「長期に渡る情報の連環とシンクロ」について書く意味

前記事を書く意図は、我が人生の不思議さをみなさんに披露したいということも確かにあるが、もっと大きな意図は、もしあなたが学究肌の方なら、問いを発した答には解答が与えられるという「人生からの導き」のようなものが必ずあるということを教えたく思ってのことなのです。
その解答は、人それぞれに異なることだろう。
どうしてもその解答を見つけたくて本屋や図書館に行って調べて見つけたなら、それがあなたへの解答であることもあるだろう。
私の場合は、人の意見は参考にはするも、自分の人生で偶然遭遇するような事態から教えられたケースがとても多かったので、いつしか「向うからいずれ解答はやってくるさ」という気楽さで待つようになったのです。
本屋や図書館、最近はもっと手広く「ネット」からどんな情報も手に入れることができるようになった。だがそこには、既存の著名な科学者や医学者などの仮説が載せられているだけで、ホンモノに出会っているわけではないことに注意が要る。
だが、個人の自由です。そこまでで納得したなら、それはそれでひとつの解答であり、ひとつの問いヘの決着を見たとしてもいい。しかし私は、科学も医学もまだホンモノを見つけていないと思うので、私はそれらを参考意見にとどめるだけなのです。
今の科学や医学の到達点を見れば簡単にその辺がわかる。科学者と称する人々の学説という、いわばホンモノともニセモノともつかぬ御説(仮説)の林立の中の、これがいちばん妥当だというものの人気投票のようなことであり、時としては、いやほとんどがそうだろうが、斯界の権威という者の恣意によって決められてしまっている。もしそこに、別のもっと権威ある者(この世の主導者など)の故意が入れば、たちまちホンモノから一気に遠く乖離してしまうということもあろう。
この世の主導者というモノはモノノケであるかも知れず、それが人類には本当のことを与えてはならないと決めたなら、世界のどこにもホンモノはないことになろう。
私はモノノケが支配していると思うから、何事も参考にとどめるのが私流になっている。
宗教も新思潮も同じくだ。ホンモノはどこにもない。
しかし、偶然が私の前にポーンと提示してくる瞬間がある。それが求めていた解答である場合は、にべもなくそれを採る。それを私流にいう「シンクロ」と言っている。むろんそれも、ある種の意図によって、そうされているのかもしれないとは思う。しかし、私にとっての特別の恩寵のように思えたときは、にべもなく採用する。そして私における真理にし、我が真理体系に組み入れる。
そもそも昔の人はみなそうだった。自分で環境の中に学ぶしかなかった。だから本当のことを知っていた。今の学校出に、身に付かない知識しかないのも無理はない。学説という嘘ばかり吹き込まれているのだから。その学説とやらは、風向きが変われば、すぐに消滅していく。人気が陰った歌手のように。そして、若者たちは、あれよあれよと、次の人気歌手についていってしまう。
自分で自分の内(人生)に学ぶこと。それが自分独自の真理になる。
しかし、参考意見にとどめたものとはいえ、それは自分の考え方を整えたり、誰か別人に伝えるための基礎知識になり、自分で見つけた真理の翻訳のための知識になる。それがメリットだ。だから嘘と知りつつ勉強すればいいのだ。いつかはホンモノを見つけて凌駕してやるぞの気構えを持って。
こんな今回の記事も、今朝、とりとめもないが何か筋書きを持った夢を見ていた直後に、タキが来て「ニャア」と言ったから目が覚めて、鈍重な頭のままに時刻を見れば、午前6時過ぎで、けっこうタキも私に配慮してくれているんだなあと感心しつつ、ふと頭の中にいつもと違った低めの電磁音がして、いつもの高音の電磁音よりも顕著だったため、このことは我が真理に照らして解説しておかなくてはと、書き始めようとして、もっと前提的な話になってしまったわけです。
みんなが日々無視する電磁音の正体
よく昔からマンガの絵の中に疑似音表現で「シーン」や「ジーン」という比較的大文字で書かれていたのを、昔の人なら見たことでしょう。それによって、私もみんなも同じような音を聞いているのだなあと納得していたのですが、なんと医学者はそれを「耳の中の耳石」がたえず動いている、それを音として感じ取っているのだと言う。
ところが、頭に衝撃か加わろうが、逆立ちしようが音程が変わらないのだから、そのようなものではないことは明らかである。物理的要因の現象ではないのです。
ところが、ヨガにはその「シーン」音に集中し瞑想するものがあって、しばらくすると、その高音がしだいに低音へと移行し、ある時突然、「バリバリバリ・・・」という爆音に変わることがある。まるでヘリコプターの傍にいるようなすさまじい音が頭の中に鳴り響く。そうして気が付けば「金縛り」と巷に言う状態になっている。
インドのヨガ学者によれば、それは宇宙原動機の音だと言う。面白い表現だ。人間と宇宙の繋がりを思わせてくれる。医学者よりはよほどいい。医学者はなるべく人間を低質な有機体にしておきたいヤカラだから、信用するに足らないと思っているので。
私はあの恒常的である脳内の電磁音に、変化がある現象に遭遇したから真実を追う目ができた。
そしてその音程は、目覚めのコンディションによっても変わる、いくつも複在することもわかった。
何なのだこれは。さすがヨガは人間の謎解きの登竜門の入り口に立たせてくれる。
ひとつは、我々はロボットなのかもしれない。有機生命体そのものが、この世にロボットとして登場しているのかな。ともかく、意識すればこんなに大きな音の海に居る我々が、たまに鳥のさえずりや人の声を聴いて、そちらの音だけが真実と思い込んでいるおかしな世界かここであり、そのようなところに存在しているのが我々なのだということ。
私の超宇宙論を持ち出す気はない。この音の意味はそれだけでは掴めないからだ。マトリックスに閉じ込められていることを示す音だなどと言えば、興醒めしてしまうだろう。
ただそのようにして「ある」のであり、この世の科学や医学は、未知なるものに蓋をするだけの存在になっていることを念頭に置くことをお薦めするのである。

