ブーのいま

ブーは黄色脂肪症というビタミンE不足による体内脂肪の酸化による病気のようです。これは下肢の関節付近から全身にかけて、触ると痛むというもの。先生はタウリン不足と仰ってたんですが。いずれにしても、猫は体内で自製できないので、単純に肉を出すだけではいけないみたいで、飼い猫にはキャットフードが欠かせないそうです。そういえば、ブーは骨細でぼってりとおなかが大きいメタボです。体重の増加だけ見て喜んではおれません。
9日の夜に、ブーのことが気がかりでベッドに三匹をあげて眠り、豆電気の下で目を開けた瞬間に、ちょうどブーが眠っている場所から黒猫が向こうを向いて電灯のほうに飛んでいく幻覚を見てしまいました。以前にもブーらしい黒い影が飛ぶのはたびたび目撃していましたが、今回ははっきりと黒猫の姿でした。短命な猫としての宿命を持って生まれたのでしょうか。(先代の白虎なのに・・・ここでの逗留に飽きたんでしょうか)
以前から何度かブーは命の危機がありました。高いところから落ちかけたり、実際に落ちたり、他の二匹の動きに追随しようと無理をしている様子が伺えましたから。食べ物で嫌いなのは徹底して食べず、食の範囲も極端に狭く、好きなものもどんどん変化しましたから、合わせてやるのがたいへんでした。そんなところから、偏食に陥っていたのです。
今はチーズが好物で、それを最初にあげて食欲を出させて肉を与えて、その後でお医者さんにもらったサプリメントを与えています。そのお蔭か、痛みもだんだん取れているようです。
しかし、トイレがブーにとってもいちばんたいへんでした。かかえて砂場に置いただけで、ものすごく痛がり、足が立たずに寝転がりましたから、トイレどころではなかった。それが何度もフーッと痛みをこらえて用を足すようになり、今はおぼつかなげにも座って、用を足すようになりました。ただ、うんちがもう3日以上出ていません。あと3日も出せなければ、お医者さんに指突っ込んで出してもらいます。ブーは痛みやむなしの人生を送りに来たのでしょうか。人として生まれることもたいへんですが、猫として生まれるのもやはりたいへんです。この世の有情はみなかわいそうです。うんちの出し方を私も学んで、以後やるようにします。
一週間ほど前の三匹
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昨日のブー
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先ほどの三匹(もう少ししたら添い寝します。食の好みによらず、猫たちはこれがいちばんの好物です)
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人のままでは世は改変できぬ

