婚礼の日

今日は天津神殿には大勢きていただくことになった。
ひな鳥はもう準備できたかな。そうか、もうひな鳥などと言っていたらいかんな。
どうだ、建比良鳥(タケヒラトリ)よ。もう出かけられるかな。
社殿の前に出て、お出迎えせねばならんからな。
神世からここまで立ち入るのも、地上は危急の時を迎えているからに他ならぬ。
日本は世界の雛形。日本がこけたら、みなこける。日本がしゃんとすれば、みなしゃん、ごきげんようとなる。
まあ、今回はよほどたいへんだったと見える。久々に、いや初めて、大きい顔をしてみせることができるかな。それとも。
まだねちねち言ってくるようなら、よもや経緯を忘れたわけではあるまいと、一発かましてもいいんだからな。
くほっ、くほほほ。
おっと、あんまり品がよろしくないようで。

山奥に初めてやってきた頃の不思議

何年前になるか、ここにやってきた年の夏のこと。まだ猫はいないときだ。
私が窓際の二段ベッドの上で寝ようとしていたときだった。
深夜でも電気がついていたため、窓の明かりを頼って、大小さまざまな蛾が、すりガラスの向こう側のつるつるのガラス面で、こちらにお腹をむけてバタバタしながら滞空していた。
と、そんなときにカマキリがその中に加わってきた。彼は足がガラス面で支えられたため、蛾たちとは、ちょうど捕食できる距離をとって、カマをいつ振り出そうかとしているようだった。
私は、これは興味深い捕食シーンが見れると、じっとそのときを待つことにした。
ところが、カマキリは、蛾に近づきはするものの、いっこうにカマを繰り出さない。
蛾のはばたきに合わせるように、身体を小刻みに動かしているものの、何も起きない。
いっぽう蛾のほうも、きっとわかってるはずなのに、逃げるでもなく、たまに距離を少し置いたりするものの、飛び去ることもなく、その一枚のガラス面に、十匹以上の大小の羽虫が集まって、ちょうどディスコ会場で、みんなして踊っているような感じになっているのだった。
それでもいつかはと、じっと観察すること45分にもなると、だんだんわかってくるものがある。
私はそのうち、彼らはこの夜に開かれたイベント会場に集まって、みんなして楽しんでいるのだと、確信できるようになった。
誰だ。カマキリは不意打ちするから怖い生き物だとか言ったのは。
ここにきて、人間の勝手な思い込みにすぎないことが、初めてわかった次第だ。
きっとこういうわけだろう。人間が、彼らに、こうしなければいけないと教えて、やらせているのだ。そう思い込みたいがために。
だから彼らは、人間の前でのみ、捕食して見せている、いや、見せなければいけないと思って、期待通りの生き物なんですよと、捕食して見せているのだ。
私は、人間の監視の目の届かないところで、彼ら生き物たちは、きっと羽根を伸ばし、強いのも弱いのも、みんな仲良く暮らしているのだろう、いつでも生き物の楽園は、すぐそこにあるのだと思えたことだろうか。
一時間もして私は、今日の会場はお開きですよと、電気を消したのだった。
生き物の楽園は、遠い空の彼方にあるのではない。
胸襟さえ開いておれば、いつでもすぐ隣に存在していることを、見ることができるだろう。

ゲリラ豪雨にまたも

ゲリラ豪雨は昨日の20時頃から今まで、さらにもっと続いております。
ベランダに出て耳を澄ませて見れば、聞こえるよ・・・雨漏りの歌が・・・
ポリフィルムも重ね目を作ると浸水するのでしょうか。それともポリすらも透過? 
断続的に雷が光り、一晩中鳴りますもので、頭の中までぐっちゅぐちゅです。
やっと雨音も静まってきました。
あれ?・・・この辺り、池もないのに、近くでかわずの鳴く音が。
そして、ひぐらしが、そそと涼味を運んでくれております。
これももう明るくなってきましたから、合唱もそろそろ終わるのでしょう。
とそれに取って代わるように、じーじー蝉が鳴き出してきております。
静けさや岩にしみいる・・・のあの蝉でしょう。
が、どうも電磁音的で、さほどいいものではないような。
- ひぐらしのそそと鳴く音か鄙暮らし -
といきたいものです。
ああ、こんどは鳥が互いにおはようを言い合っております。
朝ともなれば、種族と声は違っても、いっせいに乱雑なコーラスともなるわけですね。
依然、頭はぐっちゅぐちゅ。
倉庫浸水の混乱が堪えております。
もちっと、横になりましょう。

