理想郷建設へのステップ

誰ぞやから童話を書いてはどうかとお勧めがあった。
しかし、この童話なるものは、書きたいことが天下ってこない限り、書けたものではない。
たとえ来たとしても、他の事で忙しければ、いつのまにか来たものを忘れてしまい、それっきりとなる。
こうして、童話なるものは、滅多に書けるものではないこととなる。
だが、私の人生、昔一般に言われた人生○十年を過ぎてからは、どうやらオプションというか巻末付録というか、いたって非現実、堅苦しいので言葉を適切なものに換えれば、「御伽噺」のような感触なのである。
そういえば、心臓のリズムも脱線ばかりしていて、私の人生に波紋して、どこかの異次元空間にしょっちゅうワープしているかの如くである。
妙なUFOをいくつも撮影するばかりではない。UFOもこの眼で見た。
スカイフィッシュも撮影しただけではない。この眼でも見た。
といっても、一般に言われる白いひらひらのついた小さいやつではない。
掛け軸の褐色の鯉の滝登りを思わせる、長さ10mもあろうかという捻れ棒のようなもの、あるいはイモリのおたまじゃくしのようなやや長めのおたまじゃくしの形をした存在である。
あの色からすると、龍の子供くらいにならないだろうか。
かつての仲間のS氏は、スカイフィッシュとは龍神さんのことやと言っていた。
UFOもスカイフィッシュも、見るのはマスコミ取材時あるいはロケ時であることも、不思議なことであった。
といっても、私にそのような力があるというわけではない。たまたま見せてもらっているのである。たとえばUFOのときは、あのグループサウンドの「嵐」のメンバーが最初に見つけて、みんなに教えてくれたのだ。その場にいたカメラマン、エキストラ含め二十人ほどが見ている。
龍の子供は、視野のど真ん中にドテーンと出て来てくれたから見えたのだ。ちょっとでも脇のほうに見えただけなら、気のせいにしてしまっただろう。やや後ろに控えていたから見ることができたと思っている。
理想郷とUFOは、考えられなくもない取り合わせだが、どこか異質である気がする。高度先進文明の証である乗り物UFO。先進文明との合流は、理想郷への最短コースと思えなくもないが、彼らが一度でも、この今の病んだ地球に、善意から快く手を差し伸べてくれたという感がないのである。
UFOは確かに居る。だが、あくまでも隠れた存在で、陰で何をしているのか分からない。ガラス張りの行動をとらないから、疑惑ばかりが先行する。
会見したかどうかも分からないほどに、後で記憶を消し去るようなことをする裏には、何か良からぬ企みあるを勘繰らざるを得ない。
今までのUFOを取り扱う活動を総合した結論として、私はこうした存在には何の期待も持たないことに決めた。
いっぽう、スカイフィッシュ、龍神さんなら話が別だ。
彼らは自然界の生態系を構成する一員であり、人類やら哺乳類やらよりも、おそらくは遥かに以前からいて、地球の生態系の歴史を長い時間かけて見てきたことであろう。
地球の命、地球生態系は、我々の身体機能の基盤である。
彼らから理想郷を作るための知恵を大いに借りるべきであろう。
生態系といえば、私は生き物たちとは、いい関係が築けるようになっていると思う。
すずめとカラスの話はたびたびしてきた。すずめは特に、私の部屋の窓越しのベランダで臆すことなく戯れるようになった。
ある朝など、私が愛念を送り続けると、物干し竿の二羽のすずめが、5分間も気持ち良さそうに毛づくろいなどして泊まっていた。こんなことは今までなかったことだ。
ベランダでくつろぐすずめ
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今シーズンは、ほとんど蚊に刺されたことがない。蚊が部屋の中に居ても、私を襲ってこないのだ。そして朝になると、外に出たがって、網戸で飛び回っている。何もしていないので、かわいそうだが、掌で潰す。
