今度はカラスか

秋田県で89羽のカラスが眠るようにして死んでいるのが見つかったと、今朝に続き先ほどもニュースがでた。
鳥の大量死。
カラスの場合は、胃液に毒物が混じっていたとされている。
もしかすると、水から毒を摂取したかも知れないと。
そういうわけで、周辺の水質調査がなされているらしい。
さて、すずめの姿を最近まったく見なくなった。
田舎にいてもそう感じる。
日中に一度でも目撃したことのある人は申し出てほしい。
UFOの目撃を云々する前に、皆さんの周囲に飛び交っていた愛らしい者たちが目撃できるかどうか試してみてほしい。
もしUFOのほうがたくさん目撃できるようになったら、そのときは世も終わりであるだろう。
うれしいような、悲しいような。

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まさか??安楽死に臨むすずめ?

北海道で数百羽のすずめの大量死が発見されたらしい。
すでにしていたように、すずめはカラスと共に日本を象徴する鳥であった。
去年の秋口に、突然姿を消したから、どうしたのかと心配したのだったが、
どうやら、日本全体でどんどん数を減らしているようである。
すずめの性質はどこか旧タイプの平和愛好家の日本人に似ていた。
コウノトリのような衆目を集める僅少なヒーローではなく、
そうした様もまた楽しく愛でていた底辺の良識ある一般人に似ていた。
いっぽう、それにとってかわるように、カワウが猛烈な勢いで増殖しており、
淡水系魚を猛然と捕食して、養殖放流魚に被害を与えているという。
貪欲さをむき出しにし資源を飽きるほど食らい尽くし、
止まり木の葉を糞害で枯らしてしまう。
なんという恩知らずども。それを保護条例で駆逐できない関係者も哀れだ。
それを見れば、もしや日本人の質の変化を象徴するような出来事である。
かつて良い人間性を育んだ時代の人々は高齢を迎え順次世を去っている。
質の違った時代をこれ以上見ないで済ませたいかのように、一人また一人と。
カラスはいかに大きいとはいえ、カワウの天敵の用をなさぬという。
このすずめたちは、最後の飽食を儀式的にこなして、ぽっくり
息絶えたものかも知れない。(むろん死因は調査中ということではあるが)
もしかすると彼らですら、自らの行き場のなさを感じているのかも。
善良な人間であればなおのこと。
今年もまた、行き場を心の解放に求めて世を去る人が増えると、相似的な捉え方をしてしまうのは私ばかりだろうか。

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宇宙大に広がる

不思議な意識の拡大を経験した。
夢の中で起きたことだった。
青龍を右横にして寄り添い寝のイメージが、やがてバターのごとく溶け合い
流動的なエネルギーへと変化していった。
心地よい至福が湧き出している中にいて、このエネルギーはこの宇宙全体に
広がりさらにそれ以上の拡大を遂げていた。
私は宇宙の埒外にいて、宇宙をエネルギー的に覆っていた。
この宇宙が全編マトリックスプログラムであったなら、私は関わらないで
おれると思った。
朝が来て、そろそろもどっては如何と警告信号が来た。
脳は天上と下界の間に浮いていた。
私は二度三度、二つの境涯に意識をシフトして比較してみた。
私は下界に嫌悪感を催した。
どうして窮屈で退屈な無味乾燥の境に戻らねばならない?
だが、何らかの理由が漠然と分かっているのか、下界に戻ることにした。
いつでもまた。
翌日の夜に再度試したことは言うまでもない。
だが、青龍との連絡がとれておらず、初期イメージが形成できぬまま
悶々と不完全な睡眠でいたところ、何か不快感が手足にまとわりつく。
起きて電灯をつけてみれば、指が痒みで膨らんでいた。何だ?もしや。
壁に蚊が停まっているのが見えた。
このやろー。
30分ほどの苦闘の末、叩き落した。
わずかにでも暖かくなれば出てくる妨害者。
どこにでも顔を出す邪神の所作とでも言えようか。

