バッファロー正義に燃えて臆病を返上

お盆の時期にもけったいな情報的なシンクロがやってくるので、敬虔な人類のみなさんには申し訳ないが、ちょっと書いておきたい。
先祖供養とは遠くかけ離れているため、今は読まずに、お盆が終わってから読みたい人は読んでもらいたい。
まず、見終わるまで長くかかる映像をお送りする。
要点を言うと、群れから外れて、ライオンの襲撃から逃げ遅れたバッファローの子供が、まさに食べられる寸前で、戻ってきた親たちの反撃によって救出されるというものだ。

弱小な一般市民たちは、遺伝子に刻み込まれた種族の臆病さを克服して、ついに生贄を要求し続けていた抑圧簒奪者を追い払った・・・ようなことを象徴しているような映像だ。親バッファローの、及び腰ながらも果敢に攻撃する勇気に心を切り替える場面がミソだ。視聴者数1000万を超える空前の大ヒットとなっているのも頷ける。
自然界の「弱肉強食」の掟からすれば、致し方ないことのように思われていることがたくさんあるが、これは「自然界でさえも、随所でその節理自体の是非が問われている」シーンであろうと思われる。日テレの報道番組で流れたために、探したところ見つかったものである。たまたま、次のような記事を思いつくままに書いていた矢先のシンクロとなった⇒ https://ufocolumn.blog2.fc2.com/blog-entry-359.html
自然界においても義憤の反撃があるなら、人間界においては言うに及ばずであろう。
そのようなとき、またびっくりするような話を見つけた。
https://alternativereport1.seesaa.net/article/50333133.html
私からすれば、背後のことは自明の理だったようなものだが、よもや聖書の原型がこのようなことを語っていたことまでは知らなかった。
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ローマ・カトリック教会の用いる聖書(旧・新約聖書)よりはるかに古い(8000年前)、最古の聖書である、古代シュメール語版聖書の中には、こう記されている。
神は天から金塊等の貴金属の採取のために地球に訪れ、人類に貴金属の蓄積を命令した。神は人間を家畜として育て、人間の肉を食べ、血液を飲み、食事とした。神は、「一部の選ばれた人間達」に貴金属採取を任せ、地球を去った。「選ばれた人間達は」貴金属採取のために、神の命令の下、全人類を奴隷とする権利がある。この奴隷を使い金塊を蓄積し終わった時、不要になった奴隷の全人類を戦争で絶滅させ、神の来訪を待つ。人類の絶滅と金塊の蓄積を確認した神は、地球を再び来訪し、地上に「神の国」が実現する。神に「選ばれた人間達」は、他の人間達を支配する権利を確認するために、「神を真似し、神と同一の行動」を取る。神と同様、選ばれた人間達は人間を殺害し、その肉を食べ、血液を飲む儀式を定期的に行う義務がある。
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これは本当のことなのか???
よもや戯作しているということはないのか?
私としては単に、マトリックス主催者とはこういう存在として捉えるだけでいいと思っていたのだが、ここまで出揃うと、私の今までの仮説はもはや真実と言っていいだろう。
この神の意向を汲む者は、「選ばれた人間達」つまりエージェントとして動いていることになる。貴金属とはモロにその意味なのか、それとも象徴なのか。(人間の意識体験、感情、真理の発見といった、彼らにも啓発になるような美味しいもの、あるいは勤勉の労力、血と汗といった)
そこで、あのバモイドオキ神の絵柄を思い出す。酒鬼薔薇君はとんでもない神と対話していたことになるが、むしろ素直に神の実像を見ていたことになろう。
https://ufocolumn.blog2.fc2.com/blog-entry-100.html
