サイババとのこと


サイババとともにいた頃

サイババの噂はいつ頃から入ってきていたのだろう。ドーリル版ヨガ、バトラー版魔法、ヨガナンダSRF版ヨガの、いずれもなまかじりの志の先にサイババのことを知り、サイババの事績を知ったのだった。
やはり夢中になった。神の化身として現れたとのことに、彼の教えを知りたかった。
奇跡を起こす、物質を掌から取り出す、そのようなことには興味なかった。奇術師でもそんなことはできる。
彼の著の日本版をいくつか手に入れた。若い頃からの彼の考え方がそこから伝わってきた。
最も衝撃的だったのは、1983年に著作していた拙「超宇宙の仕組みモデル」の前提条件を余すことなく伝えてくれていたことだった。その前提条件とは、事前に物事の歴史は細部に至るまで、心理活動すらも含めて、プログラムとして記述され存在しているという真実である。
つまり、事前に決められていたこと以外は起きないという意味にもなる。
我々はあたかも、試行錯誤的に次の行動を選び取っていると思いがちだが、そうではない。すべて我々の行動は、前もって予定されたレール上に乗っている既成事実なのだ。
その既成事実は、微細を穿ったプログラムとして存在しており、我々はプロセッサとして、任意のプログラムをシーケンシャルに実行するのみなのである。
要は我々は贅肉を落としてしまえば個々がパソコンと何ら変わらない。それがもしかしたら、我々の意識の実態だ。
ババはこのように言っておられる。それは人々への皮肉であるようにも見える。
https://www.mars.dti.ne.jp/~sairam/sathya.html
それでは、ババの詩を味わってみてほしい。
☆☆☆
  バガヴァン シュリ サティア サイババ
タイ タイ タイ タイ タイ タミイ・・・
あやつり人形の、「こっけいな」芝居をごらん。
ああ・・・人よ。過去と現在と未来、
すぎこしかたと、これからの先の長い長い話を聞きなさい。
 
彼は、始め牢獄のように、暗い母胎の、どろどろのぬかるみに動めいていた。
彼は、悲鳴をあげてこの世に生まれ出た。しかし・・・。
周囲には、ほほえむ顔と、さんざめく祝宴があった。
「何という悲劇よ。また生まれてしまった。」
彼は、それと知って声高く泣きつづける。
しかし・・・。人々は赤児をあやし、笑わそうとして、笑ってみせる。
彼は、汚物にまみれころげて、日を過ごす。
恥ずかしいとも、露おもわずに、赤児は、立っては転び、転んでは立ち、
日がないちにちをふざけまわる。
遊び仲間と、飛んだり跳ねたり・・・様々の技や商売を覚え、
胸厚く、丈高く、たくましく、年ごとにずんずんと、成長する。
相手を見つけ、愛をささやき。バラ色の虹が、かかる・・・
聞き慣れぬメロディを口ずさみ・・・。珍しい酒を、がぶ飲みする。
男と女の人形をこしらえたもの、
幾百万とない人形をこしらえたのも、それはブラフマン。 
しかし・・・人形は、そうとは知らず、人形遊びを喜んでいる。
   ティム、ティム、ティム、
  
このマーヤという人形は、聖牛のように、鼻の孔に鈍性の縄がついている。
肉欲と、怒りはさそりの無知・・・奴隷の背中をぴしり、ぴしりと叩く。
他の人形が、身をふるわせて彼の前に立ち止まると、
彼は喜んで、ニタニタ笑う。彼は他人に苦しみを与える。
だが、自分には、これっぽちの苦しみにも、耐えられない。    
彼は、誓い、叫び、手を振り。血ばしった目で苛立ち、いきまく。
なんともはや、見事な見物よ。怒りの悪魔に乗り移られて・・・  
彼は文字を綴り、書き、がり勉する。なぜそうするのかもわからずに、
狂気のように、走り回って知識をあつめる。いやおうでも、腹をふくらませる為に。
     