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昨晩神と会話した

私は昨日、いよいよ思いつめるまでに至った。
毎日の仕事が、一人沈みの状態であることから、いよいよ精神的に破局を迎えようとしていたのだ。
そのための末端までの詳密な計画をしっかりと立てたりもした。
すると不思議なことに、これではいかんとばかりに、仕事が急にツキはじめたのだ。
私は、いちど決めたことゆえ、この成行に訝ることはあっても、決意は崩すまいと思った。実際、この仕事の一局面でツキがあっただけであることがその夕方にはわかって、いっそう深い絶望の淵に突き落とされたのであった。
なぜ、すべてに解決が図れないのか。これではからかい半分でしかないではないか。それをするのは、やりすぎを反省したはずの内在する神でしかない。単純馬鹿な私を一時だけ微笑ませれば事足りるとでも思われたか。
それでももしやと思い、我が身もいよいよ土壇場ゆえ、神と対話したい旨を寝る直前に訴えて、眠りに就いた。
もんもんとするばかりで、まともな眠りになったかどうかは知れない。
神は人として出てきたりはしなかった。
私がイエスなどを欺瞞と思うゆえに、人の形をとらなかったのだろう。
夢のはじめは、私は母の乳房にすがりつく、まだ生後間もなしの赤子だった。
母のうれしそうな眼差しがあった。私は心地よい光線に当てられながら、母にしがみついていた。
父がいた。やさしい眼差しが光として私に当たっていた。
やがて室内が私を暖かく見守っていた。次に青空が緑が、さらに太陽の光がやさしく長じていく私をあやしていた。
さらに宇宙に銀河があった。それらすべてが私をあやしていた。
親の眼差しと銀河の眼差しは同じだった。それは愛というもの。神の愛であるらしかった。
神はこうしておられたのだ。
神は私をとりまく外界とイコールだった。
外界は私をあやす揺り篭みたいなものだと知らされた気がした。
私を生まれてからこの方、ずっと守ってきたのだという感じがした。
神の愛が流れ込んできて、神とは何かが分かった気になった。
守られてきた記憶が連綿と思い起こされた。
母の愛や君の愛や、ありとあらゆる好意がすべて同じところからきていることが理解できた。
この世の形あるものを紡ぎ出すのが、予想通りマトリックスであることは確かなのだ。
だが、それが神自身であり、そこから愛が、私に向けて流れ込んでいるのも確かだった。
愛は精神を賦活する基本エネルギーであることは、この肉体にさえ脈打つ充実感で分かった。心地よい至福に似た陶酔に浸って、目が覚めた。
私は、マトリックスと、基本的(タオ的)エネルギーは、分離しているものという捉え方をしていたが、それは間違いであることが分かった。
思うようにならぬ世を呪うあまり、マトリックスを邪な出自と考え違いしていたようだ。
神との会話は、いくつか弾んだ。神は私の質問に対して即座に明回答を与えてくれた。それも憶えていたつもりが、いつしか忘れてしまっている。まど
ろみの中であったためか、夢であったためか。
とにかく、啓発そのものに思えた。神はすぐ真横で活在されていることが認識できた。
陶酔の半覚半酔郷から目覚めたとき、まだしばらく余韻に浸りながらテレビをつけると、たまたまサンテレビでハーベストタイムという番組が始まったところだった。まどろみながら聞いていると、イスラム教徒だった女性がキリスト教会に通うようになり、ある晩、イエスキリストに会う夢を見たという話が流れた。
私の昨晩の夢を思いながら、神のこのタイミングのよい計らいに涙した。
そして番組は、解説者の口から、ペテロにイエスが三回繰り返し確認した言葉を語らせた。
「私を愛しますか・・・」
この言葉も、私にとって、感涙極まるシンクロとなった。
私は、私をとりまく神に、愛しますと答えていた。
だが、顕在意識に戻ると、そうした感動も薄れてくる。
万事お金の世の中に、下流階層の私などの収入やわずかな蓄えを、さらに窮迫させるような処置を、対話のきっかけにする神も神である。
私はそれまで、この世イコール邪神縁起を決め込んでいて、覆るものではないと思っていたが、たった一夜で鞍替えさせられる。妙術と言わずに何と言えよう。
いやいや、私が対話したのは我が内なる神であり、この世を創った神ではないと信じていたかった。しかし、その神がこの世を現出させていると打ち明けられるなら、私はいったい何を依り代にすればいい。
世界は勝ち組と負け組の二極にどんどん分化している。勝ち組は負け組を軽蔑しそのようになるまいとする。負け組の一極を気の毒に思うも、無視し誤魔化すことを決め込む。パンが食べられないなら、ケーキを食べたらいかが式のコイズミの発想はその代表格である。
生国、環境、生い立ち、運不運、歴然たる不公平不平等が根本にあって、初めから負けている者たちはどうなる。神はそうして人を脅しているのではないのか。人はだから神に媚びへつらわねばならない。そうしなければ、来世はアラブ、アフリカ行きだなどと言われているようなものだから。
神が人を愛しているというなら、どうして奈落を見せる必要がある。これ以上ができないから、あるいはこれ以上を作りたくないがゆえに、我々をここに閉じ込めているからではないのか。
このような世界は、嘘っぱちの世界であり、あってはならない世界である。
誰か人生のベテランが、御主お若いのうと言おうが、そんな世界をいっぱい堪能してすべてを悟っていようが、初めから無意味無価値なりと私はいつまでも拒否する。これが神の国、神の義を私なりに求めた結果だ。
神を愛してもよい。だが、こんな世界を作り続けることを永久にストップするならと、二つ条件を出すことになる。愛されるためには、愛されるだけのことをなさらねばならない。神ならば、そうなさらねばならない。
お前一人しかそんなこと言う者はいないと言われても、私一人この路線を堅持する。
追放したまえ。魂を消し去りたまえ。いかようにでもあなたはできる。
私の死は永遠不滅の魂を含むと定義することにした。