https://ufocolumn.blog2.fc2.com/blog-entry-291.html
そうした邪神含めその代理人的ヤカラは、地球の自然界に住む立場の我々からすれば、インベーダーつまり寄生虫でしかない。我々もかのバッファローがやったように、勇気を奮って追い出すということも必要ではないのか。そのためには、まず根本を知ること。目覚めることしかない。
だが、今は残念ながら人類そのものが洗脳されていて、寄生虫扱いの上、全滅させられつつあるようでならない。それは支配神の思う壺、シナリオ通りでしかないことになる。
また、これはUFOや宇宙人の問題、予知夢など含め予言の根幹にも関わることだ。善良一辺倒神話は見直すべきであるし、慎重な見極めが必要になるだろう。すなわち、残忍なエージェント側に着いた者の工作である場合のあること。これからの忠実な手下として、危急時に救うUFOもあるということを見越さねばならない。
私が生き延びよ、桃の実の救いがあるからと声を大にしていたのは何だったのか。もはや、何が何やら、さっぱりだ。
サバイバル後にもカンが必要とは。いやはやたいへんな時代になりそうだ。

講釈・・・理想と現実のギャップがもたらす破局

人はどうして幸福を追求するようになっているのか。
幸福の対象が外にあると思い込んだから、自分の中にあることも気付かなくなったという説話がある。
そして放蕩して疲れ果てて、最後には導師の示唆でようやく気がつくという話だった。
ここで話をしていきたいのは、内面に向かえといった話ではない。
人は、常に幸福であることを願っている。
これは誰にも曲げることのできない真理だということ。
この理由にまつわる話を、私の仮説をもとにしてみた上で、現在の危機的状況の意味を考えてみたい。(赤記は心のノイズゆえ二度読みしたときに読み足されたい
幸福の中味はそもそも何であったか。心理学などを駆使して、いろいろと分析していかなくてはならないところだが、
もし新神話から引かせてもらうなら、意識の本来の姿は純粋無垢で、観測しているうちでは純粋叡智に浴しているときがいちばんであったから、その記憶を模索しているわけだと思う。私はこれが人が本能的に幸せを志向する原因だと思う。(その記憶がどこかに強く残っている人もいて、個人差なんだろうが、現実にはそれを見出すことができないと思い込んで、仏門に入ってしまったりする。まあ、それに対する答えもいずれ出すことになるが、今回のテーマではないので割愛する)
原初のとき、彼には何のストレスもなかった。理想と観測的現実との乖離は一切なかった。ただ、全知である純粋叡智に浸っているだけで、至福と万象の素の精髄に触れ、あらゆる理解が至福としてそこにあったと推測される。(私も幼時には三昧によく浸ったが、その世界の味は現実の何物にも引き比べられなかった。おそらく原初に近い位置に入り込んだのかと思う。あの霊妙な旋律はクラッシックに似てはいたが、この世のどこにも存在しなかった
心が動き始めたのはいつのことだったか。水平面に波が立ち、屈折によって色が生じてくると、彼はつい面白そうな現象と思うようになり、その現象に惹かれていった。ほんの些細なストレスとともに、意識行為の遅延がそこから始まった。これが、それ以降の万象の展開の始まりとなる「ゆらぎ」である。
要は、その不思議な至福を「理解しようとしたとき」に波が立ち、ゆらぎは起きていることだ。理解していく過程と筋道が、彼にとって必要となった。(思えば、理解など必要ないことだった。知恵の木の実を食べたとはこのことではないのか。ただ、感得される世界の良さだけを愛でていれば、幸福だったはずではなかったか。その三昧境は分析しようとすると逃げていった。右脳の働きを左脳が阻害するようになったと喩えてもいい。大人になるとは、そういうものだったと後に気付いた。これは果たして進化だったのか?
