19日19:00から鞍馬山のウエサク祭が行われるそうな。
鞍馬天狗ことサナートクマラのお祭りとのこと。
サナートクマラは金星王、孔雀王、大天狗、大魔王とされている、とても有力な神であるとのこと。
金色太子(毘沙門天)とも同定され、またルシファーとも同定されている。
ウエサク祭は満月を祝う祭りでもあり、その源流に古代イタリアの月神ディアナと太陽神ルシファーの古信仰、ペイガン(虐げられた民)の祈りがあるとみられる。
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(リーランドの伝えた)「アラディアもしくは魔女の福音書」に書かれている神話によると、主神はディアナと呼ばれるグレートマザー、大いなる女神である。ディアナは「あらゆる創造の以前に最初に創造され」、「彼女の内に全てがあった」という。やがて彼女は自分の内から光と闇を分化させた。光がルシファーで、彼女の兄弟であり息子である。そして、彼女自身は内部に闇の部分を保有した。
注意すべきは、この「闇」は悪ではない。むしろ、陰と陽のそれに近い、相互補完的な観念と唱えるべきだ。
そして、光と闇は分化したままではなかった。「光を掲げる者」のルシファーは地上に落ちたが、ディアナは彼と再び一緒になろうとする。ルシファーは地上の生命の中でも最も美しい「猫」を愛していたので、ディアナは猫に化身し、彼と交わった。こうして生まれたのが、アラディアである。
ディアナとルシファーは万物を生み出すものとなった。
やがて地上に人間が増えると貧富の差が生じ、富める者は貧しい者を虐げ残酷に扱った。富める者とはキリスト教徒であり、貧しい者とはペイガン(異教徒)である。貧しい者(ペイガン)達は都会を追われ、田舎へと居住する。
この状況に心を痛めたディアナは、娘のアラディアを地上へと送り込む。
こうしてアラディアは、「最初の魔女」となった。
彼女は抑圧される貧しい者(ペイガン)達に魔女術を教えた。彼女は貧しい者(ペイガン)には保護者となり、富める者(キリスト教徒)には恐るべき復讐者として働いた。
やがて、アラディアは天に帰らなければならなくなる。この時、アラディアはペイガン達に伝える。もし困ったことがあったら、満月の光の下に生まれたままの姿で集い、大いなる母に救いを求めよ、と。彼女はこれを「ベネベントの遊戯」と呼んだ。ペイガン達は、この儀式のあと、三日月の形をしたケーキとワインで食事を取る。これはディアナの肉と血、魂を象徴するいわゆる聖餐式である。これこそがサバトであるという。
ここにおいて、「アラディア」では、こうしたサバトは断じて悪魔崇拝の儀式ではなく、被抑圧者の祈りであるとされていることだ。
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あるいは
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ペイガン (pagan) とは 「非キリスト教徒」 や 「異教徒」 という意味を持ちます。今でこそクリスマスはキリスト教の行事として定着していますが、その起源はキリストの生まれる遥か昔まで遡ります。キリスト教が布教される前のヨーロッパでは、人々は自然の中の神々を信仰していたのですが、彼らはキリスト教の布教につれて、ペイガンと呼ばれて圧迫されるようになって行きました。キリスト教はペイガン達を改宗させるために、ペイガンのお祭りをキリスト教の中に取り入れて行きました。季節ごとに自然の中の神々を祭るペイガンにとってのクリスマスは、もともとは冬至のお祭りでした。太陽の照る時間が最も短くなるこの日、ペイガン達は、火をともして太陽の復活を祈り、常緑樹を飾って来たる春の豊作を願ったのです。常緑樹の枝や粘土で作った人形をプレゼントし合ったりする慣習もありました。キリスト教はこうしたペイガンの慣習を取り入れつつ、この日をイエス・キリストの生まれた日として祝うことにしたのです。 キリスト教のもうひとつの大きな祝祭であるイースター (復活祭) も、もともとはペイガンの春分を祝うお祭りでした。
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古信仰では太陽神であったルシファーを、ひとえに僭越な光を放つ金星の座に貶めたのはキリスト教であり、キリスト教はこの神を排除することによって、キリストを神の座につけたことが見て取れる。