最近のことであるが、ゴキブリが、絶対居ないと思っていた台所の引き出しの中でごそごそしているのを偶然見つけてしまった。その瞬間、ウオッと驚いたのは、相手もそうだったろうが、そこは臆病な私。咄嗟に引き出しを閉めてしまった。
私の使い古しの歯ブラシがそこには入っていた。もう使えんなと思いつつ、別の新品を用意するにも、その引き出しの中だ。
一匹見たら、十匹以上居ると思えという話を思い出し、この中に巣食っているかもしれないなあ、いつか壮絶な対決が必要になるなあと、意を決し、引き出しを思い切って引いてみた。
すると、引き出しの中からではなく、下部のあわさいから、ボロッと出てきて床に着地したのが先ほどのゴキブリだった。まだ若いらしく、背中はやや薄い感じがした。
さて、どこかにハタキはないかと探すが、ゴキブリの居ない家のはずなので用意がない。新聞紙やチリ紙で掴むというのも、想像しただけでおぞましい。
が、そのもたつきが、ふと静観の時を設けてくれたのだった。
ゴキブリと対面、対話の時を持てたのである。
そのとき、いつものように私の胸のところから愛念が出てきて、ゴキブリを覆った。
「ゴキよお、この家の中は、お前たちにとって暮らしにくくできている。家人は、私のように穏便ではないし、悪いことは言わんから、どこかよそで暮らしなさい」
さらに、ゴキブリ族と人、さらに生態系全体における秩序について思い巡らしてみた。ゴキブリも、理想郷の中におけるひとつの種族である。その日には、彼らが嫌がられる理由などどこにもなくなるはずである。ゴキブリはじっとそこで、私の思いを感じ取っているようだった。
私は、さっきまで俊敏なゴキブリがどうしてこうもおとなしいのかに思いが行き、「ちょっと待っておれ。記念撮影しておこう」と、その場を外して、二階にデジカメを取りに行き、また戻ったのである。すると、ゴキブリはまだ同じ場所にいて、触覚だけ左右に穏やかに動かしていた。
一枚パチリ。フラッシュも焚かれる。動かないのをいいことに、別の角度から二枚目、三枚目と撮った。
「ゴキよお、ありがとう。いい時間を持てたよ。気をつけて行けよ。元気でな」
そう言い残して二階に行った。どうしているか再び下ったのは数分後だったが、そこにはもうゴキブリはいなかった。
それ以来、台所はむろん、家の中のどこにもゴキブリは見られていない。言いつけをしっかり守ってくれたようだ。
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それから二、三日経った日の夜のことだ。私はパソコンに向かっていた。窓は網戸にして全開にしていたから、県道の騒音はモロに入ってきていた。ブーンと小型バイクのエンジン音がいくつも去来していた。やがてその中に、一風変わったブーン音が耳に入ってきた。重低音であるが、エンジン音よりはまろやかだった。それが県道の同じところを行ったり来たりしているかのようである。あれえ、何往復してるんだろ。おかしいな。こんな時間に草刈り機を使うわけないし。
そう思って窓際に立つと、何とそれが羽虫であることが分かった。ブーンと羽ばたいて、網戸のところにやってきて、一、二度ぶつかると、網戸越しに泊まったのだ。見れば、こちらからの光に当たった部分だけでも猫の口のような顔で、とても大きく、それ以外は網戸の反射で判別できない。しかし、このサイズならエンジン音を醸してもおかしくなかろう。それが私と対面したのである。私は、光を好んで集まる蛾の仲間かと思ったが、顔からしてあまり気持ちいいものではない。
「おうおう、ここは人間の領分で、お前たちは入れないのだよ。お前たちの居場所は、向こうに広がる自然界だ。そこに還りなさい」
そう諭して、分厚いカーテンを閉めると、やがて彼はどこかに去っていった。
その後、私の最も愛し信頼する者が意識を飛ばして来ていたことが分かったしだいだ。追い返してしまって申し訳ないと謝ったしだいである。
