神話の預言

古事記は預言書である。
そこには、古代人の持っていた科学知識、風物や装束、未来の子孫に語りたかった過去の歴史とそれが未来にも作用することの教訓が盛り込まれている。
ちょうど、宇宙人からの応答を待つために、人類とその文明の特徴を書き記したダイジェストを宇宙船に乗せて発射した何とか計画のように、古代においては未来人宛のメッセージを篭めた為政者レベルの情報発信プロジェクトが組まれていたのである。それが語り部プロジェクトだ。(古事記序文を読めば主旨が分かる)
未来の子孫への贈り物があるとすれば、何だろう。おそらくそれは、子孫が道に迷うようなとき、古代人の知恵ながらも、指し示すことのできる道標ではなかっただろうか。
古事記とは、古代にあってもなお古代であるところの歴史と信じられていたことの記録であり、またその掛詞的な大和言葉のニュアンスからすると、振る事(繰り返す歴史)の記録、すなわち預言というものになるわけだ。ソロモンも言ったではないか。天の下には同じことばかりが繰り返されていると。この世はいかにレパートリーの乏しいことか。
過去にもあり、これからもあるという意味の、世の文明の成行の必然性(展開のパターン)がそこにあると考えいもいい。
私の解釈でしかないが、古事記の体裁は精緻であり、ミクロからマクロまでの様々な事象がこの定型式に従っていることから、それを元にすると将来どうなるかが予測できるのである。兆候を見ただけで次に何が起きるかが予測できるというわけだ。
例として、草木の一生やこの世の文明の一生などに応用できる。

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そればかりではない。すでに核兵器使用によって日本が敗戦する預言部分を発見したように、私の古事記の解釈はとかく荒唐無稽に傾斜しがちだが、それに蓋をしないでおいてもらえるなら、古事記には預言だけでなく、地変鎮静や地変惹起の節理、UFOの製造と稼動の工程、さらに地球そのものがUFOさながらに時空ジャンプする機能があることまで描かれていることが分かっているとしておきたい。
いずれも神話部分ゆえ、神の話であって、我々人類にはほとんど関係がないが如く、人には理解できないことのようだ。というより、神のことに関与すべきでないのが人類ということか。

もっとも、終局が目前に見えた最期の日には、ありとあらゆる隠されたことが墓の中から出てくることになっている。古事記の真実が出るとは、夜明けを告げる長啼き鳥が、神の時代の到来を告げるようなものだ。神は新しい時代のために、旧来の人類を更迭する。そして、神々の住まう世界とする。まさにそのような理由によって、人類どんづまりの時代となっている感がある。
汐満汐干の玉の預言
古事記には、文明が終局に近づいた頃に、汐満汐干の玉の呪詛による海浜部族の没落のあることが預言されている。
海幸山幸でおなじみの神話で、火照命(海幸)が火遠命(山幸)に降参するという経緯である。かつて私はそれに関して、汐を市場のことと捉え、志向性ある資金の相場操作により、文明を作ってきた部族(工業生産者)が被害に遭うことと考えてきたが、今となれば文字通り津波や海面上昇のことと捉えるほうが、より現実的になってきてしまった感がある。
「火」は文明の象徴で、「火照」は文明の赤々と燃える全盛期のこと。いっぽう「火遠」は、間に「火すせり」(火勢が衰える)という兄弟を置いているように、文明の終結を暗示している。海洋に面して発達した鉱工業文明はやがて終結するという話を、古事記の筋書きにおいても絶妙の位置に置いているのである。預言というしかない。
ジュセリーノ予言を待たずとも、以上のことは数十年前から自明であった。
地球温暖化による海面上昇は徐々に始まっている。
まあその程度なら、海水に浸食されることはないというのが、この国の考え方であろう。土木技術立国ゆえ、新たな公共事業の口にすればいいという具合だ。それも国が富んでいるからこそ可能なわけだが、弱小経済の島国はそんなわけにはいかない。この国とて借金大国。いつまでも持つわけはない。
しかし、海浜部に居場所を定める人の多いこと。
集まる者が多ければ安心できる群集心理か、もしくはいざとなれば車で敏捷に動けるとタカをくくってのことか。
