今朝の明るくなってからの夢なんでしょう。大きな会議室のような場所に机が5列ほど縦に、そこに100人ほどの人が座っていて、教壇に6,7人立っていて、その会場の教壇側の両側に2,3 人ぐらいがいて、会場サービスをしていました。
きっとこのネット会場に集まった人たちなのかなと思います。
私はいつもの金田一帽をかぶりながら、会場の別人のところに行って何か資料を渡して元の席に戻るということをしていました。
会場はゆったりしていて、立ったり座ったり、ドアはオープンで誰でも出たり入ったりできる感じでした。
まさにこの掲示板環境と言ったところです。
私は昨日の午前からこの掲示板を見に行ってました。というのは、音声が流されそうな気がしたのですが、それは今日か明日ということらしいです。それも音声ファイルのダウンロードができるとのことで、常時そこで構えている必要はなさそうです。
昨夜は未来人2062氏が登場されるからか、大勢のコメンテーターがいっぱいヤジやらゲキやら飛ばしてましたね。私もパラリとコメントしましたよ。
未来人2062氏の登場は、ちょうどプロレスの印象がありました。あまりにたくさんの質問がすでになされていて、面食らわれてる様子。まさに有名レスラーがとんでもないほどの応援席の中で登場といった感じでした。
しかし、1か月ほどこの地球のアジトにおられるようで、この間、いろいろと聞けるのではないでしょうか。
それからトカナが彼らの取材に入るようで、またそちらのほうのまとめ記事になって出されてくる模様ですから、トカナのほうもたまにどうぞ。
よかったらみなさんも、未来人2062公式サイトを見に行かれてはいかがでしょうか。
https://2062.jp/onsei.html
さて今日はまた、これから掲示板を見に行きます。
カテゴリー: 予知夢、象徴夢、その他明晰夢なのだ
大建て替え後の更新された世界なのか それともパラレルワールドなのか
今朝6時半から8時半にかけて見た夢の話です。
この話は、みなさんにとって朗報になるかと思われます。
見た夢の内容に関する話になりますが、
その世界は公園のようなところで、人為的ではあるものの、自然が優先的に配置されていて、緑も鮮やかで、
人はけっこう多くて、その表情はとても明るく、そして見ず知らずの私にも気さくに声をかけてくれるといった
こちらの世界とはやや異なる趣がありました。
そんな中に、妹が、私がどうしているか視察にやってきたらしく、公園のようなところの階段をすぐそこまで下りてきていました。
私も歩いているわけですが、妹は難病にかかっている気配はどこにもなく、ちょうど初夏から夏にかけての半そでの黒いシャツと
サンバイザー付きの帽子をかぶり、何か新しい見聞に目を輝かせている感があり、とても活動的な様子でありました。
もし仕事をしているとすれば、積極的に人の役に立つようなことをしているふうでしたね。
そのような一環で、私を訪ねてきてくれたような感じでした。 年齢で言えば30歳代ぐらいでしょうか、背筋を伸ばして胸も厚い。
外人の年配の男の人が、階段を下りていく私に声を掛けてきました。
何か言われたのですが、忘れてしまい、しかし不愉快なことなどではいっさいありません。
私は、こちらの世界でも夢の中の世界でも、同じ心境でいることに、後になって気づきます。
私はいつもこんなもん、といった感じですね。 いい世界だろうが、良くない世界だろうが、ほぼ一緒に捉えているのでしょうか。
だから、夢の世界でも、人は私にとっつきにくいのかもしれません。
それでもあちらから話しかけてくれるというのは、ちょっと嬉しいじゃありませんか。
それで、ふと思うのですが、これはパラレルワールドの世界線なんですかね?
どこかで分岐して、あっち向きに去っていった世界なのでしょうか。
夢には、自分に可能性として備わっていたタイムラインのことがよく出てくると言います。
私なんか、社長になっているときの夢をよく見ています。
木立の中の白亜のガラス張りの研究所風のビル。 設計事務員たちの働く事務所の中を通り抜ける私。
そしてアシスタント女性とともに空港へとボストンバッグを急がせる私。
その会社はいま現実に鎌倉にあります。 上場企業です。
そう、社長になっている可能性も22歳ごろの分岐点としてあったのですよ。 十分すぎるほどのチャンスとして。
今朝の夢で、もうひとつ考えられるのは、もう間もなくに迫った(であろう)最後の審判・七度目の大建て替えの後にやってくるという、うれしうれしの世界なのではないかとも思えてくるのです。(前記事の「続き」を参照)
うれしうれしの世界では、人は半物質、半霊体という、どんなものにもびくともしない身体になるといいます。
あれえ、これって。
夢見の身体の経験世界と同じものではないのですか?
