ヘルメストリスメギストスはカバラの神

ヘルメストリスメギストスは、別伝では大ピラミッドを造ったとされていますね。その名の理由は「全世界の英知の三部門を知る」からとか。その知識体系には、錬金術、占星術、神働術があると書いてありました。前二者はよく目にした言葉ですが、おやっと思ったのは神働術でした。
この言葉からすると、神が働く方法となりますでしょう。調べましたら、シンボルを使った儀式や呪文によって神々を使役することらしいですね。魔術の儀式ではよく魔方陣を描き、意味不明な呪文を唱えている光景が思い浮かべられますが、それがすなわち神働術なんでしょうか。私には、この意義や作用機序はさっぱり理解できません。
しかし、私はすでに神が働いてくれる独創的方法を駆使しています。協力者とともにですから、我々と言うべきですが。それはたびたびこのブログで触れている新神話のことです。
新神話は、召喚魔術の域に人間の身を持つ我々新神話関係者を、そのシナリオの中で自動的に到達せしめ、たとえ関係者本人が意識せずとも、召喚に相当することが身に備わって行動できるところに特殊性があります。
むろん私は、それを魔術と呼ぶつもりはなく、というのも我々本人は何の努力もしていないからで、ただ新神話を真実に即してしたためていくだけで、それを読みした神々が、そのシナリオを演じ回転させていってくれるというものだからです。
我々は神気の臨在によるめくるめきシンクロの結果から、新たな解釈を組み立て、シナリオにフィードバック乃至は付加していくことで、さらに神々に英気をみなぎらせて活躍いただけるというしだい。その間、我々は、地上における神々の雛形として行動するのです。それは主として意識的行動であり、実際の行動を必要としないところが、新神話の優れたところです。
実は、旧神話もそのほとんどが実際にあったことではない意識的行動の産物なのです。つまり創作物であるということです。それでも神々は、地上の歴史として顕現させようと働かれるのですから、我々のように真実に即している場合はなおさらのこととなる道理でしょう。
その原理を経験的に見つけ出した私は、新神話という自流の神働術を使い、秘教が作ったフィクション、さも本当の預言だったように演出せしめている旧神話の超克を行っているというわけです。
召喚魔術がその中にあるべきというなら、確かに神々が新神話を介して我々に憑依されて事に当たられているわけです。それゆえ、一介の現実的能力乏しい人間の我々であっても、まるで如意棒のてこの作用のようにして、歴史をも改変できる力を発揮できるというしだい。
ヘルメス・トリス・メギストス「エメラルド版」に記された言葉の中の
「万物が一者から一者の瞑想によって生まれるがごとく、万物はこの唯一なるものから適応によって生じる」とは、
すべての宇宙(三千世界)は、唯一者の見た夢であるということでしょう。
私が子供の頃、そのようなおままごとに興じていたことがあるので紹介しますが、
唯一者(でなくてもいい)に相当する主人公が、あるとき空中に如意珠を見つけます。彼はそれを前に希望することを頼むと、それがどんなことでも実現することを経験します。彼はその玉そのものになりたく思い、それを飲みます。すると彼は全知全能となったのです。
彼は淋しくて、彼と同じような生き物を造ります。そしてそれらにも、自らの中にある玉を複製して飲ませます。そうやってたくさんの仲間を増やしたのです。
やがて彼らは、この不思議な如意珠の性質をもっと深く知りたく(研究したく)思い、その方法として、彼らは玉を前にして、その中に深く分け入ろうと、快適な箱の中のベッドに横たわり、その玉の中に意識を投入すべく眠りに就くのです。
彼らは、夢見の中で、作業用の別の身体を持ち、本体は眠りに就かせたまま、夢見の身体でさまざまなことを経験しだすのです。
ある者は夢見の身体もたいせつだからと、第二の夢見をし、そこからまた第三の夢見をするといった具合に、次々と分身を展開させ、さまざまな創造世界に投入させ、そこでさまざまな仕事をさせていきます。
宇宙空間を縦横無尽に分身たちが行き来し、多くの惑星といわず、宇宙の隅々まで、有機質無機質を問わず、多くの形態をした有情が活躍することとなったのです。
元々は、唯一の第一者がいて、その無尽蔵の造形パワーが夢見の階層を生じさせ、その隅々にまで意識の目を張り巡らせることによって、元の如意珠の性質が全成就の暁には理解されると見込まれたのです。
「万物はこの唯一なるものから適応によって生じる」とは、まさに唯一の如意珠が思惟する者に、意図して自らを開展せしめたことを意味しています。如意珠は現象のあらゆる根源的な種そのものでした。それを温め発芽させる意志が働かねばその種は生え出ることはなかった。それゆえに如意珠は意図して思惟する者を引き寄せたことになります。
その者の思惟する要素によって、如意珠は自らの内に、思惟する者の欲する世界を自動プログラミングしたのです。思惟する者は研究熱心で、その中に瞑想(夢見)を埋没させていった。つまりこの両者が揃わなければ、世界の展開はなかったのです。
私の「超宇宙概念」は、この子供の頃のままごと遊びが原型になっています。これを顕す方法はないかと社会人になったときに、最初に関わったコンピューターメーカーの初期の頃のノイマン型モデルにヒントが隠されていることを見つけたようなことでした。
歴史がどん詰まりにもなれば、超宇宙的メカニズムも、歴史的顕現物や発見物によって、知らしめられるに違いないわけで、そのせっかくの機会を逃がしてしまう手はないわけです。また次の時代のどん詰まりまで(科学的発展がもたらされるまで)理解できるすべがないからです。