長期に渡る情報の連環とシンクロ

長期に渡る情報の連環とシンクロ (前編)
人は自分に自信を持つべきだ。自分を通して観世しているお方が必ず居る。それがもう一人の自分だ。外にちらつくどんな神(と噂される者)よりも頼りになる。
その自分の声に耳を傾け、大事にしていれば、すばらしい啓発に導いてくれるだろう。
ここに語るのは、自分を通してやってきた現実の啓発とその連環のあらましである。
母にまつわる伝説・・・もしも母が「男として生れていたら」へのパラドックス・・・中学2年以降、異なる歴史のタイムラインの存在への疑問と興味が生じる・・・この世の真理はどこにあるのか
大学1年を中退の時期、生長の家の精神修養道場に1か月居たのち破門される・・・谷口など糞くらえ、自分で真理を極めずにおくものかという気概が生まれた
社会に出て、コンピューターメーカーに勤め、超宇宙の動作原理がコンピューターでモデル化できることを発見する・・・多世界パラドックスも解決するモデルになっている
また同時期、生長の家の谷口の書いた「古事記と現代の預言」とはまったく異なる古事記神話の解釈を発見する・・・教祖などという者の人気だけの欺瞞性を知る
コンピューターメーカーの退職直後、埋蔵金伝説民話作家・村上良行氏の呼びかけに応じ、帰雲城発掘調査に同行してみごと城跡を発見する・・・人生で初めての遺跡発見であった・・・1979.5.5のこと
村上良行氏の自宅を訪れた際、彼にとっては畑違いであるはずのW.バトラーの「魔法入門」を「読んでみたら面白いぞ」と贈呈される・・・この人とのご縁は最大級のものだった・・・後日、村上さんは苦労と悲運のうちに娘さん一人遺されて亡くなられた
W.バトラーの「魔法入門」は西洋魔法なるも、基本的に東洋のヨガと似ていることを知る
「魔法入門」の呼吸法とピラミッド瞑想を組み合わせ実習中に、星の子白球UFOが眉間の中に飛び込んできて光で満たされる不思議経験をする・・・1982・・・空海は口の中だったそうだが・・・ライバルは空海か・・・ラーマクリシュナはこの光の体験を熱望し、自殺の直前まで至ったという(後日、彼の自伝で知った)
コンピューターメーカーの退職後しばらくして、「超宇宙の仕組みモデル概念」を公開する・・・1983
同時期に「古事記と超古代史」という著書を著わす・・・1983