さて、我が家では、ベランダでオクラとトマトのプランター栽培をしている。それが花をつけるようになる頃、どこからかアシナガバチが一匹、いつも必ずプランターの植わり物のところにいて、私が水をやりに行ったりすると、ここは俺の縄張りだとばかりに飛び回る。
はじめは、おっかなびっくりだったが、最近は彼が立派な交配係と害虫駆除係を務めてくれていると分かった。何せ、一度も襲われたことがない。水遣りのときも、収穫のときも、お互い様といった顔をして過ごしている。虫にたかられ病気がちだったほうのオクラも元気になり、遅ればせながら花も実もつけるようになった。このハッチの貢献にはとても感謝しているしだいだ。
そして、ごく最近になって、アシナガバチの巣があることが分かった。何と、エアコンの室外機のすぐ上なのである。見れば、巣には誰も居ないようだ。もしかして、室外機から出る熱気の被害にあっていたりしないかと、心配になったりしている。
アシナガバチのハッチ
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オクラ
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理想郷では、このように生き物が互いに支えあう構図でなくてはならない。葉を食う芋虫といえども、植物の生気のなくなった下葉だけを選んで食べるように、ひとりでになるだろう。そのような芋虫をアシナガバチは襲ったりしない。
私はこうした周りの生き物のおかげで、人間をも含む秩序と愛のある理想郷プランを考えている。すべて幸せに生きていくべき有情なのである。生態系からすれば異端的と見える人類もそうである。
何が理想状態から乖離させているのか。その真因を掴み、それを事情によっては切除もしなくてはならない。高々数十年で達成できる目標ではない。私が今の時をその思索に送り、行動を死後にまで引き継いでいく魂のライフワークとも言える。
そして理想郷は、死後の世界にあるものでも、どこかよその惑星に作るものでもない。この地球の大地の上に十分に実現できるし、そうしなくてはならないものである。その日、有情はこの世界に生まれてくることに心底から安堵と喜びを感得できるだろう。
今私は、この身を以て理想郷実現の感触を体験しつつあるところである。

地上と楽園の違い・・・苦労は食からはじまった

今からおよそ50年前、万能の抗生物質ペニシリンがアオカビから抽出され、
その画期的効能が広く世間に知れ渡ることとなった。
新たな抗生物質は、主として石油化学から生み出され、臨床効果が確かめられて
それから30年もの間、人々はそれまで致死の病から生還を果たしてきた。
ところが、ここ20年くらい前から、ペニシリンへの耐性を示す黄色ブドウ球菌が
登場し、医学界を驚かせた。
病原菌の側から自らの耐久性能を進化させ、ペニシリンを無効化して、罹患者を
死に追い込んだのだ。
医学の側はこれに対抗し、メチシリンなる抗生物質を開発し、これに打ち克ったと信じた。
ところが、ほどなくして病院の中でささいな怪我などから重症化し簡単に死に至ら
しめる病原菌MRSAがメチシリンへの耐性を備えて登場し、主として病院内で
進化したものであることから、院内感染によって、主として免疫力の低下した
年配者を中心に死者が続出し、社会問題化した。
病原菌は、多様化する抗生物質の性質に応じて、自らの防壁のハードルを高める
性質をどんどん獲得していたのである。
生物は生存環境に応じて進化し順応する。それは失敗に失敗を重ねた末の可能な限りの
試行錯誤の努力の結果、ごくまれに奇跡的に適応能力を獲得したものによって、
あたらしい次の局面を開拓していく生命独特の驚異的システムである。
それは同じ性質を遺伝子の中に組み込んで逞しく分裂し、ものすごい繁殖力を示して
宿主を破壊し殺し、次なる宿主を探して環境の中に飛び出していった。