こうして太古神の封殺の態様は日本のみにとどまらず、世界の習いとなってきた経緯があるというわけだ。
そしてその弊害は、いまや世界の滅亡、人類文明の破綻として目の前に表出しようとしている。誤った信仰は必ず破綻や破壊をもたらす意図を孕んでいる。それを信仰の持つ預言の側面として容認してはなるまい。現代のこの時点でも、さまざまな世界の破局を語る予言者が鳴り物入りで輩出されているが、彼らがどこから認可を得ているか見極めたほうがいい。
さらにキリスト教のいかなるものかを白日の下に置くビデオを。少々長いが最後までご覧あるよう。
あらゆる既成概念の虚像が吹き飛ぶことであろう。
カバラのカゴメ結界に封印された正神
鞍馬とは「暗・間」であり、カバラのセフィロトにおける「ダアト」にあたる。
ダアトはセフィロトの上に仮想されるのみで表に出てこないセフィラである。
鞍馬山を含む三国山系は、畿内にしつらえられた巨大セフィロトのダアトの位置に存在している。
たまたまダアトの位置ゆえに、ここを鞍馬(暗・間)と呼び、最深奥にあるべき神・サナートクマラを奉祭したと考えられる。しかし、それは奉祭ではなく、地下奥深くに封印したということである。
もしも伝承に言うように、サナートクマラの降臨があったとなら、カバラの持つ神話によって誘導されたシナリオであったことになる。シナリオ(神話)でこの神を封ずることによって、この神の影響力をカバラの管理下に置き、神の復活を阻止しようとした可能性ありと考えるのである。
しかし、いつの日にかは神々の交代も行われる。
大魔神はじめ太古神の復活には、人々の真の理解が結界を氷解させることによってでしかない。
もしくは周到な幾何学性でなるカバラの結界が、物理的に崩れることによるしかないとすれば。
人々が歴史の矛盾に目を向けて、正義の見識を掲げることでこれが達成されるならそれで良し。
不可能なら、巨大地震。それでかなわずばポールシフトの地殻大変動によってとなるのか。
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崇高偉大の 魔王尊
地軸を傾け 磁極をば
おきかえ移し 気候をば
一変したまう 魔王尊
移る磁極は 大地震
大洪水の地変をば
まきおこせども大前に
ひれふす者を助けませ
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世の終局がまるで魔王尊のせいで起きるようにされていることも、
どこか不本意なことのように思えてならない。
カテゴリー: 新神話作成中なのだ
古代征服民族の結界
見えざる地上絵、祭祀霊場配置の設計図は次のような次第である。
九州の直角二等辺三角の辺の長さ172Kmは、畿内の多賀-伊勢の距離に同じである。九州の幾何学規則を大和にそのまま持ち越しているわけである。
この絵図は、笠沙に嘴の先を置き、尾張東谷山に尾の先を置くカラスのそれであり、ヤタ(多面)カラス(韓図)との語呂となる。また、笠沙はこのカラスの種がカササギ(コウライガラス)であることを示し、朝鮮語発音のカチが、アカツカチハヤヒに代表される天孫族のシンボルでもあったことが見て取れる。つまりカチガラスというわけだ。
また上図は先住文化圏の上に描かれた絵図でもある。
これらの絵図は何を意味するか。
国体維持のための結界というのが主線。
多様な被征服民の神々やシャーマンを封じるための結界というのが伏線 → 人柱。(例 : 吉備津の釜)
その中に、国常立神ら太古神も封じられていたと解される。(国常立神は既復活)
沓島-神島、芦別岳-喜界島、日本-エルサレムという封印の構図ありとする説に関し、
日本にもエルサレムを模倣しようとした痕跡がある。次の二つはその説の前提になる絵図である。
飛鳥は朝鮮語の安宿の転との説があり、この意味は「平安の地」。
奈良は平らかなることを象徴した言葉。
平安京はそのままに。
すべて平安の地エルサレムを言い換えている。
菱十字形は、ピラミッド幾何学をそのまま表す。(黄金率が封入)
十字は五芒星とともに、エジプトとカルデアの流れを汲むというカバラの追儺の儀式に用いられる。
逆五芒星の意味するところとは。やはり封印結界なのか?