ここのところの寒さ、ちっとも地球温暖化など起きてないという向きから、CO2原因説の糾弾に至るまで、世の先覚的学説の間違いを質そうという動きが出ています。
もともと学説などというものは、正しかったためしなどなく、それをもとににわか技術化して製品化するものですから、多大な問題を世界に撒き散らすに至ったわけです。
人間というものは不完全だからという以前の問題です。そう分かっているなら、なんで不完全を承知で突き進むの?となりましょう。要は、自分さえ良ければいいという発想しか学者にはなかったということなんです。見て御覧なさい。われもわれもと有名人になりたがる手合いばかり。それがまた世を牛耳る叡智人たちのカモ(将棋のコマ)になって、一般庶民をたきつける。庶民はいっこうに真実も本質も知らされずに、わびしい奉仕生活だけさせられて、これが人生だよとぼやきながら、やっと解放されていく(死ぬ)んです。
温暖化なのか寒冷化なのかを云々する説というのも、人間が考えることゆえ、全部間違いになるでしょう。それをするくらいなら、ホピが言っていた”コヤニスカッチ”という話のほうが説得力があっていいです。この意味は、世界を動かしている力が弱って、ちょうど地球ゴマに回転力がなくなったときのように、両極端に振れるという現象が起きてくるというもので、地球それ自体を生命体として捉えたとき理解されてくることなのです。生命体の自己防御反応とでもいいますか。その結果どうなるか。地球ゴマがひっくり返るようなことになるというわけです。ボールシフトが近いという意味に捉えてもいいでしょう。軽く済めば、文明の土台がひっくり返る(最も軽くて資本主義経済基盤が覆る)ようなことで、重ければ地殻大変動で大陸の海没まで起きてしまい、生態系の大ピンチを迎えるところまで行くことになる。
ホピははるかに大局観に立っていたんです。アリンコ人類の蠢きを眺める立場にいたんです。神と共にあった時間の長い部族ですから。過去に遡るほど、そうした種族の息遣いが聞こえてくるようです。縄文人もそうだったでしょう。彼らのいた時間は、たかだか2000年の歴史(文明と称している)時代よりもはるかに長いんです。その我々が賞賛する有史文明とやらは、虚飾に満ちてはるかに短命、今まさに滅びようとしているわけです。
神と共にある、とは、外にある神を崇拝していたという意味ではありません。それなら、あなたがたの宗教指導者の神々しく見える人でも、神に崇めておればいいでしょう。たいがいは、お金と人生時間を奪われて、後悔している人ばかりですが。
人は、もし自意識を持っていると自覚できる人は、彼自身が創造主なのです。自意識なしで人としての人生を生きている人もいるでしょう。それはプログラム上のダミーキャラクターなんです。その見分けなどつきませんから、みんな神の子仏の子とみなすにしくはなしなんです。
創造主なら、自ら想起するに従い生きることになります。想起しだいでは、神にも奴隷にも演じ分けることができるのです。
私は出自が神かどうかは分かりません。しかし、神を身に帯びて行動はできます。それを私流に表現して、”神の雛形を演ずる”と言います。それは神話のルールに則りながら物語的に推移しますから、現象上に次に起きてくることがある程度推測でき、分からずに起きたときも、神話のどのあたりが起きているか判断がつくのです。
そして、神話がたった神ひとりで演じられるわけではないことから、神の雛形に、私と神話を相互に演じようと、好適な人物がまるであてがわれるようにして登場してくるのです。これは普通の考え方からすれば、不思議であり、超常現象的であると思われるに違いないです。
人がいくらごまんと寄り集まっても、世の改変などできないでしょう。しかし、神を身に帯びた者ならひとり思惟することで、時空が磁化されたようになって、思惟の通り道にくっついてきます。こうやって、私はもっと早期に絶望的状況に至っていたはずの世を、ここまで導いてきたのです。第二次関東大震災もまだないでしょ。第三次大戦も。
私はこのためにたくさんの神々を身に帯びました。たった一人の神だけでは、古来からある神話の断片しか演じられません。だから、リンクさせなさいと言わんばかりの、身の回りの神話的兆候が現れたら、私の魔法起動ルールに従って、神の属性をためらいなく採り入れて、自分の周りに磁場を強化していきます。すると、やがて神話物語から導かれる事象が起きてくるようになるのです。
雛形になるのに、環境因子的に恵まれていました。まず母の出生時点が驚異的で、毘沙門天の二十日に生まれるとの夢のお告げ、誕生後半年目と三年目に、それぞれ別の修験者が祖母を訪ねて、もし子供が男なら位人身を極めると告げて去ったこと、数えで七歳のときに弟と共に伝説上の”ぬえ”(人面獣身(スフィンクス))と長時間対峙していたこと。
毘沙門天の威光を受け、男なら天下取りになるという宿命の魂が、女としての母としての、そして能力的に閉ざされた人生を選んでやってきた。この伝説は私の小さい頃から、すさまじいジレンマを生じさせてきたのです。
私に関する伝説は、小学生のときから今まで両掌ともますかけで中央に明瞭な十字があること(家康も両掌ますかけだったらしい)、祖母が私をよく当たるという占い師二箇所に見せて、この子は松下幸之助、この子はいちばんいい松の木に留まる鶴だ、一生食いはぐれることはない、と言われたことです。
しかし私は、卑怯で弱っちい少年期~壮年期を送りました。とても他人に及ぶべくもない人生でした。ちょうどいま、三匹の子猫のうち、ブーを見るような感じでした。空を飛ぶような空想に浸り、他の二匹がスポーツに打ち込んでいるときに、病弱のため傍らで見学しているような一匹でした。食の好き嫌いがあり、ブーほどの不敬さを露骨にせずとも親を困らせたであろうと思います。
拾いあげられたのは、ちょうど満50歳になる直前日でした。身内さんが吉良邸に討ち入りして、この首(こうべ)をあげてくれたのです。
そして、イナンナが現れたとき、移情閣に絡む大きなシンクロにより、初めて神を身に帯びたのです。この神とは、キンイロタイシ。聖徳太子の八角夢殿に現れた金人と同定され、毘沙門天のことです。母に縁のある毘沙門天です。この経緯をかの坂本さんに一部始終話しましたら、彼は密教に精通した人で、移情閣の三階の主は、毘沙門天、大魔神、サナートクマラ、金星王、大天狗、ルシファー、神すらもおそれおののく存在やで、という神だったわけです。
移情閣での会見後、ちょうど9日目に鳥取の日野で大地震。おりしもひのととりの日で、旧暦の九月九日。火の鳥復活のステイタスとしました。
私はイナンナから、国祖神が邪神によって暗殺され、封印されていることを告げられ、火の鳥による国祖神の救出行動をとりました。でなくては、世界はいつまでも暗黒だからです。イナンナは、我々は夜明けの旅人だと言いました。
いり豆から花が咲くときまで出られぬという邪神側の呪詛は、火の鳥というマグマからも甦る神獣によって、いとも簡単にクリアーされてしまうのです。
現在、国祖神は甦られ、然るべきところから世に影響されています。
弥勒降臨も国祖神の協力のもとなされねばなりませんが、その通り、順序だてて事は運びました。身内さんが豊玉姫の雛形となり、ホヲリノミコトと交わって幾多の神々を生んだ中に、弥勒がいました。身内さん自身、自然に導かれるようにして高野山に参拝し、お蔭をもらって帰ってきた中に、弥勒降臨のステイタスがもたらされていたのです。その後、たくさんの神霊の親としての自覚とともに、古事記にあるように、海原に帰っていかれました。
国祖神も弥勒も異界で働く神です。現実世界では、現(うつ)しき青人草である人が雛形として、あるいは神の命を帯びて動きます。オバマが弥勒である可能性はありますが、ただひとりではありません。草の根の大衆運動にも含まれていて、むしろそのほうが弥勒の主体です。奇跡的なほどの集中力で、自公政権を終わらせた大衆の力にも現れているでしょう。また弥勒は、決して吉のみではない側面を持ちます。吉凶併せ持つ現れ方をします。破壊の面も持ちますから、手放しで喜んでいたら、急ブレーキがかかったときに、将棋倒しになるでしょう。ちゃんと、吊り革につかまっていなくてはなりません。
邪神とその手になる構築物は一掃されると思います。このため人類にとって、決して喜ばしい事態として現れてくるわけではないということ。お金など、命とは別の錯誤した価値のものは、いっさいの価値をなくすという事態になることはむろん、それを支えてきた人も構築物も(概念も建物も)、唾棄されることを覚悟すべきでしょう。
その過渡期にどう生き延びるか、が各人に問われるでしょう。
*オバマを弥勒とした浅知恵を訂正しなくてはならないみたいです。朝令暮改の奥人です。
オバマ政権は働く人々から、大恐慌以来の最悪の経済破綻を引き起こした責任者らに富の移転を進めている。就任演説から既に1年近くなるオバマ大統領は、金融オリガリヒ(寡頭勢力)の道具以外の何者でもないことを示した。
朝令暮改こそが浅知恵だったと願いたいところ。

