地上と楽園の違い・・・苦労は食からはじまった

今からおよそ50年前、万能の抗生物質ペニシリンがアオカビから抽出され、
その画期的効能が広く世間に知れ渡ることとなった。
新たな抗生物質は、主として石油化学から生み出され、臨床効果が確かめられて
それから30年もの間、人々はそれまで致死の病から生還を果たしてきた。
ところが、ここ20年くらい前から、ペニシリンへの耐性を示す黄色ブドウ球菌が
登場し、医学界を驚かせた。
病原菌の側から自らの耐久性能を進化させ、ペニシリンを無効化して、罹患者を
死に追い込んだのだ。
医学の側はこれに対抗し、メチシリンなる抗生物質を開発し、これに打ち克ったと信じた。
ところが、ほどなくして病院の中でささいな怪我などから重症化し簡単に死に至ら
しめる病原菌MRSAがメチシリンへの耐性を備えて登場し、主として病院内で
進化したものであることから、院内感染によって、主として免疫力の低下した
年配者を中心に死者が続出し、社会問題化した。
病原菌は、多様化する抗生物質の性質に応じて、自らの防壁のハードルを高める
性質をどんどん獲得していたのである。
生物は生存環境に応じて進化し順応する。それは失敗に失敗を重ねた末の可能な限りの
試行錯誤の努力の結果、ごくまれに奇跡的に適応能力を獲得したものによって、
あたらしい次の局面を開拓していく生命独特の驚異的システムである。
それは同じ性質を遺伝子の中に組み込んで逞しく分裂し、ものすごい繁殖力を示して
宿主を破壊し殺し、次なる宿主を探して環境の中に飛び出していった。
こうして、最も危険なのは病院内という奇妙な状態を作り出したのだ。
医療器具はむろんゆえに煮沸消毒がなされるが、手すり、床などに菌の飛沫が
付着し、患者の間で経口、空気、皮膚感染などを引き起こしている。
抵抗力の弱った患者は、皮膚からMRSAが入れば敗血症を起こすゆえに、傷口を含む部位を切断せねばならないという事態も生じているという。
手から入れば手を、足から入れば足を。
スリッパを共用している病院医院はざらであるが、それ自体危険であり、
もしどうしても利用する必要があるなら、持参するかもしくは
靴下2枚を履き重ねなくてはならないくらいに考えてもいいという。
このようなMRSAに対して、医学界はバンコマイシンという最強の抗生剤を開発した。
これによって、もう医学の勝利は確かなことのように見えた。
ところが、ほどなくしてそれに対抗するように、耐性超球菌MU50が登場した。
菌は細胞膜の化学構造を微妙に変化させることによって、バンコマイシンの薬物作用を
回避する手段を獲得していたのだ。
鳥だけに感染していたインフルエンザウイルスが、人間を宿主にできるよう
自らを改変した鳥インフルエンザも登場。
細胞レベルで繰り広げられるミクロの攻防戦はまるでSFミクロの決死圏さながらである。
病原菌側にも科学者がいて、生存を賭けてこちら側と頭脳戦を演じているが如くなのだ。
現状の攻防戦は目下のところここまでであるが、もし医学界が新しい画期的な新薬を
開発したとしても、またほどなく敵側の防衛するところとなるであろう。
生命の生命たるゆえんは、艱難を乗り切り生き残ろうと努力することにある。
生き残りの方法を進化させ、直接敵方と戦うことによって、危急の打開を図るわけだ。
そこには、生命であるがゆえの正当防衛的な戦いが見て取れる。
性質を強靭かつ凶暴なものに進化させていく病原菌は確かに憎い。
我々は見えざる敵、その脅威にいつも晒されていなくてはならない。
宿主の死と共にあらかた死ぬと分からずか。いや死ぬと分かっていても、意地で
病原菌は凶暴化するのであろうか。それはまさに、意地の張り合いと言ってもいい。
いや、これこそ、生命というものの強靭さの根底にあるものかもしれない。
応用的に、こんなことも考えてみたりする。
あたかも、9.11テロに業を煮やしたブッシュアメリカの対テロ戦略に
対抗するテロの激化とも似ていないだろうか。
ベトナム戦争における強国の実質的敗北をもたらした底力にも似ている。
パレスチナ人がどんなに制裁を受けても、石つぶての反発をするのはなぜか。
そこには、小さい者には小さい者なりの、弱者には弱者なりの意地が見て取れる。
