上の写真は兵庫県西脇市の高松山長明寺のものである。そこに源三位頼政の墓所があるのだ。
その彼が御所の紫震殿で退治したというのが写真右の「鵺(ぬえ)」である。
伝承をまに受けた者はイメージ豊かに間違った想像をしてくれている。
尻尾が蛇というを、何も先っぽに鎌首をつけんでもいいだろうにと思う。
これではただ面白みを増すための道化でしかない。
当時、鵺の出没に肝を冷やしていた朝廷は、政略的に人間の顔をした半人半獣を、曲げて猿の顔と伝えて、世の混乱を招かないようにしたとみえる。
人の顔をしたバケモノを討ち取ったとなれば、世が騒然となるのは当然だからだ。
その隠ぺい工作は良かったが、鵺がヒヒと変わらない存在とされたことにより、事の重大ささえも隠蔽されてしまったことは淋しいことである。
実は、事はもっとたいへんなものであった可能性があるのだ。
次のような目撃談のあったことも知っていて欲しい。
私の知人に、あの伝説上の”鵺”に遭遇した女性がいる。
本日、満八十二歳になったところの人であるのだが、数えで七才の時(七十六年前)に五才の弟とともに怪生物”鵺”と遭遇した。
場所は丹後半島の今の伊根町日出というところ。海からさほど遠くない山辺に添う田園地帯でのことである。
山部にはいったところになる栗拾いの帰り道。積み上げられた稲木の陰から、見たこともない生き物が二人の進行方向に立ちはだかるように現れ(実際には道から少し外れた田圃の中に)、座り込んだのである。(挿絵)
そのときのこの子の動揺は量れるものではない。それが不動の姿勢でじっと見つめているものだから、恐怖でいっぱい逃げたくても足が動かない。できるといえば、二人して大声をあげて泣き出すくらいのことしかなかった。それも半時間にはなろうかという長時間で、ついに生き物は根負けしたか、元の稲木置き場の陰に消え去った。
子供は泣きながらも、手の指のあわさいから対象をじっくり観察した。それは人間のような整った顔だちをしており、黄土色の髪を肩の下まで垂らし、脚部と身体が何かの模様の入った汚ない黄土色をして、腹が白く、犬や猫が行儀のよい時にするような座り方をしていた。座ったときの背丈だけで、子供の目線以上はあった。その傍にはいちばん嫌いな黒く長い蛇がとぐろを巻いていた。
記憶はしだいに風化するも、この子の恐怖体験の印象は鮮烈であり、今まで動物園やテレビなどで見た、いかなる動物とも照合できる例はなかった。
私はまだ小さい頃からこの人の体験談を聞き及んでいたが、私が高校生の時とつぜん謎解きの糸口が見つかった。古典の授業で知った”鵺”に特徴が似ていると直感したのである。
”鵺”は、広辞苑などを見てもらえば分かるが、頭は猿、躯は虎、胴は狸、尻尾は蛇という想像上の動物で、平安時代に源三位頼政によって京都の紫震殿で退治されたとの伝説を持つ。
だがこの人は、紛れもなくあれは人間の顔だったと言い張る。顎のえらが張っていたとはいうが、その顔立ちのよさにははっとしたというのだ。鵺なら頭が猿ということなので、違うではないかと仰る向きもあろうが、逆に人間のようだったというところに、事の真実味が出ていよう。例えば、鵺が猿として片付けられざるをえない事情があったとすれば・・。
私がこれを鵺だと判断した極めつけは、この人が怖がった蛇の存在だった。この人はそれのことを、単独の蛇と思っていたようだが、私が鎌首を見たのかと言うと、生き物の裏側に隠れていて分からなかったそうだ。私がもしかするとそれは尻尾かもしれないぞと言うと、そう言われればそうかもしれないが、そんな生き物なんかおるのか?ときた。
そうなのだ。それこそ犬や猿にない鵺の特徴ではないか。
子供心に、人間の頭部が動物の体にくっついている違和感と、大嫌いな蛇が居たことで、相乗的にとてつもない恐怖となったとみえる。鵺の可能性大と語り合った日、しばらくこの話題で持ちきりとなったことは言うまでもない。
この人は、あのとき直感的に、鵺は自分をさらって育てようとしているように思ったそうだ。もし泣かなかったら、たぶん女ターザンとして山中を飛び回っていただろうと。
