琵琶湖周航の歌 2・・・躍動する琵琶湖

琵琶湖は大昔からそのサイズや形を変えたことであろう。その辺の話は地質学者さんから聞いてほしい。
私が語ろうとする琵琶湖の躍動とは、地質学的というほどに昔ではなくも、琵琶湖周辺に起居した人々の心象風景の中で様々に躍動したであろう琵琶湖のことである。
前の記事で、古代人が神話の天の真名井に琵琶湖を喩えて、その上空で巨大な姉弟神が雷のような声で言い合いをしている様を見ているかのように想像してきた。
「天を奪いに来たか」「男の俺が継ぐべきとは思うが、そこまでの思いはない。ただ挨拶にまかりこした」
「そうではあるまい。二心があるに違いない」「ならば、持ち物から何が生まれるかで証を立てようではありませんか」
こうしてお互いの持ち物を砕いて天の真名井に降り注がせたとき、弟の太刀からは三姉妹神が生まれたとされる。
三姉妹神はいわゆる弁天さんであり、インドではサラスワティー、ガヤトリー、サヴィトリーの三姉妹である。
神仙を夢見た近江の住人たちは、「では、こうあらねばおかしいだろう」と竹生島、沖島、多景島を築いたのではあるまいか。
時は縄文時代とされる頃、住人たちとは巨人族であり、この時代の黎明期に神々の下働きとして住み着いた者達だった。
スサノヲの連れてきたアシナヅチ、テナヅチという種族が、先祖がスサノヲの指示によりオロチ退治の構造物を作り効果を見た幾世代か後に、在りし日のスサノヲ神の功績を偲んで築造し祭ったのではあるまいか。
琵琶湖はそのとき、在りし日の神々が出会い、渡り合ったパノラマ空間であったことだろう。
そのさらに後、普通の我々に似た人々が根拠した。弥生人である。
彼らは神々を祭る神体島や神体山に対して、王族の人魂にも神の威光を見て、古墳を築造した。
当時の伝承に、より古代の大土木事業が行われた事実が伝えられていて、矮小人類といえども、人海戦術によって達成可能と量られたのではあるまいか。
つまり古墳は、過去の人々にできて、なぜ自分たちにできないだろうかという発想から生まれたのではないかというわけだ。
巨人族のことやら、宇宙人の重力制御技術のことなどを、ここでは論ずるつもりはない。
ただこのときも、より古代への理想の投射から、大事業がなされたのであることを申しておきたいのだ。
またさらに時は下って、鍛治と窯業の技術から、銅鐸が作られるようになった。
当時の人々は、もはや大土木事業による理想の達成よりも、小さな見立ての芸術作品によって祭りを代替できるという思潮を起こしていた。
銅鐸の形は秀麗な神体山を模倣しており、銅の成分が害虫よけになるなどの効能からも、地力の象徴と考えられ、祭祀に用いられたかもしれない。
名づけて、「ウツシクニタマ」。豊穣をもたらすだろう祭器であった。
こうして巨大構築物よりも銅に霊験を認める思潮が大勢的となり、古墳時代から飛鳥時代へと移っていく。
さらに祭器、武器としての銅の全盛期が終わると、鉄器の時代となる。
さて、渡来人にもいろいろあった。
ある種の渡来人は、琵琶湖をどう見ただろうか。
琵琶湖と呼ばれるようになったのは、いつごろからだったか。
古くは「あふみ」「あはうみ」と呼ばれ、近つ「近江」と当て字されて今になる。
琵琶湖との呼称は、その形が琵琶に似るからというのは、やや困難がある。
琵琶の形に合うのはむしろ淡路島であり、「あはぢ」の対偶に形や大きさの似た「あふみ」があったがゆえに、琵琶湖と名づけられたのではあるまいか。
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(図中ピンク丸:古都の位置 いずれも平安の都を目指したものだった)
では琵琶湖の形はというと、むしろ中東、ヨーロッパの竪琴にこそ似ている。
ところが渡来人たちは、日本に同じ楽器を見出せなかった。それで最も似ていた楽器の琵琶にしたようなことではなかったか。
そこにもうひとつ、神話のイザナミの尊容の場としての「比婆」が琵琶との語呂的親和で、このように定着させてしまった感がなくはない。
さて、この想像逞しい渡来人とはユダヤ人であっただろう。