それはおそらく精神的なものである。テロは何ゆえに生じたかを考えたとき、おそらくそこには貧困や不公平感、
差別感、人間としての扱いを受けなかったなどの精神的な原因が存在しているはずだ。
原点に立ち返って、我々が反省すべきことは、たぶんそれであるに違いない。
自由主義と言いながら、彼らの自由を保証していただろうか。
博愛といいながら、差別や偏見を以て対してはいなかっただろうか。
富の力や武力で、自由を縛り付けたりしていなかっただろうか。
差別的な目、敵対的な目をいつも向けていなかっただろうか。
それを当の病原菌の立場に立って考察してみればどうなるか。
病原菌にさえも、優しい眼差しを向けたら、彼らはどう反応するだろう。
実験的にでも試してみる科学者はいないのか。そんな金にもならぬことに精を出す閑な学者もいはしまいか。
我々は、いつも敵対心によって行動原理が与えられていなかっただろうか。
少し長じれば受験戦争。社会に出ても競争社会が待っていた。
老年にいたってさえも、他人より豊かに生きたと誇示したい心がある。
他人、たとえ仲間と見なす者にさえ、根本的なところで、蹴落としの動機が
渦巻いていたと言っていい。
そのような楽しくない社会にいつからなってしまったのか。
たぶん、都市国家が成立し始めた大昔からなのだろう。
他人を密告せねば、他人を殺さねば、自分が生き残れなかったのだろう。
そう合理化し、正当化して生きた人が歴史上には多いはずだ。
だが、それはこの社会の真理ではない。
まったく正反対の楽園楽土だって、存在しえたはずである。
それがたとえ表から見て貧しい未開の地に住むと思えても、あるいは不潔な
泥水の湿地帯に住むと見えても、生まれてくる一人一人を大事な一員として
分け隔てなく育んでいる種族がいたとすれば、寿命の長さの如何を問わず、
楽土に生きたと言えるのではなかろうか。
ジャングル奥深くの未開の地には、そのような種族が確かにいる。
子供は部族の宝として喜ばれる。
もっと原初的なところに想いを馳せてみたい。
「食」という人間の根本的命題に、逆方向から挑み、実験的に成功している人がいる。
すなわち「不食」、食べずとも生き続けるということを可能にした人が現れているのである。
わずかに食べるだけの状態を続け、ついに不食を達成したという。
そして、もう何年も食べずに生きているという。
インドの聖女テレーゼは有名だが、日本にもそのような人は何人かいる。
生物学的に彼らが生存できる理由が考察されたらしいが、腸内細菌の中に
生体に有用なものがいて、空気中の窒素から蛋白質を合成してそれを栄養化し、
体の維持に役立てているのではないかという説がある。
もしそうであれば、この人は生命環境の中に、最も調和の取れた状態を作り出せている
ことになるはずである。
それは前述の、病原菌を不潔かつ敵対的なものとする態度とは異なっていよう。
もし、彼の体内を地球上に置き換えるなら、生き物のすべてが共存共栄する
理想郷状態にあることを示していよう。
「共存共栄」とそれを包み込む「優しさ」がどうやら、その謎を解く鍵であるような気がする。
「不食」という著書の著者でかつ不食の実践家は言う。
人がもし食べなくては生きられないという公理から解放されたなら、
個人的な人生観どころか、社会全体の仕組みさえも変わってしまうと。
人は食べるために働かねばならなかった。
だが、不食が真実で、人がそれを簡単にやれるなら、人は労働の必要性から
解放される。
あくせく汗水して働き、競争社会でストレスしてわずかな糧を手に入れるという
行程が省略できる。
人はすることがなくなって退屈するのではなく、新しい創造の楽しみに時間を
振り当てられるようになる。
なぜ人は食べなくてはならないか。
彼によると、それは人が食べなくては命が維持できず死ぬと思い込んでいるから
だという。
食べなければ死ぬという恐怖と思い込みによって、人は飢餓で死んでいるというのだ。
彼は食べずとも生きられる、食べることは逆に身体を疲労させ老化を早める
という実験的事実を説いている。
確かに、食事した後、身体がだるくなるという経験は、中高年者なら少なからずしているであろう。
特に現在では、食事の中に添加物や防腐剤、農薬などの毒劇物が少なからず含まれている。
それらが蓄積して、アレルギーなどの免疫疾患が、どんな人でもいつ発症するや