古事記神話の地名の暗号と古代祭祀霊場を点と線で繋ぐとき、精妙な幾何学図形が隠されているのを発見する・・・それはW.バトラーの「魔法入門」で知識していたカバラに関係する図形群であった・・・1987・・・「魔法入門」の予備知識がなかったらこの発見は不可能だった
文芸の才能をいただくべく天河弁財天社にお参りする・・・1987
推敲を重ね1988年にミステリー論文としてムーに送り、翌年に優秀作品賞を受賞する・・・ムー掲載は1990年・・・タイトル「古代日本を動かしたカバラ思想の謎」
 
天河弁財天社にお礼参りする・・・1991
自分のライフワークのいちおうの完成を見て、人生50年でこの世を辞する要望を神に願い出る・・・1992
何かに急き立てられるようにして、神戸から郊外に住居移転する・・・1993・・・1995.1.17の阪神大震災の直撃を回避することになった
淡路島の世界平和観音像内のお四国さん巡りの階にある七福神像の弁天様に求婚する・・・1994
「古代日本を動かしたカバラ思想の謎」を増補補稿して単行本「古代日本にカバラが来ていた」にして出版する・・・1995.5・・・1995.1.17の大震災で版の滅失が危ぶまれたが、かろうじて助かっていた

少年Aによる酒鬼薔薇事件が発生・・・1997・・・「古代日本にカバラが来ていた」での幾何学図形と鬼への推理を裏付けるような事件の内容であった・・・千年前の酒呑童子の怨念とその背後に邪神(バモイドオキ)の介在を知った・・・解決するまでは恐怖と驚愕の事件であった・・・インドのババ様に解決を依頼した
名古屋の友人が「古代日本にカバラが来ていた」の内容が盗用されていると警告してくれた・・・1998・・・その著者は彩明日迦氏で著書は「弥勒降臨」・・・見れば出典根拠を示していて容認できると思われた・・・むしろ、かごめ歌の解釈や弥勒下生と空海の関わりについて知ることができ、後日役に立つことになる
後のちに弁天三姉妹の長女・奥津嶋姫の化身と判明する女性による、満50歳破りの討ち入りが満50歳の誕生日の前日に行われる・・・1999.12.14・・・弁天様に以後の人生は買い取られた
弁天様系からの使命の付与・・・封印されたウシトラノコンシンを救出せよ・・・移情閣でのキーワード合わせ・・・2000.9.27・・・2000.10.6の鳥取西部地震で「火の鳥」が示され、「炒り豆に花が咲くまでは」と施された呪詛破りが可能になった・・・マグマの中に飛び込んでなお蘇ってくる火の鳥の節理で克服できる
旧神話・古事記が現実誘導している事実を見て、改稿すべく新神話の制作を開始する・・・2001
後編へと続く (後日記載)