私が今朝見た夢も、夢見の身体による鮮やかで快活な世界でした。
ということは
夢を見る人は、すでに大建て替え後の世界に、一部なりとも入っているのではないでしょうか。
そのような身体を、とうに併せ持っているのが、我々ではないのですか。
では、その夢見の世界と、こちらの現実世界が、どれほど離れているのか。
それはほんのわずかな次元の違いと言いますか・・・すぐ隣にあるみたいです。
それを解明するような夢見を、我々はしたことがあります。
我々というのは、私ともうひとり、マメさんという名古屋の方とです。
この方とは、出会ったことはありません。
しかし、同じ日時に、共に鳥の親子として空を飛ぶ練習をしたことがあり、私は親鳥ながら飛ぶことに不慣れで
助走をつけて飛びあがったのですが、すでにマメ鳥は軽く飛び上がっていて、合流して何度か飛んだものです。
我々は古代トルテック(マヤやアステカの夢見の戦士)のする夢見術を模倣して行なったわけですが、あるとき、異界の支援者たちの前で親子鳥のタンデム飛行を披露して、評価を得ようとしたことがあり、そのときの夢見の中で、異界チームとともに、マメさんが仲良くしているアインシュタイン博士の計7人ほどが、小高い緑の丘の上で見上げているのが確認できました。
何でアインシュタインがここで出てくるの? とお思いかもしれませんが、あちらの世界で博士は研究を続けておられるようですよ。
マメさんが飛ぶということで、わざわざ友情出演してくださったみたいです。
そのとき異界からは、「芸術的」だという評価が得られています。
親子タンデム飛行したのは、2008年か2009年のこと。
ところが、この時見た夢の中の丘が、2014年になってナスカ平原に見つかったのです。
まさにその丘で私は助走をつけて飛びあがったのです。 間違いありません。
丘陵の形はまったく同じですが、あちらでは緑の芝生の丘だったものが、こちらでは砂漠になっているのです。
しかもその丘には大きな親鳥の横飛びする姿と、待ち受ける子鳥の姿が描かれてあったのです。
左の大きな鳥は私で、右の小さな鳥はマメさんですよ。 うれしいですね、飛行記念の絵が描いてもらえているのです。
南米のナスカは、古来から夢見の戦士たちの活躍場所だったようです。
夢の中では、活動しやすいような形態変化を起こすことが可能です。 それはナワリズム夢見術の基本とされます。
我々は、単にどこでもいいから、共に夢見の世界で出会ってタンデム飛行しようということでしかなかったのですが、
いつのまにか、夢見の里と言ってもいい場所、ナスカに引き寄せられていたのかもしれません。
きっと、未だに古代トルテックたちは夢見術を習得しようとする者を見守っているのかもしれないです。
こちらの世界は不毛の砂漠、それが夢見の世界では緑の平原。 その違いがこちらとあちらの違いということになりましょうか。
さて、さらに面白いのは、ナスカの地上絵の一環の絵の一つで、海辺にある地上絵「カンデラブロ」は、自動的に修復してしまうというのです。
https://youtu.be/3oT3VdMUBUg
この不思議な木の絵、強い風にさらされて、砂が剥ぎ取られて形が一旦壊れても、すぐに元通りになるというのです。
バイクで絵を崩しても、短時間で元の絵が現れるというのです。 ご覧の通り、鳥取砂丘のような海浜部の砂丘ですよ。
UFO現象よりもはるかに不思議なのではないでしょうか。
この不思議な”木”の絵は、夢見の世界では、生命の樹として生き生きと生い茂っているのかもしれません。
それが投射されて、こちらの世界での不滅性になっているといったことかと思います。
夢見の世界は、こちらの世界がたとえ破壊されつくしても、しっかりと存続しているということではないでしょうか。
それはいわゆる、「原型世界」だからであり、釈迦が、「衆生、劫尽きて業火に焼かれると見るときも、我がこの土は安穏にして天人充満せり」と見た世界だったのではないでしょうか。
大建て替え後の世界を、我々はお先にちょっぴり賞味させていただいたことになるのかもしれません。
さて、私はさらに科学的にそのような世界があるのかどうかを考えてみました。
すると、すでに私が書いていたサイ科学の論文の中に見つかったのです。
それがこの論です。
https://rainbow.xn--kss37ofhp58n.jp/monoomoi/dead.htm
