クラブ活動とUFO写真について

私はクラブのキャッチャーとして機能していたため、UFOだと断定的に持ってこられるUFO写真は、多少のコメントを付して、HPとブログの両面で掲載してきた。
クラブの品質維持と如何にメンバー撮影作品を引き立てるかを念頭に置いてきたため、よほどこれはまずいぞと思われるものは除いて、メンバーの主張をなるべく立てて掲載してきたつもりであったが、やはりこれでは誤解と混乱を与えると考え、怪しいものについてここで告白しておきたい。
私は撮影現場でみなと同様の撮影環境を共有してきたため、撮影時のあたりの状況(天候、風力、虫や枯葉の飛び具合)はおよそ見てきている。
UFO写真のうち、形の不定形で奇抜なものは、およそ枯葉であると考える。
風の強い日、時間はいつでもあるわけで、どの木々もちぢれ葉枯葉を蓄え、季節を問わず枯葉が飛んでいる状況にある。
種子も羽根を回しながら飛んでいるはずである。
また、初夏から秋にかけては蜻蛉などの羽虫がたえず周りを舞っていた。
そんなときに、何でも写り込んでいれば宝物を手に入れたが如く写真として提出されていたことも確かである。
奥行きのある映像であるためピンボケしていても、それをメンバーの主張を容れてUFOの存在状態ゆえにと説明付けしてでも掲載していた。
つまり平面に置き換わった瞬間どうなるかへのまじめな議論抜きで掲載していたきらいがある。
それを許したため、やがて写った物はよほど実体の掴める物以外は何でもかんでもOKという具合になった。
もちろん、UFOであると断定できるものもあった。
友好的なマスコミは映像を借りていかれるとき、たいがいそのうち問題なく本物と言えそうなものを選んでいかれた。
というのも、これなら太鼓判と言えるものを選択肢にして提出していたからでもある。
直接にクラブの収益となるレンタル料の話になったためである。
ただし、否定的な側に立つマスコミは、おちょくりやすい怪しい部類のものを選んで取り上げられた。
取り上げられ方によって、クラブの品位もホンモノ、マユツバの間を揺れていたように思われる。
玉石混交。数ある石の中に貴金属や宝石がいくらか含まれていることも確かである。
ブログとHPが、クラブ活動の有様を伝える効果を一応は果たしたと考えるのだがいかがだろう。
特筆すべきは、最近になって、ひとつ新しいUFOタイプが登場したことだ。
場合によっては色鮮やかな幾何学模様をしたUFOで、ブログでも以前から取り上げている。
その真贋は未確認であるが、くだいて言えば、映像フレームとフレームの間にUFOが常用する時空があるという理論が仮定されている。
ソニーのビデオカメラにおいてそれは検出でき、その他のメーカーのものにはできないようである。
もしかすると、人間の目の代用ができる公平な観測機材ビデオカメラによって、科学的大革命をもたらす発見になるかも知れない。
人間の目はここでも再三語ってきたように、実に都合よく何にでも見立ててしまう機能を持っている。
そのようなとき、真実の眼をビデオが果たすという時代が来ているように思われる。
UFO撮影に特化したクラブ。果たして今後の展開はどうなっていくであろうか。

総合的スカイフィッシュ研究・・・その性能から歴史まで

スカイフィッシュは一時騒がれて、いったん鳴りを潜め、また再燃し(2001~2004年)、また人気ダウンとなりました。
その有様はまるで為替の動向を見るが如し。いやいや、どこぞかの会社更生法適用会社株のような感があります。
しかし、火のないところに煙は・・のたとえどおり、果たして歴史上に話題に上らぬ非実在の対象などあったでしょうか。
スカイフィッシュを実在生物と考えた場合、見過ごしにできないことが多々あるのも事実。
ここでは、森野奥人がUFO/スカイフィッシュ撮影クラブに同行し撮影しながら感じたことなどを元にして、つい数年前まで未知であった生き物スカイフィッシュを、様々な角度から捉えて記事といたしました。
スカイフィッシュ研究に関しては、やはり撮影元にいたわけですから、先駆者たろうとするのは当たり前。
そういうわけで、読者の皆さん、どうぞ拙い文にしばらくお付き合いのほど。
No.1  スカイフィッシュとはなにか
スカイフィッシュの態様
スカイフィッシュは、アメリカのホセ・エスカミーラ氏によって初めて世に出されました。
命名者は彼であり、別名Rod(棒)とも言っています。
その実、撮影されたものの多くは、細長い「棒」のように写ります。
それは半透明であり、厚みのある中心に沿って伸びる棒状の部分が、やや光をさえぎるようで、シルエットのようにして写るわけです。
十年前までの一般的なビデオカメラでは、シャッタースピードの調節もできませんでしたから、その高速で飛び回るものがいっそう間延びして不鮮明に写りました。
しかし近年、その辺の調節がかない、より実際に近いものが写るようになったように思われます。
最近では、高性能なデジタルビデオカメラや、より精巧なプロ用のビデオカメラによって、その両側にひれのようなものの波打つ広がりが認められています。
国内でも「不思議ドットテレビこれまじ」で、国内最高級機といわれるテレビカメラが用いられ、六甲山のスカイフィッシュがみごと写されたのは周知のことです。
  ホセ・エスカミーラ氏のRodに関するサイト
スカイフィッシュもかつてUFOの一種に加えられていた
UFOとは宇宙人が地球外で製造した宇宙船であるという定義がいつしか定着してしまいました。
それというのも、顕著な実感をたたえた金属もしくは発光体として、過去から目撃を受け、また撮影もされてきたからです。
そして真贋論議が生まれ、真贋鑑定に一定のルールが作られるようにもなりました。
思い込みによる報告がなされたり、いかさま的な撮影がなされたからということがあります。
こうしたことに歯止めをかけるために、さらに厳しい判断の目が要求されるようにもなりました。
形が判然としなかったり、他の現象で事情が説明つくものはいっさいカット。
目的物の写る前後の状態すらも、いかさまの入る下地がないかどうか調べられてもいます。
しかるに、スカイフィッシュは、すでに書いたような態様ですから、UFOとは認められるべくもありません。
加えて生物ですから、新しい範疇、雪男やビッグフット、鬼やチュパカブラといったものの属する「UMA」に苦しくも配属されることとなっているようです。
これにより、元あったUnidentified Frying Objectという言葉の意味は、それ自体失われてしまったかのようです。
しかし、空に向けて撮影機材を回す中では、未確認の飛行物体として、スカイフィッシュだけでなくUFOも勝手に写ってきます。
そういうわけで、このサイトの記述も大きく二つに分けて書かねばならなくなりました。
武良氏は、私と知り合う以前から、「空を撮影しているとUFOらしきものが写る」ということで、自分はUFOを撮影しているのだという意識で、たまの休みの日などに朝から山野に出向いて撮影にいそしんでおりました。
そして、鮮明な映像について、マスコミにUFOを撮ったということで持ち込み、1993年の六甲山上UFOなどが、鮮明かつ巨大な例として、マスコミ数十社から放送されました。
輪郭がはっきりとしており、円盤と目されること、窓らしきものが二つ認められることなどにより、UFOと判断されたもようです。
そのときには、神戸市に在住されていた日本UFO研究会の故・平田会長の後押しもありました。
そのUFOも、巨大さはかなりのものでありましたが、スカイフィッシュと考えられなくもないものでした。
当時のビデオカメラは、シャッタースピード調節機能がありませんから、もろにモーションブラーを起こし、それを以て間延びした葉巻型UFOとして我々は分類しておりました。
当時はまだしも寛容な良い時代だったといえるかもしれません。
UFO、スカイフィッシュ、その他の一般的な物体、そのいずれであるかはいまだもって分かっていません。
しかし、私が彼の誘いで同道して二度目にシャープマイビデオで撮影したビデオの中に、わずか二分間程度ですが、明らかなUFOの飛行形態を呈する物体の映るシーンの中に、生き物的かつ俊敏な動きをする謎のシルエットが映っておりました。これを私は、後にスカイフィッシュと呼ばれるようになった新種の一貫で分類するようになりました。
  UFO撮影同道記 (1997年時点の記事)
しかし、スカイフィッシュ特有の”ひれ”が認められておらず、もしかすると別種(どちらかというと”龍”)の印象を受けました。
その後、入会された坂本氏によって、それらは同体異形であるとの”目撃証言”を得て、彼らは総じて古来より”龍神さん”と呼ばれていた存在と等しいとの落ち着き方をしています。
日本のマスコミに取り上げられるようになった経緯
2001年9月1日に、テレビ朝日の「不思議ドットテレビ・これまじ!?」で、武良氏が日本におけるスカイフィッシュ撮影の第一人者として取り上げられました。
しかも、世界的第一人者であり命名者であるアメリカのホセ・エスカミーラ氏から、「日本にもすごいのがあるじゃないか」とテレビ朝日スタッフあてに逆指名を受けたというわけでもありました。
それというのも、まずは武良氏が出しているホームページ「UFOビデオ撮影友の会」の読者の篤志家の方が、放送局に注進されたからであると聞き及んでいます。
実際こうしたことでもなければ、地方の田舎人のしていることが公になることなど珍しいわけで、ネット時代になったればこその感を深めるものです。