こうして、最も危険なのは病院内という奇妙な状態を作り出したのだ。
医療器具はむろんゆえに煮沸消毒がなされるが、手すり、床などに菌の飛沫が
付着し、患者の間で経口、空気、皮膚感染などを引き起こしている。
抵抗力の弱った患者は、皮膚からMRSAが入れば敗血症を起こすゆえに、傷口を含む部位を切断せねばならないという事態も生じているという。
手から入れば手を、足から入れば足を。
スリッパを共用している病院医院はざらであるが、それ自体危険であり、
もしどうしても利用する必要があるなら、持参するかもしくは
靴下2枚を履き重ねなくてはならないくらいに考えてもいいという。
このようなMRSAに対して、医学界はバンコマイシンという最強の抗生剤を開発した。
これによって、もう医学の勝利は確かなことのように見えた。
ところが、ほどなくしてそれに対抗するように、耐性超球菌MU50が登場した。
菌は細胞膜の化学構造を微妙に変化させることによって、バンコマイシンの薬物作用を
回避する手段を獲得していたのだ。
鳥だけに感染していたインフルエンザウイルスが、人間を宿主にできるよう
自らを改変した鳥インフルエンザも登場。
細胞レベルで繰り広げられるミクロの攻防戦はまるでSFミクロの決死圏さながらである。
病原菌側にも科学者がいて、生存を賭けてこちら側と頭脳戦を演じているが如くなのだ。
現状の攻防戦は目下のところここまでであるが、もし医学界が新しい画期的な新薬を
開発したとしても、またほどなく敵側の防衛するところとなるであろう。
生命の生命たるゆえんは、艱難を乗り切り生き残ろうと努力することにある。
生き残りの方法を進化させ、直接敵方と戦うことによって、危急の打開を図るわけだ。
そこには、生命であるがゆえの正当防衛的な戦いが見て取れる。
性質を強靭かつ凶暴なものに進化させていく病原菌は確かに憎い。
我々は見えざる敵、その脅威にいつも晒されていなくてはならない。
宿主の死と共にあらかた死ぬと分からずか。いや死ぬと分かっていても、意地で
病原菌は凶暴化するのであろうか。それはまさに、意地の張り合いと言ってもいい。
いや、これこそ、生命というものの強靭さの根底にあるものかもしれない。
応用的に、こんなことも考えてみたりする。
あたかも、9.11テロに業を煮やしたブッシュアメリカの対テロ戦略に
対抗するテロの激化とも似ていないだろうか。
ベトナム戦争における強国の実質的敗北をもたらした底力にも似ている。
パレスチナ人がどんなに制裁を受けても、石つぶての反発をするのはなぜか。
そこには、小さい者には小さい者なりの、弱者には弱者なりの意地が見て取れる。
それはおそらく精神的なものである。テロは何ゆえに生じたかを考えたとき、おそらくそこには貧困や不公平感、
差別感、人間としての扱いを受けなかったなどの精神的な原因が存在しているはずだ。
原点に立ち返って、我々が反省すべきことは、たぶんそれであるに違いない。
自由主義と言いながら、彼らの自由を保証していただろうか。
博愛といいながら、差別や偏見を以て対してはいなかっただろうか。
富の力や武力で、自由を縛り付けたりしていなかっただろうか。
差別的な目、敵対的な目をいつも向けていなかっただろうか。
それを当の病原菌の立場に立って考察してみればどうなるか。
病原菌にさえも、優しい眼差しを向けたら、彼らはどう反応するだろう。
実験的にでも試してみる科学者はいないのか。そんな金にもならぬことに精を出す閑な学者もいはしまいか。
我々は、いつも敵対心によって行動原理が与えられていなかっただろうか。
少し長じれば受験戦争。社会に出ても競争社会が待っていた。
老年にいたってさえも、他人より豊かに生きたと誇示したい心がある。
他人、たとえ仲間と見なす者にさえ、根本的なところで、蹴落としの動機が
渦巻いていたと言っていい。
そのような楽しくない社会にいつからなってしまったのか。
たぶん、都市国家が成立し始めた大昔からなのだろう。
