幼少期の頃の意味
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3月31日
自分独自の解釈でしかないのですが、つらつら思いますに、生まれてこのかた、棺桶に両足突っ込んだような歳になってようやく、この世と異界のおおかたに解釈が施せました。私の人生の目的は、そのことに尽きます。世の改革は関心外でしたが、謎解き解釈が改革のツールになる不思議は経験しました。
物事を成就させることは、生業を営みながらのことゆえ、短命な人間にはとても困難なことのように思います。しかし、私の場合は50歳以降に集中的にこなすことができました。そのときからすれば、たった20年です。いわば怒涛の如き天与の啓発の連発に、たいしたこともない頭がフル回転した感じです。
物事の理解が筋道立ってついていく、その多くがワクワク体験というものであり、頭の老化を防いでくれたように思います。満足できる20年だったと思います。
しかし幼少期は違いました。今とは逆に絶望的な経験ばかりだったと思います。どうして人生の初期に、あのような期間が置かれていたのでしょう。
そのことにも、解釈と理解を以て臨むこと。それが私の最後の総括になるのかと思います。
あれは3歳の頃でしょう。当時、テレビはよくはやる料理屋ぐらいにしかなかったと思うのですが、私は父に肩車されて入り、テレビに映った歌舞伎の画面に魅入りました。そこに奴さんが現れ、抜刀したのです。
私はそれを見て大声で泣き出したことを憶えています。何も予備知識がないはずの年頃で、抜刀に怯えるというのは、今に思えばおかしなことでしょう。人によって解釈はありましょう。過去世に刃傷沙汰に遭ったのだろう、とか。ないことはないでしょうね。刀が危険と知っているのは誰?というわけです。
その後、番組つなぎか、進駐軍が持って来たレコード曲「遥かなる山の呼び声」が二つの雁木車が回る背景に流れていました。
4歳頃に祖母の妹がいる広島に行ったとき、大叔母から玩具の刀を買ってもらい、その道すがら大叔母を刀で切りつけていたといいますから、やはりねえ。
5歳頃に父の仕事の関係で神戸の下町の缶詰工場の2階に間借りするようになり、盆踊りの頃、表通りで櫓を組んでその周りを男女が浴衣姿で踊るわけですが、その光景を見て私は心底縮み上りました。というのも、男女共に小さなひょっとことおかめのお面をおでこにつけて前をはだけてガニ股で踊ってる。
ここはお化けの世界だと、そのとき思いました。えらいところに来てしまった、間違ったという思いが、父母に向けられて、その後半年ほど、三白眼で父母を睨みつけて暮らしました。当時の写真にもそう写っています。
お化けの世界ゆえか対人関係にも恐れの態度が表れ、いじめられやすくなりました。
純粋な魂にとっては、ずいぶんと毀損される世界のように思います。その思いは今でも同じです。こんなところに来てはいけない。誰だ?ここを心の修行の学校だなどと言ってる奴は。あの坊主か。顔が四角になるほどにしてやりたくなるね。幼児期に虐殺された子供の魂は、どんなにトラウマを抱えることか。
小学校では、ユーモラスな性格を持ち合わせながらも、授業も世の中も嫌いで自閉症だった感があります。授業中に目を開けて眠る特技で、聞いているふりができたため救われました。三昧境というか。インドに生まれていれば弟子にしたがる聖者もいただろうにと思いますが、そこは成績に重きを置く日本。
5年生のとき、成績が中の下に落ちたのを見た母が先生に注進。先生は黒板の一点を見つめて眠る私の顔の前に、グローブのような掌をかざして振れば、クラス全体が笑い出して、それ以来、羞恥心というものが芽生えて、三昧の至福境からこのお化け専科の苦悩の世に引き据えられることになりました。
お蔭で成績は上になり、50人学級を七班ほどに分けたときの班長に勝手にされてしまいました。が、所詮耳から入ったことを憶えるだけの能です。理科の実験のとき、手順が皆目理解できず、わが班だけ中座して非難轟々。委員長から、なにやっとんじゃと小突かれました。女子からは同情の声が殺到。
女子にもてたのは6年生のときだけ。委員長はそれをやっかんでたことは事実です。しかし中学からは丸坊主。どうでもよくなりました。6年の頃から父の書棚にあった医学書に熱中して読み通しました。文は文語体。今の病名と異なるのは、肺炎を肺カタル(クワタル)くしゃみをくさめ、でせう、という調子。
