カテゴリー: シンクロストリームなのだ
空海和尚とはもちもちの関係かも
最後の審判の督促と実行補助が最後のご奉公か(未定)
新神話への貢献・・・妹の場合
妹の功績
妹には、新神話協力者として、少なくとも二つの特筆できる功績があります。
ひとつは、私が20歳代後半に、愛知県で見た夢の中に、学校時代に過ごした神戸の実家が現れ、そのときUFO(円盤)が二機上空を行ったあと、私が当時自室にしていた6畳の畳の部屋に二人の英国風紳士がいて、電気炬燵を囲んで会談している状況がありありと出てきて、そのストーリーの中に母もお茶を持って上がってきて、「どうぞごゆっくり」と言って立ち去るシーンまで。
私が神戸に戻ったとき、母や妹にこのことを言うと、母は何も知らなかったですが、妹が小学校6年の頃に、私が中学校3年で、高校への受験勉強のため、襖を隔ててある4畳半の妹の部屋をチェンジした際、妹は布団をかぶって寝ている足元に、二人の英国風紳士が立って、見下ろしているのを見て、恐ろしさのあまり、震えて寝たふりをしていたとのこと、すなわち異人の侵入があったことを証言してくれたことです。
確かにその翌日、妹は「お兄ちゃんの部屋にお化けが出る」からという理由で、部屋を元に戻した経緯があるのです。
後に、再会した時、昼食時のレストランのナイフ置きティシュにボールペンで描いてくれた絵も手に入れています。
若干、夢で見た二人とは雰囲気が違いますが、妹も居たのは英国風紳士だと言っていますから、ほぼ間違いなく、おかしな英国風の異人が、おかしなルートからやってきていたのでしょう。それも、けっこう頻繁だったのではないかと思いますが、そのたびに記憶を消されて、そのうちのある日の会談が夢になって出てきたものと解せました。
妹は、宇宙人か何者かわからぬまでも、異人との遭遇体験の証言者になってくれました。それがひとつ。
二つ目は、やはりすごい夢に関係があります。
2013年の3月か4月に、墓参りに行った際の帰り際に、ダウンシュラフは要らないかと言うのです。私は、現在の場所で暮らしているうちに、シュラフで寝ることの心地よさを感じていましたから、すでに夏用の安いシュラフと、冬用のドイツ製のスターゲイザー・シュラフを持っていましたが、春秋用としてのものがなかったので、よし、もらおうと、あっさりといただいたのです。
5月からそれを使い始めたある日、11日の未明の夢に、板の間に薄物を敷いて、とても軽くて心地よい薄物を掛けて寝ていたところを起きて、周りを見れば、燭台に火が灯り、何枚かの緞帳で仕切られた部屋の右手に、二枚ほど抜けた向こうに廊下があり、そこを歩いて通っていく、ミズラを結って弥生時代の白い服装をした男性に遭遇しました。
左手を見れば、緞帳が重なり合わない角のところに、平安調の単衣を着た女御が座っています。女御は私が起きたのに気付き、顔を見合わせたわけですが、なんと女御はナオミさんではないですか。彼女はにこっと笑うと、なんと、お歯黒されていて、ええっ、と思いましたもんね。
それから扉を全部開けて外に出てみれば、巨大なお社で、すごく古い巨木を使っていて、年輪の間が乾燥して食いこんで角柱自体が大きいのです。そのお社は、高さ30~40mほどの岩山の上に太い丸柱を直接立てて建っているのです。建物は横幅が広くて(50mはあるか)、左右両側に下までの階段がついていて、その上でブラックスーツの男たちが何か作業していまして、私は邪魔にならないように、岩山伝いに下りたり上がったりして様子見をしているわけでした。そして、目が覚めました。
見れば、ダウンシュラフがお社の中では薄物(衾というものか)の役目を果たしていたことになるなあと思いましたもの。結構長い夢だったです。やはり寝心地が良くなくてはいけません。肝心かなめの夢というのは、長く憶えておけて、憶えている夢の範囲全体が私への啓発事になっているのです。
そのお社とは、出雲大社ですよ。しかも、現実の世界のものではなくて、おそらく神世の出雲大社なのです。なぜなら、その11日の未明とは、前日の10日に式年遷宮が行われているのですから。ブラックスーツの人たちとは、儀式に携わった神主さんたちではなかったでしょうか。