サイババとのこと


サイババとともにいた頃

サイババの噂はいつ頃から入ってきていたのだろう。ドーリル版ヨガ、バトラー版魔法、ヨガナンダSRF版ヨガの、いずれもなまかじりの志の先にサイババのことを知り、サイババの事績を知ったのだった。
やはり夢中になった。神の化身として現れたとのことに、彼の教えを知りたかった。
奇跡を起こす、物質を掌から取り出す、そのようなことには興味なかった。奇術師でもそんなことはできる。
彼の著の日本版をいくつか手に入れた。若い頃からの彼の考え方がそこから伝わってきた。
最も衝撃的だったのは、1983年に著作していた拙「超宇宙の仕組みモデル」の前提条件を余すことなく伝えてくれていたことだった。その前提条件とは、事前に物事の歴史は細部に至るまで、心理活動すらも含めて、プログラムとして記述され存在しているという真実である。
つまり、事前に決められていたこと以外は起きないという意味にもなる。
我々はあたかも、試行錯誤的に次の行動を選び取っていると思いがちだが、そうではない。すべて我々の行動は、前もって予定されたレール上に乗っている既成事実なのだ。
その既成事実は、微細を穿ったプログラムとして存在しており、我々はプロセッサとして、任意のプログラムをシーケンシャルに実行するのみなのである。
要は我々は贅肉を落としてしまえば個々がパソコンと何ら変わらない。それがもしかしたら、我々の意識の実態だ。
ババはこのように言っておられる。それは人々への皮肉であるようにも見える。
https://www.mars.dti.ne.jp/~sairam/sathya.html
それでは、ババの詩を味わってみてほしい。
☆☆☆
  バガヴァン シュリ サティア サイババ
タイ タイ タイ タイ タイ タミイ・・・
あやつり人形の、「こっけいな」芝居をごらん。
ああ・・・人よ。過去と現在と未来、
すぎこしかたと、これからの先の長い長い話を聞きなさい。
 
彼は、始め牢獄のように、暗い母胎の、どろどろのぬかるみに動めいていた。
彼は、悲鳴をあげてこの世に生まれ出た。しかし・・・。
周囲には、ほほえむ顔と、さんざめく祝宴があった。
「何という悲劇よ。また生まれてしまった。」
彼は、それと知って声高く泣きつづける。
しかし・・・。人々は赤児をあやし、笑わそうとして、笑ってみせる。
彼は、汚物にまみれころげて、日を過ごす。
恥ずかしいとも、露おもわずに、赤児は、立っては転び、転んでは立ち、
日がないちにちをふざけまわる。
遊び仲間と、飛んだり跳ねたり・・・様々の技や商売を覚え、
胸厚く、丈高く、たくましく、年ごとにずんずんと、成長する。
相手を見つけ、愛をささやき。バラ色の虹が、かかる・・・
聞き慣れぬメロディを口ずさみ・・・。珍しい酒を、がぶ飲みする。
男と女の人形をこしらえたもの、
幾百万とない人形をこしらえたのも、それはブラフマン。 
しかし・・・人形は、そうとは知らず、人形遊びを喜んでいる。
   ティム、ティム、ティム、
  
このマーヤという人形は、聖牛のように、鼻の孔に鈍性の縄がついている。
肉欲と、怒りはさそりの無知・・・奴隷の背中をぴしり、ぴしりと叩く。
他の人形が、身をふるわせて彼の前に立ち止まると、
彼は喜んで、ニタニタ笑う。彼は他人に苦しみを与える。
だが、自分には、これっぽちの苦しみにも、耐えられない。    
彼は、誓い、叫び、手を振り。血ばしった目で苛立ち、いきまく。
なんともはや、見事な見物よ。怒りの悪魔に乗り移られて・・・  
彼は文字を綴り、書き、がり勉する。なぜそうするのかもわからずに、
狂気のように、走り回って知識をあつめる。いやおうでも、腹をふくらませる為に。
     