筋道は道だから、移動という中に時間の観念が生まれる。梵の全系の展開は時間の経過の中で行われることとなった。
展開は、ちょうど「如意の珠」に、分析の光を当てて観測するようなやり方だ。(如意珠とする理由は、現れること、考え付くことの全部がその中にプログラムとして入っているからだ。ホログラムの塊と言うべきかも知れない)
ここにプロセッサー的な要素が生じたことになる。コンピューターがシミュレートモデルとしては相応しくなるわけである。
さて、ではいちばん時間的な末端(最先端)はどこになるかと言うと、今あなたや私の心の中で営まれている、ほんの些細な心の動きや認識のひとコマがその場所だ。(何段階もの多重夢の末に今がある
外界はこんなふうだったという記憶の連合の中にいて、それが保証してくれる因果の基盤に立って、自分の時間的位置を確認し、自分の思いを新しく構築して、記憶に組み入れて、自らの経験としている最中にあるのだ。(記憶領域が完全に欠損すれば、彼は新たな観測の時空に立つことになる。記憶喪失も、死も然りである)
記憶の中には、もしかしたら原初の部分も潜んでいるかも知れない。しかし、そこが起動される時間は少なくて、もしかすると熟睡している最中にこそ、それが起動していたりするかも知れない。記憶の受け渡しがないから、どんなことになっているかが分からないだけだ。(睡眠がとれなくなれば、人はなぜ発狂するか。だいじな時間が、別の意識活動のために、割り当てられていると考えたほうが妥当だろう。)
人生の数分の一を占める睡眠は、どんな動物の意識にも認められている特権だ。
知る者とてない元の自分がそれほど近くにあっても、大切に思う者はどこにもいない。
(無知の科学の下では・・いずれ人は・・ロボットになるか発狂させられる)
然るに現代は、睡眠の量を減らす方向に傾倒し(起きていても大脳の数%しか使っていないとか理由付けして)、未だかつてないストレスを個々の意識に対して掛けている。それは増強されることこそあれ、減少される方向にはない。
ストレスとは、理想(幸福)と現実のギャップから生産される。理想家であればあるほど、この世との折り合い方がだいじになるが、それを容易にさせようとしないのも今の社会だ。
おそらく陰謀論者なら、人間の脳を策謀的にロボトミーしようとしていると言うだろう。
だが、うまくできたもので、人はそうなる前に、無意識的願望としてのカタルシス(浄化、洗滌)を起こし、心身症や鬱や原因不明病になり、ストレス源からの離脱を合理的に図ろうとする。
そこにも逃げ道がないとなれば、さらにカタストロフ(破局、破壊)へと、まるで自然のように歩を進めることだろう。
無意識的に脳を破壊して痴呆症になったり、身体を破壊すべく癌を作ったり、さらには顕在意識をして自殺などの具体的行動を採らせたりする・・といった方向に誘導していくはずだ。(心の反逆は、心の閉塞と抑圧の環境の中で醸成される
痴呆はストレスを軽減できる麻酔の良薬のようなものかも知れない。(本人は幸せな心に回帰となるが、周りはたまったものではない)
酒や薬物依存も同様の意味のものと捉えられよう。(規制と代替薬品による対症療法しか講じられない科学は敗着の学問)
本来なら、ストレスを生む元となる社会構造の改善変化があって然るべきなのに、いったい科学者なる者は何をするためにいるのか・・為政に対して知恵を供出できずにいて、まったくいかがわしい存在と言うしかない。
改善の変革ができないなら、また意識が希望を失うことにもなり、個々人の心の病態もよりひどいものとなるだろう。(そのとき、もしも世界にカタストロフが生じたなら、こうした人々は逆にのびやかになる可能性を秘めている。平常に慣れた人々がパニックになっているようなときに、どうなるか見ものだ。にこにこしていたらキモイだろうな。いや、どうあれ、冷静な人がそのときこそ必要になる)
さて、個々人の意識が人類全体の意識として集合して、集合無意識を形成するという認識で正しいだろうか。
相手が集合無意識となれば、雲を掴むようで理解困難かもしれないが、個々人の場合の拡張的相似像としてなら測ることは易しかろうと思う。
日々のストレスと閉塞感が上がってくる集合無意識の器があるとしよう。集合無意識も生命のようなものなら、器の中を洗い流したいというカタルシス願望をそこに抱くことだろう。
それは、まだ顕在化しない形で、アラームのようにして出てくる。
まずは模擬(代償行為としての予知夢、映像的シミュレーション化、科学者などによる未来予想)として、精神感応し易い仲介者をして警告を発せしめ、個々人にフィードバックするわけである。このままでは危ないから、何とかせよと。(ジュセリーノ氏の助言者とは、集合無意識である可能性がある)
もし効果がないなら、集合無意識はついに自己治療の道を模索するだろう。自然の猛威で、原因を取り除くようなことが出てくる。ここまではまだカタルシス(浄化)の段階と言える。
だが、それでもだめなら、ついにカタストロフ(破滅)へと歩を進める。人類の想念をそれ以上収容できなくなって、集合無意識自体を閉ざすべく、人類を滅亡させるカタストロフを引き起こして、自ら死を選ぶわけである。
刺々しいストレスが浄化されることもなく、無意識の中に鬱積する一方であれば、しだいに復讐心のようなものとなり、カタストロフへと道をつけていくと言い換えてもいい。個々人の心理の中で起きる変化が、集合無意識にも起こる。(こんな大きなものに痴呆化されたらたまったものではないとは思うが、すでに人類は半痴呆状態に陥っている。でなければ、為政者に悪魔を据えて平気でいられるはずがない。人類それ自体が生態系にとって癌と化したのは、すでにカタストロフの過程に入っているからだろう。そうなれば次は、自殺するのではないかと推測が立つ。戦争を痴呆者の間に起こして、全滅を狙うというわけだ)
そのいっぽうで、社会的カタストロフの先に解放的未来ありとする、古代から連綿として蓄積された潜在的願望があって集合無意識の大きな一翼を担っている。それはまるで冒頭に述べた原初のよすがを投射しているかのようで魅惑に満ちている。そう。そこに我々は戻りたかったのだ。そこに真の幸福があったと、心のどこかに記憶しているがゆえに、心が強力に渇仰しているものであった。
だが、その話は渇仰する集合無意識が作り上げた幻想とその増幅作用ではないのか? 