その後、エジプトのスフィンクスの顔に似ている感じがするとかで、どんどん話に巾が生まれてくることとなった。世界各地の古代伝承が、失われた古代種のことを錯綜しながら言い回しているのであろうか。
そうした話を最初にしていたのも、もう四十年も前のこととなった。後からミステリーブームとして話題が続々と出てくるはるか前のことである。
この人の弟も、この遭遇体験について憶えていて、最近になって「おかしな生き物がおったなあ」と述懐してくれたが、両名とも記憶が風化しつつあり、体におかしな模様がついていたことをかつてはしっかり憶えていたのに、もうどんな模様だったか定かに思い出せなくなっている。だから、この話を一度詳しく書き留めておかねばならないと思っていたのである。
さて、ここで話を終わらせることもできる。異体験をした人の珍しい体験談の紹介として。ところが、この異体験には、更なる深みがあったのだ。この世界自体が何であるか考えさせられるほどのものである。
もうひとつこの女性に関する伝説。半ば神話と言っても良い伝説である。
この人が、母の胎内に身籠ったころ、その母の夢に高徳な僧が現れ、「毘沙門さんの二十日に子が生まれる」と告げたそうである。その母は、毘沙門の意味も知らなかったが、後に調べて回り、ある宗門の人から、まさにその日に生まれていることを知ったそうである。
また、この人が生後四ヶ月頃に、その母の家を訪ねる人があった。お遍路の格好をした人物で、家の門を入るなり、「ここに赤子がおるだろう。少し見せてもらえないか」と言ったそうである。その母は、「はあ、確かにおりますが、いったいどういうことでしょう」と問うと、「その子は男の子か?」と聞くのである。
「女の子ですが」と答えると、お遍路は、「そうか。それは残念なことだ。もし男の子なら、位人身を極めるはずであったろうに」と言って去ったそうである。
ふつう、言いがかりをつけてでも見料を取ることが多かった頃であるのに、何も取らずに去ったことを、この母は訝ったそうである。
ところがそれから少し後に、これとまったく同じ話が別の行者からもたらされたのであった。「この子は男の子か?・・そうか。それは残念だったな」と。それにはさすがのその母もびっくりした。
行者は重ねてこう忠告した。「この子が中年になるまでは、いっさい農作業をさせてはならん。早死にしてしまうから」と。
毘沙門さんとの縁を示すのか、物心つかぬ幼い時から、道端に石仏があるのを見ればそこに駆け寄って手を合わせたという。その母は何も教えもせぬのに不思議なものよと思っていたそうである。その性向は今もまったく変わっていない。
この母は、行者に言われたことを真剣に受け止め、いかに女子の務めが家庭を守ることとはいえ、この人には畑仕事をいっさいさせなかったそうである。そのお蔭であろう、この人は中年になったと思しき頃から、もう時期的にいいだろうと家庭菜園にいそしむようになったが、今も健康な日々を送っている。
少し話が余談になったかも知れないが、ここで「位人身を極める」とは、今で言えば一国の総理大臣になるような意味になる。だが、今の小泉氏にもそれ以前の歴代の総理にも、そのような出生にまつわる裏話があったなど聞いたことがない。
昔を辿れば、豊臣秀吉が生まれる前にその母が日輪を飲み込んだ夢を見たという話が思い出されるが、この人に関してはその母がこの子を身篭ったときの夢のお告げの「毘沙門さんの二十日に生まれるというのがそうであろう。どんな暦の見方をするのか知れないが、まさにその日だったという話である。また、出生前に旅の行者の来訪を受け、預言されたといった話は、キリスト以外に私は知らない。
もし男であったとして、天下人になったとするなら、党利党略に縛られ動くような総理大臣ふぜいではないはずである。おそらく世界に冠たる人物になったに違いないと想像するのである。この国際化時代の人々のリーダーたる「世界の盟主」になったであろうと。
なおも昔へと辿るとき、やはり建国神話の人物がいた。ヨーロッパにおいて紀元前700年代に、ローマ建国の父と呼ばれるロムルスがいる。レムスと双子の兄弟で、母親が不義の咎で赤子二人してチブル川に流された後、狼に育てられている。また、半人半獣が教育するという線でいくと、半人半馬のケンタウロスがいる。彼ら種族は野蛮で好色、人間や神々さえも色欲で襲う連中というが、植物神クロノスを父に持つケイロンだけは大人しく知識豊かで、ヘラクレスやアキレウスの師匠となっている。
