賽の河原

賽の河原は、誰しもが死の直後に渡って行かねばならない三途の川にある河原のことで、
Wikipediaによると---
賽の河原は親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石による塔を築くと、鬼が塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになる。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩により救済されるとされる。
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とのことである。
さて、六道輪廻はこの世にありとする説によれば、死後の手続きもいっさいがっさい、この世の経験の中で満たされると考えることができよう。
そうしたときに、賽の河原の意味するところとは・・。
私流に仮説させてもらうなら、人の個々、あるいは人類が、これは正しいと思いながら一生懸命積み上げていった諸々のことが、河原の積み石に置き換えられて、それがある程度築かれる度に、鬼のような不条理な節理の侵襲に見舞われて、元の木阿弥から出直さねばならないことを語っているように思われる。
つまり、三途の川、賽の河原という説話も神話の手続きとなっていて、人の個々の一生から人類の一生、さらにはそれらの死後世界まで幅広く懸かる定型的パターンとなっているわけであろう。
その是非はここでは問うまいが、いかにも人間の置かれた立場はかくなるものなるかと、諦観を以て眺めねばならないような陰鬱な気分にもなるわけである。
個々にも、全体にも、突然の事態の発生により、築いてきた正しいと思われてきた価値が転覆したりする。そこにカタストロフィ理論を当てはめるというのもいいかも知れない。
これは賽の河原の一側面だからだ。しかし、賽の河原は違った側面も持っている。それは、徒労を繰り返す子供を救いにくる地蔵菩薩の存在だ。
だが、この場合は、親不孝したことの罪の報いではない。良かれと思ってしたことのことごとくが、果たしてそうだったのかという、むしろ大人に通用する話となる。
人類の突き進んだ高度物質文明社会の無限成長路線の幻覚。図らずも、宇宙船地球号の限界の中の幻影でしかなかったことに、今ようやく気付きつつあるわけだが、もうすぐそこまで鬼は足音を忍ばせて来ているようなことか。そんなときは・・・
おーい。地蔵さんやーい。
なに? 浮世へ散歩に出かけた?
仕方ない。帰宅されるまでとりあえず、彼と十王配下の鬼の脱衣婆の武勇伝を伝えておくとしよう。衆生は恐ろしさのあまり、目を剥くかも知れんが。
https://rainbow.xn--kss37ofhp58n.jp/story/tatsueba.htm

絶望の器

神々の陰謀かそれとも人工の陰謀か。いろんな情報が収集されてくると、未来のあまりの見込みのなさに、もうどうにでも料理しなさいと、俎板の上で胡坐をかくような按配に気持ちのほうもなるわけだが、するととてもコンディションのいい心境ともなるものである。
チベット仏教では何でも、「絶望の器」にならなくては、解脱は望めないという。
今朝は水虫の治療に町の医院に行ってきたのだが、そこに置いてあったネイチャー雑誌・・名前を忘れた・・のあるページに、ハリケーン・カトリーヌですべてをなくして、辺りに救助員たちが行き交っていても、ひとり絶望の器となって三昧に浸る人物の写真が載っていた。
このときようやく、彼は本源に立ち返る方向性を見つけ出したのではないか。
天人阿修羅餓鬼畜生のうちで、人だけが解脱の可能性を宿すとされるのも、こうした理由からだろう。神は境遇のよさに甘んじており、マーヤの中からは抜け出し難いゆえに、神ですらも人として修行することを望んで生まれてくるという。
修行になにも瞑想や呪文など必要があるわけではない。
生きたことと、生きたことの結果の思い込みの観念が、最後はことごとく崩れていくことを以て、修行の達成とすべきではないのか。
その千載一遇のチャンスを、人として送ることのできる栄誉。勿体ないことだと思う。
仏教への勝手な解釈をしている可能性があるにつき、読者の良識ある判断でお考えください。