確かに敏捷な動きがとれるように、地震や津波の警報が瞬時に発信されるようになった。だが、平野部が広ければ広いほど、逃げるには時間がかかる。みなが一斉に動こうとして起きる大渋滞のときに、車など使ってはおれない。公共交通機関は、乗せて後でトラブる(責任を取らされる)より、運休のほうを選択するだろう。
たとえ幸運に助かっても、家や職場はどうなる。水の破壊的なエネルギーに打ち勝てるものなどどこにもない。耐震ビルも、様々な瓦礫の混入した濁流によって階下から破壊されてしまうだろう。
これは映画のシーンから推測しているのではない。海洋部で地殻変動規模の大地震があれば、数十メーター級の津波もありうる。今までが地球の温情で加減されていただけだ。
御伽噺と軽んずるなかれ。神話のこの預言は現代に関することだ。

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聖書は読めないが

私は聖書は好きではない。読んでも何が書いてあるのかよく分から
ないし、正式な信者の方たちの考えているような解釈がどうにも
できないからだ。
しかし、預言書であるために、非常に興味があったことは確かで、
伝道者の人などに聞いたりもした。
するといちばん分かり易い書物として、黙示録の解釈本をくれた。
そこには一巻に渡って、イラストがふんだんに分かり易くされていた。
旧約聖書の預言者のビジョンも、終末にターゲットを絞っている
ようなことを聞いている。
だから、解説書として黙示録をベースに、聖書の言う終末預言を
参考にするようになったわけだ。
私は聖書はよう読めない。字が小さすぎるし。
しかし、ポイントになる言葉はどうも気になって、周囲の筋と
照らして、暗号のようにして扱い、解釈してしまうのが常だ。
古事記の解釈もそうやってきて、けっこう自己完結的解答を得ること
ができているから、もしかして聖書においても、千古から名だたる
解釈者や宗祖がしてきた解釈以外の解答も自分なりに見つかるかも
知れないと、トライしてみるわけだ。
気になった言葉のひとつに「偶像崇拝」という言葉があった。
これは「偶像」がまず暗号だ。
偶像とは、金銀銅石木でできた像であり、それを神であるかの
ように崇め祭ることを偶像崇拝と言う。
・・・そう私は捉えているが、間違いないだろうか。
解釈本によると、偶像崇拝しているのは、けっこう巷にある宗教の
ことで、たとえば仏教徒のように、木や銅でできた仏像などを拝む
ことを言うようなことが書かれてあったように思う。
さらには、同じ教祖から生まれたカトリック宗派ですら偶像崇拝だ
と言っているようだ。それもなんだかややこしい理屈付けがなされて
いた。同族なら、ちいさなことでいがみ合ってほしくはない。
だが・・・そのようなことではないのではないか・・・と、私は
「偶像」と「偶像崇拝」について考えたわけだ。
「金銀銅石木でできた像」ということから、私は直感的に、
これを「お金(貨幣)」と捉えてしまった。すると、
その筋からいけば、偶像崇拝とは「拝金主義」、そのやや程度の
軽い「利益主義」、個人レベルにおける「利己主義」という解釈
となる。
しかも、この場合の「偶像」は、この世、特に現代において、
100%誰からも、神のように崇められているものだ。
その魔力によって、どんなものでも動かすことができるとされている。
紙幣は木でできている。金銀銅はコインになっている。石でできた
貨幣もセラミック貨幣として登場しているから、この預言には
びっくりするほどだ。むろん石の貨幣を蓄えている部族もある
ようだが。
現代社会は、資本主義社会といい、金が人を支配する社会である。
悪魔が金という偶像を介して、自らを崇めさせているという、
まさにそのとおりの解釈が成り立つ。
金の大小が、人の勝ち負けを決定付けるから、人はこの獲得の
ために、昼に夜を接いで休みがない。都会のビル群は不夜城の如く
であり、まさに聖書の預言どおりではないか。
人は企業に過労死で殺害されても、金を余分に積まれて納得する。
自動車にぶつけられて死ねば、保険で病死よりもたくさん金が入る
から過失致死でまけてやれとか。
