オカルト的日猷同源話

>日本のルーツは古代イスラエル?
>失われたアークは四国の剣山に隠されている?
>Part1
https://jp.youtube.com/watch?v=mhADVY-XVVk&feature=related
>Part2
https://jp.youtube.com/watch?v=Qlt5qzV6FLI&feature=related
モルダー龍馬さんの情報に触発されてしまいました。(^^;;
私もユダヤの民の追跡を試みたことがあります。(机上での想像旅行をしたといったほうがいいですが)
「古代日本謎の中東思想渡来考」
拙著における発見は、イスラエルの十支族が伝来していたことをほのめかすと思われます。
しかし、それは見込みある可能性を提供するうちのほんのひとつにすぎません。
私の最も重要な発見は「鬼」のルーツに関する発見であります。それは、広域的な国体レベルでカバラ祭祀が執り行われていたという大胆な仮説によってのみ、鬼の素性が分かるというものであり、おそらくそれ以外に真相に迫ることは困難かと思われます。鬼の訓は若狭の遠敷が語源であり、遠敷は広域的神事につけられた名称であったとするのが拙仮説です。
また、古代天皇家の祭祀とカバラ祭祀の同根を推理し、ユダヤの本流が日本に伝来していたことを推理するものであります。本流が来ていたとするなら、そのシンボルとしての契約の櫃も持ち越されていた可能性もあるわけで、後世になってからのキリスト渡来説と同一線上の、日本帰化古代ユダヤ人の憧憬を物語るものと思われます。
比較的に情報においてオープンだったのがユダヤの民でした。教義をきちんと伝えられていたからです。しかし、そこにもまだより奥義があり、神秘主義としてシャーマンの間だけの秘儀となっていた部分もありました。そこで依然として表側と裏側の伝承がありえたことを申しておかなくてはなりません。
古今、世界各地に散らばるユダヤの痕跡を探す努力はユダヤ教の篤信家によって続けられ、日本も明治時代のころすでに調査の対象となっていたようです。
現在、イスラエル政府の表立った動きとして調査がなされているようですが、これとても大衆向け(表側)のテーマであり、権能を持つ神官層の目指すレベルではありません。神官層ならより察知力を発揮して、数十年前から日本を標的とした感触を掴み、さらにその先に何が発見されるか見据えていたことでしょう。
そんなとき、私は超常的手法ではありますが、ユダヤの神秘思想の痕跡を発見しました。大衆はそれを見てもオカルトとみなしさほど意に介しません。それでいいのです。知るべき者が知るべきだからです。
拙著は発刊部数少数ながら、知るべき立場の人々の手に行き渡っているとみられます。たとえば、修験道宗家の閲覧に供されていることを発刊間もなしに知らされています。あるいは彩明日迦氏の著にも啓発を与えています。
天の配材によって必要な者に行き渡るものこそ神書。第一次返本のすべてが神への捧げものとして手元にあります。一冊一冊が日本の行くえをゆるがしかねないため、神に預けることにしたのです。一冊とて大衆に与える予定はありません。来るべきオイルストップの日に、暖や食をとるときの薪代わりにして、CO2に変えて神に届ける所存です。
ただし、この上の七行は心に秘めていた自負であり、この場限りのオフレコ話。
その復刻版をいまHPにおいて掲載しているしだい。よろしければご覧じください。
なお、この記事の内容および参考HPの内容は仮説であるだけのもので、信憑性を保証するものではありません。読者の責任においてのみご覧ください。

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私の時空仮説について

私が今まで語ってきた精神論に関することは、記事、コメントともにおよそ1970年代後半に思いついた時空の仕組みに関する仮説が根底にある。卑近なモデルを用いているが、要点は現時点の時空の中において、自己が主役であるということにすべてが集束される。天動説(外界依存説)が一般論なら、地動説(自己完結説)を唱えたようなことかもしれないと思っている。
その前提になる仮説が間違いなら、すべてが間違いになり、期待を持った人には申し訳ない限りであるが、それゆえ仮説だから端から信用なさらないように申し上げている次第だ。が、いまのところ科学の歴史は、細部はどうあれ、大枠的には拙仮説を支持しているかに見える。映画でもマトリックスというセンセーショナルな作品も出された。
