時空を航行する我あり

みなさんに聞きたいことがある。
あなたは自我意識を持っていますか?と。
我考えるゆえに我ありの自我のことだ。
他と分離していると認識している意識があるかどうかということだ。
ない者がいるなら、その人はダミーである。そうであっても、彼は当たり前の人と同様にふるまうだろうから、こちらでは判別がつかない。自分だけが存在しているという以外は、本質的なことは何も分からないわけだ。
拙時空論からすると、私以外の皆さんは、プログラムとして記述された存在であるのみで、夢幻の類に等しいのである。もっと厳密に言えば、私の身体も心の動きもすべてプログラムの作る幻術であるのみで、私そのものではない。
ただ意識原理が、あるプログラムを実行し観測している。それが自我を形成するプログラムだから、自我が生じている。IF条件の付いたところに来れば、その価に従って分岐したりもする。するとパラレルワールドに航路が変わったりする。
プログラムがプログラムを呼び寄せ、観測機能の賦活主体である意識原理に実行させ、観測しているという具合だ。けっこうそのプログラムの連携は、ウインドウズのOSのタスクの有様からも推測できるように、複雑化していて、何がどこを制御しているかなど、開発者にも把握困難なほどだ。
とすれば、誰しも世界の幻術を理知的にコントロールすることなど不可能に近くなる。釈迦のような聖者でも、この有様を概括して表現するしかなく、ただマーヤの原理と、そこからの厭離を説くことしかできないというわけだ。
だが、世界への対処は割合簡単にできる。
今の世界の様は、意識を持つあなたが、今呼び寄せているプログラムの実行結果である。何がそのプログラムを呼び出したか。それは、心の性向を形成するプログラムから呼び出されたのだ。そのような世界であることを心のどこかで望んだか、あるいは経験してみたいという、心理プログラムを実行したからに他ならない。そのゆえに、あなたの今の時空があるというフローになる。
もしその時空が、現象的に滅亡の方向にあるなら、それはあなたが選び取ったプログラムである。そのゆえに、受けるべき滅亡の体験は、すべてあなたの責任によるわけだ。
けっこうこの滅亡に向かう時空にいる人というのは、賢者が多いように思う。
彼の心の中は、あんな愚かなことをしてと、他人への批判に満ちているものだ。そんなことをする奴は助からない。いや、助かるべきではないと心底では叫んでいたりする。選民主義者もそうだ。愚か者ばかりだから滅ぶのだと思っている者もそうだ。
それは、私を自己観察すればよく分かる。これまでここでしてきた記事のほとんどが、第三者への罵詈雑言に彩られていることからも分かるだろう。
つまり、私は滅びに至る時空を自ら呼び寄せているのだ。面白くもない人生であったし、高下貴賎もろともに滅ぶことを願っていた。
いや、みんなそうだろう。そうでなくてはならない。みんな同士でなくてはならないのだ。たとえ多少意見は違っても、滅びを目指す同士に変わりはない。そうでない人は、こんなところにいるべきではないから、去るべきだし、去らねばならない。ここから去って良好なパラレルワールドに行って、もし私のいるのを見たとしても、それは私のダミーでしかない。
いっぽう私からすれば、もし滅ぶような局面にいるべきでない人が共に至ったときには、プログラム上のダミー人形と思い込む。こうすれば、いざ同士間の殺戮の局面においても、呵責なしに事が行える。
この先行き閉ざされた時空から出たい人は、今までにノウハウを授けてきたから、何でも利用して去っていくがいい。純粋な人間愛を心に築くなら出られるだろう。早く出て行くことだ。