ああ・・・あなたは、おかしな小さい人形を見たか。
おなかにやたらと、本を詰め込んで、妬も深い目を向けるのだ。
学者人形に会う時には。
彼らは、誇らしく叩いて見せる。なにを。自分の背中を・・・。 
美とたくましい筋肉と活力を。だが・・・。ひとあしごとに、老いは忍びよる。
彼の顔には、しわがより、ヨタヨタ歩いて目をしばたく。
子供達は、叫ぶ。「おいぼれ。まぬけ。」「おいぼれ、まぬけ・・・。」
彼は、喘ぎ、歯ねけの口を歪める。骨もガタガタだわさ。
最後の時まで恐れおののく、擦り切れたぼろ布のような身体をして、
   ああ・・・。マネキン人形よ。喘いでも、嘆いても、無駄なこと。
   最後の日は何時か来る。
   ああ・・・鳥よ。羽を震わせて、皮膚と言う鳥籠から巣立っていく。
   からっぽで、硬くなり、うつろで、突っ張って。
   ああ・・・。速く退けてくれよ。ぶくぶくと腐臭がする。
   体は生みの親の五大に帰り。人形の望みは、灰と化す。
   なぜ、泣くのだ愚か者よ。人形の一人が、満員の舞台で倒れたとき。
   叔父さん。いとこ。叔母さん。友達。
   泣き泣き。行列をつくって戸口へ続く。マーヤー人形は、親、兄弟を忘れてしまう。
   神の御名、真実の「救い主」よ。
   ああ・・・人間よ。弱々しい、葦に寄りかかるのはよしなさい。
   くさめでもしようなら、うす皮のボートは、水に染み込み、
   あなたは、川の中で溺れてしまう。
   人形は泣き、眠り、目覚める。
   見えない御手が、糸を引くとき。手は神の御手・・・。影に立つ神の御手。
   しかし、彼は言うのだ。「わたし わたし わたし」と。
   ダルマ、カルマは、赤い糸。強く引いたり。緩めたりする。
   そうとも知らず。人形は、威張って歩く。舞台の上を縦横に。
   人形はこの世を永遠と思っている。愚かな 体ぶった人形よ。ピカリと光った。
   ああ・・・。神が幕を閉じたもう・・・。自慢しても もう、おしまい。
   ああ・・・。人間よ。あなたは、蟻と蛇と鳥の間を歩き回った。
   さあ、有余せず永遠の至福への道を求め見つけなさい。
   幸運のひとよ。いまやっと・・・。
   サイ、クリシュナに逢ったのだ。サイは来たのだ。サイと親しみなさい。
   自分がなにか。なぜか。どうしてか。を知るために、
   小ざかしく、耳ざわりのよい、幾百万のことば。
   「ことば」は、あなたの飢えた胃袋を満たしたか。
   「ことば」を捨て、魂に、「 燈 」をともしなさい。
   束縛から、まぬがれ、走り回りなさい。
   この歌は 人形を歌った歌。
   この歌は、彼を悲しませ、賢くさせる。知っているのだ、私は。
   だが、彼は さあ・・・。サティア サイ ナートの素晴らしい奇蹟を見なさい。
   そして・・・。自分自身を知りなさい。   
☆☆☆

あまりにも悲しい人間というものの実像。
学者人形とは私のことでもあった。
それがいま、「おいぼれ。まぬけ。」「おいぼれ。まぬけ。」と揶揄されて、墓場に向かいつつある。ピカリと光った。ああ・・・。神が幕を閉じたもう・・・。自慢しても もう、おしまい。
私はババのこの詩に絶望感を持ちはしなかった。むしろこれが実態であり、それであるからゆえに予見される、意識を持つことのすばらしさと、個々人が創造主であることの栄光を見て取ることができた。
サイババを救い主の神としての個人的付き合いは、彼への手紙で果たされた。
ババは、願い事をするために、わざわざ私に会いに来る必要はないと言っておられた。
「誰一人として、私に知られることなく、心ひとつ動かすことはできない」と仰っていたお方に、わざわざ困難を圧して会いに行くことはむしろ神サイババを試すことになってしまうのではないか。それは信心の強さや忠誠を示すためなのか。
ババは日本からやってきた信者たちを試すかのように、ご自身を矮小に見せて彼らの関心を反らして見せられたように思う。
私の知る「サイババ詣で」の人たちはほぼすべて、ババの神らしくない様子を帰ってきてから揶揄していた。
その頃のようにババの人気がすごい頃、私は困難な難問をいくつか連続的に抱えることになり、そのたびにプッタパルティのババに窮状を訴え、事なきを得させ給うよう手紙を書いて出した。
ババは、おそらく、私が困難を抱えて苦しむ時すでに察知され、私が救ってほしい旨手紙にすることを知っておられたに違いない。確か、三回それぞれの事態解決の用向きで出した内容のすべてにおいて、事なきを得ることができた。
私にとってのババは、どんな神の銅像よりも巨大だった。
むろん現地に渡った人たちの多くが生きるに際しての困難を抱えて、解決を求めに行ったことだろう。それだけの努力をしたのだから、きっといつの日か、ババは応えてくださることはわかる。待っていれば、必ず行動しただけの恩恵が授けられることだろう。揶揄した者でまだ満たされていない者も、待っているべきだ。必ず恩恵がある。ババはすでにこの世におられないが、必ず。
ババは、インドに行ってきたM君に、私へのお土産(プレゼント)を持たせて返してくれた。
むろん私宛てにと仰ったわけではない。だが、M君は「ババに会ったが思ったより小さくてがっかりしたよ」と言いながら、これをお土産にあげると、写真を二枚くれ、一枚はババが椅子に座った威厳ある風貌のもので、もう一枚がこれだった。真理を求めていた者への激励か、これはと驚いた。どんな本にも出ていなかった写真。
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この写真はババが信者たちに、「この宇宙の始まりから終わりまでを記述した”黄金の宇宙卵”」あるいは「この黄金の宇宙卵の中に、この宇宙の始まりから終わりまでが入っている」と掲げ示された、まさにその光景である。
それは同時に、拙「超宇宙の仕組みモデル」を土台から支持してくれる神からの贈り物にもなっている。
ご覧な。この宇宙の歴史のすべては、神の掌の上の、こんな小さなホログラムメモリの中に記載されたプログラム・ソフトなのだと示しておられるのだ。
私は1983年に公開した論文を自炊してホームページにしたものを増補して、ババからのプレゼントを拙論への激励として掲げている。ババ様。感謝感激に堪えません。
https://rainbow.xn--kss37ofhp58n.jp/monoomoi/uchuron3.htm