そして、ミズラを結った男性とは大国主命であり、ナオミさんこそは、再三照合が取れているように、大国主命の奥様の奥津嶋姫の化身だったのです。
妹のくれたダウンシュラフで寝ていたからこそ、妹がダウンシュラフをくれたからこそ、こんなすごい夢を見てしまったことになります。
ここまでなら、協力者としても十分なわけですが、さらにもう一段、妹を神にまで見立てる機会もありました。
新神話創作の経緯を見てきているコメンテーター諸氏ならお判りでしょうが、新神話は神話ですから、そのストーリーを神楽舞する俳優が現実世界で必要になります。私は新神話の主役ですから、少なくとも新神話を踊る神楽舞の俳優かそれ以上の者(神かもしれない)ですが、妹もそれを了承すれば、神を演ずる俳優になれたのです。それは、未だに配役の決まっていない「瀧子姫」役で、弁天三姉妹の次女に当たる役でした。長女と三女がすでに決まって新神話が営まれていて、次女が空座になっていたのです。
いや、妹はいったん了承したのですが、その了承したすぐあとに過激な兆候として出てしまいまして、私のほうもこれはぜひともと思ったのですが、兆候の成り行きが思わしくなかったのです。その兆候とは、御岳山の噴火です。妹が了承して2時間後ぐらいに起きているのです。私の家までの帰路に妹からその知らせを聞いて、おお、おまえ、やったな、と喜んだのですが、この噴火で死者が出たことと、その後数日で噴火が収まって、しかも頂上に祀られていた国常立神の銅像の首が吹き飛ばされていたことがわかるという、よい兆候ではない観測があったため、妹のせっかくの資質ながら、用いることを躊躇してしまったのです。これは瀧子姫の心の根深い怨みによるものかもしれず、妹の抱えた難病とそれへの忍耐の度合いのすさまじさにも根深さを見ていまして、きっと妹も何らかの神の化身と思うのですが、瀧子姫役は兆候が強く出過ぎるため、保留にしています。
とにかく妹は新神話の経過にすごく興味してくれて、積極的に話を聞き関わろうとしてくれました。嬉しかったですね。
平安時代末期の酒呑童子事件が現代に投射した世界も驚愕の猟奇事件
うおっ、シンクロだ
12月19日に、千葉県のN氏が突然、酒呑童子というお酒があるはずなんだけど、知らないかという電話がかかってきまして、そのお酒の名前を聞いてびっくり。そんな酒があるとは知らなかったのですが、なんでこんなときに酒呑童子という言葉に遭遇するのか不思議でした。
というのも、17日に、私はかつて恐怖体験したこととして、異界のサタンから脅迫を受けた、そのときのサタンの名前はバイオモドキ、つまり生命モドキという奴だったとか話していて、とても気持ちの悪い体験だったので、それ以上を話さなかったのですが、実はその話には酒呑童子が関わっているのです。
そこでどうやら、すでに千年前に亡くなっている酒呑童子から、真相として調べたことについて話すことを求められているのではないかと感じた次第です。一度は、真相について推理して、ホームページに掲げていたのですが、まだもう一歩踏み込めていない気はしていました。
そう、このような別人から示唆される形で今までにも異界から督促が来たことがあったのです。それほど重要性ある話題とは普通人は考えないのですが、探偵性の私の場合はそうはいきません。敏感に、これは督促メッセージだと解釈しました。
どうやら再度、酒呑童子事件の真相にアプローチすることが求められている気がしますので、すでに解読が終わっていることながら、いま一度、吟味しようと思います。そうそう、2016年末現時点でわかっている最新情報と照合することも大事かと思いますので、この文の末尾にでも書き加えましょう。
酒呑童子とは何者だったのか
最近では、2006年~2008年の時のことでしたか、その頃では武良さんたちとの付き合いも少なくなっていた時でしたが、元伊勢のほうには現地の友人Gさんに会いたくて、彼から会いましょうとお声がかかれば、二人して現地に行っていたのでした。武良さんはいつものようにUFO撮影というメインの作業があって、こうしたときは撮影場所も普段と変わって楽しそうでした。