ジュセリーノ氏は予知夢に関わる以外の生活態度においては、仕事と家庭を両立させ、曇りのない人生を送っている。が、彼の役割に傾ける意志は、彼の頑固なまでの正義感と終始一貫した主義、行動パターンで裏打ちされ、彼の魂の高尚さを物語るものとなっている。このプロジェクトのために捧げる神霊界を含めた役割の霊団が存在しているように見受けられる。このプロジェクトは、優れた伝令者を地上に派遣したものだと思う。だが、人選に抜かりがないのも、マトリックス主催者側ゆえと苦言をひとつだけ呈したい。
その点私などは、若い頃からひんぴんとくる情報によって普段と仕事の手を取られ、メモの山の中に寝る生活をするという、彼の有様にちょっと似たところがあった。が、人生の選択肢は不義かつ卑怯な側ばかり選び取って、ついに滅びの時空に辿り着いてしまった感がある。当然、いくらご高説を垂れていても、ほとんど支離滅裂、信憑性に足るものではない。彼が魂の高潔さの割合で信憑性95%をマークするなら、私の仮説などその5%も達成できないだろう。が、分かっちゃいるけどやめられない。
私も当然、過去に幾度もあった歴然とした分岐点をくぐってここに来ている。
多くの場合、それは二者択一の形でやってきた。というのも、私が優柔不断で、たえず”カマ掛け”をする癖があったからだ。
そして、おおかた不義の側を選択して、ここまでやってきた。もし最初の頃のあのとき、義の側を選択すれば、今頃はOA企業のトップにいて、申し分ない幸せが享受できていただろう。そして、こんな滅びかけた世界に臨むこともなかったように思う。
だが、今は自らの心の性向に従って、ジュセリーノ予言を見て絆を持ってしまった世界に来ている。かの有望なパラレルワールドは、不可逆の時間法則の中に泡と消えた。
私はそれと引き換えに、自ら掴んだ発見がある。その検証のために、これからの時間があると思えて、少しは楽になっている。
ジュセリーノ予言によれば、今年中に地球温暖化対策が講じられなければ、人類は青い空を拝めなくなるという。そのフレーズは、古事記の「天の岩戸」のくだりを髣髴とさせる。田を埋め溝を壊し、ついには水と土でできた斑の天体を墜落せしめた過去の文明を、スサノヲの暴虐に仮託させて表現し、結果的に太陽神のお隠れを招いたとしていることだ。
小惑星の衝突までも・・まさに今の文明も同様の経過を辿ることが予言されている。文明の展開のレパートリーの少なさは、あきれ返るばかりだが、歴史の必然性を物語るとでもすべきなのか。この奇妙さからもっと多くが学ばれなければ、もったいない限りだ。
だが、”さ蝿なす満ち、もろもろの禍ことごとに”の状況下にあっても、太陽神復活の儀式が執り行われた暁に、見事復活すると預言しているのは古事記だ。復活するのは、世界(そこではUFOが用いている時空ジャンプ航法が採られるようだ)。世界の古代神話の中にも類義の話が見出せる。それを生きて見届けることができるなら、これほど面白いイベントもないに違いない。
私と同様の人ばかりが立ち会うのだから、安心できる。だから、みなさんをみな同士と思っている。同じ土俵に立ち、未来に取り組んで行かねばならないと思う気持ちも同じだろう。ふはははははは・・。なぜか心の底から笑えてくるのも、とてつもなく魅力的なアドベンチャーだからだろう。

日本の鬼の歴史的考察

- 鬼の語源・由来 - (インターネット上にある「語源由来辞典」によれば)
鬼という漢字を中国では、「魂が体を離れてさ迷う姿」「死者の亡霊」の意味として扱われていた。
日本では、奈良時代に「鬼」という字は使われているが、魔物や怨霊(おんりょう)などを「物(もの)」や「醜(しこ)」と呼んでいたため、鬼も「もの」「しこ」と読まれていた。
鬼が「おに」と読まれるようになったのは、平安時代以降。
姿の見えないものを意味する漢語「隠(おん)」が転じて、「おに」と読まれるようになったとする説が、平安中期の「和名抄(わみょうしょう)」にある。
ここで重要なのは、《鬼が「おに」と読まれるようになったのは、平安時代以降》とされていることです。それは酒呑童子を退治するきっかけを作った陰陽師の全盛期であります。