また、フジテレビ系のアンビリバボー特番で、本邦はじめて中米の巨大洞窟でスカイフィッシュ撮影さるとの報道を見て、すでにUFO写真としてホームページで掲載していたこともあり、これは同じものではないかと、私がホセ氏宛てメールを出した経緯がありました。
するとわずか53分後に、当のホセ氏から、「すばらしい!!・・」のメッセージをいただきました。
ホセ氏からのメッセージ
ホセ氏はただちに世界の読者宛てにメーリングリスト配信してくれ、ホームページのアクセスカウンターが数日のうちに5000以上の増加を記録するほどのありさまでした。
もちろん、そのために写真に英語のコメントもつけたりしたもので、何だか下手なホームページになりました。
とにかく、世界、とりわけアメリカ人の自由かつフレキシブルな発想に、このときほど感心したことはありません。
それから、ビデオキャプチャー画像のサンプルを幾通りか送ったまでで、それ以上の通信はしておりませんでした。
そんなとき、どれほどぶりかで、テレビ局経由ではありますが、ホセ氏の音信が聞けた次第。
ホセ氏が、よく思い出してくれたものだと、また一つ感心したしだいです。
スカイフィッシュの捕獲について
目にも止まらぬ猛スピードで飛ぶスカイフィッシュは、どうやらどこにでもいる生き物のようです。
ツチノコのような希少動物、UFOのような目撃困難なマシンとはちょっと違います。
人にその気があれば、またちょっとばかりの忍耐力があれば、またこれは必須ですが、ビデオカメラを買う若干のゆとりがあれば、撮影という形で捕獲が可能のようです。
捕獲するというと、網を仕掛けたり、釣り糸に引っ掛けたりなどと考えている人もいるようですが、そんなことをしたら、どんな目にあうか考えただけでもぞっとします。
ツチノコですら猛毒を持つといわれるように、命と引き換えに捕獲に挑む人もあまたいるようですが、スカイフィッシュの場合はもしかしたら命の一つ二つどころではないかもしれません。
坂本氏が経験談として言うような、鋭い歯で攻撃してくるタイプのものかも知れず、龍や龍の子、さらに物理法則を度外視した霊体動物?という感もあり、捕獲など考えただけで祟りのほども心配されますから。何でも初めてのものには敬意を十分に払い、注意してかかることがたいせつかと思われます。
映像で捉えるだけでよしとしておくことが無難であることは言うまでもありません。
No.2  スカイフィッシュ研究
スカイフィッシユ研究の昨今の現状
スカイフィッシュ研究と言っても、スカイフィッシュを見た人がほとんどいない。
ただ撮影物を見て、スカイフィッシュだと判断しているにとどまる。
その撮影物にも、記録方式や記録媒体の特性による写り込み方の誤謬が考えられること。
こうしたあいまいさがクリアーできるか、もしくは撮影物などによって状況証拠的にスカイフィッシュがいる可能性が認められなくてはなりません。・・・(1)
また、スカイフィッシュという言葉が登場したのはほんの数年前のことでした。
いかに捉えどころのない生き物だといっても、それ以前に先人によって何らかの表現で伝承されていて然るべきです。・・・(2)
むろん、カメラ機材にしか捉えられないというなら別であります。
が、人の目に見えず、カメラだけしか有効でないというのは、どうもいただけた話ではありません。
人の目がカメラ機材より劣るなら、なぜ劣るのかが説明されなくてはならないわけです。・・・(3)
私どもは(1)(2)(3)のいずれについても、簡単ですが解答を用意しました。
たとえば、(3)については、かつてメルマガ12号と13号でお話した「UFO目撃に関して”見る/見ない”の生じる原因」が、スカイフィッシュにおいても適用できるだろうと考えています。
すなわち、社会脳(主として左脳)による目撃認識の阻害が心理的に行われた結果、「見れども見えない」状況が生まれるだろうと推測します。
同様に、霊魂などを”見る/見ない”という霊能資質も関わった問題であることは否めません。
そこまで考えすぎなくとも、スカイフィッシュの場合は透明であるに加え、非常に飛行速度が速いため、存在を気配として捉えていても、実在感に結びつかないとも考えられるわけです。
ところが、古代人はこの実在感の薄い生物をリアルに捉えていたことが分かりました。
2004年1月に出土した遺跡発掘物に、何対かの羽根をもつ蛇のごときものが刻み込まれていたのです。
伝承上、別の名前で伝えられていたはずですが、付帯して描かれていたものが「玉」のようなものであることから、「龍」を表現したもので、雨乞いなどに関係した祭祀土器であろうと、学者さんは推定されていました。
そして、2002年に我々のところに、スカイフィッシュ報道をテレビで見て、なんだこれは先祖から伝えられてきた「龍」じゃないかと申し出てこられた人が坂本氏でした。
彼は目撃と遭遇体験を重ねてきた人で、その生態についても十分な見解を持っています。
私にとって、それをどう世間の常態思考とすり合わせていくかが課題となったりもしました。
撮影地別に例題を検証
研究テーマとして論点が整理できそうなものにつき掲載しています。
視覚に訴えるデーターは、このほかたくさんあります。
六甲山系のスカイフィッシュ
三ノ宮や諏訪山に現れたリアルなスカイフィッシュ・・・(神戸市中央区)
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地獄谷のスカイフィッシュ・・・「六甲山」(神戸市東灘区)
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そのアニメ映像
スカイフィッシュ?の目撃
六甲山でのスカイフィッシュ目撃は、弊クラブの3人と参加者1人の併せて4人がしています。
その見え方もいろいろです。坂本夫妻はもう見慣れていて、撮影中に飛んでいることを指摘することも頻繁。
私もはるかに及ばずながら、下のイラストのように、大きな鮒のような色をしたねじれたような姿をした高速飛行物体一体を目撃しました。
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それを表現するのに、「ねじれのような」とか「うねりのような」とか当時は言っておりました。
 目撃談の詳細
同じものを坂本氏は一瞬遅れで二体がクロスするように飛んだのを目撃し、しかも色は青白かったとか。
そこで改めてどの位置に出ていたかをお互い照合したところ、坂本氏は中間の上空だったとのことで、私の目撃位置とは違っていました。
二人が出した驚嘆の叫び声も、その程度の時間の誤差を呈していました。
しかし、私は次の瞬間まで見切ることができませんでした。坂本氏は私の見た位置を見切っていませんでした。
お互い、視野の真ん中に捉えられたものだけが印象に残ったというわけです。
これは2003年9月13日、週刊プレイボーイさんの取材中の折のことです。
また、他日における撮影ツアー参加者のある女性は、五助谷上空において、谷から舞い上がるようにして木の葉がたくさん上がってきたのを不思議に思い見ていると、山を背景にして「(ちょうど熱い湯に水を差したときのような)ゆらぎ」が見えたので、それをたどると、大きなクラゲのようなものの輪郭であることが分かったとのことです。
そのとき、我々は五助谷にコロニー探しに一行6人で降りておりました。坂本氏によれば、クラゲのようになってホバリングする姿勢でいるのは攻撃態勢であり、我々の行動を上空から警戒して見ていたのかも知れないということです。2002年11月18日のことです。
しかし、私は「見た」ことにより、この謎のものから関心を離せない気持ちになると共に、何か自分が選ばれた者のような過剰な自意識を持ったこともありました。
しかし、彼らは私をして何かを世間に伝えさせるわけでもなく、私が罹っている持病を治してくれるわけでもありませんでした。面白くもない人生を面白くするひとコマになったことは確かでありました。
なぜ六甲山系がスカイフィッシュの穴場なのか
六甲山系はこれだけしっかりした山塊としてまとまっているわけなので、良好な「気」が豊富であることは言うまでもなく、生き物である限り、心地よさのゆえに住み着くといったことがまず考えられます。
坂本氏の話によれば、UFOも「気」をエネルギー源としており、六甲山系を縦走するように、UFOの通り道ができているように、加えて良質な水をたたえた花崗岩質の岩盤であるため、コロニーも形成しやすく、スカイフィッシュの棲家としては最適なのだとのことです。
兵庫県中央部、ピラミッド型神体山周辺のスカイフィッシュ
タンデム飛行するスカイフィッシュ・・「小富士山」(兵庫県氷上郡市島町)
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アニメ映像
古くは賀茂氏の所領のあったところで大物主系の祭祀部族にふさわしく、三輪山のように崇拝対象となったとみられる秀麗な山体がいくつもあります。
特に小富士山は等高線からしても、東西南北を意識したかのようなピラミッド状の山であり、特別な祭祀の行われていたことをうかがわせます。
1994年10月、シャープのマイビデオと小西六カメラセットで、ここでは15分程度の撮影ながら、3回それらしい飛行物体を収録しました。
賀茂氏は古来強力な呪術を執り行うことで、朝廷からも恐れられていた経緯があり、輩出した著名な呪術師にも役小角(高賀茂氏の出自)や安部晴明(賀茂保憲の弟子)がいます。
彼らが使役していたという鬼神や式神とはいったいなんであったか?
目に見えず、時には鬼と映るような実体不明の超自然身とは?