一般人の命は、何千万とだいたい決まっている。
天からもらった命は、お金に換算されるのだ。
森林火災が起きれば、何億円の損害とか表現する。
原油流出による海洋汚染がいかに広範囲でも、保険会社が算定して
何十億円の損害とか言いのけてしまう。
どんな環境破壊の対価でも、求まってしまうというのだから
あきれてしまう。
金に換算して言えば、なんだ家の何軒分だけのことかと錯覚させられ
るのが我々だ。
何でもかんでも、お金の額に換算されることに感覚は麻痺して
しまい、深層で何が起きているかに理解が及ばなくなるのだ。
海洋を棲息の場にする生き物のことは何ら考慮されていない。
地球温暖化の進展も、エアコンやら何やらで体感することもない。
被害を受けているのは、第三世界の人々だと相場が決まっている。
だから、われ関せず。著しい映像で示されても、そんなことは
どこのバーチャル世界の話?なのだとなる。
お金の魔力に麻痺してしまった人類。
お金がすべてを支配する神のように崇められていることすら
気付くことのなくなった世界。
悪魔は、偶像を仕立てて、人々にそれを崇拝させるという。
人々は、それ以外のものが目に入らなくなってしまうのだ。
拝金主義、金儲け主義を偶像崇拝と言わずして何としよう。
それに浴しているのは、資本主義社会に生きる法人個人をはじめ、
某教徒ならほとんど該当者だろう。ホームレスの某教徒というのは
あまり聞いたことがない。
額に獣の印を打たれていれば、お金の奴隷として働く代わりに、
日々の糧を得ることができるというわけで、教条的に言うなら、
ホームレスや雲水以外に救われる者などいないことになる。
あのときの伝道者にはいい啓発を感謝するが、見つかった解釈は
ちょっと忘恩に過ぎたかもしれないことをお詫びしたい。
いま某大手自動車会社のベースアップのニュースが流れた。
地球温暖化促進の先鋒ともいうべき企業。莫大な利益が上がって
いるとか。
あと幾ばくも残されていないという情報が有識者から叫ばれている
ときゆえ、足元の危機に早く気付いて欲しいものだと思う。
しかし、悪魔の仕掛けた魔力は強いから、困難だろうな。
だが、唯一、こうした偶像崇拝者(私も含め)が救われる道がある。
それは悔い改めることだと思うのだがいかがだろう。
悔い改めとは懺悔だけして、心を改めたと自らを合理化することではない。ましてや、悔い改めのシンボルの前や中でするものでもない。それはむしろ免罪符的偶像の崇拝でしかない。
崇拝してきたお金の偶像には、確かに力があると認めた上で、それを利己から利他に改めて行動することだ。
溜めに溜めた偶像の山を、世の貧しい人々のために施したり、環境保護や地球美化の方向に使用することだ。
利を生む起業にしてきたほどの注意深い配慮と努力があるなら、利他のための効果的なシステム作りもできるだろう。
団塊の世代の大量退職。
それは莫大な富の有効活用の場となるだろう。
利己目的に一部回すとしても、利他のために多くを使いたい。
NPOを立ち上げるなど、システム的に利用する方法を考えるのはどうだろう。ただし、群がる拝金主義のヤカラに注意しつつ。
利他の利用が図られるとき、築いたお金の山は、偶像から真の富へと変わることだろう。
富とは、人類の行く末を照らすものである。
企業経営者にひとこと言いたい。
労働者に給料という生活の資を与えてきたことを利他とするのは、もう過去のこと。
なぜなら、利潤追求のための道具としてしか労働者を見れなくなっているだろう。
そのような利己主義の塔から早々に離れ、真の利他主義の塔を打ち建てたまえ。
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一般の人にこの問題を理解させ、その解決に向け行動させることは容易ではない。人類は何としてでも天然資源の使い方を大幅に変える必要があるが、大規模な社会変化を浸透させるのは困難だ。避けようのない悲劇的な災害が発生して初めて改革の動きが始まるのが常となっている。
 あげくの果てに、社会では物事を考えられる期間が一層短くなってきている。テレビが一般人の集中力の持続する時間を短くしてきた。今や政治家らは一晩の世論調査に集中している。また金融アナリストらは、ますます短い期間で見通しを立てている。未来はあまり注目されない。(ゴア氏の発言より)