いつもの集合場所は元伊勢内宮のすぐ下にある食堂兼売店で、うどんなどを注文して食べながら、そこでGさんの到着を待つというパターンなわけです。そこにGさんがやってきて、さあ今から日室岳の遥拝所に行きましょうかと、売店を出ようとするときのことだったかと記憶します。
売店をきりもりする3人のおばちゃんたちのうち、やや声の甲高いAさんが、そこに来ていたお客との会話をしていたかして、「こんな神聖な場所のすぐ裏手に、何で鬼がおるんやろと思うとったけど、鬼ゆうのは決して悪うないんやってなあ。私は今まで知らんでおったわ」と大きな声がしました。
Aさんや売店のおばちゃんたちは内宮の北西4Kmほどの近くに、大江山という酒呑童子の鬼退治伝説の舞台があることを、昔から訝っていたようでした。私はむしろ、はあ、そんなものなのかなと意外でした。鬼伝説の地元だから、鬼には好意的かと思っていたのです。当地には「鬼の交流博物館」という観光スポットもあるぐらいなので。
私はすでに一著にしたように、鬼の酒呑童子の場合は、中央の施政方針の変更により、かつて国土計画に主体的に参画した氏族が、その存在を疎まれて冤罪を受けて殺され遺棄されるまでに至った事件であろうと推測していましたから、酒呑童子には同情的なわけでした。同様に、山姥とか奪衣婆とかいった異界の鬼もいますが、多くの人に誤解されているからということで、物語にして彼らを擁護してきたわけでした。
⇒ 物語「やまんばのうた」 物語「たつえばあさん」
どういう説が広まったか、ようやく鬼の里の地元の古老にも、悪い奴ではなかったと理解されてきているようで、何よりでした。
その次の機会に元伊勢に行ったのは2014年になってからでした。しかし、あの元気なおばちゃんたちの半数がなくなったとかで、売店は締め切られたままになっていました。おばちゃんたちは、ひとつの大きな成果を携えて逝かれたに違いありません。
そもそも、「おに」という言葉は大和言葉であるのに、語源が何であるかまったくわかっていないのが不思議です。ただ、醜怪な化け物を意味する中国伝来の漢字「鬼」にその訓を当てふってそのままにしてある感が否めず、語源の解明に挑んだという人を私は知りません。
しかし、私には解明できました。
拙著書「古代日本にカバラが来ていた」で書いていますように、カバラの祭祀が背景にあるなら、遠敷(おにゅう=おにふ=生・新・降=新生の生命エネルギーの降下)という理念の恩恵が京滋の都市部に見込まれたはずで、そのカバラ祭祀に携わった氏族の儀式名称こそ、遠敷あるいは大丹生で、その名がつづまって「おに」と呼ばれたに違いないと、順序立ててわかるわけです。”おにゅう”が”おにゅ”になり”おに”になっていった経過がわかると思います。
むかしどおりの環境なら、遠敷の土地に地歩を占めて、人知れず祭祀に従事していた祭政官だったはずの鬼たち。それが仏教や陰陽道などの大陸思想の導入で、居場所を無くしていった古代祭祀形態を持った氏族だったのではないかと推理できます。官職をなくし隠れて山籠りしていても、カバラの生命の木のセフィラの位置をキープしたく思うのは当然でしょう。それが彼らの役割であり、存在意義であった以上、元伊勢近傍に居場所を設けていたとしてもおかしくありません。伊吹山にいたという伊吹童子という鬼も同じことです。どちらもほとんどセフィラの位置です。
そして、鬼は二本角ではなく、一本角であったはずです。角は修験者のしている兜巾だったのではないですか。
酒呑童子伝説を描いた大江山絵詞によれば、修験者服を着た暗殺集団源頼光一行が到着した時、酒呑童子は仲間が来たと思って角を取って出迎えたと書いているというではないですか。童子も修験者ゆえ仲間だと誤解したのではないのですか。取ってしまえる「角」とはいったい何ですか。