そう考えたとき、スカイフィッシュという生き物を考えてみるのは妥当と思われます。
役行者が八丈島から毎夜富士山詣でをしていたという伝説があります。
これは坂本氏の経験談と照らし合わせてみれば、「できる」ことであると思われます。
また、安部晴明が橋下に飼っていたという式神の伝説があります。
これは賀茂氏が伝統的にスカイフィッシュの育成法を心得ていて、晴明は実際に飼いならし、摩訶不思議な術の助けにしていたのではないかとも考えられます。
遠隔透視のできる坂本氏によれば、小富士山の山体の中腹に洞窟があり、その中に清水の湧き出る泉があって、賀茂氏によってスカイフィッシュがコロニーを作り易いよう計らわれていたそうです。
もしそれが本当なら、賀茂氏は山体を崇めるいっぽうで、術のタネを養成していたことになりましょう。
空中飛行は空飛ぶ絨毯を使うが如し。敵をやっつけるに、弓矢や刀、鉄砲など要りません。
二匹ペアーでスカイフィッシュがいる場合は、コロニーを守っているのだという坂本氏。
ならば、私がビデオ映像を撮った1994年10月時点には、コロニーが存在していたことになるでしょう。
このビデオ映像には、二匹のすぐ後ろに小さいのが一匹続いて飛んでいるのが映っています。
これは次の代を継ぐ子供の飛行訓練でもしているのでしょうか。
播磨の巨大スカイフィッシュ
風水との関連 山越え跳躍するスカイフィッシュ・・「石の宝殿」(兵庫県高砂市)
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このビデオの見所・・峻険な山並みへの潜水飛び込み 玉型UFOとの競演 
2分の競演の中には、二匹タンデムでのニアミス飛行シーンもあります。
アニメ映像と解説
その2
このデーターは一粒で二度おいしい、スカイフィッシュ研究には非常に有用なデーターであると確信しています。
その理由は、
①見え方・・・龍もしくは長大な蛇が、山稜ぎりぎりを通過して瞬間移動したように見える
②玉型UFOとの競演・・・龍と玉の伝説さながらである
③その土地の地形・・・風水上の龍脈の通り道に当たる
風水に言う「龍脈」の概念からすると最適と思えるほどに、山や川の配置、地勢の良さは素人目にも一目瞭然のところです。
玄武となる主山高御位山の山塊はまさに亀の形をし、左右の両腕を白虎山、青龍山として伸ばし、朱雀に相当する朝山を南にいくつか配した構図は、まさに四神相応の構図というべきところです。
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龍の通り道「龍脈」は、山の尾根伝いに形成されるといいますが、高御位山のさらに北方には高山の巨大な山塊があり、さらにその向こうには古法華の笠松山(太祖山)を開始点とする「龍」(気の塊)を送り出すシステムが備わっています。
私は、1994年10月9日、武良氏に手ほどきを受けながらUFO撮影をはじめて二度目において、龍脈システムの朝山に相当する「石の宝殿」から、やはり朝山である西の山をビデオ撮影中に、まさに「龍」の跳躍ともいえる謎の現象を捉えたわけです。
「龍」をカメラに捉えてしまったのか。
「龍」は霊的な生き物として考えられることがある以外に、自然現象としての「気」のエネルギーの塊のことを言うのが「風水」です。
この二者は同じものではないとしても、どんな生き物でも気の流れの良い場所ならば気分が良いとなれば、スカイフィッシュひいては「龍」は、その自在な飛行能力を駆使して、気の流れに慣れ親しんできたに違いありません。
こうして、生き物としての龍の行動傾向は、非生物である風水の龍脈と重なるという論理が成り立つと思われます。
風水に言う龍脈の観点からすると、最短としても加西市の笠松山にはじまる龍(気の塊)脈は、いくつかの山体の山稜を経て西南西に下り、姫路平野へと下る直前の城山(戦国時代に山城が置かれたことから名づけられる)で大きくヘアピンカーブを描き、高山を中核とする山塊へと入射します。
それは南の高御位山を中核とする山塊へと入射しますが、この山塊はちょうど母が子を抱くような格好の腕の伸ばし方をして、四神相応の構図を醸しています。
この例は、龍脈推定用地形図の左上隅に示すよう、風水上の好所とされている鞍馬山の山塊を中核とした京都盆地を抱く格好の地形にとても似ています。
玄武となる高い山である鞍馬山、そこから腕を伸ばしたように東の青龍山、西の白虎山、そして東山、桃山、飯岡、甘南備山などが朱雀を形成していますが、同様に高砂の地には、高御位山のふところに抱かれるように鹿島神社や成田山などがあり、溜池が設けられ、東の青龍山に連なる朝山として、石の宝殿の一枚岩山やその南の竜山があります。
いっぽう、西の白虎山の連なりの先の朝山として、5つの小高い山の連なりがありますが、風水上の要件を満たすために作られた人工造山であると目されます。
山から海へと下る龍なる気の流れは、沿海部において神戸製鋼などの鉄鋼コンビナートの所在と重なり、龍脈の恩恵を受けて発展したことが想像されます。
実際、この日の一時間以上を収めたビデオの中には、高炉の煙突の警告灯の点滅する工場地帯を目がけるようにして突進していく棒状物体が捉えられています。
気の流れすなわち龍脈を伝う龍は、のべつ幕なしに流れているわけではないでしょう。
太祖山に立ち上る霊気がある程度溜まって、臨界に達したときが流出のときと考えられます。
これは一日のうちでそう何度もあるわけではないし、天候などのコンディションによっても発生はまちまちのはず。
つまり、不定期な間欠泉のように、龍は流れ出していると考えられるわけです。
このとき撮影されたUFO/スカイフィッシュ(龍)の競演は、長い幕間のとばりを破って、わずか2分間の中に3種類7シーンを見せてくれています。
そのチャンスに遭遇しさえすれば、伝説どおりの玉と遊ぶ龍の如きシーンも撮影可能なのではないかと思われます。
のんびりした玉と高速飛行のタンデム龍がニアミスを演じるシーンもあります。
平面的な映像を見ていると、空にも交通というものがあるというのが認識できます。
山に居つくカラスたちと飛行経路が合致しないよううまく折り合いをつけて飛んでいます。
カラスにはこの現象のことがどう見えているのでしょう。
我々は気を良くして10月14日にもほぼ同時刻に同所で撮影を敢行しました。
しかし、ほとんどボウズに終わってしまいました。
10月9日との条件的な差は、うす曇か快晴かの違いでした。スカイフィッシュ系は曇り加減のほうが良いようです。これは六甲山においても同じです。
自然現象である風水にいう龍の流れに乗って、生き物である龍も動く。
ちょうどサーファーが好適な波の来るのを待ち、それに乗っかるごとく。
それは、誰や彼が命令して従うわけでもなく、ごく自然に彼らの行動すべき条件が満たされたとき、まるで町の若者がサーフィンを楽しむごとくやってくるのでしょう。
彼らは、意思を持ち、面白さを満喫したがる心も持っているようです。
もしかしたら、龍脈の気の塊を引き連れて飛んでくるのかもしれません。
ならば、彼らの性質を理解して、幸運とか心地よさを呼び込むために、「龍」を誘致する設備を整えたくもなるのが人情というもの。
それが風水術として今に伝わっている技術ではないでしょうか。
いっぽう龍のほうも意思や知性を持っているなら、彼らの航路の先に彼らの姿を収めようとしてカメラを構える者たちがいたなら、彼らの心を察して映ってやろうと思わないでしょうか。
彼らはわざわざ画面に合わせてパフォーマンスを演じてくれたりします。
こうして、勘と忍耐が頼りのカメラマンたちは逢う魔が時のような摩訶不思議な好運をつかむのです。
この地はそれほどに龍の出現が見られたせいか、古くから石の宝殿の南の山と南西の土地一帯は「竜山」と名づけられて今に至っています。
宮本武蔵のほんとうの生家もこの近くにあります。吉川英治が創作したのではない、ほんものの生家です。宮本伊織のお墨付きもあります。
この地の龍は、幼い武蔵の動体視力を鍛えるのにもってこいの生き物ではなかったでしょうか。彼の肖像画の目つきはまさに龍そのものです。
撮影日の1994年10月9日。後から分かったのは、阪神大震災のちょうど100日前ということでした。これも計算されたパフォーマンスなのか?