おそらく新説でありましょうが、ここに超常的見地から行った一説があります。
日本古来の「おに」の語源から、酒呑童子のお家柄に至るまでの新説であります。
まず、鬼(おに)の語源は、福井県若狭地方に名残る「遠敷」にあるのではないか、ということです。
「遠敷(おにゅう)」は古語で言うところの「おにふ」であります。これは歴史家の説にもありますよう、「お・に・ふ」すなわち「生・新・降」の転であり、意味としては「生命の新生」もしくは「新生の生命力の降下」であろうと考えられます。
事実、その地方を「若狭(わかさ)」と称し、「若々しさ」の意味が見て取れ、しかもその地は奈良のお水取りに先立つ、お水送りの儀式が執り行われるところであり、その地方に篭められた期待が、都に新生の息吹をもたらす神聖な場所としての機能だったと考えられます。
どうしてその地が都への生命力賦活の源泉とされたかについては、広域地図を見れば直ちに分かるように、都の真北に位置することが挙げられます。
何と、この生命力降下の入射角は古代三大都市(平安京、奈良、飛鳥)に対するものとなっております。つまり、畿内の古代都市に共通する呪術的な生命力賦活の機能場となることが、予め決められていたのではないかと推測されるのです。
さて、このとき執り行われていた呪術的祭祀とは何であったか。
ここに一著があります。⇒古代日本中東思想渡来考
その中に、推敲の詳細は載っているのですが、要点をのみ申しましょう。
1. 執り行われていたのは、「鬼道」であった。
2. 「鬼道」は後に、常緑樹に三枝に祭具を取り掛けて行うすべのものに変わったが、当初は「生命の樹」の十のパートに何らかの象徴を見立てて行うものであった。(十種の神宝が対応したであろう)
3. 十の部局を使う祭祀とは、古代中東の「カッバーラ」の典礼祭儀であろう。
4. 古代皇室によって鬼道が重用された結果が、地理的に数十キロから数百キロにも及ぶ大域的祭祀の構図となったのであろう。
祭祀は、その源流が古代中東由来のものであり、旧くは魏志倭人伝に書かれる「鬼道」と称されたものであろうと解せます。
「鬼道」は、古代皇室の源流である卑弥呼が行っていた伝統的祭祀であり、後の日本書紀などにも書かれるよう、常緑樹を根ごと掘り取り、上中下の三つの枝ぶりに別けて、それぞれの部位に玉、鏡、剣を取り掛けて執り行われるすべのものと解せますが、源流はカッバーラの「生命の樹」すなわち常緑樹に十の部局(セフィラ)を見立てる儀式であっただろうと推測されます。
ニギハヤヒの頃には十種の神宝(とくさのかんだから)を用いたものも、政権が委譲されてからは皇室の独自色を出したものか、三種の神宝によるものへと変遷を遂げたといったことでしょうか。
畿内の広域に渡る祭祀の遺構は、まぎれもなくカッバーラのそれです。
ゆえに、飛鳥にまず拠点した古代皇室の都市造営にかかる設計思想の底流に、カッバーラがあった。むろん、皇室はその意図を知らなかったかもしれないが、その場合は女房役の補佐官たる物部氏が「裏祭祀」を握っていたかも知れません。
さて、推理はさらに酒呑童子のお家柄の役割も及びます。
1. 酒呑童子の先祖は代々、「おにふ」の祭儀に仕えていた神官であった。
2. 彼の先祖は、近畿の広域に配置された各部局に配置されていた。もしくは大江山の部局専属の神官だったかも知れない。
3. 彼らは誰言うともなく、「おにふ(おにゅ)」と呼ばれていた。あるいは、典礼儀式そのものが「おにゅ」と呼ばれていたかも知れない。
4. 陰陽師の仕組んだ罠にはめられて、酒呑童子は討伐されたが、醜怪な化け物を示す「鬼」の漢語に「おにゅ」つづまって「おに」の訓が当てられるようになったのはその頃である。(それまでは「もの」や「しこ」であった)
5. 古代には、祭祀そのものの壮絶な覇権争いがあった。中国伝来の仏教しかり、陰陽道しかり。古来の祭祀がこの時点でひとつ火を消したというのが真相か。