1970年代後半とは、UFOの一大ブームが巻き起こった頃だ。私も当時、自分のために出現したかのようなUFOを目撃し、夢の中にまで何度もやってきた。ビジョンを見せてくれたと思っている。ピラミッド瞑想中にUFOが眉間から飛び込んできて、パニクるといったこともあった。
そんな時期、あるコンピューターメーカーにいた私には、ひんぴんと閃くものがあり、仕事中にメモを隠し持って書き付けるようなことだった。UFOから情報の塊を送ってきているという印象があった。今なら関連病院にいけば類例はいくらも散見できるみたいだが、もし拙仮説が的を得ているなら、某メーカーでの就職というのも、定められたことだったのかもしれないと思う。
世の中からすれば、こんな荒唐無稽な話であっても、私が生きた記憶の中では真実である。このブログは、私固有の時空の出先の報道機関のようなもので、全体のいくばくかを提示している。
拙仮説からすれば、私は意識原理のパワーにより、固有の時空を励起して生きていることになる。少なくとも私のみに自己という意識が存在するのであり、被観測対象たる外界は、私の意識によって起動された私の被造世界であり、元来は幻影マーヤ(プログラムが実行されて生起している)である。厳密には、私の身体はもとより心の作用まで幻影であり、自分の本質は意識原理であるのみとなる。マーヤのことを空という。
ただし、マーヤは私の心から出た身体でもあり衣でもある。つまり、世界はわが身体なのだ。それが随所でほころんでいても、傷ついていても、私の責任の下にあり、自分がどんな色に染まっているかを見る道しるべとなっている。
このような私流の世界観は、外界の変化を追うことを主体としたみなさんの一般的な世界観とは、まったく異なるものになろう。また、私には個別の諸問題に対して、着かず離れずの無責任さが垣間見られるかもしれない。だが、私はこの世界が私固有のものと認識して、全責任を負っていると思っている。しかし、幻影として見るわけなので、その成行が奈落であろうが上昇であろうが、滅亡であろうが復活であろうが、等価として見ている。
それは私の意識がどんな場(霊界を含め)に行っても、同じ幻影との見方を取るであろうし、またその思いは持ち続けねばならないと思っている。
しかし、それだけではもったいないような要素も世界にはありえている。愛というものだ。それは多次元宇宙の間を流れるグラビトンとして働き、個々に固有な時空を近づかせ交わらせる作用をしているようである。おそらく愛は膠の作用をし、ひとり救われることで全体が救われるという奇跡の源になると思われる。
梵天はもしかしたら、その不思議な魅力につかれて、なにやら大団円を目指して時空の観測を続けているような気がする。
いま私が指標として取り上げているジュセリーノ予言。そこには、近未来に断崖を転落しそうな様子が描かれている。なぜそうなってしまったのか。政治が悪い。邪悪がはびこっている。人類の無知。外界へのいろんな非難の叫びが聞こえてきそうだ。いずれその叫びはより大きくなろう。
だが、拙仮説からすれば、自分がキーを発して引き寄せた時空なのである。
私は育ちの経過が良くなかったため、この世を憎んでいた。
十代にして、この世は滅ぶべきと思っていた。それはこの世への復讐心とも言える。
今思えば、その傾向を持ち越して、とうとう期待した時空へと辿りついた感がある。むろんいい風に言い換えるなら、幼少期に未来を予言していたとなるわけだが。
ジュセリーノを待たずとも、私は十数年前に預言書を書いている。しかもそれは、旧神話を土台にしているだけに必中する体のものだ。必中を期したのだ。だが、発刊寸前に大震災で自分のした仕掛けが即時に暴発したので、これは冗談ではすまないぞと、ぞっとした。出版社に自粛の意向を伝えたが、出版社はそんなことは知らぬとばかり、販路に乗せてしまった。
もしも、私と同じ時空に誰かが意識をまだ宿しているのなら、その誰かも私と同じ、世を憎む者の可能性がある。
私は自分の願望のままに、ここまで世界を追い詰めた。が、それは私への復讐でもあった。もし、他の誰かが、とんでもない状態を味わいたくないのなら、まず復讐心を捨てることだ。私も一連の事象に驚いて、また協力者の安寧を願って、ようよう復讐心と決別しつつある。
