質問者とのやりとり

マトリックス的時空論を知人と話を展開した経験から。
その人はけっこうこうした話が好きらしく、私の考え方の深い部分にまで踏み込んでくれた。
Q1 マトリックスでは、一般人はまったくそうと気付かずに日々を生きていることになっていますね。私にもまったく見破れないのですが、どうすればそうと分かるのでしょうかね。
A1 まず、ごく普通の自然界であると仮定するなら、数学者が説く確率論こそ自然界の基本法則であるべきではないか。ところが、現実はどう見てもそうではない。数学者はこじつけるように、ごく限定された範囲内では偏ったこともありうると言うが、一個人の経験する確率の適用されるべき多くの局面において、たとえば一生の間のスパンにおいても、確率的に稀なことが連続的に起きている。
運気や運勢というものが厳然としてあることは誰しも知るところ。それは確率論が前提になっていない。経験上の多くの局面において、確率の出る幕は乏しいのである。
むしろ宿命論のほうが現実的なのであり、実際人が死に臨んで思い返すことは宿命のほうである。あのときああすればよかった、という選択支に関する悔みは、宿命論によってしか昇華できない。
その根底にあるものは、予めこうなると決まっていたという論理である。
実際、インド哲学などにおいては、人は宿命を辿る行為を生きているとしている。そこに神の恩寵云々を冠したり、宿命を変えうる手段にも言及するが、前提的に歴史の原型が予めあるとしている。
これは計画がすでに存在しているというより、計画=プログラムが存在しているとしたほうが分かりよい。それは文字通り、コンピューターに掛けられるプログラムなのである。
とてつもない三次元宇宙空間を記述したプログラムも、超大型コンピューターからすれば処理しきれるとしてもいいし、あるいは最低限、あなたという処理装置が、あたかも全宇宙を背景にした運命の一刻一刻を辿って実行しているとしても、何ら矛盾はない。たとえあなた一人だけが実の処理装置だとしても、矛盾はないのである。天上天下唯我独尊とあなたが唱えても矛盾はないのだ。
Q2 マトリックス主催者とは神ですか。
A2 神=隠れ身(黒子)という意味ならそうである。だが、全知全能はプログラム製作者であるゆえにまだいいとしても、善良の究極である「全善」であるというわけではない。自己利益のために、我々有情に対して意識活動を営ませている。それを見抜かねばならないというのが私の意見である。そしてできることなら、意志に反して使役されるだけのことのないよう、解放される道を模索すべきであると考える。
Q3 いろいろと預言されている世界の終末のようなことはあるのでしょうか。
A3 プログラムとして予めあるゆえに、それを見て来る能力者もたくさん過去にいて、様々な形で伝えている。ただ善意に伝えてくれた者はまだいいが、神と名乗る者(マトリックス主催者かどうかは不明だが、それをプログラムに織り込んだなら同罪)を修飾させて大衆を操った者のいたことも事実だろう。
実際、世界の終末は記載事項であると考えられ、およそ予兆された事象の到来で、人々はそれとなく気付かされることになる。
Q4 そのときにUFOが大量に飛来するというのがあなたの意見ですね。それらは人類を救いにやってくるというわけですね。UFOはどれほどの人を運べるのでしょう。
A4 UFOはそのような現れ方をするというだけのことであり、その映像を表現すべくプログラムに記載されているだけであると考える。それに乗り込むことのできる実体ではないというわけだ。
しかし、人は意識的にそれに同調して、自らの能力で生存非生存を選択することになる。ただUFOは意識が変容するための補助機構にすぎないということ。
人が生死の境にあるとき、意識の変容が起きやすくなる。UFOをどう見るかが、楽園の門に至るかどうかの鍵というのが私の見解である。いわば、通常今までにない中陰の摂理とでも考えればよい。実際に肉体を保全して至るも霊体で至るも、プログラム上でどうなっているかの話でしかなく、大差はない。
Q5 では、撮影されているUFOというのは映像でしかないのですか。
A5 そのとおり。実体を伴うものではないと解される。あたかも遭遇体験者が搭乗宇宙人と何らかのコンタクトをしたように経験するのは、彼の意識が作り出したストーリーである。ただし、彼はプログラム領域から自ら理解できるストーリーのプログラムを引いてきて経験するわけだから、彼は間違ったことを言っているのではない。ちょうど、未踏の領域「中陰」に意識が至ったときに彼がどのように情報操作するか。人によればお花畑。人によれば霧の中。導師にどんなキャラクターが現れるかまで、その人の嗜好に応じていると考えられる。
Q6 つまり、現実でさえもプログラムなのだから、UFOだって単なる映像と考えていいということですね。
A6 プログラムが、その人にとって何らかの大きな意味を孕むなら、その時間経過の中に何らかの啓発の種を置いているはずである。あるいは経験まるごとが啓発なのかも知れないが、彼は彼にしか与えられていないその種を自らのものとする。他の誰に雄弁を以て語ったとしても、共有できる部分は少ない。
UFO体験も現実体験も、彼独自のものである。UFO現象が現実に対してどれほど優位であるわけでもないし、現実論者がUFO体験者を変人呼ばわりしても無意味である。ある人は現実という夢を見、ある人は超現実な夢を見ることもあるというわけだ。UFO体験者を重宝がることも必要ないし、彼らの存在を徹底的に糾弾する必要もない。すべては意識の奏でるプログラムの如何によるということ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です