この絵図の示す霊ラインに、風水上の意味合いはさほどない。征服者は数理幾何学性に意識の重きを置き、魔法の拠り代を置いたため、その祭祀が形成する後天的な霊脈ができている。それは自然の流れに沿ったものとは言えないところがあり、現在の日本が推し進める工業志向(自然征服、自然破壊)の傾向と不可分でないように思われる。
元伊勢内外宮の暗示する神界の疑惑
現伊勢には怪しげな神が祭られている。
今回はその暗部に光を当ててみる作業をしよう。
現伊勢より半世紀旧く遷座されていたという伊勢神宮に京都府加佐郡にある元伊勢がある。
https://www.geocities.jp/k_saito_site/motoise.html#hagoromod1
もちろん現伊勢を立ててのゆえか、元伊勢神宮とは言わず元伊勢神社であるようだ。
さてこの地の元伊勢内宮であろうと考えられるのが、ホツマツタエに伝え聞く、国常立神と天照大神の御陵のある場所だ。それは二つの神体山として、それぞれ外宮と内宮によって祭られている。
いっぽう宮津の執政地はそれより北の海浜部で、現在の天橋立の文殊堂の付近と聞くが、この両神がみまかって後にこそ、霊威盛んと御陵のほうが祭祀霊場として遺されてきたとみられる。
そこはかつて発見した図形(下図)の正近似五角形の一角を担っている。
真西に出雲大社を望み、ほぼ2緯度長の距離となり、実際にこの地に住居を構えるのに、内外宮の両神体山の頂上を繋ぐ線と出雲との等緯度線の交点にあるから決めたという人まで存在しているくらいだ。
ところで、ここにある内宮と外宮にはどう見ても雲泥の差がつけられているというしかない。社殿を見ればそれは明らかである。外宮の本殿の屋根は朽ちてはがれかけ、あるべき祭器がそろっていない。人の手が入っていないことが歴然としていて、それはもう廃屋に近い様相がある。畏れ多くも、天照大神の祖父にあたる国祖を祭る社を、いつ崩壊してもおかしくない状態にしておくことがあっていいのかどうか。
外宮の境内地は建屋も含めて民間の一個人のものであるらしい。その人に会おうと思えば、宮司その人がそうらしい。が、彼は神職ではない。生業としてトラック運転手をしているとか聞いた。
とにかくその人物は神社庁から不興を買っているようである。何をしでかしたのかは分からないが、神社庁から神官の免許が下りていない。地元民も地元の不祥事と見てか詳しく語りたがらない。
外観を私流の神話幾何学として見るとき、古い過去の時代の国祖が、孫神と仲違いをしたか何かで、封じられてしまっていると解釈できるのだが如何なものか。
外宮の背後には舟岡山なる神体山があって、そちらが御陵だから表面(おもてづら)はどうでもいいではないかという意見もあろうが、我々はその表面で生きている生き物だから、そうはいかない。深層でどうなっていようといまいと、我々はこの次元で苦悩しているわけだから。
さて、内宮職の人々は神社庁からやってきた、いわば公務員だ。元伊勢外宮は民間人だ。公は民を虐げてもいいという思いがここからも感じられないか。国祖がもしここにおわしたなら、お世話になる民のほうにこそ目をかけたであろう。しかし、国祖はどこにいかれたか。この神社にはおられず、もしかして半世紀後に定着した現伊勢におわすのだろうとも思われるが、ならば孫神と執政した懐かしい故郷をあれすさぶままにしておくはずもなかろう。
そこで、いったい何か異変がなかったかどうか。当時に戻って、神々の世界に思いを馳せてみるのも、誰しも古刹に訪問の折はなされることだろう。まさか地元の妙なタブーに触れて、すごすごとそんなものか、触らぬ神に祟りなしと帰る方も少なかろう。
特に私の場合は、現実から神界を見る。天にある如くが地にもあり、地にある如くが天にもあるという論拠を掲げてだ。
カバラによれば、この世すなわちマルクトはサタンの支配するところ、それ以上から天使の支配になるとしているようだ。だが、ほんとうにそうなのだろうか。あまりにも天国天国と吹聴するあまり、過大に期待しすぎていないか。私は少なくとも、我々が認識し想像できる範囲(宇宙大)は、まるごと相似形であると考えている。
では、いったい何が神界にあったのか。それを示したのが大本神話だ。新神話のストーリーの大前提がここにある。つまり、正しく祭られるべき神が政変に遭い、偽者に取って代わられているのである。
なぜ世界が欺瞞だらけなのか。それは天も然りだからだ。お上の意向を汲んでこの世がある。この世は特別な修行の場として特別に存在しているのだといった、一様性に欠ける意見はも、はなはだおかしい。