私は、自分が固有の時空を励起していると認識しだしてから、私が前もってビジョンすることは、実現してしまうようになった。地震がいま襲ってくるとビジョンすれば、たぶんやってくる。だから、そのような念いの生ずることを抑えている。
いま巨大地震がひとつでも日本に起きれば、世界経済がもっか動揺しているだけに、世界にとって決していい結果とならないだろう。
ただし、地震が来ても私に固有の時空に起きることであり、他の誰かの固有の時空に影響することはないはずのものだ。善良な者の被災するさまを目撃することはあっても、それはダミーだと心得て冷淡でいる。真に意識を宿す者のみが、心の巻いた種の責任を身を以て体験するはずであるから。
誰もが唯我独尊。しかし、それは孤独という側面があること。時空を交わらせ共有しようとすることで孤独を癒そうとしている者が多くいるのはそのためだ。しかし、滅びを宣教して滅びを共にしようとするなら、集団自殺の呼びかけをするに等しい。むろん、心穏やかな者はひとりでに、自殺集団からは時空分離しているだろうが。
意識原理を宿す者だけが、時空の成行に責任を負うという原則は変わらない。
ここに掲げることはまったくの仮説であります。

講釈・・・プログラム時空論の応用的解釈

プログラム時空論を語るに当たって、いくつかの局面を例に引いて説明していこうと思う。
● よく寄せられた質問に、「どこかにアカシックレコードの存在する図書館のようなところがあるのか」というものがあった。
そう。あると考えたい。かつては、霊水闇淵の表を覆えりに形容されるようなホログラムの状態として存在し、プログラムの多次元データーベースとして任意の検索に供されていたと想像する。
それが新しい時代には、テーマパークとしての具体化がいっそう進み、かつての試行錯誤的様相を呈していた地球の歴史が精選されて博物化され、ちょうど図書館の最新読書システムのように、任意の人物や生き物の”なまの歴史”を選び取ってきて、意識体験AVR装置にかけて、一炊の夢の如く、その歴史を実体験するといった教育システムが出来上がっているのではないだろうか。(新神話にはそう設定した)
たとえば、私・奥人の人生にもしも向こうで著名な意義があったなら、私の人生のプログラムは、けっこう利用客のリピート需要が多いかもしれない。そして私の実体はもしかすると、「何だ、この人生、思ったほど大したことないな」などと思いながら、この男の日々を体験している利用客かも知れない。
その図書システムを利用する者には、ちゃんとしたガイドがつき、彼の体験過程でトラブルが発生しないように、計らわれているという具合になるだろう。
おおかたの人に守護霊がついているというのも、すでに新しい時代からエントリーして来ている可能性を示唆するものではないだろうか。
しかし、実際に夢の中で図書館のようなところが出てきたというケースがあったとしよう。それはもろに上記の意味になるかも知れないが、いっぽうこういうことも理解する必要がある。
すなわち、原型的なホログラム的データーベースも、観測者の認識までの過程に、予備知識による修辞がかかり、そのものずばりでなく、自分の理解できる形に捉え直してしまうということがあるというわけだ。つまり、予備知識によって歪曲された観測結果を得てしまいがちになるということ。現実においてさえひねくれて見てしまうのに、夢においてはなおさら言わんやというわけである。
● 臨終時の原型的手続きは、ある要素において誰しもおよそ共通するという。すなわち、死の直後にお花畑のようなのびのびとした空間に出る。そして、水域を見る。それを向こうまで超えて渡ろうとする、といった手続きである。
その場合においても、誰もが同じ種類の花畑に出るわけではない。くつろぎがその本人にとって得られる花や全体的光景として眼前に観測されるというわけである。
水域も小さい川や池であったり、あるいは大洋である場合もある。水が象徴的に下界での穢れの浄化を示す手続きとして設けられていると考えられるが、本人はそれを理解の便宜になる修辞を加えて見ることとなる。
● 催眠術にかかった被験者は、ニシキヘビを手渡した術者の「さあ、いまタオルを渡しました。それで顔の汗をぬぐってください」の言葉に、ニシキヘビを完全にタオルに見てしまうようなことが起こる。