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旅行気分ではこの世は難しい

面会者もこういう場合は処置なしである。
下界の状況もよく調べずに、ただ逢いたさ見たさでやってくる神々だ。
下界はこのとおり、あちらと違い幾重にもレベルダウンした貧困世界。
ゲームの趣旨がそのようだからといえばそれまでだが、神の中には下準備なしにあわただしくやってくるものもいる。
神々によっては、うまいもの目当てで、まるでどこかの一流ホテルのサービスを楽しもうというのもいる。
ブーは先代白虎のオス、フーは先代白虎のメス、ウーがその子で現代白虎のオスである。
それが、私への面会のために全員メス猫としてやってきた。
ただその点のクリアーだけに力をかけたようだ。
しかし、問題は下界の食事にあった。
ブーは食事の気移りが早く、えさを見ただけで地面を掻いてパスしてしまう。
えさを一見するだけでパスすることばかりとなり(後でやむなく食べているが)、ついに行き詰っている。
子猫ミルク⇒サバ缶⇒鶏肉⇒牛肉、豚肉ときて、今がある。あと、何があるかは知らない。
ドライフードには見向きもしない。
こうしてブーは、おなかばかりぼてっとして、鈍足で怪我するに至っている。
フーは生肉、やむなくドライフードの順で食べて、よく育ち体力はいちばんある。
ウーは生肉、ドライフードのどちらも少量ずつ食べて、きゃしゃだがいちばん瞬発力がある。
ブーはベッドから落ちて、右足を脱臼し、その後良くなってみなに追随できるまでになり、
屋外ではいちばんパイオニア的であったのに、
また遊んでいるうちに脱臼してしまい、未だ長く回復しておらず、病気見学組になってしまった。

駆け込み的出会いには猫がいいとは思うものの、猫というものの持つ知恵に現界というものがある。
あちらでは食の必要がないためか、食べることが重要なことに思い至らなかったのかもしれない。
それとも、神ゆえに、いい食事を出してもらえると思い違いしたのかもしれない。
ここは高級ホテルではない。
山奥のあばら家だ。
芋とかゆをすすって生きている山人のところへ、ようこそ。

ごいさんへの書き初め

信頼のおけそうな今年の観測(予想)が出ていました。
https://eagle-hit.com/
2010年大観・上半期と下半期という記事がそれです。
マスコミの流す楽観的観測に対してとても悲愴的ですが、こうであろう、これに近いだろうという思いです。
宵越しの金も命も持つつもりはねえ、という方はいちばん安気な過ごし方ができそうです。
ただ子孫たちもそう思ってくれたらいいのですが。
私もごい60年生きて、ゲップとしゃっくりが出ていてもういいのですが、子孫たちにどう言って聞かせようかと。
森野ブー、フー、ウーのことです。
といっても、猫たちはその場その場が喜べたらいいようで、ニャーかゴロゴロズーズーとしか答えてくれません。
むしろ、猫たちから生き方を学んでいるようなことです。
今年もおめでたく、悲愴観を笑い飛ばしましょう。