動物あるいは半人半獣に育てられるという伝説は、たぐい稀なことのゆえに、歴史が輩出した偉大な人物に後からとってつけられたような場合が多いだろう。しかし、本当に半人半獣がいて、人間と関わりを持っていたとするならどうだろう。
鵺は、日本の公設の記録に言うような猿面獣身ではなく、人頭獣身であるなら、スフィンクスと同じである可能性がある。スフィンクスにもいろんな種類があるとされるが、人を捕って食うような伝説くらいしか残されていない。しかし、エジプト王朝に多大な影を投げかけ、ファラオがその形に自分の姿を彫らせるなど、知者賢者としての座を占めているのである。つまり、賢王であることと半人半獣は結びついている。中国の伏儀、神農もそうである。王であるとともに、半人半獣の妖精であったとされている。そしてそれは、神々と人間の間を取り持つ中間的存在の象徴でもあった。
さて話を戻し、その子が「さらわれる」とおびえた意味についても、推理してみよう。
鵺は、先の二行者が察知したように、この子に並ならぬ”気”を察知したに違いない。霊獣であるならなおのことである。だが、性別までは行者たち同様、分からなかったのだろう。
さて、当時の躾子育てにおいて、女の子はしとやかさと貞節を要求され、男の子は泣かない強さと男らしさを要求され、誰しも親の言うことに従順な時代であったから、もしこの子が男の子だったなら、泣かずにいて連れ去られた可能性は大である。この子の弟は、姉がひどく泣くものだからつられて一緒に泣いたというわけなので、もし男兄弟だったなら、二人とも神隠しにあった可能性がある。どこかローマ建国神話のロムルス兄弟の話にも似ていないか。
だが、泣き止まぬ子に数十分も対峙すれば、王者の資質にそぐわぬ者あるいは女子と見抜いても仕方がない。
こうして女の子はさらわれずに済み、鵺は誤解せずに済んだ(といっても失望はしただろうが)のである。
では、男子として生まれるべき宿命を持った者が、女子に生まれるとは、どういう意味なのだろう。
このこと自体、霊界以上での話であり、神の采配の次元の話となるので、あくまでも推測であるとお断りしておく。
それはおそらく、男子として果たすべき役割がシナリオから外されたことを意味するだろう。
シナリオ自体が書き換えられたなら、その配役が要らなくなる道理である。主役脇役含め、いっさいがっさい表舞台から役を外され、あるいは舞台に役をもらっても、エキストラ程度のものになってしまうこともあろう。
実際この人は、世に出るどころか、すべて家族のために働くことに一生が費やされた。親の代、夫の代、子の代と。大正女で世に出た人は多いというのに、まったくの献身のために日々を送った。シナリオが変わり、配役が変わるとは、普通の舞台にも言えることであるが、役者にとって実に残酷なことであることは紛れもない。
では、どのようにシナリオは変わったのだろう。
それを考えるとき、ひとつの歴史のターニングポイントがあったことに気付く人はそう多くないであろう。決して物理的に実現しないであろうからだが、これに古くから期待を寄せていた世界最古といわれる民族がいたことも事実だ。アメリカインディアンのホピ族である。
ホピ族の預言に出てくるメシアのシンボルに、太陽のマーク、鍵十字、十字がある。それはどうやら、日、独、伊を表すとされている。となら、日独伊が勝利して世界制覇するというシナリオも、神の手元には当初あったのではあるまいか。
むろん、それが実現していれば、厳しい粛清弾圧の歴史を辿ることは想像に難くない。しかし、窮地に追い詰められたところから出発する国のとる行為としては、しごく当然のことと言っていいだろう。英雄もしくは盟主を中心に押し立てて進む挙国一致、国民一致、皆兵体制が当初の流れとなろう。
しかし、ある程度平和となり世界運営を行う段には、理想実現へのパワーをどれほど見せたか知れないのである。日独とも共栄圏構想を持っていたのだから、牽引力の点からしてもなおのことである。