もしこのとき、AとBふたりの被験者がいたとして、Aにどんなタオルか質問したなら、Aは「どこそこの会社のマーク入りの白です」と答え、Bは「水色一色のタオルです」と答えながら、顔にニシキヘビをなすりつけていることだろう。
これが修辞の原理であり、彼ら被験者はそのとき、しっかりとプログラムのデーターベースから、該当するプログラムを引っ張ってきて、予備知識で修辞(演算)しながら実行観測しているのである。
後で気が付かされて、場内の爆笑を誘ったとしても、彼にとっては、置き換えられた経験が本物の実体験となっている。
このように、プログラム時空論に従えば、実体験のように思えるものも、意外と単なる幻影に類したものであることが理解できるであろう。

森の奥の講釈

いや、もしかすると早晩、あの世に行かねばならないとも限らないので、書き置くべきことを手短にしておきたい。
何から話していけばいいのか。まったく骨の折れることである。自分の中には、丸い毛糸の玉のように、すべてが一塊になって詰まっているのに、説き明かす段になれば、言葉を選び、文章の組み立て方を工夫し、誰にでも理解できるように仕立てなくてはならないのだから。こんなことをしていたら、生業も何もあったものではない。時間つぶしの石つぶし。それこそ早晩にこの世から撤退だ。
しかし、あらゆる方面から伝え聞くのは、末法思想の、ではなく終末思想の数々だ。特にものすごい衝撃を与えたのは、かのジュセリーノ予言だった。はじめはUFOを目撃したときのように、珍しさとほんものをついに見たという感動で、私の心もずいぶんと饒舌になったものだ。しかし、UFOにも同様のことが言えると思うが、多くは用いる側の問題によって、”両刃の剣”性が生じてくること。単に人の心に根ざす破局願望によって修辞を受けてしまうだけなら、予言者の意図するところとは乖離することになるだろう。かといって、それを知ることで、知らない者よりもなおよいポジション取りのために、優越感をいたしながら、積極的関心を示すといったことも、如何なものかと思う。
かつて、今から約千年前に、京滋を彩ったのは末法思想だった。思想的下地のあった時も時、飢饉や疫病の蔓延による死体累々、さらには放火などが日を分かたず起きて、いっそう終末観をかきたてていた。巷には極楽へのアセンションの道しかないといった話も溢れていた。政治は乱れ、勢い台頭してきた武力集団による国取り合戦が開始されることとなるのである。そんな中に民衆は、徴兵と徴税にあえぎながらも生き延びてきたのだった。すでに日本の国は先轍を一度踏んでいる。その間に、もしかしたらマヤ族のように突然民族ごといなくなったといった話も、もしかしたらあったのかもしれないが、少なくとも言い伝えでは、死体累々となって、霊魂になってアセンションを遂げられたのだろうということである。それもそれでよい。昔人はみんな霊魂になってから、お疲れ様とねぎらわれたに違いないのだ。
さて、今は今で、同じような状況にあろうかと思われる。要は、残された時間はさほどなさそうだということ、特に私のような老境にある病態者には、いっそうそれは諦観とともに、時間の使い道を絞らせることとなる。
果たして、人にとって真実と言えるかどうか。私には真実でも、人には人の道に花は咲くもの。成果も自ずと異なるものであり、またそうでなくてはならないものである。
その人と同じでなくてはならないなら、その人の真後ろからくっついて歩けばいい。だが、そんな人にはお目にかかったことはない。つまり、人はみな異なっているから、すごいということだ。
さて、そういう前提から話すとなれば、私も少しは気楽になれる。多少の文章のミスも、咎められることはあるまい。また、最もだいじな伝えるべきことが、多少間違っていても、読者の良識ある判断と責任のもとに・・という言辞が通用することにもなろう。
いや、ほんとうに、私の勝手に独りよがりしている仮説であり、科学の仮説ともまた違って、証されぬことの”うんこ”をどんどん積み上げていって、一山築いて、ご覧あれ黄金の宝の山だと言っているようなものかもしれない。そのあたりの心の葛藤をきちんとクリアーしてこられたお方にのみ、話すべきことであるに違いないものである。
いっそすべての私の仮説を読み通し、うんこれはなかなかのいいうんこだと理解していただいた方にのみ、付け加えるべきを加えることにしたいが、如何だろう。
森野奥人論・概説