6. 古代祭祀で絶やされずに残ったのは、神道、修験道であった。前者は皇室が擁護した。後者は弾圧を受けたが、山岳に影を潜めたゆえに助かり、後に仏教や神道と結びついて残った。
7. 酒呑童子家は累代、混血を避けて、中東から渡り住んでいたと解せる。まれ人が祭祀に重用された事跡が多々あることも、彼らの家柄が混血を嫌った伝統的神官であったという理屈となる。男で成人してもなお、外国人風の見目麗しい女性的風貌であったために「童子」とされたのかも知れない。
8. 酒呑童子は客人があると「角」を取って出迎えたというが、カッバーラの伝統的装束のヒラクリティーをつけていたと解せる。修験者も源流は同じであろう。
9. 酒呑童子の居場所は、西の部局。酒呑童子の前身の伊吹童子がいたとされる伊吹山は、若狭遠敷をおいて、東西対称位置の部局に相当する。酒呑童子を化け物に仕立てるために作られたと思しき伊吹の弥三郎伝説によれば、彼は鬼門の方角伊吹山から比叡山にも向かっている。これは酒呑童子の行跡を辿ることに意義が見出せ、彼は十の部局のうち少なくとも三つを巡行していることになる。「おに」の家柄は、大域的な生命の樹の図柄の十の各部局に配置されていただろうと展延的に推測される。
簡単ではありますが、以上のような説を持つに至っております。
畿内広域的カッバーラの部局(セフィラ)の測定位置には、元伊勢たる大江町の皇大神社を用いています。
酒呑童子伝承の咲き誇る旧・加佐郡大江町が本年開始より、三和町、夜久野町とともに福知山市と合併し、新しい「福知山市」となりました。
その誕生記念式典として、平成18年12月2日(土)午後1時30分より、
福知山市街の「サンプラザ万助」において
鬼シンポジウムinふくちやま が開催されます。
また、その後に、「第12回・世界鬼学会総会」が行われる予定。
問合せは、大江町の「鬼の交流博物館」もしくは「福知山市役所大江支所・地域振興部門」へ。

ダ・ヴィンチ・コードで噂の

あのキリストでさえやってきて死に場所を選んだという日本。
なぜなら、彼よりはるか以前、そこに祖先のイスラエルの民が平安の都エルサレムを建設しようとしたからだ。その情報に感動しない先覚者はいまい。
彼らは先住民と同化したが、その志は為政者階級を占めることにより実現のステップを踏んでいた。
その最大の都は平安京。その前身になる平城京、飛鳥(安宿)。
いずれもエルサレムをおりおりの国語に言い換えた呼称なのである。
そこは彼らの祭祀シンボルによって清められ、広域的な霊的結界が張られていた。
このような仮説は、大きな古代祭祀霊場を点とし線で結んだ結果、摩訶不思議な図形が浮かび上がってきたことに端を発する。
それをひとつにまとめたミステリー型歴史読み物が「古代日本にカバラが来ていた」(古代日本中東思想渡来考)である。
畿内の五芒星形
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元になる祭祀思想とはカバラ。それはエジプトの神秘思想をも取り込み、古代においては最高の知識体系であったとされる。
ゆえにエジプトのギザのピラミッド幾何学さえも結界シンボルに取り入れられている。
畿内の菱十字形
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このとき作られる直角三角形には、黄金比率(〓1.618・・・)が採用されているとほぼ言い切れそうだ。(85.5:111:140=1:1.298:1.637)ならばこれらは、ピラミッドの側面幾何学を暗示することになり、いよいよエジプトらしさが漂ってくる。
大王墓とされる前方後円墳は、その形からシオン山とモリヤ山の連なりが見立てられているかも知れず、あるいは再生と復活のシンボル、アンク十字ともとれる。
良いと考えられる思想の粋を集めて自国のものにする。これを習合という。日本特有の和の技術である。