相対論とか量子力学とかは、この超宇宙概念という総論からすれば、枝葉末節の各論的話題にすぎません。やっとアプローチに適いそうな多次元宇宙論が出てきて、展望が開けてきたところです。それを全体的かつ包括的に説明しているのが拙説です。古くからの霊的哲学さえもその中に取り込むことができる「古今融合のモデル概念」となっているので、ひとつ参考に願いたいところです。
などと、思っていたら、ハリウッド映画で「マトリックス」が登場してきました。そして巷はRPGゲームが大流行です。オンラインでバーチャル世界にアバターを投入して自分の代わりに、その世界のルール決めに従った生活をすることができるようになっています。まさにそれは、霊界からこの世に転生してくるような見方ができます。
ただ、達成すべき目標がよくわからないこと。霊の側はわかっていても、肉体の側は試行錯誤に浮き身をやつしているといった状況。そして、ゲームオーバーたる死に際し、何を達成したかどうかは、肉体側にはわからないで終わることが多い。もしかしたら霊のほうもわからなかったり、クリアーできなかったと悔やむのかもしれない。そこで次の機会を待とうと考えるのかもしれない。
ちょうどマリオのゲームのように、クリアできれば次のより困難なステージに向かうのかもしれない。クリアできなければ、ちょうど免許をとるときのように、同様の難関のある別コースで受けなおすのかもしれない。
そこで思うのは、いつまでそんなことやってるのか、ということでしょう。
ゲーム機械の前から立ち去れば済むことを、その場に座っていることが病みつきになってしまったり、それ以外が見えなくなってしまったりしていないか。
医者の待合室で若者が携帯のゲームを一生懸命にやっていて、何とかクリアーできたらしく、満足そうにしている様を見て、これがこの若者の人生なんだと思いながら、翻って我が身を振り返ることができれば幸いかと思っています。
なおも幸いなことに、私にはこうした超宇宙概念が手に入りました。これは真理の理解には最強のツールになっています。そして、自分は少なくとも、ゲーム機の前の椅子から立ち上がればいいだけと理解しています。
私がヘルメストリスメギストスのことでたまたま参考にしたのは、ここでした。
https://lifesavior.jugem.jp/?eid=128
なかなか詳細を尽くせているように思いましたが、これではヘルメスの考え方は一般人に伝わりません。もっと真理を穿った詳しい情報があるはずです。出してほしいところ。
このサイトの他のページを見れば、キリスト教のナニではないですか。ああ、こんな話で理解不能な哲学思考に誘っておいて、その一方で呵責を負わしめる側に回って、人々を苦しめているんだなと一、二読んでいて思いました。これではまっとうな理解が及ぼせるはずもありません。キリスト教はつじつま合わせばかりして人を煙に巻く教えにすぎません。深い考察をされているにもかかわらず、そんなところに身を置かれているとは、残念なことです。
                                    

伊勢の主宰神に隠された欺瞞・・・創作フィクション神話が独り立ちした

今年になってから、「伊勢の神とは誰なのか」についてシリーズ連載してきました。
調べれば調べるほど、すごいトリックが使われていることが如実になってまいりました。
シリーズ連載した記事は、次のホームページにまとめております。ちなみに私は、戦場カメラマンの、ではなかった、この大発見を世に出してきた、自称「異界の名探偵」です。ぜひ信じてご一読いただきたく思います。
https://uumystery.jorougumo.com/newpage7.htm
なお、連載記事は冗長ですから、要点を次にまとめました。さらに興味ある方、時間のある方はホームページ記事を後ほどご覧ください。
要点
◎ 古事記神話は決定的な矛盾を抱える (女子先立ち言えるは相応しくないとの原則を破り、アマテラスが女神であること)
◎ 正史外典のホツマツタエがアマテラスを男神にしているのに、なぜ古事記は規則破りの女神にしているのか (理由を考えるべし)
◎ ホツマツタエには占星学概念が採り入れられている (アマテラスの十二人の妃は黄道十二宮を表す)
◎ 北局に始まるはずのアマテラスの寵愛を優先させた「セオリツヒメの中宮入り」は、時代のうお座への会座を意味する
◎ ホツマツタエの「章(あるいは段)」の見出しの名づけ方「あや(綾)」というのは、言霊を気にするなら、このような名にしないはず (「あや」は、あやか(妖)し、怪し、過ち、誤りの原語である、すなわち段名、見出しからして内容がインチキであることを暴露しているようなもの、つまり最初からフィクションであることを報知しているのです/本居宣長も「あや」は「まが(禍)(歪曲)」と同じとしています(脚注*1))
◎ 中宮制度によってわざわざ優先させたにもかかわらず、セオリツヒメの子が持子の子より遅れて誕生したのは、北局優先が実際行われていたことを示す (ホツマの筋書きの矛盾が露呈する)
◎ セオリツヒメの神名の意味 (「川の瀬を織った(折った)曲折ある流れ」の意 (そのような流れは随所に滞りと澱みを作り水を腐らせる))
◎ 別名のヤソマガツヒが「たくさんの災いの日々」という意味なので、同様の意味を形成することがわかる
◎ それは占星学上のうお座の時代精神の性質である「霊性の物質への従属」と質を同じくする (霊的暗黒時代)
