狛犬(獅子)は聖地を守護するために、参道の両側に座って、通過しようとする者の資質を確かめる役目をします。そしてそれは、つがいの夫婦(オスとメス)であるとされています。オスが「阿」、メスが「吽」。
ところで、うちの家はどうやら神社のようになってきているようで、すでに白虎の両親が夫婦として猫(ブーとウー)に化身して来てくれていました。夢に出てきたその姿は、ボーリングピンのずんぐり型。どてらかちゃんちゃんこを着て、耳はフードに覆われていたためか、無いように見えました。ただ、目が三つあり、神通力ある生物の感を醸してはおりました。
狛犬に三つ目のある例はないようなので、そのままそうだとは言えないのですが、寺院を背景に出てきていたわけですから、いちおうここは狛犬獅子としておきましょう。
あるいは沖縄のシーサーなら、様々な変化形があるわけなので、もし上記のようなシーサーをどこかで見かけたぞとお気づきなら、どうかお教え願えたらと存知ます。
さて、そのような鳴り物入りの猫たちながら、幼猫だった三匹を、他所猫軍団がよくいじめていたものでした。それで私は一計を案じて、出没してやまない他所猫を捕獲しようとしたわけでした。捕獲してしまえば、少し手荒く扱って、噛んで言い聞かせることもできるからというわけでしたが、ところがその仕掛けに見事かかったと思ったのは、夢の中でのことだったという次第。しかも、捕らえた二匹の他所猫がマンガチックにひょこひょこ私のもとにやってきて、帰順してしまうというストーリーだったようなわけで、これには私もいっぽん参ったわけでした。
現実にいったいどんな展開を見せるかと思っていたら、ほんとうに帰順の意を表してきて、人懐っこくやってくるようになってしまったのです。私の見る新鮮な夢は、ほとんどが現実とシンクロしているのです。(また特集しましょう)
そして、この二匹の猫はもう年齢もそうとういっているようではありながらも、お互いを気遣い合う、枯れススキ夫婦猫のようでした。
ただオスのほうは積極果敢に、私に泣き付きのトライをしてくるタイプで、メスのほうは警戒心が強く、すぐに逃げてしまい、遠目から眺めているタイプというわけで、いいコンビではないかと思ったようなこと。
エサを一日二回出してやるうち、オス猫は道路からの通路の入り口のど真ん中に居座るようになり、これでは道路を通る人らが変に思うから、彼に注意して、門前を避けて侍っていなさいと言いつけておいたところ、通路階段の少し下ったあたりの横脇に侍るようになったのです。なんとそこは、この庵への通路に作る予定の山門のすぐ間際ではないですか。すでに去年のうちに大きな穴が両側に掘ってあるのです。また、通路はこの庵のちょうど鬼門の方角にあり、荒魂エネルギーのクッション役としての神聖獣は欠かせないのです。
そこで私は、このペアーを山門の脇に佇む仁王像のごとく、生きた狛犬として採用しようと思った次第です。現在、オス猫の居場所だけは確保。あとメス猫が通路(参道)を挟んだ対称位置に居付くかどうか分かりませんが、そこにも居場所をもひとつ確保する予定でおります。
この成り行きに猛然と反発しているのは、ブーフーウーです。三匹ともまだ幼猫の部類で、力も薄弱ときていますから、ベテラン猫たちに敵うわけもなく、フーはなんであんな奴らをあそこに置いとくんだと目を吊り上げ気味。フーは表鬼門の守りに就くつもりだったかも知れませんが、今は裏鬼門側の空きプランターに寝そべっている有様。ブーとウーは夫婦で観光のつもりがウーに子供ができてしまい、がっぷりこの世と取り組まねばならなくなり、いささか予想が外れて、ブーなどはがっかり気味、ウーは子供たちに危険が及ばないか戦々恐々としているようなことです。
しかし、予定が狂ってしまうのがこの世の慣わしのようなこと。まあ、私だってそうですから、みんなで力合わせて打開していこうというわけです。彼らも本腰が入るようになれば、食事の好き嫌いなどの我侭もなくなり、力もついて他所猫ペアーをしのぐようにもなるでしょう。
近々、山門を設けます。それは以前からの予定していたことで、その表札には「蓬莱山」と書くことになります。
さて、他所猫のオス猫のほう、名前を門の石松としております。通路の入り口にいたからです。森の石松にすると、私の親族のようになりますから、避けております。森のがつくのは、ブーフーウーとチントンシャンだけです。
メス猫のほうは、まだはっきりとうちに定着するとは決まっていないので、名づけるには及ばないのですが、もしつけるとすると、長尾ミケにしようかと思います。
もちろん、彼らが誰でも夢で異議を申し立ててきたら、改訂しようとは思いますが、今現在はこのような次第です。
日: 2010年9月17日
現時点の時空に関する考察(1)
まず、かつて日本が経験した明治維新と相似の事象としての地球維新があるかどうか。