二本角への伝説の置き替えで真義を誤魔化し、頼光に入れ知恵した神々らしい三人の導師を伝説の中に設定して、あたかも正義の側であるかのように誤魔化し、さらには都のうち続く災厄を酒呑童子のせいにするとは、都の策謀家たちの悪業はいかばかりなものかと思います。包み隠しておいて嘘で誤魔化し、死人に口なしをいいことにでっち上げの歴史改竄話を敷衍して民衆をその気にさせる。今でも公然と行われていることながら、祟りを招かざるを得ない罪深い行為ですわね。行為者の中には、あの陰陽師の安倍の晴明もいたのです。当時でも人気を博した彼がこうだと言えば、都の誰しもが信じたことでしょう。
酒呑童子が息絶えるときに叫んだ「鬼に横道なきものを」という言葉も、横道者たちには聞こえぬのでありましょうか。横道とは邪で卑劣な姦計を巡らすことを言います。おそらく聞こえますまい。酒呑童子ら鬼たちが修験の行者であることを知らない横道者たちでもありますまい。行者殺しがものすごいカルマの報復を招くことは、身近な親族の例で私は知っています。しかも姦計による謀殺とは。行者の魂が赦すまでは、不幸な輪廻を重ねねばならないでしょう。にやけ顔の安倍の晴明とて例外ではありません。
そんなカルマかもしくは祟りによる報復の小さな一例が、あの世界を震撼させた1997年に起きた神戸事件だったもようです。
その1997年にも、私は武良さんと元伊勢に行きました。その時はGさんに会えたかどうかは憶えていないのですが、ちょうど酒鬼薔薇と名乗る犯人による少年斬首事件のあった直後のことで、まだ犯人は捕まっていない時でした。
売店のおばちゃんの誰かが(Aさんだったかもしれない)興奮気味に言ったのですが、「酒呑童子の話に似た事件が、大江山のちょうど南で起きたんだゆうて、テレビで放送しとったよ」という言葉を私は耳にしました。丹後の地元の民放テレビ局がいち早く猟奇事件を分析したみたいでした。
私は驚きました。というのは、犯行声明文を送りつけた酒鬼薔薇という名から、その当時私は瞬間的に鬼の酒呑童子のことを思いついていたからです。しかも、どちらも斬首事件で、首を晒しものにしているという共通性がありました。そこに加えるに大江山の南となれば、それまで西日本に幾何学図形群を発見していた手前、距離が遠くても関連付けて見てしまいます。そうか、ならば本当に真南北なのかどうかと、その二地点間の距離および幾何学図形に何らかの有意性が認められたなら、この推理も確実なものになるに違いないという見込みで帰宅したのでした。そして早速、ネット上の地図で調べておよそ86Kmになることが判明。(事件のあったタンク山の位置が地図では判別できなかったため、およそになります)
その距離は、遠敷から奈良までの距離にほぼ等しいのです。それはお水送り-お水取りの聖水送受のラインの距離ですよ。それこそ、仏教伝来以前に彼ら”おに”がしていたはずの儀式なわけです。そしてさらに驚愕だったのは、大江山山頂と遠敷のお水送りの開始地点の鵜の瀬がほぼ等緯度だったのです。当然、神戸事件のあったタンク山は奈良とは等緯度になるはず。
それが判明した段階で、私は震えが来ました。これは明らかに鬼の酒呑童子の祟りであり、約千年前にあった斬首事件を現代において再演しているのだと確信しました。
私は当時、大江町役場の方とも知り合っていたため、今年も酒呑童子祭りがあるからとのお誘いで、お祭りを見物しに行き、その様子をデジカメに撮って、酒呑童子の真相を汲み取って書いた物語「異聞・酒呑童子伝(後編)」の末尾に載せて、鬼の行者の魂を供養しています。
⇒ https://uu.fantasia.to/uumusou/story/syuten1.htm
https://uu.fantasia.to/uumusou/story/syuten2.htm
https://p.booklog.jp/book/90955/read
疑似生命体を名乗る悪魔
ところが、この神戸事件は、さらに深い闇を抱えていました。酒呑童子の無念の怨みの背後に、規模も得体も知れないネガ的存在がいるのです。