行き詰った黄泉からの脱出

掲題についてお話する前に、まずこんな話をしておきましょう。
いやあ、彼の予言を見て、ここまでストレートに出してくることが可能になったのだという驚きの印象でした。
一昔前までは、憚られるので時期は話せないとか、あちらの命令なので明らかにできないとか、誰でもちょっと過去の予言を紐解けばできるわといった具合の茫漠とした話しかなかったのですが。ノスさんにしてもそう。
それがもうストレートに時期まで明示して出現している。
これはもう・・・。
私のような時空論者には垂涎の情報であると同時に、いよいよ来るところに至ったかの感を抱かせるものとなっているのです。
ジュセリーノ氏が言っている「地球の温暖化」については、私の研究では、「古事記」がとうの昔から予言していることとして捉えていました。
そこには、人類の文明の発展過程が語られていて、燃焼原理によって黄泉の国に赴くことになると記されている。つまり腐乱した死に体の世界ということであります。先の見込みのなくなったどん詰まりの文明というわけ。
黄泉に導く燃焼関連の事物で最も顕著なのは、戦争兵器の記述。むろん石油関連表現も出てくる。それに付随して、需給で成り立つ市場流通経済の発展なども出てくる。堅牢な鳥のような船(飛行機)も出てくる。

これは解釈した当時から、えらいことだと思っていましたが、解釈の現場から世に訴えることができるわけではありません。
それはそうでしょう。世は高度経済成長に移行してさらに真っ只中へと進む。自分の目先の暮らしを考えていくのに精一杯の中にあって、私もおのずとそれに埋没していったからです。
そして、心の中で「賢者はだまって世の行く末を見届けるもの」と自分で納得を決め込んでいました。
最近になってホピ族の神話に触れることとなり、古事記とは同じ考えながら、より具体的に語られていることに驚いたものです。
ああ、これは古事記の言っている警告そのものだよと、心震わせながら読んだものです。
何よりもすごいと思ったのは、ホピ長老が伝統を破って、部族の予言を携えて国連に訴え出たこと。
何もできずにいた自分と比べたことは言うまでもありません。
これでは宝の持ち腐れもいいとこです。
ホピには識者がいたから、伝統の中で連綿と語り継いでこれた。ところが、古事記をサポートする識者はいなかった。結局、何世紀にも渡って文献だけが取り残されていたというわけです。
むろん、先駆者本居宣長は果敢に手がけましたが、よもやそこに語られる未来知識のことなど及びもつかなかったはずです。これは仕方ないこと。彼の偉大な功績は、翻訳書を書いたことにあります。
ところが、後世の文学者は意味を読み解けなかったのです。民話の集成と位置づけたので、振り向く人もいなかったのです。
何十年か前に、ようやく山田久延彦という人が現れ、超古代やら宇宙やらと結びつけた考えをもたらしました。その当時に私も別解釈ながら、古事記の解釈をやっていたわけです。
ガリ切りして、当時のクラブメンバーに随時、成果を配布したりしていました。トナー式のコピーが出回るのはまだまだ先のことで、苦労したことといったらなかったです。しかし、成果のアピールは楽しかった。
さて、私にできることは・・・今さら後の祭りの気もするわけですが、ならば古事記にも書かれている、たぶん唯一の救済節理になるであろうことについて、伝えていけたらという思いでいます。
その内容はかなり脱常識、破天荒なものです。SFもはなはだしいかも知れません。しかし、この先のレールの破断が確定的とお思いになる方のために、伝えていこうかと思っております。
不思議なことに、餅は餅屋。古事記だけでなく、そのSF話に類したことばかり趣味でやっていた経緯があり、その時点に予想される出来事から、対処法に至るまで詳説できるのではないかと思っています。
なお、それは生身のままで世の終焉を乗り切る方法です。魂として過ごすおつもりなら、さほどあがくことはありません。成り行くままになさったらよろしいかと思います。
問題はその方法論の信憑性、前提となる諸論の信憑性についてですが、たぶんに私の推敲の所産によるため、保証は一切できないことを申し上げておきます。すべて自己責任において判断ください。