ババ様はちょっとしたライバルだった

それでも私が50歳になってから知り合った弁天様の化身たちとの恋仲を邪魔しに入られた感もあった。
出会った最初の、新神話名・イナンナとは、三宮の北のサイババ集会所に、同じく新神話名・シノから言づけられた寄付金を、集会のない日に共に運び込もうとしてビルの管理人に拒否され、その帰りにイナンナに悪霊が懸かり、例の移情閣に行けと命令して二度目に行ってから、我々の仲は急速に悪くなり、やがて別れることになった。(イナンナに懸かっていた白蛇は市寸嶋姫弁才天)
また、最初にメールをくれながら後になったカンナオビにおいては、彼女との初エッチが当時の我が家だったため、彼女は以後、意識を飛ばして会いに来るようになっていたのだが、最初の頃どうしても入れなかったと言う。
もしかするとと、私は学研ムーの付録としてついていたサイババのポスターを当時から私の部屋のドアに四隅を二、三センチに切ったセロテープで貼っていたのだが、それから7、8年もの間、一隅もはがれることなく、私を守るかのようだったものを、イナンナのときのこともあり、私の手ではがすことにした。
するとすぐ直後になろうか、2007年1月14日の未明の夢にカンナオビは雲龍(白龍)としてやってきて、私の胸に飛び込んできて合体した。(青蛇であり白龍のカンナオビは奥津嶋姫弁才天の化身)
どうやら、ババ様がフェイントに回られていたことがわかったような次第。
ブラフマーとしてのババ様なら。
同じ男であること、ライバルでもあることをそのとき感じた次第だった。
ババ様による長きに渡っての守りに感謝しつつ、新しい歴史を創らせていただくことにした。
以後、ババ様は自らの役割を終えられたかのように、私のタイムラインの主旋律から離れていかれた。その時のババは、ご自身に対して予告された聖者としての、神の化身としての天寿をも全うできないほどに疲れておられるようにも見えた。
仕方ないのだ。ババはババで、ご自身の主旋律を今なお全うされつつある。そのような世界が必ずあって、ババ様はそこをいま歩いておられる。それが拙「超宇宙の仕組みモデル」理論が語る世界の真実だ。
私もいずれ救世主を演ずるタイムラインに足を踏み入れることだろう。いやもう終わっているのかもしれない。ここからではわからないのが道理。
私が演ずべきタイムラインは、次の写真で見る線香花火の光跡のように、すべてが大昔から並行してプログラム空間という同一次元、アカシックレコードの中に存在している。
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不思議なシンクロナス女性遍歴