この夢のような理想がもう一方から牽引している。とすれば、カタストロフ願望とこれの両者が合力して一足飛びに具体化させてしまうことにもなるかも知れない。
何も人々の鬱積した満たされぬ思いだけが、破局の引き金になるのではない。恐ろしい自爆装置のような条件付けを、人類は初期の頃から負ってしまっていることも考え合わせねばならない。
集合無意識も、人類の思いを集合させて、その解放的未来を夢見ているかのようだ。その中味を誰かシミュレートしたことがあるのだろうか。
集合無意識が臨終をかけた最後のご奉公として、確率的に量子が稀にとんでもない飛躍をするように、未知の扉を開く者が出るのかも知れない。
我々は、未体験ゾーンとなることを覚悟して臨みたい。

講釈・・・梵の夢見から現在まで

長逗留されている方々、ご苦労様である。にゃんこ
よくぞ、梵の夢見にお付き合いくださった。
すべては梵の見た夢。
梵の夢見の開始と同時に、冒険ファンタジーは開始されたのである。
ここで、みなさんに夢見物語の背景を語っておこう。
すべての開始から神界の現在に至るまでのあらましをである。
このファンタジー世界の全貌を知るのに役立つであろう。

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講釈・・・未来を変える

詳しいことを事細かにする時間はあまり残されていないように思う。
何となれば、黙示録の神が自ら地上世界の支配を告げたこと。(これはシナリオだからいつかくることになっていた)
そしてジュセさんの警告のタイムリミットが間もなくであること。(これは警告しても見込みのないことの前提に立っている)
そしていくつもの兆候が出揃ったこと。(三千年に一度の優曇華(神の目)、桃の実(UFO)とイザナギ出現など)
さて、今回は奥人流未来変更ノウハウについて語りたい。といっても、何か現世利益が得られるというものではないし、信憑性の保証も何もないから、特許も新案登録もするつもりはない。(著作権は主張する)これはいけると思った人は、これで企業化でも宗教化でもなさればよい。それよりも個人努力が必要であって、時間つぶししている間などないと思う。
さて、それでは、眉唾的講釈をいっぱつカマそう。なに?臭い? それは芋食って腹が張っていた後の私の屁じゃ。どうじゃ、白檀の香りがするじゃろ。なに?タクアンの香り?