瑞祥の時代

瑞祥とは、吉凶正反まだらの事象のことを言う。
ちょうど中庸の水面に、波風を立てて、波の高きにある者を低くなった者すべてで支え、虚空へと飛ばすに似て、自ずと行き先に高低が生じる習い。
それぞれが、それぞれの受け持つ役目を果してこそ、瑞祥を迎えることができる道理となる。
そのために、敢えて邪悪の範たる者もいただろう。
そのために、身奇麗にして精進を重ねた者もいただろう。
人類はおよそが地球を出て、ジプシーの道を進むことになる。
しかしそれは、生命の種子を風に乗せて運ぶように、人類の種子を他の惑星や異次元時空に送り込むことでもある。
UFOが介助せずとも、単身魂となり赴くこともまた冒険ロマン。
時は間もなしと告げる人たちでいっぱいになった。
時節柄として、こんな思いつきを書いてみた次第。

ほんとうに優曇華(うどんげ)の花が咲いている!!

三千年に一度のバラエティー
さる7月7日に紹介した「神の目」。
NASAにより提供されているとされる情報。いいものはいいというわけで、素晴らしい現象を愛でることとしたわけであった。
しかも、この現象は三千年に一度という稀有なことであるとされるだけに、仏教説話などに言う「優曇華の花」に喩えて、記事にした次第。
https://ufocolumn.blog2.fc2.com/blog-entry-332.html
ところが、なんと並行するように、世界各地で「優曇華の花」が咲いているというのだ。
https://jp.epochtimes.com/jp/2007/07/html/d86961.html
その花はこんなに小さかったんだね。
そこでもういちど「三千年に一度」にちなむ拙短歌と故事を揚げておこう。
蓬莱の乙姫言依す玉の枝この七せきに優曇華の花
(乙姫様、蓬莱の玉を言付かりましたが、いかがでしょう
優曇華の花はみごと咲きましたぞ)
また西王母は、三千年に一度だけ生る播桃園の仙桃の実を、周の時代の武帝に献じ、世を言祝ぐために、実を携えて再来することを予言して去っているという。
奇しくも武帝(紀元前1000年頃)から、ちょうど三千年になる今日この頃とは相成った。
西王母は再来しているのか・・・?
もしかしたら、後述するお姿で再来されるかも。
ゆめ頼政などに討ち取らせてはなりません。
また、日本神話にいう桃の実とは、UFOの隠語でもある。
三千年前の西王母は果たして何を献じたのか? 
孫悟空は何をパクったのか?
また、三千年に一度だけ開く梅の花の故事を持つ宗派もある。
すごい瑞兆の時代がやってきていると言えそうだ。
たま出版BBSからはすごい発見がある・・と思った次第。