ヒトラーのした未知との遭遇

世界の多くの神話もしくは預言には、尋常ならざる歴史的危急の場合に活躍する救世主的節理について書かれてある。神話がシャーマンなどの優れた能力を使って歴史の定型パターンを読み解いたものであるとするなら、この節理がどのようなものであるかは定かではないが、ある程度推測ができるかと思われる。
たとえば、古事記にはこの節理について「桃の実」という表現が使われている。その果した功績により、特別に大神津実(オオカムヅミ)という名もつけられる。この意味は「最高神(アマテラス)の実」という具合になる。その破格の扱いたるや、尋常のものでないことは確かだろう。
桃の実という表現は節理がどのようなものかを適切に物語っている。桃ということからして、それは球形に似た桃色がかったもの、UFOであろうというのが私の推測だ。
私は2005年11月のGの嵐でのロケ現場で、その場にいたスタッフ含め20名ほどとともに、桃に似た色の(ピンクではない)大きな球体を20球ほど見ている。嵐の小宮さんが最初の発見者だ。これはまさに桃の実というに相応しかった。その場にいたみなさんはどうご覧になったかは知れない。テレビカメラのビデオに収録された証拠の映像は白球光体であったが、人の目には優しく写るのかもしれないと思ったことだった。そこでかつてした、こんな仮説も的外れではないと実体験的に認識したしだいだ。
本題に入ろう。
第二次大戦の空中戦の最中、フーファイターと呼ばれるようになった謎のUFOが頻繁に出現し、敵の最新兵器かと怯えたらしい。それは白く発光する球体だったという。ならば、Gの嵐で記録されたものと同様のものかも知れない。そのようなUFOは昔日のクラブ活動でけっこう撮れている。
では、フーファイター、もう言い換えて「桃の実」はなぜ出現したのだろう。
それは神話を前提にすれば、その時点が「人類の歴史の存亡に関わる時点であると目されたから」ということになるだろう。つまり、そこからしばらく先で地球上はおじゃん、もしくは新時代への移行段階になっていた可能性(シナリオ)があったと考えられるわけだ。
過去の歴史展開には、いくつものターニングポイント乃至は分岐点、選択肢があったことは誰しも了解できることだろう。
拙プログラム時空論においても、IF条件で分岐先を変えることのできるプログラムの性質を如実に示すものとして捉えることができる。今日あるのは、いくつもの分岐を経た結果であり、その他のシナリオは過去に切り捨ててきているのだ。だが、切り捨てられたシナリオを考える必要もないとするのは早計である。
ヒトラーは最期の日に「ラストバタリオンを準備した」との預言を遺して命を断った。このラストバタリオンは、今密かなブームになっている。ゲームに採り入れられたということもあろうが、この意味深な発言に、世の末を感じている人たちの関心が集まっているからとは言えないだろうか。
ヒトラーはすさまじいオーラで国民を魅了しただけでなく、軍の指揮において優れた先見性を発揮した。ただ、その原動力になった陰の存在がいた。彼はそれを「あいつ」と表現して側近たちに公言している。
私は“あいつ”に選ばれて取り憑かれたのだ・・と。その時点とは、彼が戦友と共に第一次大戦を戦っている最中だった。それ以降、彼は不死身の男と呼ばれるほどの好運を示し、やがて一国の総統に上りつめ、「あいつ」が予告したとおり、世界征服の大戦をやってしまう。
それだけではない。「あいつ」に憑かれた後、彼は数々の未来予言をありありとその様を見るかのように行うようになった。ユダヤの絶滅兵器で日本が危機になるとか、後にゴルバチョフの登場さえ喩えで示している。<参考>
彼の話した内容を分析すると、歴史はどこかにターニングポイントがあることが伺える。連合国が勝った場合はどうなる、という具合に彼の予言は進んでいて、同盟国側が勝つシナリオもあったことが伺えるのだ。
さて、どうして意味深なラストバタリオンが語られたのか。断末魔の出任せか?そんなことはない。彼はドイツが敗北となった場合の自分のシナリオも持っていた。そして、すべて「あいつ」が仕組んだとおりになったと言い切った上で、彼は必要なことを言い残していると考えていいだろう。