風の神のファインプレー

今日は朝から晴れ渡っていました。
天気予報では夕方から雨になるとのこと。
昨日も晴れて、倉庫の天上屋根は、かなり乾いていますが、今や植え物のある下はボウフラの生息池になっており、ピンピコ動き回っていて、そこから蚊がしこたま出てくるのもまもなくです。こんなアホウな状況を早く改善したいのに、雨ばかり降ったものですから。
そこで、つらつら考えましたよ。この世には、必要悪というのはあってもいい。しかし、不必要悪というのがあって、その一例が蚊ではないかと考えてました。蚊はいてもいいが、病菌を媒介することと、痒くする成分を保有したことが不必要悪というわけです。不必要悪というのは、おおよそ邪神が持ち込んできたものです。そう考えたら、どこからどこまでを直せばいいかが分かります。
昼になると日照りで暑くなるからと思い、早朝7時のまだ日陰が多い頃から、屋根の傾斜作りに取り掛かりました。
まず取り外すのは、集水塔を固定している造作です。それを順調に取り外す頃、風が出てきました。
集水塔側から、新しい大型シートを張ろうと、今までの役立たずシートを外し、プラダンの上に、ベランダ側から本を2cmほどの厚みで90Lゴミ袋の中に入れて置いていくと、ちょうど6袋でまず一列が完了。
その次の列は、スタイロフォーム90X180を三枚買ってましたので、それを張りながら、並行して新しい大型シートを集水塔側から張っていこうとしたのです。
ところが風が一層強くなっていて、薄っぺらなシートを巻き上げてしまいます。
ハトメのとこに重しをつるして何とかしようとしても、まだ勢いの強さを風は誇示して嫌がらせするもので、とうとうふだん大人しい私も怒って、「風の神よ。おまえいつから邪神の手先になった。いま改心しとかなかったら、どんなことなるか見ておれ」と一発かましといたのです。それでも風は弱まろうとせず、私は植え物をいずれ移動しながらシート張りしなくてはならないので、それを順次重しにするというやり方で、なんとかやっていたとき、後ろでバターンと大きな音がしました。
はっと振り返ると、集水塔の集水機部分を自力で下ろすのが困難だったので、本家の屋根の上にバランスとって落ちないようにしていたのでしたが、それが風圧で反転して落下していたのです。
うわーっと、かなりの破損被害を想像しながら風の神の仕打ちを見てみると、造作は何にも破壊を及ぼしておらず、重しの植え物にもまったく被害なし。その光景を見てください。
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しかも、ここは外れていて、ピーマンも被害なし。
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うまいことだいじなものをかわした状態で、しかも屋根の範囲にぎりぎり乗っかっていて、おみごとと言うしかありません。奇跡的なファインプレーとなっているのです。
この造作部分も下ろさねば、また改めて着けられなかったのでしたが、風が下ろし作業をやってくれたわけです。
風の神に手を振りました。「よくやってくれた。みごとなファインプレーだった」
すると風がずんずん弱まって、まるでこの手伝いをするために吹きまくっていたのだと思えたことでした。
こうした応援に、うまくいくとの感触から、なおがんばって今日中にと思いますよね。
ところが、西の空に黒雲が。
夕方からというのに、早いこと降り出されたらかなわんからと、黒雲に向かって、「ちょっと待て。それ以上来るな」と静止しといたのです。
ところがこいつは、制止を振り切って、いつしか上空は暗くなり、バラバラバラといきなり降ってきてしまったのです。
うわーっと、二列目にスタイロフォームを置いて、あわててシートを被せていたら、パンツまでぐしょぐしょになっていました。
ほんとうなら、新しいシートの上に元のUVシートを大きく被せて、終わりたがったのですが、もう雨が濡らしてしまったもので、重ねることができません。
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邪神は風雨の神を力に物言わせて使役しているようで、こんなに物事が進捗しなくなったのも最近のことなのです。(単に梅雨のせい? んなことない) ただ、風の神だけは、雨の神や背後の邪神に無理やり従わされていても、私への忠誠心だけは忘れずにいてくれたというわけです。
あのファインプレーは、印象深かったなあ。
風の神だけは、以前の台風4号のときも、強風を寸止めしてくれた実績があります。印象に残るファインプレーをよくするのが風の神ですね。また憶えときます。
収穫です。大きなトマトも小さなトマトも、とても甘いんです。下手な桃よりよほど美味。
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小松菜です。いつかきっとさんからいただいた種が、こんなになりました。二~三食分か。
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小松菜のプランター栽培。収穫して抜けたあとに、発芽した苗を植えつけてます。
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思えば遠くに来たものだ