プログラム時空論は、予め言語により作成されたプログラムが存在しているという前提であった。この宇宙に限ったとしても、そのブート部の開始から最後を締めくくる命令語まで変更の利かないものとして、予め作られているわけである。
ところが、そのプログラムは、未実行分も含めて、選択肢として分岐していくべきあらゆる場合を網羅している。
よって、プログラムの実行方向が慣性方向にあるのみなら、先の未来に破断があるとしても、進行方向を変えることにより、破断のないプログラムへと進行先を変えることができるわけである。
逆を言えば、我々は、もう少し以前であれば、先行きの問題ないプログラムを慣性的に実行していたかもしれない。それをわざわざ方向を変えてまで、いずれ先の破断する(アボートする)プログラムへと舵を切ってしまった可能性もあるわけだ。(アボートとは流産のこと。あんたら嫁さんに無理させて流産させようとしとるんじゃ。馬鹿モノが)
そう気が付いたならば、どこかでレールの架け替えをすればいい道理であろう。
しかし、ふつう、人はそのような方法が分かるわけがない。万能とされる科学は逆に無知で教えることができないからだ。むしろ科学は、安全神話と隠蔽による安心の演出にやっきになるばかりで、これでは突然、アボートしそうな局面にきて、いきなりパニックを引き起こしてしまうだろう。そんなときに専門知識を持ち出されても役立つことはない。
そこで、観測界面のことしか教えない科学に成り代わって、本質を扱う真の科学によって、どんなふうに鮮やかに未来を変えてしまうかについて語りたいわけである。(本質を扱う科学??ああ、わしがするものはみな眉唾にキマットルわい)
仏教に、小乗と大乗の二通りの救済法があるという。小乗とは、個人の努力で個人単位で救済に預かる方法だ。この方法について、ジュセリーノ氏は、自ら未来を担うに相応しい精神資質の獲得によって可能であると説いているふうに見受けられる。(バロメーターの地球温暖化阻止というのは比喩じゃ)
心の性向が変われば、突然周囲の環境まで変化したような気持ちになることがある。このとき、人は自らの観測するプログラムを変化させた可能性がある。それをそのまま安定的に維持できたなら、レールが完全に変わるだろう。維持できずふらつく時は、また元のレールが相応しいものとなって戻ってしまうようなことにもなる。
私が高説をぶっている時空は、未だにレールは変わっていない。私が説教じみたことを書かなくなっていれば、レールが問題ない方向に変わったに違いないと、目安に思ってくれたらいい。(おいそれと謙虚になるつもりはない)
ぜひ、個々人レベルで、破断のない時空に逃れていただきたい。(個別でいい。早うこの列車から下りな。まだ途中駅はよおけあるでな)
さて、もうひとつ、大乗の救済法がある。これは、現在の人類が保持している破断に至ることを必然とする集合無意識を、問題ない性質のものへと変えてしまうことによる。今は集合無意識が人類全体の未来を滅びへとレール付けしてしまっているからである。
古来から多くの人々によって累積されてきた、”人類はいずれ滅びねばならない”という抑圧された意識が存在している。多くの場合、犯してしまったことの罪の意識。それがいずれ償われるから、今現在どんなに不完全でも良いという精神によって、滅びへの必然性が熟成されてしまっているのである。それをサポートし、誘導しているのは、神話だ。
我々には、人口の大半が発し続けてきた集合無意識へのインプットの流れを変えることはできない。なぜなら、あまたの予言は神話を裏打ちするように、いっそう人類の滅び志向を印象付けつつあるからである。それを逆回しにすることなど今さらできようか。もはや大衆教化という方法で太刀打ちできたりしない。(これは崩壊する相場の流れに対して、逆張りで応戦するようなもの)
ところが、人類の心を初動付けし、滅びの路線に導いてきたマニュアルである神話のほうを換えてしまうことはできる。つまり、火の元のガス栓を止めるわけである。
幸い、神話は、人々の理解するところではない。むしろ神話は、神々への捧げものであり、神々が神界においてどのような歴史顕現の舞を踊るかを規定するものである。このため、誰知ることない神話によるシナリオの書き換えによって、神々の側から下界の歴史を変更することが可能になるのである。すなわち、神に頼むのではなく、神に仕事をしてもらうのである。
神話のうちでも、聖書はずいぶんと人々の理解するところとなった。そして、その中に盛られる滅亡志向の思想を合理的かつ陶酔的なものとしてしまっている。滅亡への必然は、みなの心に希望の火として点灯しているほどだ。これを変えることはすでに無理である。
だが、数の論理が通用する部分はそれほど大きくはない。人間のする支離滅裂な思考形態は、ノイズばかりで力がほとんどないからだ。