◎ セオリツヒメの冠名の「サクナダル」(さく・な・だる)からはホツマの評するような「勢い良い渓流」をイメージすることはできない (その意味にするなら、「サナクダル」(さ・な・くだる)でなくてはならない(「狭・流・下る」)/サクナダルは「割く・魚・垂る」で、うお座にシェアする理念の垂迹という意味になる)
◎ ホツマツタエの筋書きによるセオリツヒメの事跡はイエスの事跡を模倣することが明らか (罪人の許し/死人蘇生/裏切り者への容赦なき指摘と断罪) ⇒ セオリツヒメは、うお座のキリストとマリアの時代の象徴表現である
◎ ホツマツタエはセオリツヒメへの過分に過ぎる賛辞で綴っている (アマテラスより格が上と誰にでもわかる稚拙な仕掛けを神話に施している ⇒ 日本の黎明期にもキリスト教改宗が原住民相手に行われていた可能性がある (これはキリスト教が世界に進出した方法そのものだ/古代日本も例外ではなかったのだ))
◎ 結論的に、伊勢の主宰神は、女神アマテラスではなく、セオリツヒメである (つまりイエスとマリア、うお座の時代精神を祭っていることになる)
◎ 古代皇室は、その真実を知っていて、なおも庶民には太陽神信仰を標榜していた (女神のまま据え置いてきたことがその証拠)
◎ 黒魔術シンボル逆五芒星の二つの星頂に配置される「伊勢」は、もとより偽りの聖地、偽りの神、偽りの祭祀であることを物語る (これは秘教組織が仕掛けたことであり、キリスト教徒がしたことではない (日本の伝統という美辞が臭いものに蓋をしてしまっているが))
◎ 中臣神道の大祓祝詞の「禍を黄泉の国に流し去る儀式」は罪業の先送り (今の時代が黄泉の国なのに、まるで自民党の負債の先送りと同じことをしている無責任さでしかない (中臣と自民のバックは同根とわかる))
神代にあった真相とは
◎ 世界の民族に備わる神話の多くがクーデターによる支配神の交代を語り継ぐ中で、日本だけ例外であるのはおかしく、原伝承的には、国常立神(豊受神)とアマテラス男神が、邪神のクーデターに遭い、封印されているはずなのだが (アマテラス男神不在のときは、妻である中宮セオリツヒメが政治を仕切るルール) ⇒ アマテラスの岩戸隠れの期間中は、おのずとセオリツヒメの時代となる仕掛け (つまり、うお座の時代が岩戸隠れの暗黒時代を意味していることになる/だから、今(みずがめ座への移行期)は夜明け前から夜明けへの移行の時代と言われる所以である)
◎ 太陽神アマテラスに対抗する邪神とはこの場合、イエスとその背後にいるエホバである (つまり、古代日本の太陽神信仰はすでにキリスト信仰によって塗り替えられていたことになる/キリスト教はどの世界でもいつの時代でも、先住民の信仰する神々の敵対者であり、先住民文化の破壊者となるべく、邪神を信奉する秘教組織によって条件付けされた宗教だった/むろん秘教組織は、イエスやエホバやセオリツヒメを信じているわけではなく、敵対すべき善神を抹殺するために創り上げたフェイクだと知っている)
◎ 虚像のアマテラスに対し、イエスキリストそれ自体も虚像であり、秘教組織が創り上げたらしい方法論的共通性がみられる (いずれも虚像の神に、元の太陽神のポジションを奪い取らせている)

(キリストとキリスト教の虚構を説明するこのビデオ、今は見ることができなくなっています)
◎ 先代旧事本紀に出てくるニギハヤヒ、そこから譲位される神武天皇の関係とは、ニギハヤヒに天降する神、死人蘇生、数々の奇跡というイエスキリストの属性を持たせていたことから、この頃すでにキリスト信仰がバックボーンになっていたことがわかる (偽の太陽神信仰は神武天皇に始まっている)
◎ 意外と古代皇室は何も知らなかったのかもしれない (政治を裏から仕切っていたのは秘教組織(メーソン)だった)
◎ 古来から秘教組織は、善神の対極にある悪神崇拝者であった (悪神の正式な名は公にしない/関係する時代における善神の対極にある信仰対象を崇拝することで、悪魔信仰者であることを自認していた/このときはアマテラスの対極にあるセオリツヒメ、さらにはその背後にあるイエス/エホバを崇拝対象に据えて、庶民の善神信仰にぶつけていたのである/ただ彼らは時代の善神正神に対しての敵対者であればそれでよかった/その間、庶民はいつも無知でしかなかった)
掲題の「創作フィクション神話が独り立ちした」ことが、日本に根付いた神社ネットワークの根底にあったというわけです。
その単なるフィクション、フェイクにすぎない物語が、今の科学万能時代にまで巾を効かせ、ニューエイジといわれる若年層にまでいっしゅ憧れのようなものを掻き立てている現実をどう考えればいいのでしょう。
ただひとつだけ解釈できるのは、どんなに精神性が優位の時代になっても、秘教組織がそれをコントロールしているということでしょう。
彼らの御眼鏡にかなったニューエイジ、精神世界の理論が世の中の思潮の主流を作り、その他はどこかの時間の上で淘汰されていくということです。
我々は、宗教遍歴する多くの人たちを目にします。同様に、精神世界を遍歴して、いちばんいいものを自分のものにしようとする人たちを目にします。そして、大衆をいちばん動員している場に赴いている人たちを目にします。
ちょうどそれは、スターが聴衆を魅了しているさまに写ります。
スターはおおよそ、秘教組織の一存で簡単にうまれます。
政治家も同じです。
そのようなスモッグの立ち込めた、光が散乱されてまともに届かない世界から厭離していたいとするなら、主流を占めたものをフェイクとみなして厭離することから始めるべきでしょう。
なぜなら、秘教組織は真実を大衆のものにしておきたくないヤカラだからです。
意識改革が昨今叫ばれますが、それがどこを向いているか、見極められますか?