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イスラエルにある淡水のガリラヤ湖は、古くはキネレト湖と呼ばれ、竪琴を意味する「キノル」に由来している。
そこから下ヨルダン川によって死海に注ぐ流れは、ちょうど琵琶湖疎水から淀川を経由し浪速津の海に注ぐ流れに似ている。
というより、彼らがもし政権の中枢にあったなら、大土木事業してでも類似させたことであろう。
それほど、こんなところにと思える所に、洋の東西における相似像は存在しているのだ。
伊吹山から、あるいは比叡山や比良山系、あるいは三上山から見下ろす琵琶湖は、渡来人たちにとって故郷の地を偲ばせるに十分だったはずだ。
キノルでなくとも琵琶で以て涙を噛み締める古代人の姿が思い浮かばないというなら嘘であろう。
彼らの想像する琵琶湖は、また更なる古代人とはちがったふくらみを持っていたのである。
渡来人たちは残念ながら、商魂と戦略に長けた豪族たちを都に上らせはしたが、精神世界に生きる道を選んだ者たちには苛酷なものとなった。
山岳地帯に入り込んだ彼らは、霊力並ならぬ者とはなったが、物の怪の類と見なされ、天狗と呼ばれ、鬼と呼ばれ、よくて山人、さらに仏教帰依の修験者として人格を与えられるに留まった。
都の権力に入り込んだ者たちはこの仲間たちのことをどう考えたのだろうか。現代のユダヤ人の姿に似ていないだろうか。
死海北西のクムラン洞窟に相似する位置を畿内に求めれば、六甲山系が該当するだろう。
地形的こだわりの多い彼らが、六甲天狗となった可能性は高い。
が、当ブログ記事で取り上げたことのある、摩耶山天上寺伝説によると、当山の天狗は麓から上がってきた僧によって三角護摩壇法とかで岩の下に封印されてしまったとか。
また、伊吹山、大江山、遠敷に根拠した鬼の一族も、荒くれた東人の兵団によって討伐されたもようである。
仏教や陰陽道などの大陸文化が、時の権力を使役して、先に入ってきていた渡来文化を駆逐したわけであった。
しかし先のユダヤ的祭祀は、山岳修験道だけでなく、都に入った者たちによって神道祭祀に色濃く反映しているというわけである。
近江商人の商魂は、かの民族の商魂に似ていると言われる。両者のルーツが同じとすれば、ああ、遺伝子のなせる業かと思われるのではなかろうか。
あれから現代となってはいるが、琵琶湖周辺はさほど古代の風景と変わっていないのではないだろうか。
Pさんの撮られた三上山からの眺望写真は、あまりにも晴れやかで、のどかな時代のよすがを留めているように思ったことか。

本日は宵戎

じゃじゃじゃじゃ~ん!!
本日は宵戎でございました。
実は、そうとも分からずにいた今朝のこと。
またまた未明の夢に故き母が出てまいりまして、
買い物に出かけて、何か担いで帰ってくるなり、
キッチンで流し台いっぱいの大きさの鯛を、
調理し始めたのであります。
そこで目が覚めて、いったい今日は何かお祝いでも
あったのかいなとカレンダーを見ても、先勝しか書いてません。
やがて、ああそうや、えべっさんやないかいなと思い出し、
母の演出に驚いたようなことでした。
そこで仏壇に向かってお話しするわけですが、
「あのお、母さんは毘沙門さんとは縁がありましたが、
今回はえべっさんのつもりでございますか?」と。
すると、こんなお答えが返ってきたような。
「宝船の中は戎祭りでなあ。お前にもおすそ分けや」
ふと、そんふうに聞こえた気がしたわけでありました。
この夢は今朝ほんとうに見たものです。

文化の日の未明の夢

2日の夜は夕刻から睡魔が襲い、午後8時過ぎにはベッドに転がり込んだようなことだった。
午後11時にいちど目が覚めて、少しパソコン作業して眠りに就いた最初の夢に母が出てきた。
なぜか隣家の門前にいて、私と話ししている。何を話しているかは不明。昼間の光景である。
そのとき、訪問客に対してよく吼える隣家の犬が鳴いた。どうやら、夢の中でではなく、現実に鳴いたみたいである。深夜に鳴くはずのない犬なのだが。
