誰ぞやから童話を書いてはどうかとお勧めがあった。
しかし、この童話なるものは、書きたいことが天下ってこない限り、書けたものではない。
たとえ来たとしても、他の事で忙しければ、いつのまにか来たものを忘れてしまい、それっきりとなる。
こうして、童話なるものは、滅多に書けるものではないこととなる。
だが、私の人生、昔一般に言われた人生○十年を過ぎてからは、どうやらオプションというか巻末付録というか、いたって非現実、堅苦しいので言葉を適切なものに換えれば、「御伽噺」のような感触なのである。
そういえば、心臓のリズムも脱線ばかりしていて、私の人生に波紋して、どこかの異次元空間にしょっちゅうワープしているかの如くである。
妙なUFOをいくつも撮影するばかりではない。UFOもこの眼で見た。
スカイフィッシュも撮影しただけではない。この眼でも見た。
といっても、一般に言われる白いひらひらのついた小さいやつではない。
掛け軸の褐色の鯉の滝登りを思わせる、長さ10mもあろうかという捻れ棒のようなもの、あるいはイモリのおたまじゃくしのようなやや長めのおたまじゃくしの形をした存在である。
あの色からすると、龍の子供くらいにならないだろうか。
かつての仲間のS氏は、スカイフィッシュとは龍神さんのことやと言っていた。
UFOもスカイフィッシュも、見るのはマスコミ取材時あるいはロケ時であることも、不思議なことであった。
といっても、私にそのような力があるというわけではない。たまたま見せてもらっているのである。たとえばUFOのときは、あのグループサウンドの「嵐」のメンバーが最初に見つけて、みんなに教えてくれたのだ。その場にいたカメラマン、エキストラ含め二十人ほどが見ている。
龍の子供は、視野のど真ん中にドテーンと出て来てくれたから見えたのだ。ちょっとでも脇のほうに見えただけなら、気のせいにしてしまっただろう。やや後ろに控えていたから見ることができたと思っている。
理想郷とUFOは、考えられなくもない取り合わせだが、どこか異質である気がする。高度先進文明の証である乗り物UFO。先進文明との合流は、理想郷への最短コースと思えなくもないが、彼らが一度でも、この今の病んだ地球に、善意から快く手を差し伸べてくれたという感がないのである。
UFOは確かに居る。だが、あくまでも隠れた存在で、陰で何をしているのか分からない。ガラス張りの行動をとらないから、疑惑ばかりが先行する。
会見したかどうかも分からないほどに、後で記憶を消し去るようなことをする裏には、何か良からぬ企みあるを勘繰らざるを得ない。
今までのUFOを取り扱う活動を総合した結論として、私はこうした存在には何の期待も持たないことに決めた。
いっぽう、スカイフィッシュ、龍神さんなら話が別だ。
彼らは自然界の生態系を構成する一員であり、人類やら哺乳類やらよりも、おそらくは遥かに以前からいて、地球の生態系の歴史を長い時間かけて見てきたことであろう。
地球の命、地球生態系は、我々の身体機能の基盤である。
彼らから理想郷を作るための知恵を大いに借りるべきであろう。
生態系といえば、私は生き物たちとは、いい関係が築けるようになっていると思う。
すずめとカラスの話はたびたびしてきた。すずめは特に、私の部屋の窓越しのベランダで臆すことなく戯れるようになった。
ある朝など、私が愛念を送り続けると、物干し竿の二羽のすずめが、5分間も気持ち良さそうに毛づくろいなどして泊まっていた。こんなことは今までなかったことだ。
ベランダでくつろぐすずめ
今シーズンは、ほとんど蚊に刺されたことがない。蚊が部屋の中に居ても、私を襲ってこないのだ。そして朝になると、外に出たがって、網戸で飛び回っている。何もしていないので、かわいそうだが、掌で潰す。
最近のことであるが、ゴキブリが、絶対居ないと思っていた台所の引き出しの中でごそごそしているのを偶然見つけてしまった。その瞬間、ウオッと驚いたのは、相手もそうだったろうが、そこは臆病な私。咄嗟に引き出しを閉めてしまった。
私の使い古しの歯ブラシがそこには入っていた。もう使えんなと思いつつ、別の新品を用意するにも、その引き出しの中だ。
一匹見たら、十匹以上居ると思えという話を思い出し、この中に巣食っているかもしれないなあ、いつか壮絶な対決が必要になるなあと、意を決し、引き出しを思い切って引いてみた。
すると、引き出しの中からではなく、下部のあわさいから、ボロッと出てきて床に着地したのが先ほどのゴキブリだった。まだ若いらしく、背中はやや薄い感じがした。
さて、どこかにハタキはないかと探すが、ゴキブリの居ない家のはずなので用意がない。新聞紙やチリ紙で掴むというのも、想像しただけでおぞましい。
が、そのもたつきが、ふと静観の時を設けてくれたのだった。
ゴキブリと対面、対話の時を持てたのである。