他人を密告せねば、他人を殺さねば、自分が生き残れなかったのだろう。
そう合理化し、正当化して生きた人が歴史上には多いはずだ。
だが、それはこの社会の真理ではない。
まったく正反対の楽園楽土だって、存在しえたはずである。
それがたとえ表から見て貧しい未開の地に住むと思えても、あるいは不潔な
泥水の湿地帯に住むと見えても、生まれてくる一人一人を大事な一員として
分け隔てなく育んでいる種族がいたとすれば、寿命の長さの如何を問わず、
楽土に生きたと言えるのではなかろうか。
ジャングル奥深くの未開の地には、そのような種族が確かにいる。
子供は部族の宝として喜ばれる。
もっと原初的なところに想いを馳せてみたい。
「食」という人間の根本的命題に、逆方向から挑み、実験的に成功している人がいる。
すなわち「不食」、食べずとも生き続けるということを可能にした人が現れているのである。
わずかに食べるだけの状態を続け、ついに不食を達成したという。
そして、もう何年も食べずに生きているという。
インドの聖女テレーゼは有名だが、日本にもそのような人は何人かいる。
生物学的に彼らが生存できる理由が考察されたらしいが、腸内細菌の中に
生体に有用なものがいて、空気中の窒素から蛋白質を合成してそれを栄養化し、
体の維持に役立てているのではないかという説がある。
もしそうであれば、この人は生命環境の中に、最も調和の取れた状態を作り出せている
ことになるはずである。
それは前述の、病原菌を不潔かつ敵対的なものとする態度とは異なっていよう。
もし、彼の体内を地球上に置き換えるなら、生き物のすべてが共存共栄する
理想郷状態にあることを示していよう。
「共存共栄」とそれを包み込む「優しさ」がどうやら、その謎を解く鍵であるような気がする。
「不食」という著書の著者でかつ不食の実践家は言う。
人がもし食べなくては生きられないという公理から解放されたなら、
個人的な人生観どころか、社会全体の仕組みさえも変わってしまうと。
人は食べるために働かねばならなかった。
だが、不食が真実で、人がそれを簡単にやれるなら、人は労働の必要性から
解放される。
あくせく汗水して働き、競争社会でストレスしてわずかな糧を手に入れるという
行程が省略できる。
人はすることがなくなって退屈するのではなく、新しい創造の楽しみに時間を
振り当てられるようになる。
なぜ人は食べなくてはならないか。
彼によると、それは人が食べなくては命が維持できず死ぬと思い込んでいるから
だという。
食べなければ死ぬという恐怖と思い込みによって、人は飢餓で死んでいるというのだ。
彼は食べずとも生きられる、食べることは逆に身体を疲労させ老化を早める
という実験的事実を説いている。
確かに、食事した後、身体がだるくなるという経験は、中高年者なら少なからずしているであろう。
特に現在では、食事の中に添加物や防腐剤、農薬などの毒劇物が少なからず含まれている。
それらが蓄積して、アレルギーなどの免疫疾患が、どんな人でもいつ発症するや
分からない状態にある。
場合によっては、胎内でそうした薬物を受けてしまうこともある。
免疫疾患といえば、癌やリウマチ、アトピーなどもその一環である。
幼くしてアトピーといえば、子供が悲惨である。
落ち着きのない多動性症候群なども、食生活の影響であると言う。
食べることによって、弊害をも体内に取り込むのが必然とすれば、
もしできることなら「不食」が可能ならと思われないだろうか。
味覚の喜びなくして人と言えるかと仰る向きもあろう。
確かに、それが人としての所以であろう。
だが彼は、食が老化の始まりだと考えている。
聖書に言う「楽園追放」は、天使であった人類の始祖アダムとイブが
人間として地上に登場した逸話を語っている。
知恵の木の実のりんごを、蛇のそそのかしに乗って食したことを神が見咎めて
彼らをエデンの楽園から荒野に追放し、地を耕して作物を得なくては生きられ