すべてが腐敗しているから、この世も腐敗するということ。死後そのような腐敗した場所に帰るから、また誘惑を見せ付けられたり、蹴落とされてやってくる。こう考えればすべてつじつまが合わないだろうか。
霊能者はそんなことは言っていないとなら、その人たちは、体のいいお上の宣伝マンでしかないと言い換えられる。普通人が見えないことを知っているかのように大々的に言えるというのも、お上の許認可有らばこそ。官製報道しているというわけだ。私は、そのお上の問題と疑惑をここであげつろっているわけである。この辺はいかようにも言えるところかも知れないが。
まあとにかく、伊勢には疑惑がある。そこに祭ってあるのはいったい誰なのか。そこに毎度お参りするのは現閣僚方々だ。まさかアメまでが同じ名の神ではないだろうな。それは天の神ではなく、かつて鬼畜と言っていたものたちかも知れないぞ。
先日、お膝元でお土産の期限偽装事件が明るみに出た。これも新神話の観点からすると、お膝元まで偽装が暴かれたということになる。もう少しで核心に迫れるかといったところで、邪神側が盛り返し、新神話の正神軍はいったん退却となったようだ。こうしてまた庶民への圧政が始まった。
いっぽう、良い時代の執政地の食品(知恵の文殊の知恵の餅)には偽装は一切ない。なんとか早くホンモノの時代になってほしいものだと、今日も世の馬鹿さ加減を見て確心する。
新神話 第十二章 地上の語りが終わるまで書き綴られる新神話その二
2007年がそろそろ幕を閉じようとしています。
その先は、何かといわくつきの年代の幕開けとなるわけで、ここに集う皆さんなら、ほぼ了解済みの行程を不安と期待入り混じらせながら、覚悟を決めて臨んでおられるように思います。
私は逆に、これからはこうなるわけだから、むしろ鳥が羽根を伸ばすように、自在にシナリオを思い描いてみたくなったわけです。
そして編み出した手法「新神話」によってこの際、面白おかしく世界を加工してみてやれと、トライを敢行してみたようなしだい。
すでに前章までで新型のシナリオは与えてあります。
ここからは追加部分になるわけですが、なにやらコメントのほうでシンクロが多発しており、現在書き出したばかりの十二章にもその影響が見られたため、ここに恥ずかしながら粗稿の掲載を思い立ったようなわけです。
けっこうきつい表現が多いので、40禁ぐらいにしておきたいところ。
では、新神話物語の現在における最終章をどうぞ。
新神話 第十二章 地上の語りが終わるまで書き綴られる新神話その二
更なる書き綴りの必要性
2007年の夏頃までにいたる以上のストーリーで、大団円完結の新神話は全編終了としたかったわけだが、結果の見届けを行い、効果不十分であれば補足すべきを補足し、所期の成行への誘導がどうしても必要となる。それは建設工事にも似て、施工過程で誤差が生じれば誤差を最小限にすべく調整するということが、タイムリーに行われねばならないのである。・・・・・・・・
新神話 効果見届けの体制へ
私の古事記の神話の解釈に執心されている方から、よく理解できないという報告を受けた。
私の解釈法は、神名の意味の解読と、筋書きの両面から進めていく。
神名は日本人なら多少は心当たりのある言葉で成り立っている。
それを意訳していくのである。筋書きが意訳したものをリンクさせていくので、いっそう意訳が鮮明さを増す。
古事記である理由は、暗号の封印を意図したものであると目されるからだ。
その他の古典では神名が意図的に崩されているようで、意味を成さないからである。
当初発見して興奮したことは、神話が預言になっているということだった。
たとえば、火の誤用により、黄泉の国に至るというのがある。
当然、世界が、あるいは人類が、というわけだ。
イザナギ景気という言葉は経済用語としてあるが、イザナミ文明というのは、古事記が暗示する人類の辿る道のことである。
ホノカグツチ、イハヅツノヲ、イハサク、ネサク、タケミカヅチノヲ、トリノイハクスブネなどは、イザナミが産んだ火の神の子孫だ。
炎の輝く土、石の筒のパワー、岩を裂く、根を裂く、猛々しい雷のようなパワー、石楠のように堅牢な鳥。
一見すれば、近現代的な戦争兵器と分からないはずがない。
それによって、イザナミは病態となり死んで黄泉にいたる。第二次大戦では致命的でなかったが、それ以降の戦争でや如何。
黄泉は死後の世界(常世の国)というより、死体の世界だ。
腐乱臭を発し、蛆が涌き、とろとろになっているものの、死体のあちこちで雷が鳴っているという、これまた普通の死体ではない。
あくまでも、戦火絶え間ない文明の末路のことである。