眠りがいったん途切れたものの、次の夢へと入っていった。
そこでは朝になってガラス窓から日差しが入っており、カーテンも何もない部屋に寝ていて、布団の中から出たところだった。
ふと見れば、ベランダを隣家の男が歩いているではないか。プライバシーを除き見された気がして、怒鳴ってやらねばならないと見れば、ベランダはそうとう広くて、四軒ほどの家の共有のようになっているではないか。(私の家は一戸建てだ)
左のほうを見れば、住民が花や木の鉢植えを、屋内からベランダに運び出しているところだった。
私も何事かと見に行き、屋内に入ってみれば、なんと私の祖母がいた(平成六年に死去している)。
どこかの店の中で、店員から品物の説明を受けているようだった。
懐かしさに近づくと、目と鼻の先で祖母は私に何か話しかけてくれたのだが、それよりも祖母の顔が皺ひとつない透き通る肌色をしていて、つんつるてんの坊主頭だったもので、じっと観察してしまい、話のほうを聞き漏らしてしまった。黒っぽい和服姿だった。
その直後、母が普段着姿で、人に話しかけるときによくするしぐさをしながら店員のところにやってきたシーンで目が覚めた。(色彩豊かな明るい夢だったが、目が覚めてみれば外は真っ暗だった)
母の夢は母の死後もう何度も見ているが、祖母を夢で見たのはまったくはじめてである。目と鼻の先で顔を見合わせながら話をしたというのも鮮烈な印象だった。
あれは死後の世界なのか? だとしたら、現実とさほど変わらない。ただ、祖母の八十歳当時の貫禄ある風貌そのままに、肌年齢を30歳ほどに保っておれる世界みたいに思えた。それはそうか。魂は永遠。好きな年恰好をしてすごせるというが、祖母なら気に入りそうな姿だ。
しかも祖母は尼さんになっているようだ。信心深い人だったから。
童話「たつえおばあさん」は、祖母をモデルにしている。
物語の中で、祖母にはお寺で説法して、死者の煩悩の衣服を剥ぎ取る奪衣婆さんの役柄を設定したが、まさにそのとおりのことをしているのかも知れない。
母の四十九日は終わったが、なぜかいっそう近くにいるような気がして・・・というのも、眠りに就けば何パーセントかの確率で、母に会うことができるわけであり、この世とあの世の区別はあったにせよ、隔絶された印象がまったくないからである。
かくして、私は今なお朝晩欠かさず、お供えの食膳作りをしている。見えないが、すぐ傍で生きているように思うからである。
アセンション後の世界は、死者との交流ができる世界だと聞いたことがある。もしかして、私はアセンションの予行演習をしているのかも。
あるいは私が死ねば、同時にあのカーテンのない部屋で目を覚ますのかも知れない。もうこちらの世界で目を覚ますことはなく、むこうでの日々の暮らしを、何事もなかったように重ねていくのではあるまいか。
文化の日の未明に、異文化の夢を見たという話であった。
その後の気づきがあったので、続きを読んでくれるかな。↓

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不思議なこと・・・続き

私は、母の葬儀を質素に済ませてしまったことを、長い間悔いた。母は、思いのほか賑やかいこと好きだったのだ。
母の私に抗議する声が就寝中に聞こえてくるようだった。私は、仏前で平謝りに謝った。
そして、これはもはや神に頼むしかないと、九月二十一日夕刻に、わが信奉する梵天様、毘沙門天様などの神々に真剣に祈った。なんとか、盛大なお見送りをしていただけないかと。
すると、その晩のこと。すでに記事にしたように、
二十二日未明の夢に、神々が大きなホテルを貸し切り、ご来光に合わせて屋上に出れば雲海の上。移動する道に母は四人の導師とともに乗り、ご来光へと運ばれて、その麓で母が手を振れば、我々も歓声を上げて手を振って、お見送りができたというわけである。
私は、神々のお計らいに感謝を捧げた。母を少なくとも賑やかに送り出すことができたのではないかという思いが、私の気を軽くしてくれた。あれだけの人数なら、位人身を極めた者の葬儀のレベルであろう。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。