それは何ぼなんでも偶然でしょうが、龍の飛んだのが西の山の頂上に沿ってであったなら、その方向の延長上には偶然にも震源地、淡路島の北淡町があるのです。
もうひとつ気持ちのよくない話をしますと、瀬戸内の龍を鎮め、海運航路の安全を守るという目的で作られた風水塔とされる舞子の移情閣が、明石架橋に伴い1994年3月から解体されていました。
つまり、制御施設不在の期間中に起きた震災であったというわけです。
ちょうど明石大橋の橋脚の基礎の打ち込みがなされていたことが地殻を刺激したと密かな噂になっていました。瀬戸内の龍の騒乱が天変地異を招いたのでしょうか。
とするならば、龍さえもコントロールしようとする風水は大変な技術と言えましょう。
例題をもとに性質を探る
 
スカイフィッシュの性能諸元について
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ファインダーの中に収まっている距離を地図から割り出したところ、約200mほどですから、秒速1Kmと推算しました。
サイズは、長さ3~7m(写真上は一番小さいときで10m) 幅もしくは厚みは2~3m。
むろん、スカイフィッシュが山稜の尾根伝いに飛んだと仮定しなくてはならないわけですが、1/30秒・コマを再生する再生機にかけて6コマ。
1/60秒・コマで再生する再生機で12コマで通過していることから、200mの端から端まで飛びきるのに0.2秒となります。
すると、200m/0.2秒=1000m/secで、秒速1Kmになるというしだいです。
音速の約3倍。それを音もなく、また周囲に飛び交うカラスなどの生態に影響しないように飛んでいるわけですから、いかに生命にやさしく、また周囲の生態系からもなじまれた飛行物体であるかが分かります。
ただ、長さの推定は、このビデオカメラが旧式のものであるため、モーションブラーによる「間延び」を考慮しなくてはならず、正確な値が出せておりません。
幅や厚みについては、シルエットの消えるところまでが羽根の先までとして、距離との比率で大体を割り出しました。
これがスカイフィッシュとするなら、大クラスのものとなるでしょう。
古代的に「龍」と呼ばれても良いタイプのものだと思います。
この飛行地域を「竜山」と呼び習うのは、古代人の見立ての良さを物語っていると思います。
ただこのデーターは、今まで扱った撮影データーのうち、サイズと飛行速度が理想的に割り出せそうであったために用いたものであることをお断りしておきます。
飛行物体がカメラからどれほど離れていたか分かるとか、あるいは背景との関係から割り出せそうな状況にない場合は、どんな映像であっても性能を測るツールにはなりえません。
飛行物体が、山のはるか手前を飛んでいたならば、以上のような推算も根拠を無くしてしまうわけです。
ところがこの場合だけは、UFOなどとのコンビネーションシーンが前後に撮られていて、明らかに飛行物体の側から、彼らの性能諸元を求めるように仕組んできた感があるため、採用しています。
この性能諸元から推測される飛行原理 常態的な観測に掛かるすべがないために、説得力に欠ける仮説にしかなりませんが、物質状態に四相しかないとした場合、その動きからして、プラズマ相の物質状態にある有機生命体であると考えるのが妥当かもしれません。
しかし、坂本氏の体験は、彼らとの接触にまで及んでいますから、そのようなものでないことも体験的に説明されています。
しかし、彼の話も、最近の私の研究で、彼自身が時空の性質の異なるパラレルワールドにおける体験をしたのであろうと考えることにより、この世では不可触(アンタッチャブル)な存在に置き換えることができると考えています。ちょうど夢見の世界における実話。それは夢見の身体によってのみ経験可能な実体験というわけであります。
そう考えれば、以下のような考察も不要なように思われますが、読者のより深い洞察のためにあえて行いましょう。
スカイフィッシュとUFOの飛行原理が同じという説もありますが、UFOが一点で一瞬にして進行方向を変えるという保存則を無視した動きをするのに対して、いかに鋭角に進路変更をするとはいえ、必ず角運動量の変化を伴う動きをしていることから、飛行原理の違いは歴然としています。
航空力学的な物理法則を満たした運動をしているわけではないが、スロー再生すれば、少なくとも運動量保存則を満たそうとしているようには見受けられるわけです。
ならば、この飛行原理とは何なのかというわけですが、
私は、生き物の多様性が作る「生活時間の刻みの相違」による、「異なる時間経過の同一空間における複在」が原因ではないかと考えています。
つまり、観測者によって固別の時間が我々の空間には幾通りも存在しているのではないかということです。つまり、最寄の?パラレルワールドではないかというわけです。
そもそも、我々は自分の観測する世界だけが全てだと思ってしまいがちです。
それで生活が事足りるからと言ってしまえばそれまでなんですが、生命の形態に応じてそれぞれに観測している時間が違うことも考慮されねばなりません。
たとえば、人も若いときと年老いたときでは、あきらかに観測時間(生活時間)に違いがあります。
原因は神経回路に迂回路ができたり途絶ができたりして、迂回時間を多く消耗しているから、お年寄りは動作が鈍くなってしまいます。
若者と同じことをするのに余分に時間がかかっていても、本人の観測時間の刻みがそうだから、自分では鈍いと自覚しないのが普通なのです。
異種の哺乳類間においてもそれはあります。ゾウの時間とネズミの時間は違うという説を出された本岡さんという学者さんがいました。
心臓の鼓動の回数が寿命を決めること。神経回路の伝達距離がその生き物の観測時間を決めるという説で、長命なゾウも短命なネズミも、さして経験する時間とボリュームに相違はないというのです。
もしも、プラズマ相でなる生命体がいたとしたら、その神経回路の伝道速度たるや、液体相で化学変化を介して伝道させる我々と比べるべくもありません。
そこに、私の仮説がもうひとつあります。
これは拙時空概念で詳しく述べていることですが、時空は観測者があってはじめて成り立っているのであり、観測者を離れて時空など存在しないとする概念です。
つまり、観測者の個々別々に経験時間も認識形態も異なっていると同時に、観測者の性能に合わせて観測されるべき時空も存在していると考えるわけです。
もしさらに、神経回路を形成する基盤になる物質の相が異なっていればどうなるでしょう。
液体相の神経回路で伝達する情報の速度に比べ、プラズマ相でなる神経回路なら、はるかに速いわけです。
これがいかに龍やスカイフィッシュの図体がでかくても、俊敏だという理由になります。
おいおい、プラズマ相の生き物なんかいるの?
それには、どんなところにも生き物はいるんじゃないんですか、と答えるしかありません。
強酸の胃の中にピロリ菌あり、真空の宇宙に宇宙螢あり、深海の最深部の海底からのあぶくの周りにも生命がいるくらいですから。
しかし、スカイフィッシュの経験時間と、経験されるべき時空は、我々人間のそれと自ずと異なっているはずです。
この時間の刻みの差は次のように分かります。
同じサイズの生き物が我々の時間軸を使って潜水飛び込みをかけて水中を進行したとした場合、200mなら10秒ほどだとしてみましょう。
すると0.2秒で完了したときの差は50倍となりましょう。
それが両者の経験時間の刻みの差と考えることができます。
そこから、彼らスカイフィッシュがどういう物質状態で過ごしているか、推測がつくのではないでしょうか。
彼らも、どこの空か海かは知らないが、ゆったりと飛んでいるふうに経験されているとき、彼らの目からすれば、我々人間の動作は、芋虫が匍匐前進するほどにもどかしいものなのかもしれません。
これが竜神、つまり神と人間の性能の差だとすれば、人間は神様にかないっこないわけです。
逆に人間が植物に対してなら、ちょうど逆の立場で見ることができます。
我々は植物を伐採したりしますが、植物にしてみれば、おい神様よ、切らんとってくれよと言ったところで、神さんの我々が植物に意識などあるの?と言っているくらいだから、植物もたまったもんじゃありません。
その点、龍神さんは違います。生命のことをよく知っているせいか、当たり障りのないように飛んでくれているというわけです。人間も多少は見習うべきかも。
だから、時空の観測形態も違えば、経験されるべき時空が異なることで棲み分けさえもなされているのであり、異なる時間の刻みが同一空間に複在していることさえこの証拠は言い表しているのです。
霊能者によれば、不成仏霊魂の空間も我々の空間に複在しているそうです。
もしかすると、スカイフィッシュは、物質世界と霊世界の中間に位置するミッシングリンクとなる亜空間にいる生物なのかもしれません。
彼らは、両方の世界に観測の目を向けることができるため、両方の世界の意向を汲み取って仕事をすることができるはず。
坂本氏は、彼らが不成仏霊を取り込んで連れ去ると言っています。
それをどこに運んでいくか。
坂本氏によれば、魂を護送するUFOへと運ぶそうです。
すると今度は、武良氏がかねてよりチャネリングで示していた、死者の魂が宇宙の基地で審査を受けて、次の行き先を決められるといった過程に入るというわけでしょうか。
いよいよ、我々はマトリックスの世界にいることが本当のように思えてきますね。
スカイフィッシュの知性への推測 高度な知性を思わせます。
彼らは、カメラのビューアングルや録画時間さえも考慮するようなパフォーマンスを演じます。
もう帰ろうとする頃に、名残を惜しむのか、よく飛びます。
そのパフォーマンスが、計算された行動と思えるゆえ、我々はUFOであると考えてきた経緯があります。
だが、どうしてもシルエットとしてしか映らないため、UFOは亜空間を飛んでいるのかと考えたり、霊体の類かと考えたり、神霊の「龍」かも知れないとは、1994年の撮影当初から思っ
ていたことではありました。
それを経験的に「龍」であると断言したのは坂本氏。
こうして、スカイフィッシュは伝説上のUMAであり、UFOとは別物であることが鮮明になったしだいです。
彼らは、高度な知性を有するということ。これは誰が語ったからというのでなく、撮影物を調べてみれば感づくことです。
古代伝承との整合を図る
 
古代の遺物からの考察
龍と玉の伝承 2004年1月に出土した弥生時代の土器の壷には玉であるらしいものと戯れる龍の図柄が描かれていました。当時、龍がどのような姿で捉えられていたかを表しています。
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壷龍の説明
その姿はまさに現在我々が撮影している足つき(ひれのついた)スカイフィッシュさながらです。
豊後国風土記には、この地方に天皇が行幸されたとき、従者が泉に水を汲みに行ったところ、オカミがいたので汲むのをやめたという一節があります。