ああ・・・あなたは、おかしな小さい人形を見たか。
おなかにやたらと、本を詰め込んで、妬も深い目を向けるのだ。
学者人形に会う時には。
彼らは、誇らしく叩いて見せる。なにを。自分の背中を・・・。 
美とたくましい筋肉と活力を。だが・・・。ひとあしごとに、老いは忍びよる。
彼の顔には、しわがより、ヨタヨタ歩いて目をしばたく。
子供達は、叫ぶ。「おいぼれ。まぬけ。」「おいぼれ、まぬけ・・・。」
彼は、喘ぎ、歯ねけの口を歪める。骨もガタガタだわさ。
最後の時まで恐れおののく、擦り切れたぼろ布のような身体をして、
   ああ・・・。マネキン人形よ。喘いでも、嘆いても、無駄なこと。
   最後の日は何時か来る。
   ああ・・・鳥よ。羽を震わせて、皮膚と言う鳥籠から巣立っていく。
   からっぽで、硬くなり、うつろで、突っ張って。
   ああ・・・。速く退けてくれよ。ぶくぶくと腐臭がする。
   体は生みの親の五大に帰り。人形の望みは、灰と化す。
   なぜ、泣くのだ愚か者よ。人形の一人が、満員の舞台で倒れたとき。
   叔父さん。いとこ。叔母さん。友達。
   泣き泣き。行列をつくって戸口へ続く。マーヤー人形は、親、兄弟を忘れてしまう。
   神の御名、真実の「救い主」よ。
   ああ・・・人間よ。弱々しい、葦に寄りかかるのはよしなさい。
   くさめでもしようなら、うす皮のボートは、水に染み込み、
   あなたは、川の中で溺れてしまう。
   人形は泣き、眠り、目覚める。
   見えない御手が、糸を引くとき。手は神の御手・・・。影に立つ神の御手。
   しかし、彼は言うのだ。「わたし わたし わたし」と。
   ダルマ、カルマは、赤い糸。強く引いたり。緩めたりする。
   そうとも知らず。人形は、威張って歩く。舞台の上を縦横に。
   人形はこの世を永遠と思っている。愚かな 体ぶった人形よ。ピカリと光った。
   ああ・・・。神が幕を閉じたもう・・・。自慢しても もう、おしまい。
   ああ・・・。人間よ。あなたは、蟻と蛇と鳥の間を歩き回った。
   さあ、有余せず永遠の至福への道を求め見つけなさい。
   幸運のひとよ。いまやっと・・・。
   サイ、クリシュナに逢ったのだ。サイは来たのだ。サイと親しみなさい。
   自分がなにか。なぜか。どうしてか。を知るために、
   小ざかしく、耳ざわりのよい、幾百万のことば。
   「ことば」は、あなたの飢えた胃袋を満たしたか。
   「ことば」を捨て、魂に、「 燈 」をともしなさい。
   束縛から、まぬがれ、走り回りなさい。
   この歌は 人形を歌った歌。
   この歌は、彼を悲しませ、賢くさせる。知っているのだ、私は。
   だが、彼は さあ・・・。サティア サイ ナートの素晴らしい奇蹟を見なさい。
   そして・・・。自分自身を知りなさい。   
☆☆☆