お蔭で私は体が病気の巣窟と理解して、不安神経症(心臓神経症)になり、不調の日々を自ら作ってしまいました。中一のときには、学級のどもならん奴にいじめられ最悪の日々。ところが、ある日キレて、廊下まで追いかけて一発拳骨を頭にくれてやると、どんないじめも以後なくなったのは不思議でした。
ひとつの転機だったか、中二では心臓の不調もしだいに解け、ボール遊びに興じるようになりました。すると成績がまた上がってしまい、中三のときには、マンモスにも600人いた学年で席次が10番以内にまでなり、大学進学可能な普通校に行くことになりましたが、なまじ上を目指すとろくな事がありません。
競争意識を隠して大学進学を目指すお化けの世界に身を置く肩身の狭さか、顔と目を伏せての授業態度になった面白くない3年間。大学も国公立が落ちて私立が受かったため、高い費用払って通学するわけですが、とても遠い。満員の通勤客とともに立ち放しの1時間半。それまで徒歩範囲がまさかの電車通学。
大学に着いてみれば、その頃は安保反対の大学騒動で、学内にバリケードとゲバ棒、ヘルメット。行っても休講云々。カネをもらうための通勤ではなく、カネを払って通学という馬鹿馬鹿しさもあって、家の近所のケミカル工場でバイトをしたり家に篭ったり。それが家人に知れて、えらいことに。
母はそれまでと学業は同じと捉えていて、私がグレたと思い祖母に相談。祖母はまず私の因縁を知ろうと、見立ての良い拝み屋に行き、そこで「・・の最上の松に泊まる鶴」「一生食いはぐれがない」との託宣を受け、祖母は決して悪くはないがなとのたまう。が、母は収まらず精神修養道場に行かせようと。
まあ、このときに私のダイモンは鶴亀統べるときに欠かせない鶴となったわけです。また小学校の頃から母の不思議伝説を聞いて育ったため、空想少年でもありました。並行世界の存在は当然と思っていて、小5のとき盲腸手術で2週間休んでから以後、家に篭って玩具を主人公にして宇宙創造遊びをしていました。
それが面白くて中二の頃までやってましたか。がらくた集めた玩具の中にハンマーがあり、他の優良玩具と異なり、丈夫でチョンボしがちの体育会系的設定で、それぞれが独自の宇宙を創って披露するという趣向で物語は進行。ある日私は見つけました。もしやこの世はハンマーが創ったのかも知れないと。(笑)
また、通学せず家にいたときにはテレビを見ていて驚異的なものを目撃しました。守部昭雄の催眠教室。その中で術者が被験者に掛けた催眠術の驚異的効果、火事場の馬鹿力的潜在能力の引出しや五感の操りのすごさを見ました。後の時間帯に萬屋錦之助の子連れ狼を見て、冥府魔道に生きる凄まじさを知覚。
馬鹿げた脱線劇ですが、そうしたことのほうが余程ためになっていると今では思います。私にはこうして貯めた雑学知識が今の謎解き探偵趣味に大いに役立っているのです。私は生活のための仕事は当然のようにしなくてはならないとしても、本当のライフワークは生業以外のところにあったと思います。
さて、精神道場が祖母の知る宗教にあり、そこで1ヶ月修行。卒業の日に祖母の面前で破門されてしまい、祖母には痛い経験をさせました。私が悪いわけではなく、讒言のようでした。修行仲間の元校長が、館長に今謝れば赦してくれるとの意味不明の諭しを拒否。大学は1年で除籍。中座癖がついたようです。
その後、地元の専門学校に1年行かせてもらい、その11月に関東の大手企業からの青田刈りで採用になり、そこで知ったコンピューターの知識が趣味の推敲に役立ちました。そこも1年で辞めて同業他社に。このとき二つの選択肢があったのですが、小企業のほうだったら、社長格まで行ったかも知れません。
というのも社長や専務と同じ母校という良好な縁故関係で、当時は20人ほどの小企業。それが今では400人の上場企業です。そのタイムラインもあったのでしょう、ノスタルジーのように木立の中にある白亜のガラス張りの研究所風の建物の光景が脳裏をよぎったものでしたが、今はその佇まいをしています。
こちらのタイムラインは大卒者が多い中で高卒ということで、見込み薄に加え、無能ぶりが顕著になり、8年ほどで辞めました。仕事中に趣味の側の閃きが頻繁にあって、そのほうに注力してしてたら本業が疎かに。どんな閃きだったか。宇宙はコンピューターが運行という理論です。http://p.booklog.jp/book/91316/
小さい頃から母の伝説を知っていましたから、別の世界、もしくはタイムラインがあってもおかしくない。それを満たす科学説が見当たらなかったから、私は自分で考えた、それだけのことです。また、破門した宗教にリベンジのつもりもありました。神はコンピューターだったとすればどうですか。