分からない状態にある。
場合によっては、胎内でそうした薬物を受けてしまうこともある。
免疫疾患といえば、癌やリウマチ、アトピーなどもその一環である。
幼くしてアトピーといえば、子供が悲惨である。
落ち着きのない多動性症候群なども、食生活の影響であると言う。
食べることによって、弊害をも体内に取り込むのが必然とすれば、
もしできることなら「不食」が可能ならと思われないだろうか。
味覚の喜びなくして人と言えるかと仰る向きもあろう。
確かに、それが人としての所以であろう。
だが彼は、食が老化の始まりだと考えている。
聖書に言う「楽園追放」は、天使であった人類の始祖アダムとイブが
人間として地上に登場した逸話を語っている。
知恵の木の実のりんごを、蛇のそそのかしに乗って食したことを神が見咎めて
彼らをエデンの楽園から荒野に追放し、地を耕して作物を得なくては生きられ
ならなくしたとしているのであるが、
実は「不食」が当たり前であったところに、食べなければ命を落すと信じ込まされて
いつしか食を労して得なくてはならなくなったのではなかろうか。
りんごは特定の果物ではなく、食事すること、あるいは味覚であったと解されるのである。
そして今や、創世記を遠望しつつ、できものによって人々が苦しむ黙示録の
時代へとタイムテーブルが進捗しているわけである。
おかしな神が関わってなされた催眠術的な洗脳。そうした超古代の陰謀が存在していたように思ってしまうのは、私ばかりだろうか。
楽園は、この地と別の領域にあるのではないはずだ。
この地にありながら、アダムとイブの原初の頃に立ち戻ればいい。
すなわち、「不食」を真理として皆が認め実践するようになれば、
人は国や糧のために縛られることはなくなり、国外の無人島にでも
住むことができる。
聖書の伝える楽園では、すべての生き物が互いに和やかに暮らして、弱肉強食の食物連鎖の
ようなことはなかったという。
「不食」が生き物に徹底されれば、それが可能にならないか。いや、「共存共栄」を優しく見守る心があれば、それは可能な気がするのである。
次の記事で、現代の危機についてもう少し。


現代社会では、幾多の病原菌に対抗するために、化学的に合成された抗生物質が
垂れ流し状態となっている。
それは肉食する我々が安全に口にできるようにと、家畜に対して病気に罹らないように
抗生物質が餌に混ぜて投与されている。
それは肉に蓄積されており、肉食する我々は自ずと摂取し、私は抗生物質など
飲んでいないと主張しても、体内に取り込まれている。
不必要な時点での摂取は肝臓に負担をかけるだけでなく、病菌に耐性獲得の下地を
提供しているようなものである。
こうして、これからはもっとややこしい病気が出てくることであろう。
医学はいつまでも人命維持のために闘ってくれるだろうが、進化していく病気の
創り主になってもいるのである。これをいたちごっこという。
また、食肉ばかりではない。野菜も店頭を飾るときの見た目を良くするために
ことごとく農薬が使われている。
店先のきゅうりが、のっぺりしてきれいにまっすぐしているのは、農薬でそうなったのである。
本来のきゅうり、戦後まもなしに見られたきゅうりは、円弧を描いて捻じ曲がり、
表皮にはたくさんの痛いほどの突起が出ていたものである。
あるいは野菜という野菜に、虫食い跡が少なからずあった。
それが今では、虫食いなどあろうものなら、店の管理不足で厳重抗議されるところ。
主婦たちは、こぞって色のきれいな傷み具合のないものを選んで買って帰る。
業界の裏側では、新鮮味や色の鮮やかさを出すために劇物の着色剤が使われたりしている。
こうして、食物連鎖サイクルの最終地にいる人間が危険な物質の蓄積場と化しているのだ。
人生80年時代を迎えて、人は医学の進歩を称えた。
だが、現在、80歳以上を達成した世代は、農薬や化学物質などの被害を成長期に
受けなかった人たちである。
彼らは非常に丈夫である。だから、60歳以上でも労働に勤しみたがる。
政府はそれを見て、安易にこれからの施策を考える。
だが、これからの世代が同様に追随できるという可能性は限りなく小さい。
生れ落ちて早々にアレルギーなどに苦しむ子供たちを見れば、
容易に未来を予測できるはずだ。
