古事記は預言書である。
そこには、古代人の持っていた科学知識、風物や装束、未来の子孫に語りたかった過去の歴史とそれが未来にも作用することの教訓が盛り込まれている。
ちょうど、宇宙人からの応答を待つために、人類とその文明の特徴を書き記したダイジェストを宇宙船に乗せて発射した何とか計画のように、古代においては未来人宛のメッセージを篭めた為政者レベルの情報発信プロジェクトが組まれていたのである。それが語り部プロジェクトだ。(古事記序文を読めば主旨が分かる)
未来の子孫への贈り物があるとすれば、何だろう。おそらくそれは、子孫が道に迷うようなとき、古代人の知恵ながらも、指し示すことのできる道標ではなかっただろうか。
古事記とは、古代にあってもなお古代であるところの歴史と信じられていたことの記録であり、またその掛詞的な大和言葉のニュアンスからすると、振る事(繰り返す歴史)の記録、すなわち預言というものになるわけだ。ソロモンも言ったではないか。天の下には同じことばかりが繰り返されていると。この世はいかにレパートリーの乏しいことか。
過去にもあり、これからもあるという意味の、世の文明の成行の必然性(展開のパターン)がそこにあると考えいもいい。
私の解釈でしかないが、古事記の体裁は精緻であり、ミクロからマクロまでの様々な事象がこの定型式に従っていることから、それを元にすると将来どうなるかが予測できるのである。兆候を見ただけで次に何が起きるかが予測できるというわけだ。
例として、草木の一生やこの世の文明の一生などに応用できる。
もっとも、終局が目前に見えた最期の日には、ありとあらゆる隠されたことが墓の中から出てくることになっている。古事記の真実が出るとは、夜明けを告げる長啼き鳥が、神の時代の到来を告げるようなものだ。神は新しい時代のために、旧来の人類を更迭する。そして、神々の住まう世界とする。まさにそのような理由によって、人類どんづまりの時代となっている感がある。
汐満汐干の玉の預言
古事記には、文明が終局に近づいた頃に、汐満汐干の玉の呪詛による海浜部族の没落のあることが預言されている。
海幸山幸でおなじみの神話で、火照命(海幸)が火遠命(山幸)に降参するという経緯である。かつて私はそれに関して、汐を市場のことと捉え、志向性ある資金の相場操作により、文明を作ってきた部族(工業生産者)が被害に遭うことと考えてきたが、今となれば文字通り津波や海面上昇のことと捉えるほうが、より現実的になってきてしまった感がある。
「火」は文明の象徴で、「火照」は文明の赤々と燃える全盛期のこと。いっぽう「火遠」は、間に「火すせり」(火勢が衰える)という兄弟を置いているように、文明の終結を暗示している。海洋に面して発達した鉱工業文明はやがて終結するという話を、古事記の筋書きにおいても絶妙の位置に置いているのである。預言というしかない。
ジュセリーノ予言を待たずとも、以上のことは数十年前から自明であった。
地球温暖化による海面上昇は徐々に始まっている。
まあその程度なら、海水に浸食されることはないというのが、この国の考え方であろう。土木技術立国ゆえ、新たな公共事業の口にすればいいという具合だ。それも国が富んでいるからこそ可能なわけだが、弱小経済の島国はそんなわけにはいかない。この国とて借金大国。いつまでも持つわけはない。
しかし、海浜部に居場所を定める人の多いこと。
集まる者が多ければ安心できる群集心理か、もしくはいざとなれば車で敏捷に動けるとタカをくくってのことか。
確かに敏捷な動きがとれるように、地震や津波の警報が瞬時に発信されるようになった。だが、平野部が広ければ広いほど、逃げるには時間がかかる。みなが一斉に動こうとして起きる大渋滞のときに、車など使ってはおれない。公共交通機関は、乗せて後でトラブる(責任を取らされる)より、運休のほうを選択するだろう。
たとえ幸運に助かっても、家や職場はどうなる。水の破壊的なエネルギーに打ち勝てるものなどどこにもない。耐震ビルも、様々な瓦礫の混入した濁流によって階下から破壊されてしまうだろう。
これは映画のシーンから推測しているのではない。海洋部で地殻変動規模の大地震があれば、数十メーター級の津波もありうる。今までが地球の温情で加減されていただけだ。
御伽噺と軽んずるなかれ。神話のこの預言は現代に関することだ。