昨晩神と会話した

私は昨日、いよいよ思いつめるまでに至った。
毎日の仕事が、一人沈みの状態であることから、いよいよ精神的に破局を迎えようとしていたのだ。
そのための末端までの詳密な計画をしっかりと立てたりもした。
すると不思議なことに、これではいかんとばかりに、仕事が急にツキはじめたのだ。
私は、いちど決めたことゆえ、この成行に訝ることはあっても、決意は崩すまいと思った。実際、この仕事の一局面でツキがあっただけであることがその夕方にはわかって、いっそう深い絶望の淵に突き落とされたのであった。
なぜ、すべてに解決が図れないのか。これではからかい半分でしかないではないか。それをするのは、やりすぎを反省したはずの内在する神でしかない。単純馬鹿な私を一時だけ微笑ませれば事足りるとでも思われたか。
それでももしやと思い、我が身もいよいよ土壇場ゆえ、神と対話したい旨を寝る直前に訴えて、眠りに就いた。
もんもんとするばかりで、まともな眠りになったかどうかは知れない。
神は人として出てきたりはしなかった。
私がイエスなどを欺瞞と思うゆえに、人の形をとらなかったのだろう。
夢のはじめは、私は母の乳房にすがりつく、まだ生後間もなしの赤子だった。
母のうれしそうな眼差しがあった。私は心地よい光線に当てられながら、母にしがみついていた。
父がいた。やさしい眼差しが光として私に当たっていた。
やがて室内が私を暖かく見守っていた。次に青空が緑が、さらに太陽の光がやさしく長じていく私をあやしていた。
さらに宇宙に銀河があった。それらすべてが私をあやしていた。
親の眼差しと銀河の眼差しは同じだった。それは愛というもの。神の愛であるらしかった。
神はこうしておられたのだ。
神は私をとりまく外界とイコールだった。
外界は私をあやす揺り篭みたいなものだと知らされた気がした。
私を生まれてからこの方、ずっと守ってきたのだという感じがした。
神の愛が流れ込んできて、神とは何かが分かった気になった。
守られてきた記憶が連綿と思い起こされた。
母の愛や君の愛や、ありとあらゆる好意がすべて同じところからきていることが理解できた。
この世の形あるものを紡ぎ出すのが、予想通りマトリックスであることは確かなのだ。
だが、それが神自身であり、そこから愛が、私に向けて流れ込んでいるのも確かだった。
愛は精神を賦活する基本エネルギーであることは、この肉体にさえ脈打つ充実感で分かった。心地よい至福に似た陶酔に浸って、目が覚めた。
私は、マトリックスと、基本的(タオ的)エネルギーは、分離しているものという捉え方をしていたが、それは間違いであることが分かった。
思うようにならぬ世を呪うあまり、マトリックスを邪な出自と考え違いしていたようだ。
神との会話は、いくつか弾んだ。神は私の質問に対して即座に明回答を与えてくれた。それも憶えていたつもりが、いつしか忘れてしまっている。まど
ろみの中であったためか、夢であったためか。
とにかく、啓発そのものに思えた。神はすぐ真横で活在されていることが認識できた。
陶酔の半覚半酔郷から目覚めたとき、まだしばらく余韻に浸りながらテレビをつけると、たまたまサンテレビでハーベストタイムという番組が始まったところだった。まどろみながら聞いていると、イスラム教徒だった女性がキリスト教会に通うようになり、ある晩、イエスキリストに会う夢を見たという話が流れた。
私の昨晩の夢を思いながら、神のこのタイミングのよい計らいに涙した。
そして番組は、解説者の口から、ペテロにイエスが三回繰り返し確認した言葉を語らせた。
「私を愛しますか・・・」
この言葉も、私にとって、感涙極まるシンクロとなった。
私は、私をとりまく神に、愛しますと答えていた。
だが、顕在意識に戻ると、そうした感動も薄れてくる。
万事お金の世の中に、下流階層の私などの収入やわずかな蓄えを、さらに窮迫させるような処置を、対話のきっかけにする神も神である。
私はそれまで、この世イコール邪神縁起を決め込んでいて、覆るものではないと思っていたが、たった一夜で鞍替えさせられる。妙術と言わずに何と言えよう。
いやいや、私が対話したのは我が内なる神であり、この世を創った神ではないと信じていたかった。しかし、その神がこの世を現出させていると打ち明けられるなら、私はいったい何を依り代にすればいい。
世界は勝ち組と負け組の二極にどんどん分化している。勝ち組は負け組を軽蔑しそのようになるまいとする。負け組の一極を気の毒に思うも、無視し誤魔化すことを決め込む。パンが食べられないなら、ケーキを食べたらいかが式のコイズミの発想はその代表格である。
生国、環境、生い立ち、運不運、歴然たる不公平不平等が根本にあって、初めから負けている者たちはどうなる。神はそうして人を脅しているのではないのか。人はだから神に媚びへつらわねばならない。そうしなければ、来世はアラブ、アフリカ行きだなどと言われているようなものだから。
神が人を愛しているというなら、どうして奈落を見せる必要がある。これ以上ができないから、あるいはこれ以上を作りたくないがゆえに、我々をここに閉じ込めているからではないのか。
このような世界は、嘘っぱちの世界であり、あってはならない世界である。
誰か人生のベテランが、御主お若いのうと言おうが、そんな世界をいっぱい堪能してすべてを悟っていようが、初めから無意味無価値なりと私はいつまでも拒否する。これが神の国、神の義を私なりに求めた結果だ。
神を愛してもよい。だが、こんな世界を作り続けることを永久にストップするならと、二つ条件を出すことになる。愛されるためには、愛されるだけのことをなさらねばならない。神ならば、そうなさらねばならない。
お前一人しかそんなこと言う者はいないと言われても、私一人この路線を堅持する。
追放したまえ。魂を消し去りたまえ。いかようにでもあなたはできる。
私の死は永遠不滅の魂を含むと定義することにした。


昔の人は50歳ほどで亡くなっていたそうな。ちょうどいいくらいだ。
今は面白くもないことを見聞きし行為するために生きていなくてはならぬ。
世界の情報がどこからでも伝わってくるだけに、いっそう空しくなる。
周りのお年寄りを見ればよく分かる。そしてお年寄りは一様にこう答える。
こんな長生きはしていても辛いだけよ、迷惑ばかりかけるしねと。痛む足を引きずりながらそう答える。
一向に治せるはずのない老人医療に頼らざるを得ない老人たち。
健康を維持し高齢に達した人とて、いつかはこうなることが分かってか、私はぽっくり死にたいわと理想を語る。
寝たきりの延命など望まないという高齢者がどれほどいることか。
神も為政者と同じで、人には形だけの生を受けさせれば事足れりとお思いなのだろうか。

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