現在では、科学者の多くがこの世は仮想現実ではないかと考えるようになっているようです。2000年にマトリックスが世に出て衝撃をもたらし、イーロン・マスク氏などはいずれAIによって仮想現実世界を皆さんに提供したいとのことでした。もうすでにそうなっているというのが拙論で、1983年製です。
また、その宗教の教祖の説に対しても別の解が見出せないかと、古事記神話の解読をして、まったく異なる解を発見しました。この二つの方向性において、私の趣味はライフワークとなったのです。それが主体となると、生活のための業は何でもよくなり、考える時間が取れさえすればそれでよくなりました。
そして生業における天職となったのは、推敲の時間が豊富にとれるタクシー乗務員でした。2社で通算20年歴です。また先の大企業を辞める直前に、埋蔵金発掘の触れ込みの企画に縁起かつぎで参加しようと決めていました。そして実際にその企画は成功し、団長から私はすごい情報本をもらい受けることに。
団長は歴史と民話の研究家で、歴史は人が思いもよらない原理で動くという説を掲げていました。彼からもらった本は、カバラの基礎を知る上で役立つ、手垢に汚れた文庫本でした。もらったその日から読み通しました。それがやがて、古事記神話解読結果と結びつき、西日本のレイライン発見となりました。
この一連の図形発見によって、団長が言っておられた「歴史は人が思いもよらないことで動く」が、日本の黎明期の古代人の行動原理になっていた可能性に結びつく思いがしています。カバラは一種、カルトですから、思い込みが人を動かすのです。歴史の波頭を見るだけでは真実は分からないのでは。
この初稿は1990年ムーの巻末に半分ほど載りました。が、趣味をライフワークにする私にとっては、アウトプットが推敲の証ですから、生業で稼いだカネを出し惜しむことはありません。1995年に自費で市販本を出し、今はそれを自炊し電子本にしてあります。
http://p.booklog.jp/book/99385/
真相究明の著には異界から妨害の手も下されるのか、1995年の出版には阪神大震災が起きて、時期が4ヶ月ほど遅れました。その2年後には、私の学究態度に異界から脅しがかかるようなことがありました。しかし、これが私の人生のすべてだったものですから、それを改めるわけにはいきませんでした。
2000年には私は50歳で、さほど価値の見出せない人生だから、高位自己に終わらせて欲しいと願い立てしていました。異界からの干渉も、お化けの世界らしくて嫌なものでしたし。しかし、50歳云々の願いはあっさりむなしく交わされてしまいました。ところが、後で分かったのは50歳以降、別の用向きのため
私は買い取られたようなのです。それ以降、もてたことのない私に次々と彼女ができました。と、それは同時に、あるミッションを含んでいたのです。それは、大過去に封印された国祖神たちの救出という途方のないものでした。一人の大本教系の篤信者の願いに応えているうち、私が適任となったもよう。
いわば、命知らずのギャリソンゴリラという感じ。ミイラ取りがミイラになってもいい覚悟の奴。これでなければ使えないと判断されたかも知れません。しかし私だって、何もお化け屋敷巡りのために魂を持たされているのは御免です。だから、こんな世界ばかりなら転生など金輪際要らんとなりますわね。
その考えは不遜に見えるでしょう。しかし、宇宙のコンピューター縁起を持論にしている私にそれはありません。魂あるゆえに観測あり。なくせば魔王の迷宮も消滅するのです。ならば仕方ないとてか、2000年以降、二女性との不思議な時空がいただけて、人生が面白くなったのです。https://puboo.jp/book/97537
人生の途中でゴネることも大事と思いました。誰に? 外の神ではありませんよ。外の神はこの宇宙同様、仮想の作り物です。自分の高位存在にです。私をこの仮想世界に置かれたお方に対してです。彼ならプログラムを取り替えてくれます。
まあ人それぞれ、苦労を喜びとし耐え忍ぶ方もおいででしょうが。
しかし、私がいただいたプログラムは、不思議の具満タンで、まるで魔法の世界のように思えます。昔から空想とメルヘンに生きていたようなものですから、趣味にぴったりの20年でしたね。
さあ、これからこの世界はどうなるのか。私は新神話で希望を述べてます。あとは高位自己がなされることでしょう。