そのとき、いつものように私の胸のところから愛念が出てきて、ゴキブリを覆った。
「ゴキよお、この家の中は、お前たちにとって暮らしにくくできている。家人は、私のように穏便ではないし、悪いことは言わんから、どこかよそで暮らしなさい」
さらに、ゴキブリ族と人、さらに生態系全体における秩序について思い巡らしてみた。ゴキブリも、理想郷の中におけるひとつの種族である。その日には、彼らが嫌がられる理由などどこにもなくなるはずである。ゴキブリはじっとそこで、私の思いを感じ取っているようだった。
私は、さっきまで俊敏なゴキブリがどうしてこうもおとなしいのかに思いが行き、「ちょっと待っておれ。記念撮影しておこう」と、その場を外して、二階にデジカメを取りに行き、また戻ったのである。すると、ゴキブリはまだ同じ場所にいて、触覚だけ左右に穏やかに動かしていた。
一枚パチリ。フラッシュも焚かれる。動かないのをいいことに、別の角度から二枚目、三枚目と撮った。
「ゴキよお、ありがとう。いい時間を持てたよ。気をつけて行けよ。元気でな」
そう言い残して二階に行った。どうしているか再び下ったのは数分後だったが、そこにはもうゴキブリはいなかった。
それ以来、台所はむろん、家の中のどこにもゴキブリは見られていない。言いつけをしっかり守ってくれたようだ。
それから二、三日経った日の夜のことだ。私はパソコンに向かっていた。窓は網戸にして全開にしていたから、県道の騒音はモロに入ってきていた。ブーンと小型バイクのエンジン音がいくつも去来していた。やがてその中に、一風変わったブーン音が耳に入ってきた。重低音であるが、エンジン音よりはまろやかだった。それが県道の同じところを行ったり来たりしているかのようである。あれえ、何往復してるんだろ。おかしいな。こんな時間に草刈り機を使うわけないし。
そう思って窓際に立つと、何とそれが羽虫であることが分かった。ブーンと羽ばたいて、網戸のところにやってきて、一、二度ぶつかると、網戸越しに泊まったのだ。見れば、こちらからの光に当たった部分だけでも猫の口のような顔で、とても大きく、それ以外は網戸の反射で判別できない。しかし、このサイズならエンジン音を醸してもおかしくなかろう。それが私と対面したのである。私は、光を好んで集まる蛾の仲間かと思ったが、顔からしてあまり気持ちいいものではない。
「おうおう、ここは人間の領分で、お前たちは入れないのだよ。お前たちの居場所は、向こうに広がる自然界だ。そこに還りなさい」
そう諭して、分厚いカーテンを閉めると、やがて彼はどこかに去っていった。
その後、私の最も愛し信頼する者が意識を飛ばして来ていたことが分かったしだいだ。追い返してしまって申し訳ないと謝ったしだいである。
さて、我が家では、ベランダでオクラとトマトのプランター栽培をしている。それが花をつけるようになる頃、どこからかアシナガバチが一匹、いつも必ずプランターの植わり物のところにいて、私が水をやりに行ったりすると、ここは俺の縄張りだとばかりに飛び回る。
はじめは、おっかなびっくりだったが、最近は彼が立派な交配係と害虫駆除係を務めてくれていると分かった。何せ、一度も襲われたことがない。水遣りのときも、収穫のときも、お互い様といった顔をして過ごしている。虫にたかられ病気がちだったほうのオクラも元気になり、遅ればせながら花も実もつけるようになった。このハッチの貢献にはとても感謝しているしだいだ。
そして、ごく最近になって、アシナガバチの巣があることが分かった。何と、エアコンの室外機のすぐ上なのである。見れば、巣には誰も居ないようだ。もしかして、室外機から出る熱気の被害にあっていたりしないかと、心配になったりしている。
アシナガバチのハッチ
巣
オクラ
理想郷では、このように生き物が互いに支えあう構図でなくてはならない。葉を食う芋虫といえども、植物の生気のなくなった下葉だけを選んで食べるように、ひとりでになるだろう。そのような芋虫をアシナガバチは襲ったりしない。
私はこうした周りの生き物のおかげで、人間をも含む秩序と愛のある理想郷プランを考えている。すべて幸せに生きていくべき有情なのである。生態系からすれば異端的と見える人類もそうである。
何が理想状態から乖離させているのか。その真因を掴み、それを事情によっては切除もしなくてはならない。高々数十年で達成できる目標ではない。私が今の時をその思索に送り、行動を死後にまで引き継いでいく魂のライフワークとも言える。
そして理想郷は、死後の世界にあるものでも、どこかよその惑星に作るものでもない。この地球の大地の上に十分に実現できるし、そうしなくてはならないものである。その日、有情はこの世界に生まれてくることに心底から安堵と喜びを感得できるだろう。
今私は、この身を以て理想郷実現の感触を体験しつつあるところである。