では、ラストバタリオンとは何なのか。そう言っているのだから、旧ドイツ兵でなる大隊のことであることは間違いあるまい。ヒトラーが架空の大隊を負け惜しみででっち上げるなどということはありえないだろう。そこで唯一考えられるのが、掲題にしたように、未知との遭遇をしたのではないかというわけだ。
宇宙人が地球人に関わる時は、ほとんどの場合において記憶を消し去る措置を講じている。この理由は、彼らが地球の歴史に公然と関与しないルールを持っているからだ。ここではその詳細説明を省くが、宇宙人から見れば、地球人は、同情すべき同胞というより、ある計画に則って動かすべきコマなのだ。同情して手を差し伸べる存在なら、とうの昔に地球上を席巻して、試行錯誤して止まない人類に進路を示し、秩序ある世界政府を作ってくれていただろう。
ところが歴史的に見れば、たまに天の意向を受けたという指導者を作って、その傘下に信者を集め、戦闘集団にして戦わせる光景しか見えてこない。
もしかすると、宇宙人同士の抗争の場を地球の歴史に置き換えて、つまり代理戦争させているという考えも的外れではないだろう。子供たちはモビルスーツなるロボットで代理させるが如くだ。だが、人は感情を持ち合わせた意識ある生き物である。そのようなことなら、ふざけるなと言ってやらねばならない。
その観点からすれば、たとえヒトラーのように「選ばれた者」と言っても、ただ他の人間より秀でるという人間独特の満足感を満たすだけのものでしかないが、人間はそうしたことに生甲斐やファイトを催すように作られているからどうしようもない。
さて、ヒトラーと彼の擁する大隊は、未知との遭遇をした。どの時点かというと、、第二次大戦の最中も最中、地上の文明が滅び去るかもしれないという歴史のシナリオの分岐点すれすれの時点に宇宙人は行動をしている。
たまたま存続してこちら側に歴史は進んできているが、別のシナリオとして、世界滅亡がありえるような場面でなくては、節理は起動しないからだ。つまり、この時点で初めて宇宙人が介入できるというルール(宇宙人世界の掟のようなもの)が適用されるのである。宇宙人の中には、地球人シンパのアトランティス人やマヤ人がいるだろう。
宇宙人の科学力の醸す会見の空間は、連合軍の監視などから容易に隔絶しうる。チューリゲンの森の近くでそれは行われたかも知れない。そして、大隊は巨大UFOに搭乗したのであろう。戦闘の真っ只中なら、突然姿を消した大隊があったとしても、目立ちはしない。
人類滅亡という局面において、必ず出てくるのが「種の保存」に関わる「黒子」である。この場合はUFO。古事記では、イザナギの黄泉国脱出の際に援助する桃の実だ。
過去にはノアの箱舟などの伝承に見るよう、少なくとも一度はあった話だ。そのようなことはおそらく何度も文明が繰り返すたびにあり、恐竜絶滅の隕石が降ってくる直前にも救出はあっただろう。宇宙人に爬虫類型がいるのはそのようなしだいだ。
宇宙人の関わりは、時代と時代の境界付近で公然と顕著になるのであり、普段の歴史の中には、どんなに悲惨であろうがなかろうが、顔を出しはしない。個人的に顔を出したとしても、人の記憶を消して去るものだから、その本人は記憶減退の後遺症に悩むことになったりする。目撃や撮影物に甘い期待を持つのはよしたほうがいい。
だが、その時代の境界は今や近づいている。ジュセリーノ氏は包み隠さず警告している、古事記には黄泉津比良坂として表現されているイベントだ。否応なくその稀有なタイミングにあなたがたは遭遇することになるだろう。そのようなとき、UFOによる救出は生身を持って生き残る唯一の方法になるだろうから、だからどんなお年寄りでも、長生きしてその場を見てやろうという意気込みでいて欲しいものだ。
ここからは、いささか物語になるかもしれない。
我々からすれば、種の保存による掲挙は、愛情あふれる云々のようなことではない。手続きとして定められていることとして捉えて、もしあなたが関わる局面が来たなら、淡々として手続きを踏めばよい。旧ドイツ兵や様々な局面で搭乗した地球人がアシスタントをしてくれるだろう。