「泉の水を汲ましむるに、すなわち蛇龍(おかみ)ありき。於箇美(おかみ)といふ」
まさに当会の坂本氏のスカイフィッシュ体験そのものではありませんか。
ただ、坂本少年はそのときオカミの姿を認めず、水を汲んで飲んだのです。
それが彼いわく、コロニーだったというわけです。
古代には、泉のある場所ではこうした目撃の事例が多かったのでしょう。
だから、見つけたときには、そっと何もせずに引き上げたことのようです。
闘っても勝ち目はないことを経験的に知っていたとも考えられます。
古事記には、その生態を直接感得した表現として、クラオカミ、クラミツハ、ミツハノメといった表現で登場します。
それが神格化された形として、トヨタマビメとかシホツチノカミとなってきます。
それは水域であればのことなのですが、山岳地の場合は、神格化されてオホナムチとなります。
日本書紀では、タカオカミとなっています。タカオカミは上空の龍、クラオカミは渓谷の龍、クラミツハは池や海など水系の龍といった感じです。
自然神と捉えられたときの表現です。
いずれも、雨などの気象を制御できる生き物として捉えられ、雨乞いの際の主神となります。
それゆえ、上記の土器は、雨乞いに使われたのだろうとのことです。
では、そこに書き添えられる玉のようなものはいったい何でしょう。
ここからは神話に属する話となります。
龍と玉の伝説は多様に語り継がれています。
古事記においては、海幸山幸の段において、海神の宮に行った山幸と夫婦の契りをした豊玉姫として書かれています。
豊玉姫は竜神であり、乙姫のこととされます。
譲り受けた呪術兵器としての玉には、海水潮位をコントロールする力ありとされます。
上掲の撮影成果のようにUFOなら、そのようなこともやってしまうのかも知れません。
浦島伝説にも、帰り際に乙姫から譲られた玉手箱の伝説がありますが、不老不死の意味合いを持ちながら、呪詛兵器の一種であることをもあらわしています。
安部晴明の竜宮参内伝説では玉は出てきませんが、龍神から不老不死の薬と秘術の書のいずれをとるかを選択させられるという話があります。
彼は秘術のほうをとったため、死する人間になったともいいます。
けっこう世界的に共通の下地があったのではないかと推測されるのが、古代の英雄と「飛ぶ蛇」「羽根蛇」「龍(ドラゴン)」への神格化です。
浦嶋や安倍晴明の場合は、龍とコンタクトした英雄でしたが、オオクニヌシなどは自ら大蛇(オオナムチ)と関連付けられた神です。
そのような例は、中南米の英雄ケツアルコアトルに見られます。(後述)
また、中国には玉と戯れる龍の伝承が数多く伝えられています。
それらの謂れがどこにあるのかたどるとき、実際に龍のようなUMAと玉状のUFOがときおり目撃されていたようなことが考えられます。
また、古事記は後世に託された暗号化文献であるとする立場から言えば、クラオカミ、クラミツハをホノカグツチ(火の輝く土=爆弾、ダイナマイト、あるいは石油)から生まれた神の位置に持ってくることによって、その語呂の良さから、それぞれ暗い天空(暗い世相)と暗い水系(水質汚染)を暗示(預言)したと考えることができます。
古事記には、このような用法から生まれた神が多いことも考え合わせねばなりません。
神話伝説からの考察
玉と龍
不老不死

ゾロアスター教神話 龍もしくは竜神との関係で見た玉の機能を考えるとき、人の寿命や精力を消長させるものの意味合いで登場しているという共通性が見出せます。
玉は効用すれば不老不死もしくは勢力的発展につながり、呪詛に使われれば老化や衰滅を早めるものとなるのです。
そこには、不老不死という共通項がありますが、玉が不老不死の原因となるというより、龍との関係で不老不死というテーマが成立すると考えたほうが良いようです。
そのようなとき、坂本氏の経験談が大変参考になります。
スカイフィッシュのコロニーの存在する水溜りの水は甘く、飲めば非常に元気になるだけでなく、持ち帰って病人に与えたところ、難病が治ってしまったという経験をしている坂本氏。
また、彼自身滑落事故によって大怪我をしたにもかかわらず、スカイフィッシュのひげのようなもので触られたら、傷も残さず治ってしまったという話。
途方もない話ではありますが、以上のような古代伝承に基づけば、ありうる気がします。
私は海外の面白い神話伝承のあることに気がつきました。
ゾロアスター教の神話はゼンド・アベスタという聖典に書かれるのですが、そこにはゾロアスターの再臨による世界建て直しの話があります。
悪神が善神に滅ぼされてのち、世界が建て直され、そのときに人々に与えられる恩恵として不老不死の薬が用意されるというのです。
「これは白ホーム樹という薬木を材料にして調製される。
善悪混交の今の時代において、すでに白ホーム樹は咲いているとされ、それを悪神やその諸類の邪悪な手から守るため、善神アフラ・マツダは「カル魚」という霊食の魚を二匹、白ホームの周りに配備して守らせた」というのです。
その関連記事は、「苗木ゾロアスター教遺跡説」で取り上げたことがあります。
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ところが、カル魚の白ホームの守り方たるや、二匹の間に外敵を挟んだ状態で、双方の呼気によって真っ二つに切り裂いてしまうという。
いっぽう、スカイフィッシュも、模型やイラストで紹介しているように、鋭い二本の歯を持ち、外敵とみなしたものに襲い掛かり、ズタズタに切り裂いてしまうといいます。
それがコロニーを守るときには、二匹の大型スカイフィッシュが、たえず外的の侵入のないよう見守っているというのが、坂本体験にあるというわけです。
撮影例として、私は少なくとも二回、二匹のタンデム飛行をビデオ収録していますが、二匹一緒に出てきたなら、コロニーを守るためのパトロール飛行であるという坂本氏。
私はゾ教に関する何の予備知識も彼には与えていませんし、彼にそのような前知識がないことも歴然としています。
こうしたことを総合してみると、カル魚とスカイフィッシュはどうやら同じであり、白ホームとは、彼らのコロニーのことではないかと推測されるのです。
役行者も安部晴明も、救世主的要素がたぶんにあります。
そこにもし、いつもスカイフィッシュが関わっていたとするならば。
そこで私は、世界の建て直しに係る救世主の必須要件すらも見出した気がしました。
それは、不老不死の薬のありかを知り、それを守り、侵入を遮っている霊妙動物である生き物と仲が良いか、もしくは「龍」に宝の明け渡しを指図できなくてはならない人物であろうこと。
つまり、龍とさえ仲がいいとは?
スカイフィッシュと仲がいいとも言い換えられます。
そのような時期に、巷はフライングヒューマノイドの話題で沸騰しました。
なんとこのサイトの訪問客に、米軍さんもやってこられたほどです。
フライングヒューマノイドは、半透明のスカイフィッシュに乗った謎の人物であると直感させられたとしても、おかしがらないでほしいわけです。その人物とは?
龍は、人類登場をはるかに遡る古代から生態系の頂点に君臨したであろう霊妙不可思議な高等動物です。
その知恵を借りるような時がくるなら、どれほど人類にとって意義深いか知れません。
古代呪術師の家系
賀茂氏はスカイフィッシュを使役していた?
神武天皇がやってくる以前から、古来、大和の地にあって秀麗な神体山を信仰の対象としていた部族がありました。それが賀茂氏です。
彼らが崇拝した三輪山と大物主の話は有名ですが、「みわ」とは蛇の意味とされ、空中を自在に飛ぶ蛇が認められていたに違いありません。
特に彼らはピラミッド型をした山に特に意義を見出していたようです。
賀茂氏の所領であった里が兵庫県氷上郡市島町にありますが、市島とは斉き島の転化であり、何かを祭る場であったことを意味しています。
その中央部に一辺250mほどのピラミッド型神体山「小富士山」があり、北方の鴨神社で祭られています。
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そして、鴨神社の脇から構えた私のビデオカメラによって、そのご神体かもしれない謎の生き物が収録されたことはすでに述べました。
坂本氏の霊視によれば、スカイフィッシュのコロニーがこの山体の中腹に作られた洞窟の中にあり、湧き水がたえず湧き出ているそうです。
つまり、賀茂氏はスカイフィッシュの誘致もしくは育成に成功していたらしいというわけです。
賀茂氏は山や岩などに神霊が宿ると見る、いわゆる龍蛇神を崇拝していました。
その神の力は、大和朝廷を恐れさせたと古事記にも書かれますが、実質的に龍蛇の実体が動いていたのかも知れません。
それを見事使役することができたのが、彼らだったとすれば。
その生態に精通し、彼らとの会話法などまでもしも知り尽くしていれば、自然と彼らとの交流が図れ、様々な助力が期待できます。
賀茂氏の支流である高賀茂氏から出た役行者は、鬼神を使役したとされます。
鬼神は実際に形相すさまじい鬼として目撃されたともいいますが、大方は目に見えなかったそうです。
これは、神出鬼没のスカイフィッシュであったればこそではないでしょうか。
一子相伝の坂本家がそうであったように、伝統的に賀茂氏が龍蛇神となじむ習俗を伝承さえしていれば、コロニーの世話から何から何まで面倒を見る格好で、親密な交流は可能だろうと思われます。
役行者が八丈島に流罪となってから、毎夜のように富士山詣でをしたというのも、大型のスカイフィッシュの背に乗って飛んだとすれば。
おりしも本日のアンビリバボーで、空飛ぶ人間フライングヒューマノイドの目撃談が話題にされています。
スカイフィッシュがほとんど透明であったなら、それに乗った当然不透明な人間は、単独で浮いているかもしくは飛んでいるように見えるでしょう。
あるいは分析者の画像解析における、ヒューマノイドの下に白い噴射物のようなものがあるとは、それこそスカイフィッシュの半透明をあらわしたものと推測できないか。
陰陽師安部晴明も賀茂保憲に師事して大陰陽師となりました。
彼は川の橋の下に式神を飼っていたとされます。
いやしくも神と名のつくものを飼うとはいかなる不敬かと考えるわけですが、小さめのスカイフィッシュだったとすると、なるほどという気もしないでもありません。
彼らに十二神将にちなんだ名前も付けていたんですね。
「イルカの日」という、イルカに爆雷を負わせて敵艦を撃沈するというアメリカ映画がかつてありましたが、ちょうど「スカイフィッシュの日」といった趣が平安時代にはあったのかも知れま
せん。
スカイフィッシュは直接戦わせれば一匹だけでも一騎当千どころでない働きをするはずです。
坂本氏によれば、戦う時のスカイフィッシュの鳴き声は、イルカのキュルキュルという高い声に似ているそうです。