ならなくしたとしているのであるが、
実は「不食」が当たり前であったところに、食べなければ命を落すと信じ込まされて
いつしか食を労して得なくてはならなくなったのではなかろうか。
りんごは特定の果物ではなく、食事すること、あるいは味覚であったと解されるのである。
そして今や、創世記を遠望しつつ、できものによって人々が苦しむ黙示録の
時代へとタイムテーブルが進捗しているわけである。
おかしな神が関わってなされた催眠術的な洗脳。そうした超古代の陰謀が存在していたように思ってしまうのは、私ばかりだろうか。
楽園は、この地と別の領域にあるのではないはずだ。
この地にありながら、アダムとイブの原初の頃に立ち戻ればいい。
すなわち、「不食」を真理として皆が認め実践するようになれば、
人は国や糧のために縛られることはなくなり、国外の無人島にでも
住むことができる。
聖書の伝える楽園では、すべての生き物が互いに和やかに暮らして、弱肉強食の食物連鎖の
ようなことはなかったという。
「不食」が生き物に徹底されれば、それが可能にならないか。いや、「共存共栄」を優しく見守る心があれば、それは可能な気がするのである。
次の記事で、現代の危機についてもう少し。

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我が家はカラスとすずめの賑わいとなり

本日は我が最大のコンビネーションに危機が生じた日であった。
美徳でなる鉄壁のコンビも、人の心の隙間を狙ってくる邪神の不安と疑念の楔打ちによって、危うくも瓦解の危機に瀕するものである。
なぜなら、人は彼ら傀儡子の意のままに動かされる存在だからだ。
最期は断崖における谷を背にしての大喧嘩となったとき、本源なる神が調停に動いた。
そして、寸でのところで互いの誤解が解け、気脈が通じていっそう鉄壁は強固となった。
この時点まで至らなければ、この鉄壁は完成しなかったのかも知れない。
--といったことを書いても、何のことか分からないであろう。
それは個人的なことゆえ、象徴的にしてぼかしたのである。
その一件は電話での和解で解決した。
そのタイミングに合わせるように、裏のベランダ越しに眺める視界の中に、一羽のカラスが大きく羽根を広げて現れ、物干し竿に停まった瞬間に、私と目と目が合ってしまった。
わずかその距離2m。
カラスは踵を返すようにして飛び去った。
カラスは、いろんな意味での警告者である、と中南米のインディオのナワリストは言う。
このときあった出来事に、重要な意味があることを告げていると見た。
かつてカラスとすずめが居なくなったことを書いた。
だが、最近は我が家の裏手でよく見るようになった。
カラスはまるで偵察しているかのように、朝な夕なに数mの距離にまで近づく。
すずめはつがいでベランダの中にまで臆せず訪れるようになった。
ここをお宿にしなさい。心で囁く。
すると、ベランダにいつまでも居ついている。
そこで、パチリ。
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次の時代の種子か

魔術と称して公然とガラスの壁を通り抜けてみせる人々が出てきた。
あるいは、食物を一切摂らずに生き続ける人々が出てきた。
そういう不思議な人々がてらいもせず、公開の場に現れて自己主張するようになってきている。
昔は聖者が非公開で特定の人を啓発するためにしたものだ。そして、その核心を問おうとすると、神がお許しにならないとして拒否したものである。
だが、今の時代はかつてとは異なる。聖者らしくない人々が公然と奇跡を衆目の前でやってのけるのだ。
彼らが神に許されたとかいった話をしないのは、かつて秘匿を命じていた神がどこかへ去ったのか、あるいは神が寛容になったからなのだろうか。