① 大前提として、超宇宙を含む時空の概念がある。これは「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」に書くように、万象万物の根源は、神の言語で作られたプログラムであり、それを実行するプロセッサー的存在によって実行され、演算結果が観測及び認識されて、現象が生じているということ。現象は、すべてプロセッサー内で起こる心象であるということである。
プロセッサーは、意識(有情)の数だけ無数にあるように見えるが、これもプログラムにおいて記載されているだけで、唯一者ですむということも重要。
こういうことから、世界は、「唯一者・梵天の見た夢」という解釈ができる。無限の多様性は、世界の終わりと同時に、梵天の覚醒の中に帰一する。
古代に仏陀は、自らの心の内の地面に穴を掘って、どんどん掘り進み、ときおりヒスイや金、水脈を掘り当てながら、それは自分に相応しくないと、とうとう地底の核にまで達して、そこから戻って、世界とは何であるかについての衆生の教化に入った。その努力は、人一人が一生かかってやれるすべのものではない。ものすごい輪廻の果てに、見出した宝であったろうと推測される。何もない当時において、ここまでのことが達成されたのである。
だが、今の時代は、自然に歴史の頂点に我々を立たせてくれただけでなく、その窮極の爆発的開花を通して、文明の利器を生み出し、天にある術宝を、地にもたらしている。
天にある如くが地にもある。地にある如くが天にもある。これほど天と地が近くなった時代もあるまい。それによって、地が病む姿が天にもあるのだろうと知ることもでき、天の七宝が地にも等しくもたらされるという理ともなるわけだ。
すばらしい稀有な時代に今、遭遇している。ありとあらゆる情報の中に、あなたに合った啓発が潜んでいる。それは遺伝子の願いだったかもしれない。
一巻の人類史を刻むプログラムの最後に、いったいこのマトリックス主催者が、何も仕掛けずに終えていようか。テーマがあって、プログラムあり。たとえ邪神の手になるプログラムであっても、その考え方に間違いはないだろう。
② おそらくこの宇宙に限ってのみ適用されている歴史(展開)のパターンがある。それを、「古事記の真解釈」から悟っていただきたい。
仏教で言うなら、劫というのがそれだ。ひとつの宇宙にテーマを持った如来がいて、全体のパターン付けをしているのだ。
このパターンは、おそらく、この宇宙の歴史、地球の歴史、人類の歴史、人や動植物の一生などに適用される、万象必在の一年生草本的パターンであろうと推測される。
そのパターンの中で、最も輝かしいのは、爆発的開花期である。そこに、文明の、生命の、最大限のエネルギーの発露がある。見る者にいちばん見せたい「花の」時代であろう。ただし、木の花の咲くが如く、堪能できる期間は極めて短い。
それまでに、種子を蒔き、芽吹き、茎を太くし葉を茂らせ、やがて外から見る者にも期待を抱かせる蕾をつけるという緩慢地道な過程が、どうしても必要だった。
また、爆発的開花の後に、実をつけるという過程も、同等以上にすばらしいものだ。そして枯死期を迎える。そこには、ごく自然の、この宇宙の法則が見て取れる。こんなところで、ドリアン・グレイになる必要はない。
そこに幾度も幾度も輪廻して来なければならない魂たちは、この歴史の成就を最初から最後まで見届ける役割も担っている。たった一度の輪廻で分かろうとするほうがおかしい。
しかし、一度学んだら、二度目を学ぶ必要はない。地球人類史を卒業していかれたらよい。
③ 人間というものは、孫悟空のようなもので、どうしても規則の殻を破りたがるように作られているらしい。おそらく、実験的に試作されたに違いない証拠はいくらでも見出せるはずだ。
そこで、マトリックス主催者は、これを十把ひとからげで規則どおりにしようと、神の計画推進者、つまりエージェントを歴史に投入した。
その功績を示したのが、「古代日本中東思想渡来考」だ。
歴史の早い段階で神話を人類に付与し、この通りに実現するように歴史を誘導した。いわば神話は、呪術性を帯びた時計仕掛けの歴史顕現システムなのである。その神話も今やクライマックスとなっている。
