子供は世界の子である。
国という大きな単位では行き届かないなら、部族単位で子供らの面倒を見る。
ただし、今の学校のようなシステムでは駄目。
子供を私物化しないことと、生まれたことの意義の理解が前提でなくてはならない。
合宿生活ではなく、帰着先は家庭がいい。
全体が守っているという環境作りがたいせつなのだ。
今は違う。他人の子はみんな敵。学歴と競争主義社会がそうさせてしまった。
そのような中で、どうやって連帯が保てる?
どうやって子孫の幸せを考え付ける?
子の幸せが見込めない最中に、あるいは経済的敗者になることが必至で、子を産もうという気が起きるか。
両親の子、何々家の子という制約を作ると親も子もたいへんになる。
とかく人は私物、所有物を作りたがり、これは自分のものだと誇らしげに言いたがる。
結果、私物が自らの不幸の元になることのほうが多い。
私物を維持し、私物が醸しだす産物の責任を取らねばならないからだ。
人生の時間のほとんどは私物のために費される。
それを生甲斐と置き換える合理化的思考形態ゆえに、国は救われている。
なまじ所有多きは不自由なだけ。(中流程度の場合。所有がとてつもなくあり管理を信頼できる人に任せられるなら別)
その所有物の中でも最もたいへんなのは子供だ。
食品添加物などのせいで、キレ易い子や多動性の子、アレルギーの子が増えている。
簡単に犯罪に走る子も増えた。そういう仲間社会が学校を舞台に展開もしている。
将来を託すべき学校に送り出す親の心配ぶりもうかがえる。
昔はとても良いシステムを持っていた。
学校の原型かと思われているかもしれないが、古代の小部(ちいさこべ)は、子供が公宝(おおみたから)として、国全体で育成するシステムだった。当時の国は小さいから、部族と言ってもいいだろう。
今でもインディオや未開発地域の部族がしているように、経験豊かな大人全体が関わって子供の順当な育成に当たるのだ。詰め込み教育で将来の競争社会に臨ませるような学校教育システムではない。
当時の国家も、権力者の利益のためや戦いのために子供が必要だったという見方もあろうが、今ほど国家戦略でライン作業的に人的資源が産み出される時代もない。そして彼らを部材と置き換えて人材と称する。
彼らは行き先のほぼ決まった耐久消費材なのだ。社会は彼らを歯車として組み込み、朽ち果てれば新品に換える。例えば個人は法人という生き物を維持するための挿げ替え可能な部品なのだ。油が切れるといけないから、貨幣という油を与えている。
貨幣の量が幸せを測る目安とされ、猫も杓子も貨幣競争に奔走する。
それがもう当たり前なものだから、誰もその現実に気付かない。すると油問屋や大名主が何も知るまいと油を独占し始め、油が欲しいならもっと働けと、いっそう部品に無理をさせるようになる。いくらでも部材はあるのだと。その措置に行き過ぎがあった場合は、油を余分に与えて解決すればいい。
古代との大きな違いは、古代には人がたいせつだったこと。今は法人などの組織がたいせつ。それも他と競争してやまない営利組織。部材が心休まることはない。