朝方に、ピーマン鉢の現状写真をアップしましたが、実はそのすぐ下の床に、5粒のネズミのものらしい糞が一列に並んで落ちておりました。
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クローズアップ
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以前から天井裏が夜中になると賑やかになりまして、ネズミさんが勤務先から帰ってこられた様子が伺えておりました。そのネズミさんは、当初、天井の薄い板をかじり、ただでさえも穴があきそうなのに、これでは大変と、何度もどやしつけて、ガリガリやらないようにしつけたのであります。
その甲斐あって、ネズミは自分だけで住み着いていないことに思い至ったと見え、なるべく音を立てないように走り回るようになりました。
しかし、よくよく考えてみれば、父も母もネズミ年で、私の寝室のベッドの横には父母とハツカネズミの額がかかっているわけで、もしかするとこの家に化身して住み着いているのではないかという、想像力豊かな思いに囚われて、ふと沈思黙考したりもするのです。
そんなとき、ピーマン鉢の前に、このような人工的な配列の糞が置かれていたりすると、ほら、つい先達てのこの夢の記事のこととあいまって、母がピーマン苗の面倒を見にきたのではないかという思いにふけってしまうのであります。
糞が置かれていたのは、この前の日もそうで、このときは10粒ほどが同じピーマン鉢の前に、かためて置かれていました。それを、これは何じゃと、箒で掃き飛ばしていたようなことでした。が、今日はそんなわけには参りません。ここの場所のピーマンはいちばん花をつけて、実のなりがいいのです。
たまたま偶然、箱の中から出てきた島田陽七さんの本と、粘りつくテープでもすっぱり切れる母の所有していた優れもののハサミを糞の隣に置いて、記念撮影となりました。
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先週の土曜日は日中、元の住所のほうに行っていて、真っ暗になってから帰ってきたりですが、そのとき私の寝室の扉をあけて電気をつけてみれば、横の壁に大きなゲジがじっととまっているではありませんか。またも女子のような雄叫びを上げたことは言うまでもありません。
ムカデがあれ以来一度も現れていないにもかかわらず、こんな面積のでかい奴が侵入していたことに、絶望感ににた恐怖を感じ、急いでスプレーを探し出して戻れば、元のままでじっとしていました。
シュー。
痛さのあまり逃げ出し、また踵を返して戻ってきたときにもう一撃。
奴は、狂おしく身もだえして絶命いたしました。
かつてのムカデといい、このたびのゲジといい、あるいはネズミといい、もっと前のゴキブリといい、もしかすると私の前に現れる害虫、害獣というものはおしなべて私の親しい縁者ではなかろうか。
それを汚い者、害する者と決め付けるようにして、無残にも殺してしまう。それは力になってくれた縁者に対して、恩を仇で返すことに他ならぬのではないか。それとも、こうやって引導を渡せているのだろうか。
胸中複雑な思いに駆られるのであります。
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本日、旅行帰りの身内さんと電話で話ししました。その中で、正邪ともにバランスよく存在することで、自然界はうまく成り立っているのではないかといった話を身内さんはされました。弱肉強食の世界は、一見すると不公平や邪悪さが存在しているようですが、絶妙のバランスが保たれて生態系を存続させていると。
しかし、現在の自然界は、邪悪さの度合いが異なっていて、元のバランスを保つことのできないほどに破壊傾向が強く出ているということも実感されたとのことです。それは自然界に潜む邪悪とは別の邪悪によるものなのかどうか。私には、その辺があいまいになっているように感じたので、ひとつの解釈をしたく思います。
私は、自然界の弱肉強食の法則すらも邪悪ではなかろうかと思うのです。
その意味では、邪悪が皆無になっても、自然界は存続し進化し発展するだろうと。
トラブルや闘争や刺激や死、それに伴う痛みがなければ、進化はないとするのも、生命を侮った見方のように思います。
自然界すらも、理想から遠く離れてしまっていたのではないか。
そこに人間が現れ、追い討ちをかけるように自然破壊の要素を持ち込み、さらに遠くに引き離してしまったのではなかろうか。
私は、条件付けされた情報によって、ムカデやらゲジやらネズミやらゴキブリやらを、見つけただけで毛嫌いし、殺傷しようとします。が、もしも彼らと思いの中で和解しあって、いずれの世かで互いに握手までできるようになるなら。と思うことしきりです。しかし、見てしまうと、条件反射的に殺さねばと衝動的行動を起こしてしまう。架空の痒みを催しながら、こんな奴らに部屋の中に居座られたらたまらんと思ってしまうのです。
それだけ、世界には恐怖が支配的に推移したということなのかと思います。人間不信、自然界への不信、神への不信。その反動である過度の祭り上げや隷属。こうした思いの偏向は凝り固まって、どこかおかしいと思えるほどの行動に人を駆り立てているように思います。
手塚治虫の漫画に、ジャングル大帝というのがありました。百獣の王ライオンの主人公レオが、やがてジャングル内の弱肉強食の紛争にまで解決の道をつけ、獰猛な猛獣から、弱小な生き物までが互いに仲良く暮らしていける世の中にするというものでした。彼の名前の治虫には、せめて虫の世界だけでも丸く治めたいという意味がこめられていたのではないかと思います。彼の理想からすると、弱肉強食に潜在する邪悪すらも必要ないということではなかったか。
私にも禽獣の心あり。禽獣の幸せを希求する者でありたく思います。