団がよくいじめていたものでした。それで私は一計を案じて、出没してやまない他所猫を捕獲しようとしたわけでした。捕獲してしまえば、少し手荒く扱って、噛んで言い聞かせることもできるからというわけでしたが、ところがその仕掛けに見事かかったと思ったのは、夢の中でのことだったという次第。しかも、捕らえた二匹の他所猫がマンガチックにひょこひょこ私のもとにやってきて、帰順してしまうというストーリーだったようなわけで、これには私もいっぽん参ったわけでした。
現実にいったいどんな展開を見せるかと思っていたら、ほんとうに帰順の意を表してきて、人懐っこくやってくるようになってしまったのです。私の見る新鮮な夢は、ほとんどが現実とシンクロしているのです。(また特集しましょう)
そして、この二匹の猫はもう年齢もそうとういっているようではありながらも、お互いを気遣い合う、枯れススキ夫婦猫のようでした。
ただオスのほうは積極果敢に、私に泣き付きのトライをしてくるタイプで、メスのほうは警戒心が強く、すぐに逃げてしまい、遠目から眺めているタイプというわけで、いいコンビではないかと思ったようなこと。
エサを一日二回出してやるうち、オス猫は道路からの通路の入り口のど真ん中に居座るようになり、これでは道路を通る人らが変に思うから、彼に注意して、門前を避けて侍っていなさいと言いつけておいたところ、通路階段の少し下ったあたりの横脇に侍るようになったのです。なんとそこは、この庵への通路に作る予定の山門のすぐ間際ではないですか。すでに去年のうちに大きな穴が両側に掘ってあるのです。また、通路はこの庵のちょうど鬼門の方角にあり、荒魂エネルギーのクッション役としての神聖獣は欠かせないのです。
そこで私は、このペアーを山門の脇に佇む仁王像のごとく、生きた狛犬として採用しようと思った次第です。現在、オス猫の居場所だけは確保。あとメス猫が通路(参道)を挟んだ対称位置に居付くかどうか分かりませんが、そこにも居場所をもひとつ確保する予定でおります。

この成り行きに猛然と反発しているのは、ブーフーウーです。三匹ともまだ幼猫の部類で、力も薄弱ときていますから、ベテラン猫たちに敵うわけもなく、フーはなんであんな奴らをあそこに置いとくんだと目を吊り上げ気味。フーは表鬼門の守りに就くつもりだったかも知れませんが、今は裏鬼門側の空きプランターに寝そべっている有様。ブーとウーは夫婦で観光のつもりがウーに子供ができてしまい、がっぷりこの世と取り組まねばならなくなり、いささか予想が外れて、ブーなどはがっかり気味、ウーは子供たちに危険が及ばないか戦々恐々としているようなことです。
しかし、予定が狂ってしまうのがこの世の慣わしのようなこと。まあ、私だってそうですから、みんなで力合わせて打開していこうというわけです。彼らも本腰が入るようになれば、食事の好き嫌いなどの我侭もなくなり、力もついて他所猫ペアーをしのぐようにもなるでしょう。
近々、山門を設けます。それは以前からの予定していたことで、その表札には「蓬莱山」と書くことになります。
さて、他所猫のオス猫のほう、名前を門の石松としております。通路の入り口にいたからです。森の石松にすると、私の親族のようになりますから、避けております。森のがつくのは、ブーフーウーとチントンシャンだけです。
メス猫のほうは、まだはっきりとうちに定着するとは決まっていないので、名づけるには及ばないのですが、もしつけるとすると、長尾ミケにしようかと思います。
もちろん、彼らが誰でも夢で異議を申し立ててきたら、改訂しようとは思いますが、今現在はこのような次第です。

現時点の時空に関する考察(1)