神はかつて、人は人として生きるべきであるとして、神的な素質の発現を封じていたのである。ご多分にもれる人にはかん口令が敷かれていた。だが、今はかつてとは違ってきている。
ホピに依れば、すでに次の時代の種子が人類の間に芽を出してきているという。ニューエイジ運動というのは思潮だった。その次は、人がその持てる本質を余すことなく表現する時代を予感させる。
カバラは、かつて人は本質的に神であったと言う。だが、その性質を忘れて久しく、わずかにご多分にもれた人の出現によって、自分の可能性が希望的に推測されるに止まった。
カバラに言う。原初の頃、神界には創造過程においてトラブルがあった。神の一部がはじけて、神の火花となって闇の領域に落ちてそこに囚われてしまったと。闇に棲む悪魔は、生気をもらい生きながらえるために神の火花を解放しようとしないのだと。
またカバラは言う。この現象界はサタンが支配していると。
総合すれば、人を人として生きることの中に閉じ込めてやまなかった神とはサタンのことになる。
今は世界の終局が予感される混沌の中にあって、サタンの影響力も弱まっていて、復権する人が増えているような感がある。

絶対世界への思慕・回帰

古人の言う。
この世はマーヤ(幻影)であると。
またある古人の言う。
万物は神の言葉によって創造されたと。
神を名乗る者は言う。
人間は心の些細な思いから一挙手一投足に至るまで
神の糸引く操り人形であるに過ぎないと。
それらから現代の覚者は推量し物語して言う。
目に見える現実世界はマトリックスというプログラム
上の出来事だと。
そのような世界で織り成される悲喜こもごも。
どんな悲惨な戦場の惨状も、またその逆も、
あらゆることの発生や、それを観測する意識も、
すべて予め仕組まれたプログラムに準拠の上でのこと。
それを相対世界と仮に言うなら、何にも飾られず
何者によってもコントロールされない、おそらくそれが
原初の世界であったろうところの世界が、容易に
推測できるだろう。
それを仮に絶対世界と言おう。
相対世界は多重夢の世界。
ひとつの夢世界にひとつの観測、そして記憶。
たまたま夢から夢へと遷移する最中に情報が漏れる。
それを称して、夢を見たとか、過去世を見たとか、
臨死体験したとか、既視感を持ったとか。
未だ完全ではない造りのシステムであることが明白。
それを完全なる世界と標榜してやまぬのは、あたかも
室内の蟻の群れの営みを上空から掌握して上位を気取る程度の
品性でしかない。
その多重夢に流され己の本源を見出せず彷徨う意識の群れ。
夢の中の定義された幸福を求めて、いよいよ出口を見失う。
仮にこの世という夢。定義された幸福の尺度お金を求めて
昼夜の別なく働き、幾多の仲間を殺戮し、夢の終わりに
一過性の満足に浸りながら、成行を見ずに行く。
その局面においてさえも矛盾を感じず、周りも同じだからと
合理化を精一杯して去る者たち哀れ。
「お金」を価値ありと信ずるものの何にでも置き換えて見ればよい。
そのすべてが果たして真なるかどうか。
相対世界にある限り、どんなものも、虚仮でしかないのでは。
虚仮はただ余興であるべきもの。
興趣は楽しみつくすことこそ真価と、熟達した者は悟っているかのようだ。
真実にある者が、ちょっと余興をとでも思ったのだろうか。
それでもなかなか戻ってこない。
むろん、いろんな感動に涙したかも知れない。
ふとした発見にわなないたかも知れない。
それに憧れ、私もしたいと次の夢に期待をかけたかも知れない。
だが、のめり込むにはくだらなすぎなくはなかったか。
手を染めるにもくだらなすぎなくはなかったか。
それでも、卒業するには徹底的に嘗め尽くす必要があるのか。
絶対世界。それがたとえ無色透明のまばゆい光であるのみで
あっても、それが虚仮でないなら、そこに住したい。
虚仮システムを稼動させる館を小さく眼下に見る
どこまでも広がる蒼穹がそれなら、そこに住したい。
そしてマトリックスなる虚仮を稼動する傲慢な者を、
しっかりと諌めたい。