つまり、中陰(バルドともいう)の世界ではあるものの、コントロールできずに恐怖を伴う成り行きに流されていくタイプの経験世界ではなく、ちゃんと自分の意志が尊重される世界といったものになるのではないかというわけです。
すでに我々に備わっている別の身体は、いつでも使えるということですね。
それは眠っているときには夢見の身体となって、夢の経験世界を遊ぶためのものになり、死後には(かつては)生前のカルマを償う場として強制的に与えられたものでした。
それが最近には、カルマの償いの場としての中陰の機能が解除されたというのも、この世界で最初で最後になる大建て替えとそのときの激烈なばかりの最後の審判に焦点が絞られているからというわけでしょう。
大建て替えがあるといっても、決して恐ろしいものではない気がします。
その先は、今でも眠りに就けば、すぐに行くことのできる世界なのですから。
今日は、もう一本のカリフォルニア・ダウンを見ました
私は知らなかったのですが、今日はけっこう記念すべき日だったようですね。
ふぐりさんはこんな情報を・・・
https://golden-tamatama.com/blog-entry-2405.html
わけのわからん原田武夫さんの話やグランドクロスのことはどうでもいいんです。
世界滅亡の噂で揺れたマヤ歴の最終日が、実は今日だったという話が大事なんです。
>以下、また計算ミスで本当は2016年6月だったという話が出てます。
というわけで、その理由をご覧になってください。
二転三転して、今日に落ち着いたということでしょうか。
そのような日に、カリフォルニア・ダウンという映画を見てしまう私って何なんだろ。うっとり。
阿呆。自己陶酔に浸るなボケエ。
そのような声も今の私の耳には届きません。陶酔境。
-シンクロも 度を重ねて 深化して ついに終わりの 指針示すか-
映画では、サンアンドレアス断層が崩れて、ラスベガスからサンフランシスコが壊滅という映像がみごとに繰り広げられておりました。
そのCG映像の迫真さは、ほんとうに起きているかのようですた。
後半、だんだんと映像にも緻密さがなくなり、あらが目立ってきましたが、これは本物を超えると思わせる迫力がありましたね。
さて、どうしてこの映画を選んだかについては、私が30歳頃に見た死の直後を思わせる夢の中身にあります ⇒ https://p.booklog.jp/book/97441/page/2635125/bookmark
その中では、どうもロサンゼルスの野球場が関わっているようなのですが(映画ではサンフランシスコの野球場が出てきていましたね。そこにタンデムでパラシュートで降りるというシーンが出てきます)
いっぽう私の夢は、多くの十字架群の見送る中、私が昇天していくというもので、夢の視座は自分自身という具合でした。
つまり、映画では、主人公はパラシュート降下で、私の夢では、主人公の私はパラソル上昇。何かシンクロしているようではありませんか。
映画では主人公たちは生き残ります。いっぽう私は死んで次の工程に進んでいくわけです。これも正対照なシンクロ。
私の夢に関しての野球場は、2001年に別人の話との照合で、どうやらそこはロサンゼルスの野球場(ドジャースタジアム)で、そこに集まっていたキリスト教徒(死者たち)に先だって、私が神に会いに行くという筋書きが設定されているようでした。
むろん私が行くに際して、最後の審判の督促であることにはまったく異議はありません。やりますよ。やり遂げますとも。たとえ天帝様が躊躇したり嫌がったりしても、私が首根っこ掴んででもヤラセますからね。
さてそこで、カリフォルニア州を中心に壊滅をもたらすと思われるサンアンドレアス断層が動いた時にどうなるかを描いた映画・カリフォルニアダウンはぜひとも見ておくべきかと思い、借りて見ることにしたわけでした。
最大M9.6という大地震による建物群や金門橋の崩壊は、サンアンドレアス断層が動けばこれぐらいにもなるよという思いになります。それに伴って起きる大津波も高さ100mほどにも描かれていました。
もうひとつ内陸部にはカスケード断層というのもありましたね。もしカリフォルニアが縦向きに横ずれしたなら、太平洋になだれ込むこともありうる、とすれば、太平洋の対岸のアジア諸国にも40m,50m級の津波はありうるでしょうね。
まだこれでは多くの人が生き残ってしまいます。それも何とかしなくては。
全員一人残らず最後の審判にかけねば事は収まりません。
マヤ歴の真の終わりの記念日に、この映画を見た感想を書かせていただきました。