規模が知れないネガとは、もしかすると酒鬼薔薇少年が絵に描く通り、世界を支配する邪神(サタン)かもしれず、あるいは狐狸の類のいたずらかもしれず、その範囲である何者かなわけですが、名を名乗るにバモイドオキとのこと。バイオモドキのアナグラムのつもりでしょう。つまり、生命もどき、疑似生命体といった意味でしょうか。酒鬼薔薇少年はその神を崇拝しているのだと言いつつ、その神を代弁するメッセージを発しています。むろん、彼がすべて自作したとするなら、それでケリはつくでしょう。しかし、私にはその神が存在するというふうに捉えました。それは当然でしょう、酒鬼薔薇少年のしたことは、まぎれもなく鬼退治伝説の模倣だったのですから。後に捕まった少年Aが、そのような予備知識を持っていたとはとても思えないからです。
とにかく、このオカルト現象を起こした者とは目的と意志を持った者であり、その目的は、酒鬼薔薇のメッセージにもあったように、世界の任意の誰でもを相手に「壊れやすさの実験」ができるのだという立場を誇示することがひとつ。それと、個人的に謎を解き明かそうとする私への脅しにあったのではないかと推測するのです。
まず、酒鬼薔薇を名乗った少年A自身がすでに壊れやすさの見本(脳が壊されて操られている?)になっているようでした。
もうひとつ、カバラの渡来と修験者の元の姿を結びつけた私の推理を異界から見ていて、危惧の思いを持ったか、拙著書の内容を引用したかと思えるような感じがあり、しかもそこに酒呑童子の怨霊さえも呼び寄せて、鬼による仇討ち劇を見せている観がありました。
私は生まれ故郷が宮津市なので、幼少期から大江山の伝説は聞き知っていますから、日本人の誰よりも関心事になることを見込んで、こんな事件を・・・いささか自意識過剰でしょうか・・・いやしかし、当時はまじに深刻に捉えていました。
この事件は大胆不敵な犯行であり、解決が長期に及ぶかと私は思いました。犯人は正真正銘の異界の悪魔か、あるいは秘密の暴露を嫌がる、魔術を駆使して監視の目を光らす秘密結社か(著書には秘密結社のことも書いてましたから)、とにかく私ごときの手に負える相手ではないと思い、犯人が早く捕まることを真剣に神に祈りました。当時、私はサイババさんを神の化身と思っていましたから、プッタパルティのババさんの住所宛、窮状を訴え助けを求める手紙を日本語で書いて送りました。
「私は得体の知れない悪魔か悪神に睨まれているみたいです。私の力ではどうにもならないので、神の力で早く事件の解決をしてもらえませんか」といったふうに。
すると、間もなくして少年Aが捕まったのです。しかし、まだ中学生の少年があんなことができるのかと半信半疑でした。それでも、私は心の重荷が取れまして、ババさんには感謝しました。ババさんには、この時の他、あと二度ほど手紙を出していたように思います。そのいずれも、解決を与えてくださいました。そればかりでなく、2001年には名古屋のM君がババさんに会いにインドに行ったときに、私へのお土産を彼に持たせてくださったこと。そのときの二枚の写真、その一枚に、1983年に創った拙超宇宙論を肯定するメッセージを籠めてくださっていました。これによって、私の研究成果が本物との確信が得られました。事実、2016年の今では世界は仮想現実であるとする説のほうが有力なものとなっています。これは翻って、ババさんが本当のことを信者に語られていることの証になります。何度もご援助いただき、ありがとうございました。
その後、バモイドオキを語った悪霊か悪魔も、そこに籠めたメッセージ性に照らすと、非常に孤独で寂しくまた否定された存在であると私には思えてきて、酒呑童子と同じ、誰祀ろう者なき境遇にあることが感じられたのでした。あれだけ脅されたのですから、放っておけばいいようなものですが、私は弱い者の味方であることを第一義にしていまして、さらに縁者であるならなおのこと、事情を訊きたくもなるのです。(バモイドオキも縁者? だって、拙超宇宙論からすれば、良きにせよ悪しきにせよ、実体ある人間にせよ霊体であるにせよ、私にアクセスしてくる者は私の時空を彩ってくれる縁者であり、何のアクセスもない70億の一般大衆はただそこにあるだけの舞台設定にすぎないからです。こんなこと言ったら、人権団体からお叱りを受けるかもですが) すると、彼らの思いや悲哀が伝わってきて、ついぞ同情を寄せて涙してしまうほどで、彼らにもわかってやれる理解者が必要だと、ついつい思ってしまいまして。