現時点にその兆候を認めることは少しばかり尚早であろう。
というのは、太平の天下を揺るがす黒舟の来航が未だにないからだ。黒舟というキーが欠落している。
音信はあっても、それがなされて、太平の眠りを覚ますほどのものにならない限り、明治直前の幕末の様相とは似て非なるものである。
現在は、まだUFOディスクロージャーがあるだのないだののレベルに留まっている。しかも、現実に飛んでいるものが地球製(米国製)UFOかも知れないといった漠然とした状態では、幕府が新造船を造った程度の噂でしかなかろう。UFOが宇宙からやってきて、少なくとも米国に圧力をかけているという確たる情報が出てこない限り、あるいは幕末の沿岸部領民たち多数に、あれは明らかに地球製ではないぞというインパクトある出現がなくては始まらない。ネット上での賛同者の寡多を以て、これを補完することは困難だ。それは仮説の域を脱していなくてはならないからだ。
残念なことに、ふるやの森さんで語られたことやマシューメッセージにあったことが実現していない時点では、時期尚早と言うしかない。
むろん、幾つかの時点で大きくパラレルワールドとして分岐して行った時空の側では、以上のことが実現しているものと確信される。しかし、こちら側では、まだ世界は混沌とした幕末末期の様相を呈するのみで、このままでは打ち続く内乱、一揆、騒乱事件、飢餓の進行していく有様となることは避けられまい。幕府は情報の偏向操作と武力弾圧するにかまけるだろうし、年貢の取り立ても烈を極めることだろう。こうして世界人口が激減することは避けられまい。
RPGゲームの世界も、いろんなプログラムの選択肢を、我々の個々が意図して選択してきた結果としての落ち着き方をしている。
私はこの世界を所期のとおり誘導している。見渡す周りはほとんどダミーであろうと推測しながら、心を苦しくなく保っている。(ダミーとは”I am that I am”状態にない者のこと。つまり単にプログラム上に記述されただけの者のこと)
なぜなら、これからの時空を体験するには、それ相当の力量ある魂の性能が要求されるからだ。少なくとも、世界の成り行きを鳥瞰的に超然と見下ろせる理性あるいは魂の資質を育んでおかなくては務まらないだろうから。
では、この時空は何によって規定されているか。何度も言ってきたように、時空(プログラム)をいろいろなバラエティーに富ませているのは、メルヘンである。中でも、特に神話である。
この時空は、古事記の神話における「黄泉の国」のレールに則っている。聖書の工程にも則っているが、最後の土壇場に、それをサポートしてきた卑怯者たちは恐怖の末、奈落の精神状態に陥ることになるから、この神話の効果は手薄になる。その間隙を突くことができるのだ。
新神話にもう少し威力があれば、先の地球維新へと繋がったことだろうが、その線は弱くなった。
しかし、新神話には別ルーチンがいくつも用意されていて、懐が深くできている。旧神話の展開をも取り込んで、この場合は最後のどんでん返しで正神政治への復帰が目論まれている。少なくともイザナギ脱出は旧神話の予定された工程。それをさらに巨歩進めて、三次元密度に置かれる地球すらも、クリーンなものにしてしまう、最後の一厘の工程が適用される予定である。
阿呆が仕掛けた操りの糸。世の支配神とその配下ども、この阿呆の掌で転がされての末に消えて亡くなれ。
阿呆の目的は唯一それにある。
ボンベイのブー
猫でもボンベイという種類のブーはフーやウーと違って、目はほぼまん丸で、じっと見つめる癖もあるため、まさに注目の的になっていると錯覚を催すほどです。他所猫に追いかけられているときでさえ、目を皿のようにして走ってるんですから。
飼い主に可愛がられるため寝転がる愛嬌を小さいときから今に至るまで持ち続けていて、飼い主を見つけると足元にまとわりつくように寄ってきて、見上げて相手にしてもらおうとするので、家猫にするにはもってこいの種類でしょう。ただちょっと、毎度うっとおしいのがありがた迷惑なところ。
フーが育児に関心がないぶん、ブーがてて親がわりを務めています。子猫たちを噛んでみたり転がしてみたり、人間で言えばキャッチボールでもする感じでしょうか。よちよち歩きからぴょんぴょん飛び跳ねるようになる頃に積極的に関わってくれるようになりました。その意味でも家猫だなと思えます。
というより、あちらの世界ではブーとウーが夫婦でフーが息子という関係なんでしょう。親としてやるべきことを知っているのはブーであり、フーはまだどうやって子育てに関わっていいか分からない独身者(僧)なんでしょう。まさにあの夢の通りの具現と言えましょうか。
ウーには貴重な体験をさせましたから、もう避妊させるつもりですが、ブーはただいまウーといい仲を醸成しています。