お迎えの前哨戦

14日に知り合いの看護婦長さんに聞いてみた。
心臓肥大はどうなるのでしょうと。
するとただちに、心不全になりますね、と答えが返ってきた。
やっぱり。
ネットでもそんな話が得られていたから、妙に納得する。
どなたがなられてるんですか?と逆に問われた。
私は挙手して、私でーーす、と答えた。
するととたんに、言ってはいけないことを打ち消そうとするかのように、えー、そうなんですか、定期的に検査していけば大丈夫ですよ、と言い換えてくれた。
だいたい、病院に行っても医師は真実を語らない。
心房細動。この病気が原因で死ぬことはありません、と太鼓判を押すかのように言われる。
そして、血栓を作るという余病が良くないので、抗血栓剤を処方しましょうとなる。
今まで六つの病院に厄介になったが、そのうちの半分でそんなふうに言われ、他のところはコメントもなかった。
私もそれで事足るならと安心しきって、仕事にも無理をしてしまった。
興奮が最も心臓に負担をかけることが分かっていても、問題ないとタカをくくっていた。その結果、心肥大。
知り合いの町医者さんは藪医者で定評。それゆえ私は罹っていないのだが、心房細動なんですよと言うと、あー、それはあかんわと、たった一言で気を落としてくださった。
そのときは、この薮医者めと思ったが、この言い方のほうがどれほどためになったことだろう。
一種の脅しがあってこそ、患者は警戒するわけだ。
16日の朝の出来事。
私はまだ暗いうちに、いつものことながら目が覚めかけた。
ところが、心臓の具合が思わしくなく、拍動が弱くしかも徐脈になっていた。
もしかすると、このまま心停止になってしまう時がいずれくるのかなと思いつつ、まだ暗いことだし、明るくなるころまで眠ろうとした。
私には愛する人がいて、その人のことを思いつつ眠れば眠りやすいため、そうすることにした。
すると、いくばくか眠ったか、部屋が明るくなっていた。
仕事に出なくてはならないこともあり、起床したつもりだった。
ところが、部屋はやや広く、向こうに祖父が正座しており、私をじっと無表情で見ている。
私も正座していたが、私の左隣に彼女が座っていて、なにやら盛んに向こうに向かって話している。
祖父はそれでも私を無表情で見据えていた。
そのとき、ふっと目が覚めた。
あたりは自分の部屋。さきほどの部屋とは異なる。板間であるから正座などできないし、広さが違う。
夢だったのだ。
しかも、祖父はとうに亡き人であった。
厚手のカーテン越しに作られる部屋の明るさだけは同じだった。
夢の中では、何の疑問も沸かないもののようだ。
これは「お迎え」の前触れなのだろうか。
その日、祖父が道案内してくれるというのだろうか。
隣にいた彼女は、なぜそこにいて話していたのだろう。
何を話していたのだろう。
ふと思った。
彼女は、道案内と交渉していたのだろうと。
私をまだ連れて行かないでほしいといったことを。
たいへんな尽力である。
この日を含め数日間、彼女は精神面を主体に体調を崩していた。
その原因を知ることなく。
お迎えは、これに対して徹底的に反抗しなくてはならない。
ありがたいことであるはずがないからだ。
私が周りの光景に違和感なしにいたならば、ついていったかも知れない。
だが、この場合は、彼女が説得してくれたと思える。
中陰の道案内?ふざけてはいけない。
善意に満ちているかのようなおためごかしは、この世の通例。
阿呆な人生を阿呆なままで終わらせようとする悪意には徹底して反抗すべしである。
まだ見込みはいくらもあるのだ。

日本の顔?的鳥の黄昏

日本を代表する鳥といえば、コウノトリや丹頂鶴ではない。
すずめとカラスだ。
平和な幸せ者と、自由勝手気ままな嫌われ者。
それらが村里や町中からしばらく姿を消した。
18日にやっとそのことに気づき20日まで、どこを探しても一羽も見つからなかった。
下界では黄金の稲穂が台風禍をかいくぐって豊作であったのに、
それを早々に愛でて群がるかしましい連中はどこにもいなかった。
案山子も銀紙テープもカラスを模したビニール袋も、無駄な努力のように、
兵庫県南西部の空は生命感がぷっつりと途絶えていた。
そういえば8月の暑いある日に、こんなことがあった。
車のフロントガラスのところで、パタッと音がした。
見れば、すずめが一羽、ワイパーの上にとまっている。
長い間動こうとせず、何かを警戒しているようだ。
見れば向こうのポプラの葉陰がごそごそ動いている。
と、そのとき別のすずめが、叩き落とされるようにして地面に落ちてきた。
そして、さも理不尽そうにポプラの方を見上げている。
葉の中では、ふた周りほど大きいムクドリのような鳥がごそごそしており、
お宿を奪われた二羽のすずめは、傷ついているらしく、
ふらふらとどこかへ飛んでいった。
車にしがみついていたすずめは、きっとギャングたちといえども、
人間にはかなうまいと、とっさの知恵を働かせたに違いない。
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その後のことだった。すずめが外来種の鳥の攻撃を受けて数を減らしているという話を聞いたのは。
が、カラスもいなくなっていたのは、なぜ?
時には猛禽の鳶でさえ、一羽で追い散らすというのに、
あんな小型鳥程度にやられるものだろうか。
そこで、はっと気がつく。
すずめやカラスの激減という天の異象が予兆するものに・・。
これは近未来の日本なのかも知れない。
おりしも株式の世界に外資がどんどん流れ込んで、株価を吊り上げていた。
日本の機関投資家は逆に引いている。
何かおかしい。
おーい。すずめはどこへ行った。お宿があるなら教えておくれ。
20日の夕刻近くなったときだ。
車を走らせている目の前を、二羽のすずめがよぎっていった。
その飛んでいく方向を見やれば、一軒の農家の屋根のてっぺんに、
50羽ほどのすずめが一列になってとまってこっちを見ているではないか。
チュンチュクいうかしましいあの声も。
見れば、驚いたことに、農家の向こうの電柱と電線に、
三羽のカラスが並んでとまってこっちを見ていた。
まるですずめの保護者みたいに。
おーおー、お前たち無事だったか。
私たちは元気です。
そんなふうに聞こえた気がした。

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初めからなかったとは思えない・・人間の観測能力

スマトラ島大地震による大津波の到来を、事前に察知して逃避行動をとったのは、ゾウやヒョウやヘビなどの動物だったそうである。
ゾウ使いのゾウに乗せられた人は、ゾウの勝手な行動にどうにもできず、山の上まで運ばれて助かったとか。
ところが、人間は逆に自動車で海辺に下りて行ってしまい、津波のカウンターをもろに受けて亡くなっているとか。
地元民は、どうして普段目立たないヘビなどが山を目指したのか不思議がっていたらしいが、これこそ自然界に生きるものであればこその感覚が備わっていたからに他ならない。
UFOを見る見ないという能力差も含め、人間はどれほどの能力を失ってしまったのだろうかと思ってしまう。