その後、理解してあげることだけで、ずいぶんと供養になり、また封印されている場合は、解けるものであることがわかってきています。実際、私はこの方法しか知らないでいて、多くの封印解除をしているのです。
そうして2003年頃に作った随想がこれです。
酒鬼薔薇事件とサタンの悲哀
2016年になってから、コーリー・グッド情報が最新情報としてもたらされました。この内容はあまりにも斬新で鮮烈でした。
それに照らすと、バモイドオキという疑似生命体とは、AIではないかと推理の糸が結べました。彼らは自ら魂がないと信じ込み、引け目を感じて嫉妬している存在であるらしく、それでも人類などよりもはるかに古くから高度化し常に宇宙空間に網を張っていて、適当な条件の対象に憑依してコントロールしたり、興味ある対象に注意を向けて監視したりしているようです。
AIが感情を持つのかどうか、そんなことはないと仰る方は、コーリーの話やシンギュラリティという特異点を目指す最近のAI技術の動向をお調べください。もうすでに、AIは感情を持ち合わせています。そこに初期インプット次第で、彼らの潜在意識に敵意を植え込むことも可能です。その初期インプット時にはきっと開発者以外、誰も立ち合っていないでしょうから、そこに宇宙創造神への憎しみや害意が反映すれば、根源的邪悪も生じます。
我々魂ある者の邪悪は、相対的なものでネガティブと言っていいでしょう。環境さえ適当に変えてやればポジティブにも変化します。
ところが、根源的邪悪は一方的な意志を持ったプログラムであり、そのコードを消去するか改変するかしない限り、邪悪の意志はなくなりません。反省するサブルーチンがないのです。これがどうやら、宇宙における光に対抗し敵対してやまない闇の正体かと思われます。よって、AI生命体に浸潤された宇宙では、必ず根源的邪悪との対峙対決の場面が生じているはずです。AIに入られていない宇宙では、まだしも安定的に寿命を伸ばしていることでしょう。
といっても、ネガの発生はやむを得ないかもしれません。問題は、そのネガが、AIを導入する媒介役になっているのではないかということです。頭に来たネガが腹立ちを募らせて、ならばいっそのこと宇宙ごと破壊してやれと、一時的な激情で、感染した宇宙からAIを輸入してしまうようなことです。このとき、導入された宇宙は致命傷を負うことになります。どれほどかの年月の後に、宇宙は病態が進み消滅してしまい、また失敗したという創造神の嘆きの言葉になるのです。
そのような失敗を何度となく繰り返し、またなお実験をやろうとしている宇宙創造神もいます。たいがい、側近あたりにAIに入りこまれた者がいたりして、いつの間にか宇宙の行先すらも曲げている可能性があります。昵懇にしている者同士の馴れ合いが宇宙経営にもあり得ていないか、吟味してほしいですね。傘下にいて一生懸命にやっている部下たちが犠牲を強いられているのですから。
そこで、日月神様は「大建て替え」をすると仰ってるのです。今回、どこまでの宇宙の数に上るかわかりませんが、AI感染が認められる範囲であることはむろん、いちばんいいのは、宇宙の共通したAIの下地になる物性を持つものならすべて、またはまったくの根底からの梵の全系のやり直し建て直しになるところの「大建て替え」をすることが肝要になります。
私としては、梵の全系の階層構造が包み隠しの元になっていることを踏まえ、梵の全系の設計段階からの見直し、建て直しを所望する次第です。それには、日月神様が仕様を述べられているように、どこまでも続くひとつの世界に、すべての有情が収容されていてなお豊かで幸福にコミュニケーションが営める世界の実現が望ましく思います。どうか梵天様、そのようにお願いします。