当初、浦嶋と乙姫でスタートした新神話も、そこから日本神話にコンバートされれば、日子ホホデミ(山幸彦)と豊玉姫になり、山幸彦を新神話に設定後に海幸彦を名と体で表す職場の先輩が現れて、私のことを弟のように気にかけてくれたりして、いろいろと不思議なことが現実になりました。
私が二番目に知り合った女性に振られてしょげていると、海幸彦は私に別の彼女を紹介してやるから気を取り直せと、持ってきた話が、スナックに勤める「戸の国に日の出を見る」という名を示す女性で、ちょうどその頃私は、天の岩戸開けを志していたときだったので、その名前にびっくり。
しかも彼女から話を聞くうちに、自分の誕生日は年末の30日と正月の2日の二つがあるのだと言います。
本当の誕生日は年末のほうで、親がこのほうがいいからと、戸籍上、正月のほうにしてしまったとのこと。子供にとって有利だからと、よくある話ではあるのですが、彼女は親の設定したほうは嫌だと言い、友人との誕生祝いは年末にしてもらっていると言います。
私はそこにも神意を読み取ります。
正月とは、天の岩戸が開いた後のことであり、年末とはまだ開いていない夜明け前を象徴していると解釈できます。
つまり、もし天照大神がおられたとしても、岩戸隠れのほうを願っておられるのだろうと解釈されたのです。
何があったか知れませんが、天照大神はニート派であるらしい。
私はこれでは、このまま付き合いを続けても、良い結果にならないと、この彼女の今まで不遇だったゆえに培われたらしい投げ遣りな態度も顕著であったゆえに、最も近隣在住の女性でしたが、2003年の彼女の年末の誕生日のパーティを最後に別れました。
それと相前後する頃、新聞勧誘員さんと仲良くなり、そこの新聞をとってはいないのですが、その方の薦めで共にある韓国女性と知り合うことになりました。その女性のおうちでもつ鍋を食べることになったのが知り合った初日で、その方がいきなり「あなたはヤマトスクネやねえ」と言い出すのです。
私はそのとき、ヤマトスクネという人物は初耳でした。古代人の名前だとは思いましたが。
どうしてかと聞くと、顔が似ていると言うのです。
私はそんな人物のことも、どんな顔かも知らない。何だかわからないなりに、この方との縁はしばらく続いたのです。
ところがこの方は、神様遍歴を常習する方で、どこかいい教義を持っている教祖がいれば心酔してしまい、多額の布施を騙し盗られているのです。あの有名な法の華というところにも億単位の額を入れてしまい、法的に2000万ほど取り戻したことを誇りにしていたり。お金持ちなので気にならないのですね。
そのようなところが、すでに何カ所もあったという方だったのです。
それによって、悟りが得られているならまあいいのでしょうが、どうなんでしょう。
私はその女性のおうちに行くたびに、畳の上の座布団にくつろいでいると、必ず特定の猫がやってきて、私の胡坐の膝の上で寝ころんで寝てしまうのです。その猫の名前は「ノラ」。ここにやってくる前は野良猫だったもようです。もう一匹「たま」という太った猫がいるのですが、一度見ただけ。
さてその「ノラ」ですが、毎度のように親しげにやってきて、帰りのときには、韓国家屋の特長でしょうか、家から門までの距離が20mほどあるのですが、私らを先導するようにして前を進み、門のところまで出てお見送りしてくれるのです。
いつも、彼女とノラが並んで立って見送ってくれる不思議な光景がありました。
あるとき、これがこのおうちに行く最後だったかと思われるのですが、着くとノラが座布団の上に寝ているのです。
彼女の話では、ノラは足を犬に噛まれて負傷しているのだとのこと。
ところで、私はそれより二日ほど前に、猛犬を二匹も飼っている知り合いの家の土間で、危うく脚(腿のところ)を噛まれそうになり、履いていたGパンに鉤裂きができたほどだったのです。ぴったりしたGパンのこと、あと1,2センチ深く歯が至っていれば、肉が噛み千切られていたことでしょう。
彼女に私は言いました。「もしかすると、ノラが身代わりになってくれたのではないか」と。
そして、私はノラを写真に収めておこうとデジカメを向けて撮ろうとした途端に、つんのめりかけてシヤッターを押してしまい、撮れた写真が次の写真でした。大きな白いつづらを背に背負い、おでましになっています。