その分野にまで、秘教組織は選別と認可を与えていることに、留意しておきましょう。

*1 
○八十禍津日ノ神(ヤソマガツビノカミ)、大禍津日神(オオマガツビノカミ)。禍(マガ)のことは次に云べし。津(ツ)は助辞、日(ビ)は濁る例にて【借字なることはさらなり。】次の直毘(ナオビ)の毘(ビ)も同じ。此ノ辞の意は、産巣日(ムスビ)ノ神の下【傳三の十三葉】に云り。八十(ヤソ)は禍(マガ)の多きを云ヒ、大(オオ)は甚(ハナハタ)しきを云にや。書紀には大禍津日は無し。又の一書に大綾津日(オオアヤツビ)ノ神あり。【三代実録三十五に、下野ノ國綾津比ノ神。】阿夜(アヤ)と麻賀(マガ)と同き由前(まへ)に云り。【傳五の三十四葉】遠ッ飛鳥ノ宮ノ段に、八十禍津日ノ前と云地ノ名あり。【倭姫ノ命ノ世記に、荒祭ノ宮一座、皇大神の荒魂(アラミタマ)、伊邪那伎ノ大神の所生(ウミマセル)神、名ハ八十枉津日ノ神也、一(マタ)ノ名ハ瀬織津比(セオリツヒメ)ノ神是れ也と云り。此書は偽書なれども、此神を皇大神の荒魂と云こと由あり。下に云べし。これらは古傳説ありてや云つらむ。また瀬織津比は此神の亦ノ名といへると、右にいへる考へと、引合わせて見べし。】さて世(ヨ)ノ間(ナカ)にあらゆる凶悪事邪曲事(アシキコトヨコサマナルコト)などは、みな元(モト)は此ノ禍津日ノ神の御霊(ミタマ)より起(オコ)るなり。其由は下に委く云べし。

メルヘンの功

新時代とは
私は、パラダイムシフトと言われるものは、新時代を前提にしたものであると思っています。
そこでは旧来の法則のすべてが改変されるべきものだとも思います。旧弊はそこで濾し取られねばなりません。
カルマや因縁を説く霊大国と言われたインド国内の貧富やカーストのもたらす問題が、何一つ解決できないでいる現状。これをあたかも、学習過程にいる霊魂たちへの恩寵システムのように言う聖者もいるようです。では、その学習とは何ぞや。これを詳述した話にはお目にかかったことはまずありません。愛の拡大のため、魂の能力の拡大のためと、旧体制の弁解説を出される方もありますが、ではその拡大された先の愛とは、あるいは拡大した魂の能力とはどのようなものなのか、理解できているのでしょうか。
はるか宇宙の彼方に意識を飛ばすことができるようになったことを、霊的能力向上というなら、笑ってしまいます。高次元世界を旅できるという話も同様です。愛にいたってはさっぱりわからんでしょう。聖者たちは言葉だけ独り歩きさせて、煙に巻いているのです。
私はそれらをカーストを存続させるためにまことしやかに意味づけされた詭弁と申したいのです。学習システムなのではなく、実態は監獄制度でしょうと。その上に胡坐をかいてのさばる伝説上あるいは実在を含めて聖者とは、いわば監獄の中の牢名主のようなものです。我はここまで修行してきたから、この位階にいる、ピラミッドの上位に居ることに安住しているのです。当然、その地位と権力を手放したくなく、この体制をぐらつかせる者の存在をうとましく思い、改革者を妨害さえします。
しかし、私に言わせれば、彼らがそこに居続ける限り、カーストと差別相は存在し続けるわけなので、旧来の監獄体制を強化し加担する邪魔者でしかありません。こちら側を正神とすれば、彼らは邪神の一味であり、邪神の作った旧態システムの護持者であるのみですから、戦いあらば殲滅の対象になります。
人々がもしも新時代を真に望むのなら、旧時代の体制を心底から拒否すべきであり、それができないなら、その理由を考えてみるべきです。何らかの処罰への恐れとかによるものなら、そのあたりへの呪縛にひっかかっているのです。
自ら理想とするものを掲げましょう。こうあればいいと思う世界をイメージすればいいのです。ほとんどの人が理想状態をイメージできていないから、新時代到来が見えてきていないのです。新時代のプロトタイプはいくつも出されてきています。イメージしにくかったら、そのいずれかに合流しましょう。
むろん旧体制の延長上にしか理想を描けない御仁もおいででしょう。その方たちは、自由意志でそれを選ぶのですから尊重されねばなりません。存続可能な旧システムの時空のどこかに彼らの経験されるべき世界として存続するでしょう。タイターさんなどは、そちらのほうから来ていたかも知れませんね。自力で転生を重ね、所期の目的を達していただきたい。
私の理想とする新時代は、旧宇宙という幻術世界から脱却したところにあります。誰しもの故郷とも言うべきところです。そこではすべての善が存在し、見渡す限り知恵の宝庫です。ゲームにほとほと疲れた人たちが戻るべき永遠の憩いの場となっています。というより、我々が元いた世界と言えば言足りるでしょう。
旧世界が懐かしいなら、そこでゲームに再トライするかどうか、検討されたらいい。あるいは体験版として、数回ぐらいトライするのもOKです。しっかりとしたガイド付ですから、行程が安全に計らわれるに加え、ゲームオーバーに際しても、閻魔と評議衆のお決まりの裁判手続きの際に有能な神の弁護士がつき、下手な転生契約をさせられたりせずに済むでしょう。人間転生の生と死を含めた一連の出来事は、こうした形でも学べることが理解されると思います。
神話とは