後の仏教さえもその体系の中に取り込もうとしたものだった。
幾多の政争もそのために起きた。
相容れぬ場合は、それぞれを推進していた勢力間で戦争があり、いっぽうが滅ぼされるようなこともあった。
いわば思想塗り替えの歴史が展開されたはずである。
だが、不思議なことに皇室は一本の道を通してこられた。
まるで日本という国がそのために保たれていたかのように。
幾多の政争の中に、ユダヤの痕跡は見る影もなくなっている。
文字にはっきりと記載される以前のこと。今に知る者はいない。
ただ、こうした思想がかつて存在し人々に広く支持されていたよすがをところどころにとどめるだけだ。
古代日本にも暗号が隠されている。その最たる伝承が「古事記」である。
それが解き明かされたとき・・・
宇宙やUFOの謎も解明されるだろう。
対局は中盤ながら最後の詰み形まで見えているような気がする。

質問者とのやりとり

マトリックス的時空論を知人と話を展開した経験から。
その人はけっこうこうした話が好きらしく、私の考え方の深い部分にまで踏み込んでくれた。
Q1 マトリックスでは、一般人はまったくそうと気付かずに日々を生きていることになっていますね。私にもまったく見破れないのですが、どうすればそうと分かるのでしょうかね。
A1 まず、ごく普通の自然界であると仮定するなら、数学者が説く確率論こそ自然界の基本法則であるべきではないか。ところが、現実はどう見てもそうではない。数学者はこじつけるように、ごく限定された範囲内では偏ったこともありうると言うが、一個人の経験する確率の適用されるべき多くの局面において、たとえば一生の間のスパンにおいても、確率的に稀なことが連続的に起きている。
運気や運勢というものが厳然としてあることは誰しも知るところ。それは確率論が前提になっていない。経験上の多くの局面において、確率の出る幕は乏しいのである。
むしろ宿命論のほうが現実的なのであり、実際人が死に臨んで思い返すことは宿命のほうである。あのときああすればよかった、という選択支に関する悔みは、宿命論によってしか昇華できない。
その根底にあるものは、予めこうなると決まっていたという論理である。
実際、インド哲学などにおいては、人は宿命を辿る行為を生きているとしている。そこに神の恩寵云々を冠したり、宿命を変えうる手段にも言及するが、前提的に歴史の原型が予めあるとしている。
これは計画がすでに存在しているというより、計画=プログラムが存在しているとしたほうが分かりよい。それは文字通り、コンピューターに掛けられるプログラムなのである。
とてつもない三次元宇宙空間を記述したプログラムも、超大型コンピューターからすれば処理しきれるとしてもいいし、あるいは最低限、あなたという処理装置が、あたかも全宇宙を背景にした運命の一刻一刻を辿って実行しているとしても、何ら矛盾はない。たとえあなた一人だけが実の処理装置だとしても、矛盾はないのである。天上天下唯我独尊とあなたが唱えても矛盾はないのだ。
Q2 マトリックス主催者とは神ですか。
A2 神=隠れ身(黒子)という意味ならそうである。だが、全知全能はプログラム製作者であるゆえにまだいいとしても、善良の究極である「全善」であるというわけではない。自己利益のために、我々有情に対して意識活動を営ませている。それを見抜かねばならないというのが私の意見である。そしてできることなら、意志に反して使役されるだけのことのないよう、解放される道を模索すべきであると考える。
Q3 いろいろと預言されている世界の終末のようなことはあるのでしょうか。
A3 プログラムとして予めあるゆえに、それを見て来る能力者もたくさん過去にいて、様々な形で伝えている。ただ善意に伝えてくれた者はまだいいが、神と名乗る者(マトリックス主催者かどうかは不明だが、それをプログラムに織り込んだなら同罪)を修飾させて大衆を操った者のいたことも事実だろう。