日本の古事記について、ほぼ理解する人がいないのに、そこに書かれるシナリオどおりに歴史が進行しているのはなぜか。
歴史顕現の神話の舞を踊るのが、神々だからである。古事記がメインの神話として奉納されただけで、それが神々を図書館書士にして、相応しいプログラムを引っ張ってきて、実行のタイムテーブルに載せているからである。
古事記に書かれることなど、おそらく神職も知りはしない。だが、神々は神名と筋書きの言霊が理解できるから、古代の時点で全体のシナリオ載せが完了されていると見てよい。
それを今頃になって、別の新しい神話を奉納する効果があるのかどうか。ある。ただし、神々の目を覚まさせることによってのみ、新神話は生きてくる。
神々にとっても目の覚めるような啓発に満ちた新神話は、すでに完成しており、ご上覧いただいて、オーソライズが済んでいるという具合である。
誰知らずにする大乗の救済法。最も合理的かつ効果的に運ぶのではないかと思いつつ、事態の進行を見守っているところである。
稀有壮大な独りよがりにすぎる眉唾講釈。天晴れ天晴れ。むふふ

講釈・・・プログラム時空論の応用的解釈

プログラム時空論を語るに当たって、いくつかの局面を例に引いて説明していこうと思う。
● よく寄せられた質問に、「どこかにアカシックレコードの存在する図書館のようなところがあるのか」というものがあった。
そう。あると考えたい。かつては、霊水闇淵の表を覆えりに形容されるようなホログラムの状態として存在し、プログラムの多次元データーベースとして任意の検索に供されていたと想像する。
それが新しい時代には、テーマパークとしての具体化がいっそう進み、かつての試行錯誤的様相を呈していた地球の歴史が精選されて博物化され、ちょうど図書館の最新読書システムのように、任意の人物や生き物の”なまの歴史”を選び取ってきて、意識体験AVR装置にかけて、一炊の夢の如く、その歴史を実体験するといった教育システムが出来上がっているのではないだろうか。(新神話にはそう設定した)
たとえば、私・奥人の人生にもしも向こうで著名な意義があったなら、私の人生のプログラムは、けっこう利用客のリピート需要が多いかもしれない。そして私の実体はもしかすると、「何だ、この人生、思ったほど大したことないな」などと思いながら、この男の日々を体験している利用客かも知れない。
その図書システムを利用する者には、ちゃんとしたガイドがつき、彼の体験過程でトラブルが発生しないように、計らわれているという具合になるだろう。
おおかたの人に守護霊がついているというのも、すでに新しい時代からエントリーして来ている可能性を示唆するものではないだろうか。
しかし、実際に夢の中で図書館のようなところが出てきたというケースがあったとしよう。それはもろに上記の意味になるかも知れないが、いっぽうこういうことも理解する必要がある。
すなわち、原型的なホログラム的データーベースも、観測者の認識までの過程に、予備知識による修辞がかかり、そのものずばりでなく、自分の理解できる形に捉え直してしまうということがあるというわけだ。つまり、予備知識によって歪曲された観測結果を得てしまいがちになるということ。現実においてさえひねくれて見てしまうのに、夢においてはなおさら言わんやというわけである。
● 臨終時の原型的手続きは、ある要素において誰しもおよそ共通するという。すなわち、死の直後にお花畑のようなのびのびとした空間に出る。そして、水域を見る。それを向こうまで超えて渡ろうとする、といった手続きである。
その場合においても、誰もが同じ種類の花畑に出るわけではない。くつろぎがその本人にとって得られる花や全体的光景として眼前に観測されるというわけである。
水域も小さい川や池であったり、あるいは大洋である場合もある。水が象徴的に下界での穢れの浄化を示す手続きとして設けられていると考えられるが、本人はそれを理解の便宜になる修辞を加えて見ることとなる。
● 催眠術にかかった被験者は、ニシキヘビを手渡した術者の「さあ、いまタオルを渡しました。それで顔の汗をぬぐってください」の言葉に、ニシキヘビを完全にタオルに見てしまうようなことが起こる。
もしこのとき、AとBふたりの被験者がいたとして、Aにどんなタオルか質問したなら、Aは「どこそこの会社のマーク入りの白です」と答え、Bは「水色一色のタオルです」と答えながら、顔にニシキヘビをなすりつけていることだろう。
これが修辞の原理であり、彼ら被験者はそのとき、しっかりとプログラムのデーターベースから、該当するプログラムを引っ張ってきて、予備知識で修辞(演算)しながら実行観測しているのである。
後で気が付かされて、場内の爆笑を誘ったとしても、彼にとっては、置き換えられた経験が本物の実体験となっている。
このように、プログラム時空論に従えば、実体験のように思えるものも、意外と単なる幻影に類したものであることが理解できるであろう。