④ 誰も知らないかもしれないが、種族の歴史を規定しているのが「神話」である。これは動物などで言い換えるなら、遺伝子にも相当する。しかし、人間の場合は、遺伝子だけでなく、より可変性を持たせられて、神話によって再構築も可能となっているのだ。これを変えることは、その通りに歴史を誘導することにも繋がる。だから、古代の指導的預言者たちは、こぞって自らの意に沿う神話に作り変えている。それが未だに訂正されることなく、成就のときさえ迎えようとしている。歴史を動かすのは、科学などではなく、神話の呪縛なのであり、科学もその誘導の結果として出てきているにすぎない。そして、終局をもそれによって演じさせられるという、無力さを呈しているのである。
以上のようなトンデモ話にあなたは耐えられるかな? もしだめなようなら、今後の記事は除外して読まれるか、それとも別のサイトを探されたい。しばらくは、この線でいくつもりだから。
つづく
* これは一個人のする独自の素人仮説であり、話には索引することはあっても、いかなる科学にも宗教にも属するものでもないものであり、またこれによって賛同者を得ようとするものでもないことを注意しておきます。
あくまでも、読者の一参考になればとの思いでしかなく、良識ある判断でお考え願います。また、これによって生ずる責任のいっさいを当方は負わないものとします。

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現実時間の加速と一炊の夢の対比

うつらうつらしていた夕刻のこと。
テレビでミヤネヤという報道系の番組をやっていたのだが、
ミヤネ氏の話し言葉が、あまりにも早口だった。
彼独特の早口なのだと思おうとしたが、それにしてはおかしい。
他のゲストたちの話し言葉も同様に早いのだ。
ちょうど、テープを早回ししたような。
ニ倍速で聞き取り訓練するというような教材があったが、
ちょうどそのような感じだ。
テレビ局で事前収録して、それを時間の都合で早回し?
そんなはずはない。ニュース報道系でカレントなはず。
しかし、よく聞き取れずに意味の理解がついていかないほどとなった。
間にはいるCMもなぜかテンポが速くて意味が掴みづらい。
ゲゲッ。これは”老い”の証拠か?
時の流れについていけなくなっている。
神経回路の通りが鈍ったせいなのか。
いや、それともほんとうに時間の経過が早まったのか。
噂では、フォトンベルトの中に入ると、膨大な光子の流れによって
時間経過が加速されるとか。
他日、彼らの早口は確かにあるものの、聞き取れないほどではなくなった。
だが、あの日のミヤネヤはどこかおかしかった。
随時発生型の痴呆症?
そう思ってしまえば、負けだ。
拙時空論を持ち出すなら、
プログラムを精査し実行する観測機能にズレが生じ、意識のテンポに
時空が合わなくなるようなことがあったのかも知れない。
それはプログラム時空を証左する驚きの体験となったように思えた。
(いやいや、そんな特別なことではなく、老いのせいだよ)
こらこら、そんなことはない。
時間経過が前にも増してスピードアップしているのだ。
2,3ヶ月前のことのように思っていたものが、もう一年以上経過していた??
そのようなことが目白押しになっている昨今である。
(老人になっちゃったね)
こらこら、違う。
ところがだ。
たった一時間半に見た夢の中の経験時間の長いこと。
一時間半とは、眠りのサイクルのひとつの標準的な単位とされる。
その中でさらに夢見の時間は限られるはずなのに、”一炊の夢”の
故事を彷彿とさせるほど、長い経験時間を感じたことがしばしばある。
それはなぜだ?
拙プログラム時空論からすると、
夢も現実と変わらない原理で生成されるプログラムの観測結果であり、
観測のために投入される時間軸が異なるから経験の密度も関係なく、
意識の経験からすると、まったく価値が同等のものであることにもなる。
ただ、記憶の授受が現実との間でうまくいかず、夢の経験は荒唐無稽の
範疇に封印されてしまいがち。
だが、ほんとうなら、それも意識にとっては有効かつ有意義な時間
であるに違いないのだ。
夢を見させない断眠実験をすると、やがて白日夢や幻覚を見るようになり、
いずれ精神的に破綻するというのも、現実と同等の意味があるからであり、
そのことを統一的に説明する「意識の本質」を語る概念が、あくまでも
事態を客観視したがる既存の科学を超えたところから出てこなくては
一歩も心の領域に科学的に踏み込むことなどできはしないように思われる。
ひとつ拙時空概念を検討願いたいものだ。