今の自由主義、民主主義を否定するつもりはないが、その出しつつある解答が利己主義、利益主義、浪費主義、縄張り争いと競争主義によるまとまりのない弊害の多い成果ばかりであるだけに、何かその方面から模索する道があったのではないかと識者なら考えることではあろう。謹厳を以てする世界運営に期待を寄せる選択肢もあったのではないかと。
米英が勝利した理由を、神の立場に立って、「悲惨さを軽くするための神の恩寵があった」という説諭をする宗教団体もあった。だが、それが本当に恩寵だったかどうかは、先の未来に立たなければ分かるものではない。私はむしろ、神が見放したのではないかと思えるほどに、今の時代が危ういものに見えてならないのである。
ホピ族は、前記のメシアの登場がなければ、次にくる赤い服で象徴される非常冷酷を以てするメシアが来るという。それはもう人類の滅亡を意味している。それらしい民族がすでに台頭していることもある。このときのメシアの意味は、人類の文明を原始時代に戻すための意味に使われている。再び神の前でおこごとをいただき、次の時代に行くことを指し示されるための重苦しく過酷なステップである。この時に、人口はほとんどない。
私は、あの時点で人類の未来がこの方向に決定されたように思うのだ。
今となっては後の祭りを言うに等しいが、だがもし歴史が異なっていれば、1924年に生まれ、太平洋戦争期に20代を迎えるとは、戦後日本が新世界を築くにあたって、あまりにも好位置に着けていると言えないだろうか。つい私は、この人が60歳になった頃の世界政府の総督としての人物像を想い描いてしまう。それも、霊獣の霊威を受け、並ならぬ智謀を備えた総督像をである。そして、おそらく今よりももっと早く、理想世界は実現していただろうと思う。
私は、こうした意味のパラレルワールドは実際に存在していると思う。そして、その世界を実体験している人々がいると思う。ただ、向こうの人々との連絡がつかないだけである。
こちらは書き換えられたほうのシナリオの世界だ。それもある時点に突然である。おそらくそれは1920年頃のことであろう。
なぜなら、この人の性別がいきなり変えられたのがこの辺りで、胎児という起点である時期に強制的に変更されたのである。考えようによっては、何とも残酷な話ではないか。生まれる前に、魂が霊界において周到に準備していたのだとすれば、そこで注ぎ込んできた努力は何だったのかということになろう。おそらく一種の工作員としての準備(シミュレーションや訓練)をしてきたはずが、お役返上となると残念どころの騒ぎでないに違いないのだ。
確かに、今の世情のでたらめさや政府のやり方のお粗末さに、この人は義憤を隠せないでいる。しかし、この人は女として実に従順に下積みと人のサポート役に徹した人生を全うしつつある。腐りもせず、めげもせず、学はなくともしっかりとした生き方を説く人である。魂の資質というしかない。できる魂は、何でもできるのだ。
さて、今度は当の鵺に聞いてみたい。これで良かったのか、と。彼もシナリオ変更の被害者だからだ。
いや、霊獣であるから、逆にこの人に会うことによって、歴史の転換を帰納的に知ったに違いない。鵺も人の子を育てるという役割を付与されていたなら、シナリオの変更を残念に思うも、素直に受け止めたであろう。そして、丹後半島の山深くに帰り、そこの霊妙な磁場を介して、異界へと帰っていったのではなかろうか。
役割の為に現れ、役割に還る。洪水の時も然り。エジプトの時も然り。平安京の時も然り。人の文明は恒久であることがない。賢王の治世も、長くは続かない。
理想を胸に時を選び、生まれてくる者たち。そうした者ですらも、どうにもならない予定変更がある現実。それだけ問題視される時代であることも確かであろう。
そのような人のお腹を介して、この人と鵺の嘆きを帯びて生まれてきたのが私であった。時を選び、親を選んできたのであろうか。それとも、ただ無為に?
私もそのような人の元に生まれた以上、気負って何かができるかと人生にトライはしてみたが、結局、語り部で終わるしかなかったようだ。しかも、この人にこの世の無常を体験させる役目しか担えなかったことにいっそうの無常観を抱かざるを得ない。