二十四日未明の夢。母が再び現れたのは、すでに大震災で全壊し存在していない神戸の自宅でだった。夜、母にとっての懐かしい人が誰だか人物は特定できないが訪問してきた。母は、「まあ、よく来てくれたなあ」とまるで抱きつかんばかりにその人物めがけて走っていって、つつーっとすり抜けていってしまったのである。幽霊だから仕方ないよなという思いと共に目が覚めた。
ああ、これはいかに盛大さを演出しても、下界にどうしても会っておきたい人がいて、まだ下界をうろついているのだろうかと思ったようなことだった。
三七日明けがちょうどお彼岸明けでもある二十七日の午前二時に、不思議は現実世界に起きた。携帯にリンが二回鳴ったのである。新着メールかと思ったがさにあらず。非通知でのコールだった。こんなに知られていない携帯番号にかけてくる者もなかろうに。
昔、亡くなった間もなしに電話を”夢の中で”かけてきたのは父だった。母はもしかすると、パワーがもっとあって、現実の側にかけてきたのではなかろうか。時刻は2:19。「・・・に、行く」というメッセージを込めたのではないかと思った。
不思議なことに、二十三日彼岸の中日の朝、普段洗車しないマイカーが、昨夜のうちに雨が降ったか、洗車機を通したかと思えるほどにきれいになっていたが、二十九日の朝にもそうだった。黒塗りだからよごれは目立つのに、まるで夜中のうちに洗車しワックスまでかけてくれたかのように、きれいに仕上がっていた。(さすがに車内まではとはいかなかったが)もしかすると、龍神さんの眷属が雨にまぎれてやってきて、母の思いを伝えてくれたのかも知れない。
三十日、日曜ということで、広島から遠い親戚が線香を上げに来てくれた。遠いといっても、母にとってみれば、抱きついて喜ぶほどの人たちが二組である。私は、訪問者を歓待することで、母の思いに応えることが出来たかと思えて、ようやく気を楽にした。
申し訳ないという思いが薄れると、今度は慢心が頭をもたげてくるのが私の短所だ。母のささやかな遺産のうち、神戸の震災後の更地の件を明確にしなければならなかったのだが、問題の権利証から何から何まで、家中探したものの見当たらない。代わりに、どうでもいい(と私には思える)はぎれやタオル、風呂敷、買い物したビニール袋の類がわんさか出てくるばかりだった。私は、捜索の後半戦で、ついにキレて、母の節約精神のピントの外れ具合をなじりながら、捜索作業をする始末だった。
たまたま町内の回覧できていた、「もったいない」をテーマにした標語の募集がテーブルにのっかっていた。そこにはサンプルとして、「もういちど すてる前に考えよう 再利用」などとあったが、すかさず「もったいないは 小さな家中 ごみ山にする」と書いて応募してやろうかとまで思った。
こうしてドタバタ騒ぎしたのが十月一日のこと。果たせるかな、二日の未明の夢に、母は出てきた。といっても、私のほうを一瞥もせず、例の書類を捜しているのだ。それもどこか旧家の中のようで、こげ茶色主体の大きな家具の立ち並ぶ暗い中を、あっちでもないこっちでもないと、探しまくっているのだ。そして、どうあっても見つからず、とうとう床にへたり込んで動かなくなってしまった。その間、私は「もうそんなことせんでいいんだ、いいんだ」と叫んでいたのだが、聞こえないのか、責任を重く受け止めてのゆえか、こちらを見ることもなく床にへたりこんでいるのだった。
私は目が覚めて、仏前に飛んで行って、平謝りを繰り返した。
こんなに私の心が揺れ動いたのでは、母が成仏できないではないかと、自らの馬鹿さ加減を猛反省した。そして謝罪の気持ちばかりで時を過ごした。
三日の夜九時頃に一階を消灯し、二階で自分のことをしていて、半時間後にふと思いついて一階に下りたのだが、とたんにゴソゴソッと音がした。電灯をつけると、ゴキブリが一匹、私に驚いて逃げようとして、壁にぶつかり裏返しになって、しばらく立て直そうともがいて、ようやく表返って、その場に静止した。とてもベテランのゴキブリとは思えない狼狽ぶり。