その頃は、古事記が日本民族に与えられた教訓であって、その知識を持ち越し、風化を極限までしのいだ古代大王家は偉大な賢者と心から称えたものだった。
だが、中東思想の中の預言とさほど変わるものでないことが分かり、しかもこの現代に対して何ら教訓として機能してこなかったことを考えると、確かにこれは預言であり、教訓ではなかったことに思い至った。
聖書はその中の一言一句さえ変えてはならないという。
同様に古代大王も、知識(本辞)部分の存続のために、記憶の堪能なプロジェクトを擁していて、一語一句間違わない伝承を心がけていた。
その結果成ったのが古事記である。
預言、神の計画は、洋の東西に普及されていたのである。
では、何のために。
ひとりでに預言された事が成っていくというのが、預言の真価だろう。
だが、預言されたとおりに事が成らなかったときのために、事を運ぶ工作員への指令書であったとしたら。
私の思いの第二期は、陰謀史観と共にあった。秘教組織がいつの時代にも、為政者の傍にいて、陰からというやつだ。
だが、2000年に入ってからは、神界に原因があるという情報を知ることとなる。
優位な鳥瞰的立場からアリンコ人類の進むべき道が決められたのでは、アリンコの様々な努力が報われず可哀想であるとなった。
どんな思考順序でこうなったか思い出せないが、実は神界もスケジュール管理されていると判明。
監督がいて、善意の神々は、神話のシナリオどおりに演劇しなくてはならない。演劇内容は、波動的に下界に理念として降り注ぐ。
戦争や力関係を誇示する内容で満ちた神話からは、そのような影響しかもたらすことができない。
しかもシナリオは、神々が書いたのではない。人間が書いたのだ。神話を書いたのは神官層である。神々を作ったのも神官層である。
神々はみな人工なのだ。創造力に富むのは見えざる異界の純真な精霊たちだった。彼らに名前と機能を与え、さらに演劇をさせるようにしたのは神官層だった。
彼らはいわば魔法使いである。人類全体をコントロールするための複雑な仕組みの魔法を掛けたのである。
世界的な魔法がどうしてこんな地球に??
はるかに高度な神、あるいはインベーダーと仮定してもよい。神々さえも凌ぐ神によって、古代にエージェントたる人々が養成され、神官となった。その神未満の次元を完全支配するために。
魔法を解くには、魔法しかない。催眠術を解くには、催眠術しかないが如しだ。世界の救済には、旧神話を凌ぐ魔法と魔法使いが要る。
だが、対抗勢力には監視の目が光る。能があってはならない。賢くてはいけない。世に頭角を現してはいけない。その道の権威にでもなれば、あっという間に多忙にされたり骨抜きにされるだろう。
あくまでも水面下、水準以下で、塵に埋もれていなくてはならないのだ。
それでは啓蒙にならないという向きもあろうか。
啓蒙は人々に下地的準備をしてもらう意味でとてもいい。
しかし、魔法使いがすることではない。一人でやり切れるならそれに越したことはないのだ。
一人では難しいから、あるいは邪神の目をくらますためにも、時計仕掛けで起動する仕組みが要る。
時間が来れば、協力者がキーを携えてやってくる。
それに感応し触発されて、潜在力が起動する。
魔法使いが卵から孵り、ひよこから成鳥になるまでに、次々と飼育員が専門知識を携えて入れ替わり立ち代りやってくる。
私はシンボルが「鳥」であり、鶴、山鳥、朱雀、鳳と進化させる。
その過程の中で、対応する協力者が、亀、乙姫、青龍、玄武、白虎、龍として立ち現れてくる。
中でも四神の青龍、玄武、白虎は、これに該当する者を予感できるという特質があった。
まず青龍が、私の五十に限った寿命を延ばし、玄武が突如キーをもたらし魔法起動の火をつけたが、手ひどい傷を負わせて二年で去り、次に白虎が現れたが、いくつかのキーをもたらしたのみで、その飼い猫こそが白虎と分かったものの、人のほうは一年ほどで去っていった。
その後、青龍が玄武を霊的に合力してキーをもたらし、いろいろ曲折しつつも旧神話を解除するための新神話は成った。
長年月身の回りをサポートしてくれた毘沙門の二十日鼠は世を去り、青龍は七年以上となり二番目の長さとなった。
これでよい。新神話の効果をあとは見届けるに余生を送ると心に決めた。
そのようなとき、白虎らしさを醸す人(猫ではない)が前二者と同じルートで・・・。
神話の異界への効果のほどを教唆するような情報。求めていたキーではなかろうか。
新神話番外編、第十二章、地上での語りが終わるまで続く新神話その二以降に綴ることになるかも知れない。