私は伊勢神宮の神には異議を持っています。今の伊勢の神は贋物と言い切ります。夜明けがきていないとしながら、どうして太陽神がまともに存在するのでしょうか。贋物をいくら拝しても、夜明けにはなりません。本物を据えてこそなのですが、秘教の五ぼう星結界の先にあるような場所に、本物が据えられたいと願うでしょうか。それはまたぞろ、秘教の監督下に置かれるようなものですから、太陽神のほうが拒否されるでしょう。
では誰が今の伊勢に居座って太陽神だと偽っているのでしょう。それは瀬織津姫さまです。またの名を八十禍津日さまといい、イザナギが新時代に脱出したときに、付着していた穢れの神であり、いと穢き世にいたものだと、川の水で流し去られている神なのです。セオリツ=流れを折って澱みを作る意味、ヤソマガツヒ=長期間のわざわいの日々という意味で、元の太陽神(男神)が幽閉されてから、同じ位階に君臨した女神です。エジプト神話のオシリス(兄)とセト(弟)の物語としても伝えられています。それを言うなら、弟のスサノヲが該当し、太陽神の幽閉の直因としての記述ですが、女神アマテラスに反抗したという時点ですでに、一段階の改ざんが含まれているわけです。
むろん、この女神はクーデターを起こした邪神たちが擁立した主宰神であり、以後、あらゆる伝説の改ざんがなされるに至っています。しかし伝承の矛盾は散見され、研究者の注目しているところでもあります。古事記は矛盾の顕著な例でしょう。ホツマは系統において正確を期しつつも、筋書きにおいて改ざんしています。が、矛盾をわざと見つけやすくしている感もあるほどの探偵向け文献です。
改ざんが見つかるような神話をどうしてわざわざ残したのでしょう。伝承を抹殺し、新たな伝承に置き換えたらいいもののようですが、実際そうした神話もあります。それが聖書です。しかし、日本神話は改ざんで応えました。それは、先住民の神々の祟りが怖かったからです。そのため、太古神の旧い名前をある程度とどめながら、新参の神々の下に封じることで対応したのです。
というのも、神話は、歴史を誘導するために必要だったのです。それを陰からするのが秘教組織です。彼らはこの神話誘導の仕組みを新設した邪悪な神によってあらかじめ原理を教えられており、歴史の黎明期に神話構築をやりました。文明の開始から終了までの歴史のシナリオをその中にこめることが起用の条件になっています。そして、思うように行っていない場合は、わざと神話に盛られた兆候を現出するようなことまでしています。すると、続くシナリオのステップが誘導されて出てくるというわけです。
ならば、対抗手段として、神話の置き換えをすればいいという話になります。大衆読み物となった聖書や古事記に対して果たして敵うのか。それが敵うのです。
私は50を越える期間を余禄の期間としていただき、正神復活のために新神話を書かせていただきました。ひとえに、この役割のためと心得ております。思えば40半ばにして、不正義が正義面して横行する様をあきあきするほど見てきて、面白くもないので人生50年で終わらせ、転生は金輪際願い下げと、私をここに登場させた神に願い、魂が転生の因なら、魂を消し去ってくれとまで申し立てたようなわけでした。
だから我が神が、凝縮された面白さの余禄として下賜くださったものと理解し、この期間どんなに暴れ者ぶりをさらけ出し、どんな結果になろうとも、成功しても失敗しても、元の羅城門の前に立てばよしの思いで日々いたっております。我が神がまさしく実在されていることを、数々の奇跡を通して確認できたことだけでも、大成果と言えるのです。
そして、ありがたくも新神話の功なって、幽閉あるいは封印されていた正神諸神の救出が神界において叶い、これに注力してくれた協力者もみごと活躍を果たされ、いちおうの首尾を見届ける段にまでなっております。
旧世界に閉じ込められていた一寸の有情の魂すらも、元あった故郷に返すこと。それが新神話の目指すところです。
太陽神はあちらではすでに復活されています。夜明けがきています。こちらに現れるのは、もう明日あさってのこととなっています。
あとは、各自がイメージでそれを引き寄せ、獲得していただければいいだけです。イメージ乏しい生まれをした有情たちは、正神たちが元世界に連れ帰ることでしょう。
私がイメージするのは、ほとんどの有情の元の故郷への復帰です。その効果が出ていて、すでに植物の精霊や国津神たちがまず率先して元世界に去っています。各所からオーブ(魂の殻)解体の写真として、私の手元に集まってきているのです。その他にも今後、随所で情報が入ってくることでしょう。
私はこの世に不公平かつ不条理な人為的仕組みが存在する状態での存続はまったく望んでいません。カーストの存在することは絶対に容認できないのです。
よって、この一見、文明の最高潮と錯覚させている現代文明が崩壊してなくなることが、この世において迎える新時代のあり方でなくてはなりません。

北半球も南半球も、ホワイトクリスマスらしい

In deepさんの続々提示される記事を見ていると、日本と少数地域以外、みんな異常気象状態です。
日本のマスゴミはそんなこと一切報じませんから、ネット情報(当事者国からのもの)がいかに有効かがわかります。
翻訳して載せてくださっている方たちの努力をありがたく思います。
https://oka-jp.seesaa.net/
こんな状態に地球上が陥ること。それをホピ族は”コヤニスカッチ”と呼んでいたそうです。はるか昔から、この事態になりかねないことを懸念していたんですね。
かつて何度もこの現象については、拙記事でも取り上げています。