実際、世界の終末は記載事項であると考えられ、およそ予兆された事象の到来で、人々はそれとなく気付かされることになる。
Q4 そのときにUFOが大量に飛来するというのがあなたの意見ですね。それらは人類を救いにやってくるというわけですね。UFOはどれほどの人を運べるのでしょう。
A4 UFOはそのような現れ方をするというだけのことであり、その映像を表現すべくプログラムに記載されているだけであると考える。それに乗り込むことのできる実体ではないというわけだ。
しかし、人は意識的にそれに同調して、自らの能力で生存非生存を選択することになる。ただUFOは意識が変容するための補助機構にすぎないということ。
人が生死の境にあるとき、意識の変容が起きやすくなる。UFOをどう見るかが、楽園の門に至るかどうかの鍵というのが私の見解である。いわば、通常今までにない中陰の摂理とでも考えればよい。実際に肉体を保全して至るも霊体で至るも、プログラム上でどうなっているかの話でしかなく、大差はない。
Q5 では、撮影されているUFOというのは映像でしかないのですか。
A5 そのとおり。実体を伴うものではないと解される。あたかも遭遇体験者が搭乗宇宙人と何らかのコンタクトをしたように経験するのは、彼の意識が作り出したストーリーである。ただし、彼はプログラム領域から自ら理解できるストーリーのプログラムを引いてきて経験するわけだから、彼は間違ったことを言っているのではない。ちょうど、未踏の領域「中陰」に意識が至ったときに彼がどのように情報操作するか。人によればお花畑。人によれば霧の中。導師にどんなキャラクターが現れるかまで、その人の嗜好に応じていると考えられる。
Q6 つまり、現実でさえもプログラムなのだから、UFOだって単なる映像と考えていいということですね。
A6 プログラムが、その人にとって何らかの大きな意味を孕むなら、その時間経過の中に何らかの啓発の種を置いているはずである。あるいは経験まるごとが啓発なのかも知れないが、彼は彼にしか与えられていないその種を自らのものとする。他の誰に雄弁を以て語ったとしても、共有できる部分は少ない。
UFO体験も現実体験も、彼独自のものである。UFO現象が現実に対してどれほど優位であるわけでもないし、現実論者がUFO体験者を変人呼ばわりしても無意味である。ある人は現実という夢を見、ある人は超現実な夢を見ることもあるというわけだ。UFO体験者を重宝がることも必要ないし、彼らの存在を徹底的に糾弾する必要もない。すべては意識の奏でるプログラムの如何によるということ。

奥人流神論 絶対幸福以外はすべて欺瞞(マーヤ)

私の提唱するプログラム時空論からすれば、この世はむろん、あの世(霊界、天国、地獄、その他)に至るまですべて映画マトリックスでいみじくも表現されたようなプログラムが元になっていることになる。
自我を持ち、我考えるゆえに我ありを具体化せしめている実体は何かと言えば、コンピューターの中で起きている演算とその扱いの結果に他ならない。
たとえば私がこの刹那において意識している最前線こそが、ただいま大きなプログラムの中の手続き群を励起し演算しその結果を観測している現場である。
そのようなコンピューターはいくつあろうと構わない。同時並行的に別の部分で実行されていようがいまいが構わない。プログラムは初めから「ある」ものであり、そのプログラムを観測している者が一人であろうがなかろうが構わないわけである。
あたかも多人数で同時に同じ歴史を観測しているように見えても、そう見せている欺瞞のプログラムを見ているだけと考えてもいいわけだ。60億の人間はじめ無数の有情は、走馬灯の絵のようなものである。
この考え方の先は恐ろしい倫理観に繋がると思われる向きもあるかもしれない。