しかし、晴明はそのような用い方より、祟りなす悪霊や怨霊をスカイフィッシュに捕らえさせたり食わせるなどの、人間に害をなす魑魅魍魎の類を滅することに専らとして用いたようです。
つまり、ゾロアスター教神話にある”カル魚”が霊食であるように、霊を食べる性質を持ち合わせているというわけです。
坂本氏によれば、死者の霊はスカイフィッシュに連れ去られて(食べられて)成仏するらしいのです。だから、五助谷の下の住吉霊園には霊がひとつもいないとは坂本氏の言です。
そこでゾロアスター教に言うカル魚が霊食という話や、また阪神大震災の震災前におびただしい数の謎のロッド状物体が撮影されたことなどが、一連の符合する話題となってくるのです。つまり、ロッドはいずれくる大惨事と死者の増加に対応すべく参集したのではないかと。
ナワリズムと羽根蛇の英雄伝説
2004年2月19日、武良氏の撮影したフライングヒューマノイドがテレビ放映されたわけですが、彼がそれを撮影した背景というのが、先に述べた「城山」なのです。
そこは龍脈の奔流と分流の分岐点ともいえそうなところです。
アンビリバボーでは、アステカの神ケツアルコアトルとの関連を推測しているもようですが、アステカの遺跡にたたずむ、まるで銃器などで武装するかのような宇宙人的いでたちの神の彫像と、空から飛来するという預言的伝承を重視しているからでしょう。
しかし、私はケツアルコアトルとスカイフィッシュの関連のほうが大ありと考えています。
というのは、この神の神殿に残されるレリーフは、頭部だけでも「龍」のそれであり、しかも羽根のついた蛇であったとされているからです。
ではなぜ、人であって龍やスカイフィッシュなのか。
それはメソアメリカに古くから伝承されてきたナワリズムにヒントがあります。
かつて、自分の死んだ先さえコントロールされるのでは困ると、死の直後イーグルに似た摂理によって自分の意識が食べられてしまう現実から逃れるために、不老不死を目指した人々がいました。
メソアメリカのインディオの間では、トルテカ時代よりも古くから経験的にその術を編み出し、師弟関係を築いて素質のあるものを呪師として養成し、その技法を伝えてきたとされます。
彼らはいちおうトルテックの戦士と呼ばれ、死の摂理からさえ自由になろうとする者でした。
彼らは修行の最終段階で、断崖絶壁から飛び降りるテストを行い、地上に激突するまでにテレポートするという荒業を敢行したそうです。
見た目にはそうですが、本質的には自分の命を維持できる世界を咄嗟に組み立てて、そこに移行するというわけです。
その場合、なりふりかまわず、形態的変化(変態)も受け入れたとのこと。
様々な世界を組み立てて試行錯誤するうちに目標を達成するだろうと図った、恐るべき冒険者たちだったようです。
彼らの崇敬する神ケツアルコアトルは、そうした自由のシンボル的な英雄だったのでしょう。
彼ら戦士たちは修行の末、最後にこの世界を離れるときには羽根蛇になったそうです。それが目指すべき英雄の姿だったのでしょうか。
羽化登仙とは、まるで中国の仙人みたいです。
さて、死者の霊を捕獲し食べるスカイフィッシュは、イーグルの摂理というべきものでしょう。
みごと食べられたら不成仏霊も成仏できるのではないのかと思うのですが、そうでもないことを知っているから、トルテックは逃げたがったのでしょう。
先ほどの、不成仏霊の行き先を考えてみてください。
なんせその先は誰しも未知というより、次の転生のために否応なくシステマチックな課程を辿らされるとしたら。マトリックスというわけですね。
そう考えたら、とても怖いです。まだ唯物論者の”死ねば無に帰する”という話のほうがどれほど幸せか。
おいおい、まさかそのようなトルテックが形態変化してスカイフィッシュ(羽根蛇)になったなんてことはないでしょうね。
いやいや、執念の強い修行者が龍になったという伝説も東北地方にはあるようですから。
ナワリズムに関わったインディオの多くいたはずのコロンビアは、スカイフィッシュ第一発見現場の大洞窟のあったところです。
羽化登仙に失敗し、しかも成仏にも失敗したトルテックが、スカイフィッシュになって洞窟の中に潜んでいたとすれば・・。
つまり地縛霊のようなものですね。
形態的変化を伴う意識の変容の結果、スカイフィッシュになったのだとすれば、スカイフィッシュは意識が組み立てた、時間経過の速い世界にいる生き物となります。
それがたまたま我々の世界とは空間を複在させている。
彼らは普通に暮らしていても、我々にはスピーディーに見えてしまう。
もしかすると、我々の地球も、誰かが最初に組み立てた世界であり、そこに弟子たちと共に住み着いたのが人類の始まりだったかも知れません。
あるいは動物や植物として形態変化してやってきたのかも知れません。
私は、今話題になっている火星が、宇宙的異変によって住めない環境になろうとするとき、そこにいた意識ある生物が地球という環境を組み立てたのかも知れないと思ったりします。
すべては意識に回帰するというわけですね。
みなさん、とてもだいじなものを持っています。
そして、世界には多様な生き物が意識を宿して暮らしているというわけです。尊重しあいましょう。

人の認識のシステムに関する仮説

これは人の認識に関するひとつの仮説です。
[UFOを「見る」「見ない」の違いとは]
UFOを「見る」人と「見ない」人の違いはどこから生まれるのか。
前に坂本氏の目撃しながら撮ったというUFOデーターを見て、これほどの数のUFOが出ているなら、神戸市民のかなりの人が見ているだろうと期待しました。
ところが、そのような話は一つとしてありませんでした。
では、彼が見たというのは嘘だったのか? そんなわけはありません。
UFOの写るビデオテープは先頭から六甲山系の上空に向けて、時折の山や周囲の景色に向きを変えるカメラアクションをまじえながら一連なりに撮り続けられているものの中にあります。
CGか何かで映像を差し込んだなどということもありませんし、そのようなことを実現する技術も能力も持ち合わせておりません。
また、我々のクラブに参加されたYさんは、このUFOデーターの流された我々の出演番組を見て参加されるようになられた方ですが、昭和51年を中心に数にして何十万機というUFOを見たと言われる人物です。
UFOがそれこそ満天に大量出現し、千変万化の湧出劇を繰り広げている様を、約三ヶ月に渡って目撃しておられたといいます。
しかし、家族や友人にその出現しているまさにその場を見せても、誰の目にも見えなかったというのです。
カメラという手段を思いつく前に、誰に言っても仕方ないという思いから、UFOを無視するようにしてしまわれたことが心残りのようで、分かってくれる人を求めて、我々のクラブの門を叩かれたのでした。
なぜ、UFOが特定の人だけに見えて、その他の人に見えないのか。
この点をクリアーにしておくことは、我々のクラブにとっても、非常に重要なことです。
人間についてもう少し掘り下げることで、分かってくることはないのか、と思っていた矢先、坂本氏から決定的手がかりと思える話を聞いたわけでした。
それは、彼が通常時において、昏睡時の脳波波形をしているという話です。
過去五ヶ所の病院において脳波測定をされたそうで、どこにおいても、これで生活できているのかと驚嘆されたそうです。
ネットで調べましたら、デルタ波は瞑想の熟達者に見られる場合があるとのこと。
確かに彼は日々座禅の時間を設けておられます。
また、生来の行者であるとご自身言われており、超次元的な武勇伝に富んだ人でもあります。
また、Yさんは気功師さんです。この方の傍に座っただけで向いた側の半身が熱くなるとともに、肩こりが半分なくなってしまうほどでした。邪気とか霊気を見ることもできるそうです。
また、私どもがお世話になっているHさんは、ご自身はこうした力をお持ちではないのですが、ご家族が霊の見える霊能資質をお持ちで、こうした環境にいるとどうしてもその謎を解明したいとお考えになるそうです。
ここに集まる者は、みなそれぞれに共通の疑問を抱えているとも言えそうです。
UFOと霊は我々は別物と捉えていますが、霊についても「見る」「見ない」という論議が昔からなされていましたから、トータル的に捉えられる概念が必要である気がしました。
そこで私からひとつの仮説を出そうと思ったしだい。
いま精神医学では脳の機能についてこんなことが分かっています。
言語、論理思考、分析などは左脳が得意とし、これが活性していると脳波はベータ波という細かい振幅のものが支配的になります。
一般的に活動時、覚醒時の人はこの波形のもとにあり、左脳が活躍しています。
いっぽう、空間認識、イメージ、芸術性、直感などは右脳の動きです。
この働きの活発なとき、アルファ波が支配的でありシータ波が混在します。
リラックスとているときや集中しているとき、目を瞑るときアルファ波がよく出ます。
いかに人間にとって、イメージ性豊かな状態にあるとき、くつろげるかが分かります。
深い瞑想状態でシータ波となりデルタ波が出てくるようになります。
坂本さんはちょうどこの状態で日常生活を送っておられるわけです。
こうしたことから、脳内電流の振幅に応じて、機能分化された脳内の部位が優位的に励起され、その他の部位が劣位的に従うといった関係があるように思われます。
[サバンの人の脳にみる人間本来の能力]
11月29日の毎日放送21時からの「人間の脳」のメカニズムの深奥に迫る番組「生命38億年スペシャル・人間とは何だ!?」を見て、さらに思いを巡らせてみました。
脳神経系に障害があることによって、逆に何らかの天才的な能力を発揮するという症状をさして「サバン症候群」と呼ぶそうです。
この番組では、脳梁が欠損しているキム・ピーク氏の才能の分析を通して、我々の脳内でどのようなことが行われているかが推測されていました。
彼は瞬時に任意の日付の曜日あての高速カレンダー計算をやってのけ、見るものすべてを間違わず脳の中に記憶してしまいます。
記憶の貯蔵力は少なくとも3才以降の事柄すべてにわたり、日常見聞きする事柄から、図書館規模の蔵書にいたるまでくまなく暗記し、しかも情報の取り出し時にはそれら情報間の相互の関連が見事に取れているといいます。
また、事故によりそうなった後天性サバンの人の場合は、記憶の力とカレンダー計算する能力が独立したものであることを示しました。
しかも彼は曜日を「(勘で)言い当てる」という言い回しをしています。
キムさんのように脳梁が欠損すれば、右脳と左脳の連携がとれません。
ではキムさんのコンピューター顔負けの演算能力はいったいどこにあるかというと、番組では明確にされませんでしたが、私は直感の座、右脳だと思います。
サバンの人は解答をイメージとして頭の中に湧かせており、彼自身何らかの演算用の公式を頭の中にインプットしたわけではありません。
計算公式が古代からの遺伝によって先天的に原始的脳に築かれているという推測が学者さんから出されていましたが、これには疑問をもちました。