https://ufocolumn.blog2.fc2.com/blog-entry-177.html
https://ufocolumn.blog2.fc2.com/blog-entry-827.html

宇宙の知性と交わされた約束

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上の幾何学図形群を発見するまでには、長い経過がある。最初は、古事記の神話が暗号であると考え、暗号解きに着手したことが始まりだった。そして、その中間くらいにある「ヤマタノオロチ」の段の解釈において、当時海外でブームになっていたレイラインの考えを導入してみようと考えたことがきっかけとなっている。
私の住居は西日本にある。行動もそちらの方面が多い。となれば、ものの序でに関係ありそうな場所を見てくることもできる。
そして、日本地図上の探索が主体となっていた。
レイライナーの予告どおり、西日本の都市(古代には集落)、祭祀霊場、信仰を集める遺跡や大山が一直線上に並ぶ様子が容易に見出せた。それが次の図である。(読者は先の図形群が、この中から見出されていることをお気づきになろう)
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その線表はまさに、垣根の如き感があった。そこでふと気付くのは、ヤマタノオロチの段の出雲八重垣という垣根である。もしかすると・・・。
そもそもは、オロチを退治した設備、出雲八重垣とはいったい何なのか、何を象徴化した物語なのか、という荒唐無稽かつ途方もないテーマの推敲から始まったのだ。
物語ではスサノヲが、毎年のようにやってくるヤマタノオロチに困り果てている地元民の窮状を知り、その対策を講じてやるわけだ。ところが、単なる民話ならそこまで詳しくせずともよいだろうにと思えるほど、祭祀関連事物を使って、そのありようを懸命に伝えようとしているように思えたのである。
その対策の全体名は「出雲八重垣」。具体的には、酒を盛ったサズキを垣根の門ごとに置くという、呪術的結界のことが語られている。
凶悪なオロチは、そこにやってくると、頭の数だけある杯の酒を呑んでしまい、酔いつぶれて、その隙にスサノヲが斬り殺してしまうという筋である。
私は、古事記の神話解釈にあたり、すでに最初の段から地球規模のスケール性を見ていたことと、これ以降の面白そうな「国譲り」や「天降」の段に辿り着くためにも、「ヤマタノオロチ」の段は超えねばならないハードルとして立ちはだかっていたのだ。
オロチの被害者は「櫛灘姫」という少女である。意味は「櫛」が「霊し」(霊妙)とか、櫛の形状から連想される感触、そして「灘」もしくは「名田」に篭められた、日本のリアス式海岸のような複雑に入り組んだ地形と、そこに農耕して生活拠点としなければならない地元民の嘆き顔というイメージが涌いた。
そこでオロチとは・・・地球規模の大スケールでなくてはならないというわけで、自然に思いついたのが火山帯や地震帯なのであった。
幸いにも同時並行的に、ギリシャ神話のチターン神族とオロチに類義性を見ていたので、その方向からも、この解釈は妥当なものに思えたのである。
チターンとは、大地の獰猛な神々である。サイクロプスは一つ目巨人。これは台風の一つ目ともとれるが、チターンとは大地の子という意味があり、火山の一つ目火口のほうが合っている。ヘカトンケイレスは百足巨人。これは前者が火口なら、隠された内部のマグマの様子というわけだ。彼らはゼウスと戦い、最後にはタルタロス(幽冥の地底)に幽閉されるとなっているので、居場所もちょうど都合のいい場所となる。百足とヤマタ(たくさんの股)を持つ大蛇とは、形の上で似ていよう。こうして、オロチとは地変を起こす源である火山帯や地震帯、さらにその原因たる現在で言えばプレートやマントル対流の不気味な動きというしだいになるわけだ。
こうした自然のものは、人間の手に負えるものではない。その辺は神々の話をしているだけに、神でなくては鎮圧も制御もできない代物である。いやしくも人間に地上を任せるとなれば、初期の環境設定だけはしておいてやらねばならない。その一環でこの「出雲八重垣」事業が行われたと推測できたのだ。
出雲八重垣は地元民に指図して作らせている。スサノヲはあくまでもその原理を説き、ここに何を設置せよと指図して地元民に作らせているのである。その構造を説く叙述に、また念が入っている。一見すれば祭壇を築く要領のようだ。だが、問題はそれが社殿の中だけで事足りるものかどうかである。大スケールの相手に対して、あまりにも規模が違いすぎる。
実は、その発想も一瞬にもたらされたのであるが、大地の問題に対しては大地の規模で対抗するすべがあることに気がついた。
そして、実際に調べに車で走り回った。
すると、あるはあるは・・・。秀麗な山や、古来から神体山として崇められた山、あるいは巨石を組んだ巖倉といった形で、いくらでも存在した。それが数十年前には、まだたくさん壊れずにあった。山がわざとその目的のために整形されているふうもあった。巨石組みなど、地元民にちょっと重力制御の呪法を授ければ、意外と短期間で作り上げることも可能だろう。セコンドはスサノヲという神だから可能に違いない。