私はゴキブリのもがく様がすでに哀れになっていて、もしかするとこれは母の視座を持つゴキブリ(つまり母の意識の宿る化身)かと思った。つまり、ゴキブリになってまで、家捜ししているのではないかと直感したのである。この小さな視点からでは、書類の山を見分けることはできまい。
「母ちゃんなのか? もう探さなくていいんだよ。こちらのことは、もうこちらでやれるから、母ちゃんはゆっくり向こうの世界で幸せに暮らしておくれ。せっかくご来光まで行ったのに。そこが母ちゃんの居るべき所」
するとゴキブリは、触覚さえ微動だにせず、じっと私の話を聞き、思いを読み取っているかのようだった。こうして十分間ほども語りかけていただろうか。まだ動こうとしないので、「向こうに戻って、楽しく幸せに暮らすんだよ」と、そのまま消灯して二階に上がったのだった。
四日の朝、当然のことながら、ゴキブリはその場にいなかった。
その日は、不明の資料に代わるものすべてを入手せねば、母にも影響しようからと、役所回りしていけば、とんとん拍子に入手できた。
それは、母の積善の徳によるものであり、母が応援していてくれたからだろうと思う。ふつうはこんなにうまくいくことのほうが珍しいほどだ。
仏前に報告した。解決したから、母ちゃんがこちらのことには関わる必要はない。それより、一生お世話になったのはぼくのほう。ほんとうにありがとう、と。
朝になって、祭壇のお供えにゴキブリの糞が落ちていた。おお、ようよう毎朝晩出す食事を食べていることを示してくれたかと思えた。ここで食べずに、昇華された供養の品をあちらで食べてほしかったが、私の周りにいる時間が長いようだった。母がいなくなったという実感がまったくなかった。
祭壇に向かうときには一匹の小蠅が飛び回った。あるときは母のビジョンが傍からセコンド役のようにアドバイスしたりした。
十月十二日に私は祭壇の母に向かって、いまどんなところに居るの、よかったら夢に見せてほしいとねだった。
翌十三日の朝、祭壇の黄色の大輪の菊の花の真ん中が妙に崩れているのに気づいた。見れば、体長5cmほどの青虫が横たわっているではないか。うわーっと、取り出して潰そうかと思ったが、またも思い止まった。
これはいま、母があちらの世界で、菊の花の台の上に転生したことを示しているに違いない。
そう思うと、もったいなくてもったいなくて。
青虫に母ちゃんなのか、母ちゃんのよすがなのかと問うてみれば、青虫はこのとき頭をもたげて、私と顔合わせして、小さな口の歯をパクパクさせて、あたかも話をするかのように見えた。それは潰すのは容赦してくれと言っているようでもあり、母の語りかける姿のようにも見えた。
後にも先にもこのとき以外に青虫との顔合わせはない。
十四日すなわち昨日だが、母が最も会いたがっていた神戸の旧友がお参りに来てくださった。祭壇の花のうち、大輪の菊はすでに青虫の食事で崩壊寸前だった。よもや旧友をこの格好で驚かすわけにはいかない。そこで、菊一輪を一輪挿しにして、下駄箱の上に置き、来客を玄関で迎えてもらうことにした。
祭壇には、昨日あたりからいた蝿が朝から活発に飛び回り、旧友が祭壇に手を合わせるときには、遺骨の上に止まって、同じように彼に向かって手を合わせていた。
こうして、母の希望はたぶん叶えられたことであろう。
晩になってみれば、なぜか冷え冷えした。母の気配がたぶん遠のいたのであろう。天気予報では、晩から寒くなるとは言っていたが。
千の風になって。
朝は光になって畑に降り注ぐ。
死後の意識は、自由自在。
視座を求めて、どんなものにでも仮託する。
それを転生と言うのもよかろう。
しかし、テンポラリーであるのが常態であり、
なんのこだわりを持つものでもないことが分かる。
私は、生き物を前に、もしかすると縁者かもしれぬと、
その生をたいせつにしてやりたく思う。
ただし、蚊だけはどうあっても、見つけ次第、叩いてしまうのは
いかがなものか。
刺された後で、蚊―ちゃんに刺されたんだから、まあいいわと
自分をなだめてはいるのだが。変人もいいとこだな。