もしかすると魔術に傾倒していたヒトラーは、そうした秘密を知ったゆえに無慈悲になれたのかも知れない。だがそれなら、プログラムの性質を知らないことにより起きた暴挙である。その性質を知るなら、戦争はできないし、できたとしても大義のためであり、戦勝した暁には理想国家への舵取りもしくは指針を託す行為が続いていたはずである。が、彼は敗者となり、死して行為の結果をすべて地獄へと持っていかざるを得なかった。
天上天下唯我独尊とは釈尊の生誕時の言葉という。生誕時は誇張しすぎとしても、彼が生涯のうちにその境地に至ることができたのは確かであろう。
彼は当時のヒンヅー哲学を学んだことであろう。そこにヒントを得て、瞑想生活の中で自分の本身を見つけ出したようである。
自らの内にあるダルマを体得して仏の境涯に達したのだ。
ダルマの体はまばゆい光そのものであった。
現実はマーヤのベールにダルマの光が照射して生起しているものであることを、彼は体験的に知ったのだ。
三界は唯心の所現。これは形あるものを求めてマーヤの罠にはまってしまう、心のどうにもならない性質を語ったものである。
五蘊諧空。もとはといえば我々の持つ観測と認識機能に起因するのだが、それすらもマーヤに属していることを語ったものである。
我々の見聞から思考にいたるまで、心の動作のひとコマに至るまで、マーヤというプログラムに載った架空の出来事なのだ。
では何が実体か。それはダルマであると釈尊は言う。
それは生命エネルギーであり、光であり、空であり、至福であり、他と自己の区別のないものである。
そのエネルギーがマーヤのフィルターにかかったとき、色や形が生じ区別が生まれた。そして自意識が生まれた。それゆえ、この根源エネルギーのことを意識原理ともいう。
意識原理は純粋無垢でただ利用形態を賦活するためにのみ働いている。
しかし、それが超大型のコンピューターであったとしたら、誰しも興ざめではないだろうか。
誰か言う。誰しも神へと向かう進化の課程を踏むために、この地上の経験が必要なのだと。あらゆる諸悪業にまみれ、そこから神性を勝ち取っていくことに意義があるのだと。
だが、それは真実ではなく欺瞞である。ダルマは誰しもの本性であり、誰かによって定義されるような神を超えた唯一の真であり、誰しもの内奥で意識を賦活している存在である。どんな属性で飾られるものでもない。相対的幸福からかけ離れた絶対幸福である。そこに至る課程や歴史がどうして必要になる?
その発想自体が欺瞞なのだ。
無明縁起。このエネルギーを邪な理由で利用しようとした先駆的科学があったのだ。科学者がどんな奴らかは姿を見せないために分からないが、もっともらしい理由付けを行い、マーヤマトリックスにエネルギーを導入して縛りつけているのである。
この宇宙は250億年が寿命と言われていたか。そうならば、それがこのプログラムのマキシムサイズである。だが、それを伸張させようと様々な実験を繰り返しているのも彼らである。
永久性と全能性の獲得を、プログラムの進化を通して果たそうとしているのである。だが、ダルマは定義されるものではない。それを定義して達成しようとするところに矛盾と限界がある。また、ダルマはそれ自体プログラムできないものである。
トナールはナワールに憧れるが、敵わないと見て砦を作ってナワールの一部を閉じ込めて使役することで鬱憤晴らしをしているのである。
そのようなところから生じる、晴れがましい未来を約束する神は、もとより欺瞞の中の存在であり、信ずるに足りない。プログラムは、確かにそうなっているのであろう。だから、地球の危機とそこからの掲挙がありうるのだろう。だが、選民となって輝かしい未来を得たとて、それは相対幸福にすぎず、時移ろえば影も移ろうであろう。
ダルマによって賦活された我々の意識は、相対時空にあって受難の状態にある。だが、ダルマは常に至福の時にあって、科学者のすることに異議を差し挟もうとしない。
それゆえ、救世主が必要になる。
救世主は、現今の神と対極になくてはならない。
ゼウスに対するプロメテウスのように。