秀麗な神体山がまず目に留まった。ドライブのたびに、新たに二つや三つ探し当ててきた。はじめは山が呼んでいるという感じだった。山の気の流れのせいだろう、意気が高揚してきて、エンドルフィンが放出されるせいか、とても心地よくなる。山はわが友という感じだった。なぜそうなるのか。それは先の線表のライン上に偏ったふうに集落などができるのかと同じ効果なのである。それは、八重垣システムで「変換された後の」効用。生命賦活のエネルギーの強さに起因するのである。イヤシロチ、ケガレチというのを聞いたことがあるだろう。それは出雲八重垣の効用としておのずと現れる効果だ。
しかし、私はやがて八重垣の謎の究明のために形ばかりを追いかけるようになり、せっかくの感性も衰えて今日がある。その代わりに、明らかに加工された感のある山が、意外と古代の祭祀拠点であることが次々と分かり、出雲八重垣の推理と密接に繋がっていくこととなった。
スサノヲが物語の中で作らせたものは、ある種の「祭壇」だったのである。だが、相手が地底に数百数千キロも伸びる怪物では、陰陽師がやっていたような社殿の中の祭壇ていどで務まるわけもない。大地には大地に対応した、土と石の構造物が必要だったのだ。
ピラミッド、マウンド、巨石組み、それらを組み合わせた古代山城などがそれである。この呪術的結界を作動させるための祭祀のあり方も、物語を見るに、当時の地元民に授けてスサノヲは去っていることになっている。
現代にまで残る神道の祭祀は日本古来のもの。この中には、渡来系も含めいろんな祭り事が習合されていると考えられるが、スサノヲの国土鎮護の祭祀も含まれているに違いない。神道の神官しかおそらくその意趣が理解できないであろうから、彼らの伝承の命脈が途絶えることのないようにしなくてはならないわけである。
出雲八重垣の衰えが招く凶事
2004年12月26日にスマトラ沖で発生した大地震。このときの津波で20万人もの犠牲者が出たことで有名だ。ところが、読者の中にこんなことがあったことを見た人はいないだろうか。それより10日前、16日の午後9時頃のことである。私は会社の仲間たちの間でもUFO見の第一人者だったので、その日も余興にと眺めたのだ。それを見た社長が、「また見とるのか。出てきよるか」と社長自身空を見上げて、「おっ、あれは何や」と指さしている。
「うおっ」と息を呑んだ。真っ暗な空を背景にするとはいえ、やや明るい気味の帯雲が太くくっきりと、北東から南西方向(日本列島縦断の方向)に、こっちの地平から向こうの地平まで途切れることなしに、一直線に伸びていた。
「これ、地震雲いうんとちゃうんか」と社長。
「そうかも知れんですね」「気持ち悪いもんやなあ」
このようなやりとりを交わしたものだった。しかし、その後何事も起こらず、忘れかけていた矢先に、スマトラ沖地震が起きたのだ。世界地図を見てもらえば、列島の伸びる方向に震源地が位置していることがお分かりになるだろう。
あれだけの、それこそ果てしない長さの大蛇のような雲だった。日本のどこかであるに違いないという読みは外れた。しかし、あれが「地震雲」なら、ものすごいエネルギーを感じさせるに十分だった。
真っ暗な時間帯だが、午後9時だから寝静まっていることもあるまい。もし発見していた人がいたなら、コメントをいただきたい。
さて、地震雲は、地震の前触れとして存在が一般的に認められるようになった。だが、それは必ずしも地震があるゆえに、地震雲ありきなのではない。
それには地震雲の発生メカニズムが理解されなくてはならないのだが、地震雲は大地の呪術的結界の作動の結果が、空に反映されて出てきているのである。
すなわち、よく地震雲に見られる、東西、あるいは列島方向、その垂直方向といったパターンは、出雲八重垣の垣根のパターンなのだ。
地底の火山エネルギーの動きに従い、大地に刻まれたエネルギー整流装置が働き、それをエネルギー変換している。その立ち昇る有様を見て、スサノヲが詠んだ歌が、古事記の歌謡第一番として残っている。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る この八重垣を」
ああ、何と言う壮大で慈愛にあふれる神の御心。
そう感じ入るに足るすばらしい歌である。これこそ、人類の守護神、地球の守護神の御心と言わずして何としよう。
一首の中に繰り返し三度も用いられている「八重垣」の句。ここまで強調されていて、しかも歌謡第一番。古代版レコード大賞のトップと言ってもいいものだ。そこでここまで語り込まれているこの言葉。ほんとうにもったいない。涙すら出てきてしまう。暗号解きマンにおいて、この意味を解き明かそうという気が起きないほうが不思議なくらいだ。
ただしそのためには、巨石文明に関する基礎知識や、古代のシャーマニズムのイロハぐらいは知っておかねばなるまい。その中で繋がりをつけていく作業が暗号解きの仕事となる。
この八重垣の原理は、様々なシャーマニズムによって用いられた呪術結界のルーツと言ってもいいものである。その稼動には、必ず意識ある者の介入が要る。それがなくなってしまえば、残留想念によって一時的に維持されるとしても、やがて結界は消失する。八重垣の結界の稼動にも、古来のシャーマンがその任に当たっていた。スサノヲの頃には、アシナヅチを神殿の宮主に据えて、須賀の八耳という名を負わせている。その伝承が祭祀の方法と共に、日本では神道に伝えられていたはずなのだ。