人間たちが良かれと思い作ってきた様々なものが、人間を蝕んでいく。
環境は人間たちの営みに対してノーのサインを出し始めた。
もう追随していくことはできないと。
人間はなぜこうも、生態系全体の希望から乖離したがるのだろう。
人知を駆使して、泥まみれの大地から乖離しようとすればするほど、
強烈なストレスに晒されていくことがわかっていない。
大地はいたるところで戦場と化している。
戦争は人と人ではなく、人と生態系という構図になりつつある。
翻って、生命体である自分自身と戦争している状態になっている。
この現実に気付くべきだ。

「地上と楽園の違い・・・苦労は食からはじまった」への2件のフィードバック

  1. SECRET: 0
    PASS: 6b5774aae319dedfaeac13edf52d5c06
    私も最近不食を実験的にスタートしてみました。これが人類を救う新しいパラダイムになるのかどうか? なんて大げさではありますが、楽しんでやっております。よかったら覗きに来て下さい。
    http://blog.livedoor.jp/kiyokiyo48/

  2. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    ほおーっ。実験されようとしている方がおられるのですね。
    興味深いので、拝見しに参ります。
    私は「不食」の人について、よく最近テレビなどで人気の出ている魔術師と同列に捉えてみているのです。といっても、不思議な能力の持ち主ということも含め、今までの人々に許されなかった自由度を獲得した人種という意味であります。
    過去にもこのような人は時折いたのでしょう。が、彼らは、その能力と共に、思想的に平準化された人々によって、大概は迫害されました。キリスト教会が行った魔女狩りなどは好例です。ところがその頭目のキリスト自体は、同じことをしていて先鞭をつけたがゆえに咎められませんでした。突如、たまたま現れた、自由度を獲得した人物に、ぞっこん惚れてしまったというのが昔人であり、彼を持ち上げてしまったのは単に情報量不足だったように思うのですね。彼の説いたご立派な思想が、運用者によってまともに用いられなかったことが、キリストが真のキリスト足り得なかった確たる証拠だと思っています。
    キリストが当時の人に何を言いたかったのか考えるに、たぶん、みんな私(キリスト)と同じことができるのだということではなかったかと思うのですね。
    つまり、発想の転換をしてみたらどうか、といったものではなかったでしょうか。
    その発想だけで、環境が変わってしまうものなら、それはすごいことです。場合によっては奇跡とも捉えられます。
    かの人によると「不食」のトライは、食べずとも生きられるという発想の切替からはじまるようですね。それはちょうど、ユリゲラーが、これはゴムのような曲がるものなんだと強く発想して、スプーンを曲げるのとよく似ています。たぶん、空を飛んだり壁やガラス戸を透過する魔術師も、公理に依らない発想を少なくとも自分に対して与えているのでしょう。
    このような、世間知の枠にはまらない「自由人」があちこちにちらほら現れているように思います。
    ホピの長老は、次の時代の種子がすでにこの時代に芽を出していると言っています。ニューエイジのことと訳者は捉えていましたが、名実共に型に囚われない人が確かに増えているように思います。
    今の時代、既成のがんじがらめの概念に囚われて、事態の解決が何らできないでいますね。国際の場も、まるで中学校の学級を見るようなガキっぽさが見えています。これが叡智の結集であるとはとても思えません。結果、不満があれば武力で横暴して通すという、ガキの解決法しか出てこない。どうしてそうなるのでしょうか。
    どうせそのようなことなら、既成の学問も概念も理論も、みんなドブに放ってしまった方がいいのでは。
    そういう意味で、どんどん既成の概念にそぐわない不思議な人々が出てきてくれたら、どれほど人類のためになるか分からないと思います。

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