同様にイメージの湧き上がりとして情報が訪れる「遠隔透視」や「テレパシー」などは、脳内だけで説明できる話ではありません。
「遠隔透視」のように外界で起こることを肉体に備わった観測能力を使わずに観測する現象は、何か別のものを仮定せねばならないはずです。
私は、右脳あるいは原始的脳が仲介してさらにアクセスしている未知の何かがあると考えます。
右脳はインスピレーションの受信をもするので、直感脳と言い換えてもいいでしょう。
サバンの人は、直感的にイメージとして正解を得ているのです。
イメージとして湧いた情報が、正しい答えである可能性が高いとすれば、人間は余分な迂回をせずにすむことになります。
ただし、サバンの人のように純粋であり、余計な偏見をいだかなかったら、という条件がつくようです。その偏見とは何か?がこれから論ずる問題なのです。
何ゆえ記憶の質の良し悪しがあるのかについて、ある精神医学者は、サバンの人の脳は見たものを一点の曇りもない鏡のように捉えて記憶の貯蔵庫に運び込んでいるのに対して、一般人は物事を幼い時から培ってきた「既成概念」を通して見るため(たとえばボールを直接に見ているのでなく、ボールという概念で見ているため)正確に記憶され難いという話をしておりました。
また記憶力がいいとは、正確に記憶したものを、すばやく取り出す力が優れていることです。
一般人はキムさんのようにはいきません。記憶と情報取り出しの能率が、脳梁を介しての左脳との情報交換を経て減殺されている可能性があるのです。
番組では、「損なわれている」とか「減殺されている」といった表現は使っていませんでしたが、記憶力の良し悪しが人の優劣をも決めている学歴社会の元においては、このように表現する
のが適当でしょう。人はみな、これを解除する魔法の種をほしがっているわけですから。
しかし、サバンの人の脳は、元来人間の脳とはこういうものだ(った)ということを示しています。
なぜ元来備わった記憶力がクリアーにならないのか。私はこう考えます。
右脳の認識が左脳の回路を経ることによって、培われた「概念」(常識など)によって分析され、取捨選択されて顕在意識の上に最終確認事項として認識されているのではないかと。
これが記憶の錯誤になったりすると考えます。
元来、記憶とは、曇りなく記憶されれば、ちゃんと脳の中にしまいこまれます。
実際、催眠術では直接施術者が被験者の脳に直接働きかければ、その時刻に何があったかの細部まで思い出せることが知られています。
これは最初に左脳の認識のフィルターを通す以前に、どこかの脳か(右脳でしょう)がストレートに記憶していることを意味しています。
ところが、被験者が普通の状態では、思い出せないのです。
左脳という分析脳が記憶を取り出すときに、何か細工をしているわけです。
それを称して、「潜在意識」はけっこう何でも知っている。
潜在意識に働きかければ、みるみる記憶能力が開発されるなどと言っているわけです。
その意味は単純に、左脳の思考回路がいかに邪魔しているかを物語っているわけです。
ほんの隣にある自分の持っている記憶でさえ、認識できないようにしているのが、自分の中に同居している。
矛盾している気はしますが、これはこれなりに重要な機能であることは紛れもありません。
無駄な機能など、人間にはありはしないはずですから。
もっと言うならば、右脳で認識するものと左脳で認識する(認識したがる)ものは違っているのではないかと考えられます。
右脳がストレートな認識とそれによる記憶を促進するものなら、左脳は右脳の無闇な認識と、溢れるほどの記憶の流出を押さえ込もうとする機能があると考えられるからです。
ただし、どちらの認識も自己保存を基本にすえているため、対象の認識はひどい歪曲をされたりはしません。
決定的に違ってくるのは、既成概念の枠にはまらない不可知の対象が現れたときです。
右脳であればストレートに捉えますが、解釈分析の左脳がそれを都合のいいように加工してしまうことがあると考えられます。
このとき、その人が右脳思考に偏っていれば、見たままに捉えやすくなり、左脳思考に偏っていれば、見る対象を別のものに置き換えて認識させたり、見えなくしてしまう(認識されなくしてしまう)こともありうるというわけです。
この仮説のもとになった啓発的な概念は、中南米のシャーマニズムのナワリズムです。
カルロス・カスタネダの呪師シリーズは本邦でも読み親しまれていますが、この中の師匠ドン・ファン・マトゥスの言葉として、「人は一覧表を持っている」というのがあります。
一覧表とは、自分の意識が傷つかないための認識の一覧表、つまり既成概念で培った砦のことで、人は知らず知らずのうちに、見る対象を一覧表と照らし合わせて捉えて認識しているというのです。自分の意識のコントロール下に置くことによって人はようやく安心できる。そこで人類は長年の経験を通して、一覧表の砦に立て篭もることに安住を見出してしまったというのです。
そこでナワリズムの世界に入るには、この一覧表を壊すことから始めるという具合に、弟子であるカスタネダを訓練していくという話なのですが、弟子になる基礎的な資質についても語られています。それは、ある程度の霊能資質というもののようです。
UFO発見のメカニズム
UFOを「見る」「見ない」は、以上の考え方で説明できるかも知れません。
どうなるかと言いますと、視覚に入った情報は、視覚野でいったん像を結びます。
それをまず、右脳が処理して記憶にイメージのままに送り込みます。
ところが左脳に送った段階で、既成概念と照らし合わせて、認識するにまだしも妥当な部類のものは、多少のコメント付けをした上で、顕在意識の上に乗せてしまいます。
得体の知れない動物が目の前を通過したなら、これは狸ではないかといった安心できるコメントを付けてです。こうした反応は、誰しも経験されていることでしょう。
ところが、霊やUFOのように不可知のものが現れたときは、パニックを避けるために、あえて顕在意識の上に上らないようにカットしてしまうというわけです。あるいは、気のせいにしたり、鳥や飛行機と見間違えさせてしまうこともある。
だから、むしろ「見ない人」のほうが、けっこう特殊能力を駆使していることにならないかと思います。
坂本さんのUFO撮影テープは、彼のみが目撃し、見たままにカメラ機材によって捉え得たという事実を示しています。
ならば、どちらがおかしいか、という言い方をするなら、一般人のほうがおかしいのではないか、となるでしょう。
むろんUFOが彼だけに特別見せて撮らせたのだ、といった解釈もできるでしょう。
そのほうが簡便なように思えますが、ではUFOとは何ぞやの話となり、途方もない思索がまたぞろ必要となるでしょう。しかし、この時点では、この奇妙な話も、心理学や精神医学のより一層の発達で解明される問題だと思うのです。
さて、この記事を発信しているのと並行的に、つい先日、Gの嵐の取材ロケ時に出てきた、六甲山ホテル上空の20~30機の球体UFOは、テレビカメラには星のような白色発光体として映っていながら、私の目には薄橙のバルーンのように見えました。
私ももちろん一覧表を持ってます。不可知なものに対する「合理化」精神を持ち合わせているとでも申しますか。(^^; いくらUFOには寛容といえども、この程度だったかと思っているしだいです。
社会脳進化の過程
右脳が自在な認識脳とすれば、左脳は社会脳と言えそうです。
集団の中で折り合いをつけて暮らすには、老若、年功、地位序列、専門非専門などの組織に従う、掟に従うということが要求されます。
チームワークをとるために、元来あった能力をもわざと封じねばならなかったのでしょう。
人類の進化の過程を見るような気がします。
おそらく、脳幹は純粋な観測機能のみであったものが、右脳ができて観測する対象をどう認識するかという機能がついた。この段階までが、たぶん神話に言う人類の黄金時代だったでしょう。
彼らが神の示された全地を見て愛でる役割を持った人々だったのです。
しかし、生めよ増やせよ地に満てよ。その結果、狭い全地に折り合いをつけて暮らす必要性が出てきて、神はもう一段階左脳を付け加えられた。
人々が集団の中で、限られた資源をどう分配するか。
このために適当なところで折り合いをつける社会脳が必要だったというわけです。
いま、私は神がなされたふうに書きましたが、長い何百万年の進化の結果そうなったとお考えになればいいでしょう。
現在では社会脳は、見えないもので証明されないものは認めない、という流れです。
これに従うことによって、人々は安泰に暮らしていると言えるのです。
しかし、なくしたものも多かった・・・と。
[見れども見えずの妙技と、社会脳の醸す閉塞感]
既成概念なしにストレートに対象を捉えることができれば、記憶もスムーズに行き、脳の記憶の貯蔵庫にスムーズにアクセスできる。何と素晴らしく、また難しいことでしょう。
かつて私も、中学の頃は無邪気で、ストレートに先生の話が耳に入っていました。
背筋を伸ばして、いい話だなあと先生の顔を注視して話を聞いていただけで、家で勉強などせずとも、友達とボール投げをしている間に、マンモス学年のトップクラスに行っていました。
記憶力だけで勝ち取った優秀高校への進学でした。
社会で必要になるはずの論理力はありません。今でも。
物憶えの天才とは、物事にレッテルを貼らないで記憶する人のこと。
サバンの人は、徹夜の苦学とか、連想記憶術とか、計算の公式の準備なしに、本来人間に備わっているコンピューター以上の能力の存在を証明しています。
そのスムーズな情報の流れを阻害する要因こそ、培われた「概念」であり、こうあらねばおかしいという意味づけのレッテルであり、個々人のそれぞれで少しずつ異なる「心」だったことになります。
それは決して悪いものではないというのが、現代に暮らす人のあり方となります。
ナワリズム的解釈によると、人はみな一人一人が、外界で生起する様々な出来事に関する「意味づけの一覧表」を持っているということです。
それは彼が未知の事態に直面したときに、とっさに認識を変えるための「合理化」の砦のようなものです。
もしこれがなかったなら、ただちに彼の脳はパニックを起こし、より重要な部分にダメージを被ってしまうことでしょう。
特にこの複雑化した社会に適応するには大事な機能と言えます。
その結果として、思い出したくない記憶を失ったり、直面した対象を自ら認識できる範疇のものに置き換えて認識するといった芸当まで行っていると解釈できます。
すべて、自己の安全を図るための脳の起こす防御機能です。
それが過度に複雑になってしまったのが、現代人の脳。
だから、そこにあるはずのUFOが見えないという不思議も生じるし、それはそうであって差し支えないことです。
しかし、非常に多くの可能性を、手ごろな安住と引き換えにしてしまっているとも言えるのです。
みなさんの脳は本当にそれで満足していますか?