足を負傷した実際のノラちゃん

このおうちでは代々、伏儀神農神をお祭りしていて、ノラこそは伏儀神農神の化身であったと私は確信しました。
そのおうちの掛け軸です。伏儀神農神は猫耳ですよね。

まさに伏儀神農神は猫に化身されていたのです。そして、私にとって大恩ある神様のおひとりにもなられているのです。
しかし彼女は、その頃も神様遍歴の真っ最中でありました。灯台下暗しなのか、それともわかっていてのことなのか、それは不明でしたね。
韓国女性はこういう傾向なのかどうかはわかりませんが、とても早口で頭の回転が良く、私の知る知らぬを問わず、どんどんしゃべって行ってしまう。
あるとき電話で、何が何だかわからない話を彼女は展開した末、私に悪態ついてガチャンと切ってしまい、お付き合いはそのとき止まりとなってしまいました。
しかしこの方は、ヤマトスクネという新しい情報を持ってきてくれました。彼女と別れて後日、丹後元伊勢の籠神社に行ったとき、境内地を見て回ればありました、ヤマトスクネ像が。
像の顔は、とても似てはいませんが、像の足元を見れば海亀の甲羅に乗っているではありませんか。しかも乙姫の玉まで手に持って。後の調べでは、神武軍を先導するとき、鶴の羽ばたきをしながらだったとか。シンクロ要件全部満足。
https://www.motoise.jp/main/saishin/kono/  より転載

どひゃー。最初の浦嶋のキャラクターとシンクロしてしまった超感動。この彼女もまた私のシンクロナスパートナーであったことになるでしょう。また、猫といえども私の前に来る猫は神の化身であることが多いと心得るようになりました。
そしてやっと本命の身内さんに立ち戻ることになったのでした。2004年になって間際のことでしたか。

白蛇伝から青蛇転生まで

日本最初の長編アニメ映画「白蛇伝 (1958年)」は小学生の頃に見た映画です。
宮崎駿監督の原点でもあったとは、至極納得。

そのようなアニメのような成り行きになろうとは、私も想像だにしませんでした。
1999年12月に私の50歳の帳を開けたのは、小青役の身内さんでした。
2000年7月には白娘役のイナンナが現れ、やはり中国情緒ある移情閣が機縁になる不思議が展開しだしました。
イナンナの役は2年で終わり、イナンナは自分に課された両親のために生きるという約束を果たすべく去りました。
2004年に小青役の身内さんに実際に会い、その資質並ならず、やがてイナンナの役割を引き継ぐことになりました。
そして同時期に香港映画「青蛇転生」の存在がわかることになります。
この映画は、白蛇が主役だった過去の物語を、従者であった青蛇を主役にしたいという判官贔屓筋の意向を汲んで創られたとのこと。
その主題歌が「流光飛舞」

当時、しばらく超常趣味を掲載していたFC2ブログで採用していたテンプレートの音楽映像がこの「流光飛舞」だったのであり、この歌は何なのかと思い、字幕から逆引きして映画「青蛇転生」を知るという経過を辿りました。
そして、この映画をチャイニーズショップから購入し、原語のままで見ていました。
白蛇イナンナから青蛇カンナオビへと時の移ろいとともに情が移ったこと(移情・閣)を、成り行きが示すというシンクロとなりました。
2010年に亡くなったカンナオビ・身内さんとは実質7年の縁だったことになりましょうか。
それは琵琶湖の弁天様の幾何学が7:2であることと、これまたシンクロしました。

そして、身内さんは沖島の奥津嶋姫の化身だったということも、あらゆること(不思議)から確実です。
2013年5月11日(式年遷宮の儀翌日)未明には、神世の出雲大社の社殿で起床する夢を見、みずらを結った弥生風衣装の大国主命と平安風衣装で長髪でお歯黒をつけて微笑む身内さんに出会っています。
大国主命は猫のトンちゃんの顔に似ていたなあ。