まず、かつて日本が経験した明治維新と相似の事象としての地球維新があるかどうか。
現時点にその兆候を認めることは少しばかり尚早であろう。
というのは、太平の天下を揺るがす黒舟の来航が未だにないからだ。黒舟というキーが欠落している。
音信はあっても、それがなされて、太平の眠りを覚ますほどのものにならない限り、明治直前の幕末の様相とは似て非なるものである。
現在は、まだUFOディスクロージャーがあるだのないだののレベルに留まっている。しかも、現実に飛んでいるものが地球製(米国製)UFOかも知れないといった漠然とした状態では、幕府が新造船を造った程度の噂でしかなかろう。UFOが宇宙からやってきて、少なくとも米国に圧力をかけているという確たる情報が出てこない限り、あるいは幕末の沿岸部領民たち多数に、あれは明らかに地球製ではないぞというインパクトある出現がなくては始まらない。ネット上での賛同者の寡多を以て、これを補完することは困難だ。それは仮説の域を脱していなくてはならないからだ。
残念なことに、ふるやの森さんで語られたことやマシューメッセージにあったことが実現していない時点では、時期尚早と言うしかない。
むろん、幾つかの時点で大きくパラレルワールドとして分岐して行った時空の側では、以上のことが実現しているものと確信される。しかし、こちら側では、まだ世界は混沌とした幕末末期の様相を呈するのみで、このままでは打ち続く内乱、一揆、騒乱事件、飢餓の進行していく有様となることは避けられまい。幕府は情報の偏向操作と武力弾圧するにかまけるだろうし、年貢の取り立ても烈を極めることだろう。こうして世界人口が激減することは避けられまい。
RPGゲームの世界も、いろんなプログラムの選択肢を、我々の個々が意図して選択してきた結果としての落ち着き方をしている。
私はこの世界を所期のとおり誘導している。見渡す周りはほとんどダミーであろうと推測しながら、心を苦しくなく保っている。(ダミーとは”I am that I am”状態にない者のこと。つまり単にプログラム上に記述されただけの者のこと)
なぜなら、これからの時空を体験するには、それ相当の力量ある魂の性能が要求されるからだ。少なくとも、世界の成り行きを鳥瞰的に超然と見下ろせる理性あるいは魂の資質を育んでおかなくては務まらないだろうから。
では、この時空は何によって規定されているか。何度も言ってきたように、時空(プログラム)をいろいろなバラエティーに富ませているのは、メルヘンである。中でも、特に神話である。
この時空は、古事記の神話における「黄泉の国」のレールに則っている。聖書の工程にも則っているが、最後の土壇場に、それをサポートしてきた卑怯者たちは恐怖の末、奈落の精神状態に陥ることになるから、この神話の効果は手薄になる。その間隙を突くことができるのだ。
新神話にもう少し威力があれば、先の地球維新へと繋がったことだろうが、その線は弱くなった。
しかし、新神話には別ルーチンがいくつも用意されていて、懐が深くできている。旧神話の展開をも取り込んで、この場合は最後のどんでん返しで正神政治への復帰が目論まれている。少なくともイザナギ脱出は旧神話の予定された工程。それをさらに巨歩進めて、三次元密度に置かれる地球すらも、クリーンなものにしてしまう、最後の一厘の工程が適用される予定である。
阿呆が仕掛けた操りの糸。世の支配神とその配下ども、この阿呆の掌で転がされての末に消えて亡くなれ。
阿呆の目的は唯一それにある。

ボンベイのブー

猫でもボンベイという種類のブーはフーやウーと違って、目はほぼまん丸で、じっと見つめる癖もあるため、まさに注目の的になっていると錯覚を催すほどです。他所猫に追いかけられているときでさえ、目を皿のようにして走ってるんですから。
飼い主に可愛がられるため寝転がる愛嬌を小さいときから今に至るまで持ち続けていて、飼い主を見つけると足元にまとわりつくように寄ってきて、見上げて相手にしてもらおうとするので、家猫にするにはもってこいの種類でしょう。ただちょっと、毎度うっとおしいのがありがた迷惑なところ。
フーが育児に関心がないぶん、ブーがてて親がわりを務めています。子猫たちを噛んでみたり転がしてみたり、人間で言えばキャッチボールでもする感じでしょうか。よちよち歩きからぴょんぴょん飛び跳ねるようになる頃に積極的に関わってくれるようになりました。その意味でも家猫だなと思えます。
というより、あちらの世界ではブーとウーが夫婦でフーが息子という関係なんでしょう。親としてやるべきことを知っているのはブーであり、フーはまだどうやって子育てに関わっていいか分からない独身者(僧)なんでしょう。まさにあの夢の通りの具現と言えましょうか。
ウーには貴重な体験をさせましたから、もう避妊させるつもりですが、ブーはただいまウーといい仲を醸成しています。


ちょっと休憩


なぜかこの曲を聴くと、心の奥底の琴線が揺れて、泣けてしまいます。
過去世でドイツにいたのでしょうか。
そんな詮索は野暮というもの。
いいものはいいのです。
だってウーまで、隣室で子供の世話をしていたのに、こちらの部屋の上の棚に上がって、聞き入りながら寝てしまっているのです。
野暮とは言いましたが、私にはこの曲のもと、将校服で踊っていた記憶があるのです。