だが、神道は古来から秘密主義だった。一般人を門外漢として扱って、知識をすべての人に伝えてこなかった。世界においては、世界各地の部族のシャーマニズムの中に生きていたが、これも唯一神の預言者信仰勢力によって滅ぼされてしまった。今の時代になってしまえば見えもしないものは認めるなという科学万能主義が幅を利かせることとなる。
こうして世界的に八重垣の意趣が廃れてしまったとしても、歴史の必然というものになるのだろう。
さて、それゆえに、八重垣の節理が順調に稼動していれば、地震雲としての顕著な現れ方が予兆として出れば出るほど、地震発生は軽減されることになる・・・という原理となる。
地震エネルギーがよほど大きいなら、防御しきることは難しいかも知れない。スマトラの場合で、地震雲があれほど強く出たということは、相当なエネルギー規模を物語り、封じ切ることができなかったと解釈される。
また、八重垣の力が衰えるようなことがあれば、逆に地震雲として現れる度合いが小さくなるから、予知には使えなくなってくる可能性がある。と同時に、地震エネルギーの清算が思わしくなくなり、蓄積していく一方となり、巨大地震や噴火を起こしやすくなる。小さな地震エネルギーであっても大きな地震として出てくる、といったことが起きるようになるだろう。
能登の地震、三重の地震において、地震雲の発生が巷で囁かれてはいなかった。私も毎朝のように主として南の空の様子を見るが、2006年までは毎日のように程度の大小こそあれ見られたものが、最近はまったく見なくなっている。この理由は何か。地震エネルギーの蓄積がさほどない、というよりは、八重垣の稼動不良のほうを疑うのである。
出雲八重垣による大地の安定、まずありき
結界として機能する垣根は、できるだけ秩序整然としていたほうが、見た目だけでなく、その前に威儀を糾すことが必須となる呪術においては、重要性の認識と共に効果の大きさも予想することができたであろう。籠目の結界はその点、非常に強いものと考えられた。籠目にも節々を形作る幾何学によって幾種類もある。三角、四角、五角、五芒星、六芒星、さらにはもっと高度な意識的仕組みの生命の木など。
黎明期の人類のもとには、頻繁に地球外知性が訪れていた。そして、国の運営に関わる核心部分で、広域結界に関する祭り事の意義の再認識を為政者に求めていたのだ。というのも、地球という惑星は、生命にとって荒ぶれた苛酷な環境であると、地球外からも見られていたからに他ならない。
古事記の「御諸の山の神」の段は、神自ら秀麗な神体山に鎮まることによって、祭り事の本義を再認識させていたとみられる。それは、国の運営者が、スサノヲの頃からすでに遠く隔たっていて、国難が増大していたゆえだろう。国の運営に当たっての心細さすらのぞかせている大国主の頼りない言葉からも窺える。スクナビコナの神が去った後、「私一人でどうやって国を作っていこう。次は、どの神と共にうまくやっていこうか」と。それに呼応して現れるのが、海を照らしながらやってくる御諸の山の神で、当然このときにも、山の神自ら神体山の頂上に鎮まることによって、祭り事の原理を再教育しているのである。
ミステリーサークルは反応を見るためのメッセージ
昨今ミステリーサークルが話題になったが、描かれる図形に何の意図があるのかさっぱり分からないのは現代人だけである。
これは地球外知性が、過去にも古代人にメッセージを送り、感受できる資質を試してきたようなことを、今また行っているのである。
すなわち、結界の図柄を描くことにより、もしそれを見て分かるのなら、地球メンテナンスの祭祀を行うようにとの督促だったのだ。そうしなければ、いずれ大地はコントロールが効かなくなるからと。
ところが、当然ながら現代人は、頸を傾げるだけで何のアクションも執らなかった。かつてストーンヘンジをメンテナンスした部族が未だ残っているなら分かるはずのことなのだが。地球外知性は、古代と同じ反応が返ってくるかどうかを、ミステリーサークルを描くことによって反応を見たが、古代の知恵をなくしてしまった現代人には、さっぱり意味がつかめなかった。これでは彼らもあてはずれで、がっかりしたことだろう。
結局、最低限必要な地変鎮静のメンテナンスも行えない種族ばかりになってしまったため、宇宙では滅びもやむをえないという判断が下されているというのが目下のところか。
それはそうだろう。地球の使用権、管理権を、取扱説明書やメンテナンスのやり方を添えてリースしたのに、メンテナンスは放棄し、山は削るわ、海川は埋めるわ、無茶苦茶をしだしたのだから。いったいこれは、最初の契約をどう考えているのか、ということになるだろう。昔の祭祀を知る者はみんな問答無用の迫害をされて残っていない。とくれば、現代人がいくら無知といえども、許されざる者となってしまうことは必定だ。
結局、ミステリーサークルの謎を解いたのも私しかいないとは・・。その私が、こんな連中もう滅ぼしていいよと彼らに伝えたら、一も二もなく即刻やってくれるといったことにならないか。それほど嘆かわしい気分だ。
地球温暖化問題は、現代人にも分かる方便として提示されているのであり、ほんとうは地球のメンテナンスが必要ということなのだ。
そうは言っても、どうすればいいかなど、説明書のない今では分からないね。そこで相談だ。
蛇の生殺しのようにして2043年までじわじわ痛めつけられるより、さっさと済ませてもらったほうが良くないか。
これも一般人向けフィクションである。一般人は、ゆめ、本気になられぬよう。