古人の言う。
この世はマーヤ(幻影)であると。
またある古人の言う。
万物は神の言葉によって創造されたと。
神を名乗る者は言う。
人間は心の些細な思いから一挙手一投足に至るまで
神の糸引く操り人形であるに過ぎないと。
それらから現代の覚者は推量し物語して言う。
目に見える現実世界はマトリックスというプログラム
上の出来事だと。
そのような世界で織り成される悲喜こもごも。
どんな悲惨な戦場の惨状も、またその逆も、
あらゆることの発生や、それを観測する意識も、
すべて予め仕組まれたプログラムに準拠の上でのこと。
それを相対世界と仮に言うなら、何にも飾られず
何者によってもコントロールされない、おそらくそれが
原初の世界であったろうところの世界が、容易に
推測できるだろう。
それを仮に絶対世界と言おう。
相対世界は多重夢の世界。
ひとつの夢世界にひとつの観測、そして記憶。
たまたま夢から夢へと遷移する最中に情報が漏れる。
それを称して、夢を見たとか、過去世を見たとか、
臨死体験したとか、既視感を持ったとか。
未だ完全ではない造りのシステムであることが明白。
それを完全なる世界と標榜してやまぬのは、あたかも
室内の蟻の群れの営みを上空から掌握して上位を気取る程度の
品性でしかない。
その多重夢に流され己の本源を見出せず彷徨う意識の群れ。
夢の中の定義された幸福を求めて、いよいよ出口を見失う。
仮にこの世という夢。定義された幸福の尺度お金を求めて
昼夜の別なく働き、幾多の仲間を殺戮し、夢の終わりに
一過性の満足に浸りながら、成行を見ずに行く。
その局面においてさえも矛盾を感じず、周りも同じだからと
合理化を精一杯して去る者たち哀れ。
「お金」を価値ありと信ずるものの何にでも置き換えて見ればよい。
そのすべてが果たして真なるかどうか。
相対世界にある限り、どんなものも、虚仮でしかないのでは。
虚仮はただ余興であるべきもの。
興趣は楽しみつくすことこそ真価と、熟達した者は悟っているかのようだ。
真実にある者が、ちょっと余興をとでも思ったのだろうか。
それでもなかなか戻ってこない。
むろん、いろんな感動に涙したかも知れない。
ふとした発見にわなないたかも知れない。
それに憧れ、私もしたいと次の夢に期待をかけたかも知れない。
だが、のめり込むにはくだらなすぎなくはなかったか。
手を染めるにもくだらなすぎなくはなかったか。
それでも、卒業するには徹底的に嘗め尽くす必要があるのか。
絶対世界。それがたとえ無色透明のまばゆい光であるのみで
あっても、それが虚仮でないなら、そこに住したい。
虚仮システムを稼動させる館を小さく眼下に見る
どこまでも広がる蒼穹がそれなら、そこに住したい。
そしてマトリックスなる虚仮を稼動する傲慢な者を、
しっかりと諌めたい。