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地祇と対話することの必要性を思う

台風4号の大雨被害に遭われた皆様には、ここでお見舞い申し上げると共に、早いご本復を心からお祈り申し上げる次第です。
自然災害というものは、住居する場所のコンディションによって被害の度合いが決まることが多いわけですが、考えてみれば不公平な自然の仕打ちとも思える場合がほとんどです。
そんなとき、自然のすることだからどうしようもないとお思いになる痛切な心情、お察し申し上げざるをえないわけです。
皆さんの願いが自然の摂理にさえも届くなら、どれほど世界も魅力的であるか分かりません。
人の生活のほとんどの局面で、破壊的な事象を招いているのが自然の猛威。人為的被害なら、自らの過失が招いたと思えるものも、諦めしか抱けないのが、天災の場合です。
では、何か方法はないのかというと、決してないわけではないのですが、誰しも認めたがらないところに手段があったりして、対処の方法がないと諦めてしまわれているように思うのです。
いや、まだこの方法に効果が本当にあったかどうかの確証はまったくないのですが、今回二度目の試技をしてみて、なるほどと思えたため、少し報告しておこうかと思いました。
かつて私は、S氏から、神を呼び出すための道満の術を教わりました。この方法は、知っている方も多いかも知れません。
神を何のために呼び出すのか。それは交渉することが主かと思います。もちろん氏からは、闘う方法をその先に教わったわけですが、そこまで至らぬまでに、交渉、談判、それでだめなら恫喝、最後は戦うという展開までがあるというわけです。
前回の台風撃退実験では、2005年9月の台風14号に対して行い、その結果、恫喝段階で風神地祇には涙を呑んでもらったようなことでした。
いや、もちろん、偶然そうなったのかも知れません。しかし私には、地祇が泣きながら去っていく後姿が見えて、逆に申し訳ないという気になったものです。なぜなら、彼らも人間の所作に対して遺恨を持っていて、人類の横暴に対して地祇を代表して制裁しにやってきているから、本来は加減してくれるようなものでないのです。
しかし、ここは交渉次第で応じてくれるという次第。
ただ問題は、彼らには何をどう加減すればいいかが分かっているわけではないということ。アクションとコントロール自体が大雑把なために適切な判断が利かず、先達の踏まえたルールを守ることでよしとする傾向にあること。よって、いつも台風被害に遭うところは偏ってしまう、というようなことになるようです。
そこで、こちらから、具体的な顕わし方を指定してやるということが必要になるわけです。
いや、決して違うルートに切り替えさせるというのではなく、彼がしようと思えば、まず強さを加減できるし、被害を少なくする考慮をしたルート変更といったこともできるのです。
しかし、こちらから具体的に要求するということが必要になります。
今回も、台風4号の神を呼び出して交渉しました。
すると、前回の神とは違って非常に紳士的で、交渉段階で済ますことができたのです。
というのも、彼には人類に対する恨みのようなものがそれほどなく、ただ予定通り流していくといったことのようでした。被害を与えようという意図はなくも、彼が生まれただけで被害は出てくるもの。それが台風というものかも知れません。
しかし、彼の品格はとても高いもののように思いました。
むしろ私のほうこそ、打算的に臨んだことが否めません。というのは、ささやかな家庭菜園がだめになることがどうしても嫌だったのです。
前回は、その前年に親戚の家が床上浸水の被害に遭ったため、また同じ被害が想定された台風14号を追い払ってしまったわけです。今回は、親の丹精込めて作った菜園でした。申し訳ないですが、動機は個人的なものでした。
道満の術で呼び出したのは、台風の場所が九州と四国の間くらいのときでした。
交渉段階としては、「北上しては困る。このまま洋上を東進してほしい」と頼みました。拒まれれば、むろん恫喝などに進んだでしょう。
ところが、少しの間に「いいでしょう」との返事がありました。いちおう、北上すれば、人々がせっかく築いたものが壊されてしまうからという善意の建前でしたが、私のごく個人的な本心が伝わったかと思います。
すると、進路予想天気図の赤丸が接するかどうかのすれすれのところまでで止めて、そのまま東進してくれました。
そして驚異的だったのは、まったく無風だったこと。雨もさほど降らず、彼が去った後のほうが、よく風が吹いていました。こんなことがふつうあるかどうか。そのときでも950hpsありました。
モルダーさんが、私の計画を察知されたようで、台風にはそれなりの役目がある場合があるから(地震を防ぐという)、無理に変更してはならないと諭されました。しかし、打算でやってしまいました。
朝になって、東の空を見れば、あの風神がふんどし一丁で筋骨隆々たる背中を見せながら格好よく歩いていました。私は、思わず手を合わさざるを得ませんでした。
夕刻に再び術で呼び出して、一献手向けながらお礼を伝えるとともに、「あなたやあなたの眷属がこの日本にくるときは、手加減したり、遠目のコースを通るなりして、人々の暮らしに配慮して欲しいのですが」と頼みました。そして、前回の14号へのお詫びを託しました。
すると彼は、このたびの役目は果せたこと、および台風の心情と、個別に要求するにもタイミングのあることなどを語ってくれました。
台風も不惑の歳になれば、決めたコースを変えることはようしない。その直前までに指示すれば、考慮できるとの事。ただし、少年期から青年期までは、勢いと憤激の度合いが強いため、逆に歯向かうこともあるから注意と。
つまり、台風が向きを変えるために滞留しているときから、曲がりきったころまでが指示できるタイミングだというのです。
こうして今回は、風神の品格もさることながら、ぎりぎりのところで間に合ったようなわけでした。