あまりにも悲しい人間というものの実像。
学者人形とは私のことでもあった。
それがいま、「おいぼれ。まぬけ。」「おいぼれ。まぬけ。」と揶揄されて、墓場に向かいつつある。ピカリと光った。ああ・・・。神が幕を閉じたもう・・・。自慢しても もう、おしまい。
私はババのこの詩に絶望感を持ちはしなかった。むしろこれが実態であり、それであるからゆえに予見される、意識を持つことのすばらしさと、個々人が創造主であることの栄光を見て取ることができた。
サイババを救い主の神としての個人的付き合いは、彼への手紙で果たされた。
ババは、願い事をするために、わざわざ私に会いに来る必要はないと言っておられた。
「誰一人として、私に知られることなく、心ひとつ動かすことはできない」と仰っていたお方に、わざわざ困難を圧して会いに行くことはむしろ神サイババを試すことになってしまうのではないか。それは信心の強さや忠誠を示すためなのか。
ババは日本からやってきた信者たちを試すかのように、ご自身を矮小に見せて彼らの関心を反らして見せられたように思う。
私の知る「サイババ詣で」の人たちはほぼすべて、ババの神らしくない様子を帰ってきてから揶揄していた。
その頃のようにババの人気がすごい頃、私は困難な難問をいくつか連続的に抱えることになり、そのたびにプッタパルティのババに窮状を訴え、事なきを得させ給うよう手紙を書いて出した。
ババは、おそらく、私が困難を抱えて苦しむ時すでに察知され、私が救ってほしい旨手紙にすることを知っておられたに違いない。確か、三回それぞれの事態解決の用向きで出した内容のすべてにおいて、事なきを得ることができた。
私にとってのババは、どんな神の銅像よりも巨大だった。
むろん現地に渡った人たちの多くが生きるに際しての困難を抱えて、解決を求めに行ったことだろう。それだけの努力をしたのだから、きっといつの日か、ババは応えてくださることはわかる。待っていれば、必ず行動しただけの恩恵が授けられることだろう。揶揄した者でまだ満たされていない者も、待っているべきだ。必ず恩恵がある。ババはすでにこの世におられないが、必ず。
ババは、インドに行ってきたM君に、私へのお土産(プレゼント)を持たせて返してくれた。
むろん私宛てにと仰ったわけではない。だが、M君は「ババに会ったが思ったより小さくてがっかりしたよ」と言いながら、これをお土産にあげると、写真を二枚くれ、一枚はババが椅子に座った威厳ある風貌のもので、もう一枚がこれだった。真理を求めていた者への激励か、これはと驚いた。どんな本にも出ていなかった写真。
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この写真はババが信者たちに、「この宇宙の始まりから終わりまでを記述した”黄金の宇宙卵”」あるいは「この黄金の宇宙卵の中に、この宇宙の始まりから終わりまでが入っている」と掲げ示された、まさにその光景である。
それは同時に、拙「超宇宙の仕組みモデル」を土台から支持してくれる神からの贈り物にもなっている。
ご覧な。この宇宙の歴史のすべては、神の掌の上の、こんな小さなホログラムメモリの中に記載されたプログラム・ソフトなのだと示しておられるのだ。
私は1983年に公開した論文を自炊してホームページにしたものを増補して、ババからのプレゼントを拙論への激励として掲げている。ババ様。感謝感激に堪えません。
https://rainbow.xn--kss37ofhp58n.jp/monoomoi/uchuron3.htm

ババ様はちょっとしたライバルだった

それでも私が50歳になってから知り合った弁天様の化身たちとの恋仲を邪魔しに入られた感もあった。
出会った最初の、新神話名・イナンナとは、三宮の北のサイババ集会所に、同じく新神話名・シノから言づけられた寄付金を、集会のない日に共に運び込もうとしてビルの管理人に拒否され、その帰りにイナンナに悪霊が懸かり、例の移情閣に行けと命令して二度目に行ってから、我々の仲は急速に悪くなり、やがて別れることになった。(イナンナに懸かっていた白蛇は市寸嶋姫弁才天)
また、最初にメールをくれながら後になったカンナオビにおいては、彼女との初エッチが当時の我が家だったため、彼女は以後、意識を飛ばして会いに来るようになっていたのだが、最初の頃どうしても入れなかったと言う。
もしかするとと、私は学研ムーの付録としてついていたサイババのポスターを当時から私の部屋のドアに四隅を二、三センチに切ったセロテープで貼っていたのだが、それから7、8年もの間、一隅もはがれることなく、私を守るかのようだったものを、イナンナのときのこともあり、私の手ではがすことにした。
するとすぐ直後になろうか、2007年1月14日の未明の夢にカンナオビは雲龍(白龍)としてやってきて、私の胸に飛び込んできて合体した。(青蛇であり白龍のカンナオビは奥津嶋姫弁才天の化身)
どうやら、ババ様がフェイントに回られていたことがわかったような次第。
ブラフマーとしてのババ様なら。
同じ男であること、ライバルでもあることをそのとき感じた次第だった。
ババ様による長きに渡っての守りに感謝しつつ、新しい歴史を創らせていただくことにした。
以後、ババ様は自らの役割を終えられたかのように、私のタイムラインの主旋律から離れていかれた。その時のババは、ご自身に対して予告された聖者としての、神の化身としての天寿をも全うできないほどに疲れておられるようにも見えた。
仕方ないのだ。ババはババで、ご自身の主旋律を今なお全うされつつある。そのような世界が必ずあって、ババ様はそこをいま歩いておられる。それが拙「超宇宙の仕組みモデル」理論が語る世界の真実だ。
私もいずれ救世主を演ずるタイムラインに足を踏み入れることだろう。いやもう終わっているのかもしれない。ここからではわからないのが道理。
私が演ずべきタイムラインは、次の写真で見る線香花火の光跡のように、すべてが大昔から並行してプログラム空間という同一次元、アカシックレコードの中に存在している。
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