選抜される資質としては、堅忍不抜の忍耐あるいは著しい知的好奇心であろうか。そうした意味で、旧ドイツ大隊は任務に忠実。宇宙人の選抜に際し好適であったに違いない。
UFOの艦内では早くも訓練が開始される。まず、宇宙に関するあらゆる知識が与えられ、みなさんはこんな世界があるのかと目を丸くしながら習得するだろう。そして実技の中に一人乗りの小型UFOに乗るという訓練もあり、みなさんは情緒の不安定を隠せぬまでもそれをこなしていかねばならない。しかし、管制は教官によってしっかりなされるし、UFOそのものが非常に安全にできているので、心配せずに当たられたらよい。艦内では模擬訓練が主となり、向こうの惑星についてからは、大空を飛ぶ訓練がある。
いずれ、みなさんは立派な宇宙人として、再び地球がどうなっているか見学に訪れることになる。あなたはそのとき、赤茶けた大地がただひたすら続くさまを見て、いろんな感慨を催すかも知れない。しかしそれは、ひとつの文明の末路、選び取られたある程度定められた末路であったと認識して、次の時代の工夫をしなくてはならない。その工夫は各人に課題として与えられるだろう。
ただし、宇宙人としての生活は決して面白いものではない。克服できるのは忍耐強い者と知的好奇心ある者だ。地球での暮らしのほうがよほど自由で良かったと感じるかも知れない。ならば次の時代に地球がそのようになるように工夫し、ルールに則ってそれを実現するように努力することだろう。
次の時代を背負うみなさん。願わくば、どうか子孫のために愛情ある新時代を築いていって欲しい。宇宙人には、愛情というものが理解できていない。スポックのようなのばかりと思えばいい。だから、あなたがたが宇宙をも変えてくれることを望む。
では、地上にあって、敬礼しながらみなさんを見送ることとしたい。

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だれも知らないここだけの話

救世主とは・・・ネアンの場合
「天上人の宴」
映画マトリックスの主人公の名はネオ(NEO)。その意味はギリシャ語のNEOS(新しい者)からきているとされるが、ノストラダムス風に解釈すれば、NEW OTHERの略とみなせ、新しい「別のもの」となる。
「・・・7000年には別のものが王国を築く。そのとき太陽は日々の運行を止め、私の予言も終わりになる」
すなわち、救世主の到来を予感させる暗号となっているのだ。
(そもそも、プログラムとしてしか存在しないのが歴史で、有情はそこに囲い込まれて、ただプログラムどおりに動いているだけ。神の化身サイババも言ったように、人はあわれな操り人形なのであり、主催神に知られずに心ひとつ動かすことはできない。というより、心の動きひとつすらプログラミングされていることなのだ。これはインドでは古くから知られた原理。ノストラダムスはプログラムの中から予言的ビジョンを拾い集めて詩にしたのである。ただし、彼の時代から先の未来はかなり分岐していて、そのすべてを条件式を使って詳細にすることなどできはしない。彼は最も可能性の高いルートを示したか、起きるべき要点を示したかのいずれかであろう。時系列でないことから、プログラムのコメント部分をあちこちに散らばった中から引いて記しただけのように思われる)
さて、「天上人の宴」物語に登場するネアンは、奇しくもマトリックスに先立つこと8年前に名付けられた新型の救世主の名であり、宇宙文明との面白おかしい関わりの中で、しだいに救世主としての才覚を発揮していくというストーリーである。
ネアンと名付けられた理由は、安らぎの庵「寧庵」と、その物語の出だしではなっているが、ネアンデルタールからきたとも。それは人類史上最も平和な民であり、そのゆえに滅んでいった種族であった。
そのネアンは図らずも、NEANすなわち、NEW ANOTHERの略となっており、先のネオと意味論的に変わるものではない。ただ、NEOが複数を許容するに対して、NEANは単数を暗示。徒党を組むことがないため、失敗しても自己完結で臨めるということが強みか。
こうしたシンクロは、新神話という救世物語シリーズを通じて、たいせつな暗号の符合材料(キーワード(合言葉))として取り込まれている。