映画の最後に主人公が、「これから建て直すんだ」と言った言葉は、なかなかいい響きでしたよ。
うまく建て直された暁は、善人ばかりの良い世界になっていることでしょう(最後の審判を経た後の世界になっていますから)。
今朝未明(先ほど)の夢は陛下のご心中推察の夢
今朝未明の夢は、とても長いようで、それでいて解答入手が困難な、もどかしいものでした。
今上天皇様が出てこられるのですが、いまひとつ、我々のほうを向いてくださらないでいて、かといってそれが普段のことのようでもあるといった感じで、どういう思いでおられるのだろうかと立ち入りたいような、それも叶わないような。探り当てられず、解答が出てこないのです。
そんなとき、いつの時に詠まれた歌だったかと見てみれば、いつぞやの歌会始めの時の御歌でありました。
夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ
これを検索で見たときの最初に出てきた酔生夢人氏のブログの解釈は、かなり踏み込んだ具体性解釈を・・・私はそこまでではないものの、夕闇が真っ暗闇になる前に、きれいに刈り取りを済ませてしまいたいという意志を表されたものと思えたものでした。
さて、その時期とは、おそらく今時でしかないだろうという私の思いが、どうやらとりとめもなく長ったらしい夢になったものかと思われます。
そのもどかしさは、もしかすると今上天皇ご自身の思いかもしれず、その思いを発しても、空しく虚空に響くのみであるなら、何をかやせむ。
私は夢の中で、天皇様のルーツにまで思いが迷い込み、そうか、天皇様は諦観に思いを切り替えようとされているのだなと感じたようなことでした。
ご自身の立場で叶わないなら、それこそ宇宙の神を動かすべく、かねてから預言にもありますように、神の御使いが、「時は満ちた。今こそ刈り取りを行うときである」と呼ばわった行為を、神の側に立つものとして、執り行われたのではないかと思いました。
この歌会始めは去年(2015年)のときのものです。2014年に天皇陛下は、大神神社に参拝され、出雲国造家(天の穂日家)に縁戚を構えられました。この時の陛下のお思いは、私にも痛いほど伝わってまいり、何とかしてお助けしたいという思いになったものでした。
しかし、現実は動かしがたく、いかに神世が浄化されたとの情報がもたらされても、我々はこちら側にいて、祭儀的なことに時を費やすのみです。
この世の浄化こそが、陛下のおっしゃった稲の刈り取りのことでありましょう。それはわかるのです。
また陛下は、この今の時が、かの書にいう天上から邪鬼が下りてきた時とお心得でしょう。
それゆえ、早くしないといけないと、歌会始めにおいて、宇宙にとどろく神の御使いの号令を発されたものでしょう。
民を思う心ゆえの号令発布。あとは天上の神にお任せしましたとして、今をお過ごしなのだと、今朝未明の夢の中で、推測いたしました。
どうか、陛下の御心、安らかなれと、お祈り申し上げる次第です。
昨日はカマどんがちょっと過激なことを言い出すし、方向性が間違っていなければいいのですが。
私もカマどんの考えは共有できるのですがね。
創造的都市伝説(2)・・・天帝様に面会しにいく夢と最後の審判
天帝様に面会しにいく夢はここに書いてあります。⇒ https://p.booklog.jp/book/97441/page/2635125/bookmark
前の記事の末尾にも書きましたように、最後の審判に向けてのシンクロが昨日を挟んで起きておりまして、いよいよその時がやってくるのかなあの感を深めております。
もちろん、その瞬間をこの目で見届けたいわけですが、何せ私が死ななければそのステップが起動しないようなので、いちばんいいとこの見届けは皆さんにお任せするしかないようです。
シンクロについてですが、私の一生を通じての、不思議体験全体のとば口を開いてくれた御仁がおりまして、その人は名古屋に住んでいます。それがKさんです。
私がまだ25,6の頃、私は会社の命令で名古屋に転勤になり、そこで休日タイムにKさんに出会い、その日のうちに親友になりました。
とてもスピ系に堪能な人で、話す内容は突拍子もなくも倫理性に富み、知識的には聖者並と思いました。そしてまた風貌も、どこかイエスキリストの肖像画に似ている感じで、その目の輝きは魂の底から来ているかのようにきれいでした。
彼によって、私の趣味の方向が決まり、彼の働きによって、私は関西で武良さんと知り合うことができ、その後のUFO撮影クラブ創設へと繋がっていくわけです。