閉塞感に苛まれてはいませんか?
脳は本来の自分を取り戻したがっていませんか?
現代人は、複雑な人間関係、難い仕事やノルマの数々に、現代人の脳は「変換認識」(私の造語)をフル回転させています。つまり、様々な合理化の繰り返しです。
これは自らの純粋な心を偽ることでもあり、いよいよ人は純粋状態から離れていきます。
このようなことが多くなれば、この人の脳は、やがて最も自らを安定的に維持できる認識形態を作り上げ、それ以外のやり方を排除するようになっていきます。
それに社会的に成功したという経験が付加されれば、この生き方しかだめだと思うようになり、年をとるに従い頑固者、偏屈者になっていくわけです。
ところが、人それぞれに経験することが異なるため、それぞれに違う認識形態を作るわけですから、なかなか折り合いのつくものではありません。
心の多様性だけはどうにもならないからです。
自分の持つ認識形態を最善として、それぞれに違うはずの他に対して強制するようなことは、悲劇を生む元となります。
今の社会(世界)は、一律の既成概念を作り出し、画一化を懸命に進めています。
それは社会脳の活動の促進が目的なのでしょうが、今の世界はどう見ても、うまくいっているようには思えません。
相手が人間であるだけに無理だと思うのです。
そのような社会では、脳は反抗するか逃げ出すかのどちらかです。
生理学的な脳は素直ですから、創造性を封じられれば、大脳を持っている意味はないといじけ始めるでしょう。
また、脳はリラックスできないような状態を継続させられたら、自殺を企てるかもしれません。
といっても、欝とかボケとかいった縮退する形でです。
断眠実験をした例を見ましょう。睡眠中の夢を継続的に妨げただけで、白昼夢を見たり精神異常をきたしたりするといいます。
また、一日八時間の睡眠を取れない状態が一週間続けば、三日間断眠実験した脳と同レベルのぼんやり脳になるという実験結果も出ているそうです。
人は眠りを必要とします。目を瞑り、眠りにまさに就こうとするときに、彼の視覚の中には、色彩豊かな幾何学模様が形を失っていく様を見ます。
このときアルファ波からシータ波が支配的となり、右脳が活発化します。
そして夢見の状態となり、現代人はそこで初めて脳を遊ばせることになります。
つまり、現代人は、脳のストレス状態から駆け込むようにして得る、安眠の状態の二極を行ったり来たりしているのです。
そのバランスが崩れたとき、自律神経失調とか精神神経症状なども起きてきます。
もしも、リラックスした脳の状態で仕事が続けられるなら、彼は睡眠など必要としないかもしれませんが、そのような仕事が得られないのも現代社会というものでしょう。
自殺者の増大、ボケや欝病や薬物アルコール依存の増大。キレやすさが原因の凶悪事件の増大。
人生がこれほど面白くなくなった時代もないとお考えの方も多いようです。
すべて、脳の禁断症状ともいえるものかと思います。
かつてありし日の脳が怒っているのかもしれません。
人権とは、肉体の存続に関わるものだけではありません。
意識を持つ個としての尊重、そして自由な創造性の保証があってはじめて人権と言えるのです。
加えて、立場の違い、経験の違い、培った概念の違い、ひいては培った心の違いを互いに認め合うべきことを、新しい精神医学分野の研究は物語っているように思います。
まとめ
余談ばかりになってしまいましたが、私の論じようとしたことは、いたって簡単です。
1. 人はイメージを扱うストレート脳で記憶を正確に簡単に行うことができる。
2. ストレート脳は、見たものを見たままに捉えている。
3. それを顕在意識に安易に上らせない分析脳が存在する。それは社会脳とも言える。
4. 分析脳は、視覚で捉えたはずのものさえ、思考のフィルターをかけて、意識上に像を結ばせない作用をすることがある。それは脳にダメージを与えないための機能である。
5. UFOや霊現象が一般人に見えないのは、分析脳のフィルターでカットしている可能性がある。
以上のようなことを、長々と論じました。
小さい子供は、神様や霊などをよく見たりします。
しかし、長じるにしたがって、その能力は失われていきます。
社会脳が成長して、ストレート脳を凌駕していくことによります。
こうしてその子は、普通の社会人となっていくわけです。
もったいないような気もしますが、仕方ありません。
しかし、稀に資質をそのまま残して長じる人がいることも事実でしょう。
(メルマガ13号の記事から若干の補稿を加え)

アラディア  魔法使いの助けを呼ぶ歌

曲名 アラディア

作詞/作曲 森野奥人 M.G
[歌詞]
No.1
時は流れ
日々はすぎて
雲立つ空よ
風は巻いて
木の葉散らし
影立つ君よ
まだ見ぬ人よ
私の胸に
灯りを点して
去った人
ああ今日会うのね
限りある命に
ようやく巡ってきた
この時
ああ、これも青春
年を経た青春
No.2
ネットの海
小船浮かべ
ただ待ちました
行過ぎるは
冷たい風
凍える心
待ち続けても
帰らぬ人と
思い固めて
幾年月
ああ今日会うのね
限りある命に
ようやく巡ってきた
この時
ああ、これも青春
年を経た青春
「アラディア」のいわれは、古いイタリア地方の民話にある。
https://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/essey/aladia.htm
2004年7月12日に奥人作の実話に基づくSF物語「遥野不思議紀行」に登場のGさんが来神されて双方のUFO談義に花が咲いた。坂本氏がUFO/スカイフィッシュを呼ぶ音階について話していたときだ。Gさんは2003年11月に見た不思議な夢のことを話し出した。
その夢の中には魔女がでてきて、「ドシドレシラ・・・」と言葉を口ずさみながら踊っていたという。そこには何の音律もなかったが、これが魔法使いを呼び出すときの暗号であるというふうに彼に教えたというのである。
このたび、奥人が関心を持ち、その言葉を反映して作った歌曲がこれである。
みなさんもよければ歌ってみてほしい。困ったときに魔法使いが助けに来てくれるかも知れないから。
2003年11月といえば、その前の10月に武良氏が、「杖に乗った魔法使い」に似たの映像を映していて、ちょうど千と千尋のハク似のUFOが撮られた矢先でもあり、関連的に湯ババかもなどと評してもいたときでもあった。おりしもブラッジャーやスニッチ型UFOも紹介しており、テーマ的に魔法使いがモチーフとなったUFO現象のオンパレードの時期でもあった。
Gさんも我々と息の合う人物であったから、異界が彼を通じて何かを伝えようとしたとしても不思議ではない。
その傾向は続き、シャチ(マカラ)天狗系を筆頭になにやら神界レベルのすごいUFOが続々登場してきている。
Gさんの話によると、魔女はヨーロッパ人風の風貌で、しかも二人出てきたという。
そこで彼の言うには、イタリアの民間伝承にいうディアナとアラディアではないかというのだ。
伝承では、なんでも太古の昔、ひとつの神がディアナ(月)とルシファー(輝き 太陽)に分かれたそうである。ディアナはルシファーが愛しくて一緒になろうとするがルシファーは拒むので、ディアナはルシファーが猫を愛好していたことから、黒猫に変身して契りを持ってしまい、娘アラディアを産み落とす。猫に化けて交わったことを知ったルシファーは怒り心頭となる。以後、ディアナを近づけないようにした。そこでディアナとアラディアは、一計を案じ、歌を作って歌うことにより、ルシファーの怒りを鎮めたという。
Gさんはそのときの歌について自分は夢見たのではないかというのだ。
そこで、二人の和を取り持つにちなむこの歌曲名を、彼の子の名にちなみ「アラディア」に変えることとした。いかにルシファーといえども、わが子には微笑むことであろう。
イタリアの原始信仰におけるルシファーは、輝ける者、太陽のことだった。ディアナはその配偶者で月であり、生まれたのが魔女のルーツ的神格アラディアという構図である。
そこにキリスト教が入ってきてこの旧概念を排斥弾圧し、魔女狩りなどへと発展してゆく。
ルシファーは太陽の座をキリストに奪われ、僭越な光を放つものとして金星へと象徴的に退去させられた。
つまり神々の世界における世界共通の原初神引退神話がここにも存在しているわけだ。
キリスト教にしてみれば、土着の民族神話は排斥されるべきものであり、いきおいルシファーは堕天使から悪魔にされ、その妻娘は魔女とされたわけである。
ここに出てくるルシファー像は、悪魔のそれではない。新勢力により排斥された旧勢力の信仰の象徴であるわけだ。
またここも↓ BGMがダブるので注意されたい。
- 太陽と月の神話 -
またここも↓
鞍馬山ウエサク祭の謎解き

六甲UFO喫茶

曲名 六甲UFO喫茶  

作詞/作曲 森野奥人
六甲山系によく出現するUFOをなじみやすくするための歌
六甲山にはUFO喫茶がある。
彼らはどこからともなくやってきて、
この喫茶店を交流の場にしているんだ。
異種族が主義思想の隔たりなくつきあい、
最後は、音楽に合わせて踊り始める。
地の果てで、こんな光景が見られるのは
六甲ぐらいのものだろう。
[歌詞]
No.1
空を見上げりゃ
光が見える
UFO通りに
灯がともる
ここは六甲
地の果てよ
怖いもの見たさで
やってくる
ハァーハァー
出てきてください
UFOさん
No.2
君はどこ行く
六甲がいいわ
UFO喫茶が
あるんだよ
そこは異国の
ふんいきで
仮装姿が
踊ってる
ねえーねえー
一緒に踊ろう
宇宙ダンス
No.3
地球よいとこ
一度はおいで
UFOさんには
来てほしい
やがて地球も
正されて
宇宙文明の
仲間入り
あらーまあー
宇宙旅行も
夢じゃない
(さあーみんなー
アンドロメダに
行きましょう)
六甲山は日本では知られたUFO目撃地帯である。
- 六甲UFO喫茶 -