またこの作者は、映画マトリックスが歴史上に登場する少なくとも20年前に、この現象世界のことごとくがプログラムとしての存在でしかなく、意識原理という観測の火を入れて始めて演算結果を得て、世界として認識しているに過ぎない真実を暴露していた。⇒
「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」(日本サイ科学会論文 および 著書「古事記と超古代史」)
それは、マトリックスの基本にある概念と等しいと言えるだろう。
そこで救世主とは、世界の真の仕組みを完全に知った者で、それに矛盾を感じ、根本的な改善策改革案を持ち、最勝の実力と方法を以て、閉ざされた人々とともにいて、マトリックス現実の仕組む艱難辛苦を克服しながら打開の努力する者として描かれなくてはならない。
「天上人の宴」は、単なる夢物語であったという結末となっているが、果たしてその真相がどうであったかは不明である。
というのも、作者の見た夢が物語の起点になっているとしているものの、宇宙人と関わった実体験が、記憶を消された後に夢で追体験されたものという説明も別のところで施されており、ストーリーの最後に出てくる大量のUFO艦隊の出現などは、実際にメキシコ上空や神戸において彼の友人などによって目撃されつつ撮影されていたりして、あながちフィクションと片付けられないからである。
しかしこの作者は、UFOの大量出現についても、古事記の神話の解釈から、歴史のプログラムの最終課程で出てくる必然であるとしている。
というのも、神話は総じて預言であり、”歴史プログラムのインデックスもしくはコメント部分を見てきたもの”と考えているからだ。
つまり、作者の全思考が元よりマトリックス的な世界像をもとにしていて、その一貫性は物語を通じて発揮されている。
だから、UFOがあたかも世の最終局面で人類の救済摂理のようにして出てきたとしても、それはマトリックス上の出来事と覚悟しておくべきことを求める。つまり、いったん救済されると見えても、マトリックス主催者の罠に再びはまる覚悟で臨め、とアドバイスする。
天上人シリーズの更に続編となる「新神話」。そこでの主人公ネアンは、宇宙だけでなく霊界神界にまで広がる舞台で働きをし、”ネオ的な妥協”を許さない「邪悪とその展開の土壌たるシステムの破壊」の方向に舵を切っている。
邪悪側の出方によっては、最終的にマトリックス世界すべての強制的廃絶をも視野に入れていて、妥協して死んだネオとは違った格段の強さが救世主の属性に盛り込まれ、システムのターミネーターとしての機能を併せ持つ者こそ救世主であるとしている。
では、ネアンは単なるシステムの破壊者でしかないのかというと、そうでもない。
あらゆる現象は「梵天の見た夢」というインド哲学に基づき、梵天が夢見に入ろうとする際に、夢の迷宮の中で暴走や迷走から、梵天が帰還できなくなったときの、神自身の救済摂理として救世主が用意されていることを述べている点だ。
そしてストーリーの中身も、現在進行形の迫真性で臨んでいる。
マトリックスは仏教哲学によって解明しやすくなる ⇒ まんだらやさん の ここを参考に
釈迦は真理探求の末、この世のマトリックス的本質を掴み、その捉え方とそこからの脱出方法を伝えていたのである。
マトリックス主催者に媚びて安全を図ることを勧める西洋的救世主と、マトリックスからの逃亡を勧める東洋的救世主。ナワリズムも後者。
いったいどちらが本物か。
救世主を預言する歌
かごめかごめ     マトリックスに閉ざされている
かごの中の鳥は    救世主は
いついつ出やる    いつになったら出てくるのであろう
夜明けの晩に     夜明けを迎えようとする最も暗い時代に
鶴と亀がすべった   鳳の印と龍の印が合体した
うしろの正面だあれ  それを背景にして現れるのは救世主なり
           
カバラでは救世主についてこう解釈されている。
邪悪サタンとその眷属たちは、存続のエネルギーの淵源を神の火花に頼る。
だから、彼らは神の火花を自分たちの領域に取り込んで逃がそうとしない。
だが、神の火花たる救世主は、わざと彼らの領域に下って取り込まれており、いずれ邪悪を内部から改革もしくは破壊して出てくることになる・・・と。
かごめ歌はカバラの秘儀の流出であろう。