そして2000年から、不思議ステージも第二段階に入り、次々と神々との共演的なシンクロに満ちた男女の逢瀬劇へとなってまいります。
そして私は、神々に施された封印解除と、天の岩戸開きを担う者としての成り行きになっていることを自覚するようになりました。
こんな無知無理解の私のような者でなければ、託せない場合もあるというわけです。
私は、足は歩かねども、周りに起きてくる事象のほうが、私の計画についてくるという不思議を体験し続けています。
そしてついに、神々の封印について、私は証明できる段にまでなり、そのことによって、下界ではそうと感じられなくとも、神世において大きな変化が起きたことを知りました。神世は、過去に封じられた神々を再び迎え入れる段階にまでなっています。
あとは地上界の浄化を余すのみとなりました。しかし、それが自分らの肉体の損傷を伴うものであるだけに、糞切りよく動くにはちと勇気がなかったこともあり、煮え切らない状態で推移しました。
見届けが大事か、やり遂げることが大事か。
いずれにしても、我が死を以て完成に至るということなので、よほどの「溜め」が必要。短絡的に動くことは厳に慎まねばならないのです。
そんなときに、私は独自理論による、別タイムラインでの既成事実化で、以上のことは終わったことにできることがわかり、私がこれからするのは、「救世行為的なことはなにもしない」で、そのまま地上文明が滅亡しようがしまいが放置し、総集編的に私の死を以て最後の審判を惹起し、そこでの裁定に委ねることにいたしました。
まあ、うまいこと理論的に既成事実化してしまえるわけなので、利用しない手はなく、それによって私の優柔不断さも弱さもOKされるわけです。
冒頭にしましたように、私は30歳頃、「天帝様にお会いしに行く」という夢を見て、途中で「まだその時でない」と気づいて取りやめたのでした。おそらくその時とは、私が不帰還でも良いとき、すなわち我が死の時でありましょう。そして、何をしにそんな所に行こうとしていたのかを推理すると、あの夢の背景からすると、最後の審判の督促だったのではないかと思い至るわけです。
そして、現在、本当に見ちゃおれん世相が目の前に広がっていて、敬虔なクリスチャンでなくとも、私のような者でも、これは見ちゃおれん状態になっています。やはり、これは神様に督促するしかないという思いが日増しに強くなっていて、おそらくそのような中で憤死するのかなと思うわけです。いよいよそうなら、何がさておき、天帝様にお目通りしにいくでしょう。
私の見る夢は、ほとんどが正夢もしくは正夢的な象徴夢ですから、その手順も再実行されることでしょう。
最後の審判が地球だけのことで終わるか、この宇宙全体を対象にしたものかは、そのときにならなければわかりません。私はいちおう、こうこう、こうなされよと助言を申し立てることになります。
私が最後の審判の督促係としますと、あの十字架群は子羊さんたちでしょう。黙示録をベースにするなら、審判を決意する神がおられるはずで、それが天帝様というわけです。
そして天帝様は、審判のために働く神を派遣します。これが再臨するキリストであり、そのものものしさと恐怖の度合いからすると、ターミネーターと言っていいでしょう。
40年前に、私の不思議人生のとば口を開けてくれたKさんは、当時、柔和で中東人っぽいイエスのような風貌でした。
ところが、久しぶりに再会したKさんは、アーノルド・シュワルツェネッガーそっくりの風貌になっていました。出会った瞬間に、変貌したなと思いました。
シュワルツェネッガーは、ちょうど最近の私のブログ記事の紹介動画ではトップ起用なわけで、そのことともシンクロしています。そしてその動画は「ターミネーター2」のもの。Kさんは、動画の精悍なシュワさんそっくりというわけで、私はKさんにおける「阿吽」の神秘性を感じているところです。
すなわち、最初は柔和なイエスとして、最後は精悍で強いターミネーターとして、私の前に現れました。ターミネーターとは幕引きする者、すなわち再臨するキリストのことをも表わすのです。
こんな風にして、私の新神話は活性化を続けていまして、このまま我が死を以て、おかしな世界の幕引きに貢献する形にどうやらなりそうです。
心房細動病歴がすでに20年。心臓が肺の半分にまでなっており、何をどうしたって間もなくなわけで、いつでもその時が迎えられる喜びをここで披露させていただく次第です。