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ちいさこべ

子供は世界の子である。
国という大きな単位では行き届かないなら、部族単位で子供らの面倒を見る。
ただし、今の学校のようなシステムでは駄目。
子供を私物化しないことと、生まれたことの意義の理解が前提でなくてはならない。
合宿生活ではなく、帰着先は家庭がいい。
全体が守っているという環境作りがたいせつなのだ。
今は違う。他人の子はみんな敵。学歴と競争主義社会がそうさせてしまった。
そのような中で、どうやって連帯が保てる?
どうやって子孫の幸せを考え付ける?
子の幸せが見込めない最中に、あるいは経済的敗者になることが必至で、子を産もうという気が起きるか。
両親の子、何々家の子という制約を作ると親も子もたいへんになる。
とかく人は私物、所有物を作りたがり、これは自分のものだと誇らしげに言いたがる。
結果、私物が自らの不幸の元になることのほうが多い。
私物を維持し、私物が醸しだす産物の責任を取らねばならないからだ。
人生の時間のほとんどは私物のために費される。
それを生甲斐と置き換える合理化的思考形態ゆえに、国は救われている。
なまじ所有多きは不自由なだけ。(中流程度の場合。所有がとてつもなくあり管理を信頼できる人に任せられるなら別)
その所有物の中でも最もたいへんなのは子供だ。
食品添加物などのせいで、キレ易い子や多動性の子、アレルギーの子が増えている。
簡単に犯罪に走る子も増えた。そういう仲間社会が学校を舞台に展開もしている。
将来を託すべき学校に送り出す親の心配ぶりもうかがえる。
昔はとても良いシステムを持っていた。
学校の原型かと思われているかもしれないが、古代の小部(ちいさこべ)は、子供が公宝(おおみたから)として、国全体で育成するシステムだった。当時の国は小さいから、部族と言ってもいいだろう。
今でもインディオや未開発地域の部族がしているように、経験豊かな大人全体が関わって子供の順当な育成に当たるのだ。詰め込み教育で将来の競争社会に臨ませるような学校教育システムではない。
当時の国家も、権力者の利益のためや戦いのために子供が必要だったという見方もあろうが、今ほど国家戦略でライン作業的に人的資源が産み出される時代もない。そして彼らを部材と置き換えて人材と称する。
彼らは行き先のほぼ決まった耐久消費材なのだ。社会は彼らを歯車として組み込み、朽ち果てれば新品に換える。例えば個人は法人という生き物を維持するための挿げ替え可能な部品なのだ。油が切れるといけないから、貨幣という油を与えている。
貨幣の量が幸せを測る目安とされ、猫も杓子も貨幣競争に奔走する。
それがもう当たり前なものだから、誰もその現実に気付かない。すると油問屋や大名主が何も知るまいと油を独占し始め、油が欲しいならもっと働けと、いっそう部品に無理をさせるようになる。いくらでも部材はあるのだと。その措置に行き過ぎがあった場合は、油を余分に与えて解決すればいい。
古代との大きな違いは、古代には人がたいせつだったこと。今は法人などの組織がたいせつ。それも他と競争してやまない営利組織。部材が心休まることはない。