雄牛の帰り雲ロマン

なんと、ベンジャミン・フルフォードさんも丑年なそうな。
そして雄牛の性格をどどーんと書いてくれてまっせ。
https://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/
「雄牛はトラやライオンより強いが、弱い生き物を守るためにだけその力を使う。地球が人間牧場にならないために2009年は雄牛が角を悪者に向ける。必要であればそれを使う。必ず人類を守り抜く」
と、心強いメッセージを書いてくれている。
そういう私も丑年の雄だ。彼と似たところがちっとはあるかな?
さて、本日午前中のNHK番組は絶景と風流風雅のオンパレードだった。そんな中に、パラグライダーからの紅葉の有様を映していたものがあったが、空から見た飛騨の白川郷の合掌村の風情には感じ入るものがあった。というのも、合掌造りの十兵衛という民宿(今もあるかどうか)で、発掘調査成功の打ち上げ会を行なったことがあるからだ。それはもう、今から30年前のことだ。
何の発掘調査だったか。それは天正十三年の天正大地震で帰雲山が山崩れを起こし、その麓にあった内ヶ島氏の居城・帰雲城が埋没してしまったとされる伝説の場所を探し当てるというもので、それまで伝説のみ残り、まったく場所が特定できなかった遺跡であった。
しかし1979年5月5日、勇壮な戦国時代を語るに相応しい端午の節句の日、民俗研究家で埋蔵金伝説作家である村上良行氏を団長とした、私を含む有志一行15名で現地(御母衣ダムのやや南・保木脇から庄川を渡った東岸山側)に赴き、踏査開始から一時間ほどで、城跡とおぼしき何条にも及ぶ石垣を発見したのだ。その他、東側山肌には土砂崩れの痕がはっきり残っており、もろい砂岩質の山肌からは風が微かに噴き出していて、その奥にはたぶんに空隙ができているという感じがしたものだった。おりしも一本の山桜がそのありかを示すかのように咲き誇っていたのを憶えている。
その夕方、民宿十兵衛で地元の芸達者さんたちが民俗衣装姿で三味線を弾いてもてなしてくれ、翌日の地元新聞では帰雲城跡発見のニュースが流されたのである。その後、国道沿いの保木脇に帰雲城跡の立て看板が設けられ、その地区は教育委員会の指示で立ち入り禁止になったと聞いている。
私は1949年生まれ。今が2009年。そのちょうど中間地点の1979年(昭和54年4月末)は、私が某大手会社を辞めた年であり、その辞めた直後の発掘調査参加での快挙だったわけだった。
その後、村上良行氏とは二年ほどの親交があり、なかなか売れない作家家業で娘さんを一人前にしようとがんばっておられたときのご自宅に訪問したさい、いきなり私に一冊の古い文庫本を差し出し、「これ、面白いから読めや」といただいたのが、W.バトラー著の「魔法入門」だった。
まさかこんな畑違いの本に興味されていたとはびっくりだったが、魔法はすなわち錬金術であり、彼が持ち味だった一発山師的な埋蔵金発掘の夢と重なるものがあったのかも知れない。私は、むしろそこに書かれていた「カバラ」のほうに惹かれた。そして、私自身のそれまでの古事記研究と、カバラ(ユダヤ神秘思想)への興味とのドッキングを経て、「古代日本謎の中東思想渡来考」が生まれたのだった。
同発掘部隊の知人の話では、村上氏はあれから二年ぐらい後に肝臓病で亡くなられたとのことだ。知人は、彼は酒の吞みすぎで命を縮めたと言っていた。名がなかなか売れないこと、付き合いも欠かせないとのことで、酒量が多くなっていたという。それでも彼は、帰雲城発見で勢いをつけ、当時流行のイレブンPMに出て、清洲神社に眠る埋蔵金発掘とかタイトルした番組で、我々発掘部隊をスタジオから指示、叱咤していたくらいだったのだが。
私は村上氏の跡を継いでいるような気がする。私もいろんな発掘をいつしか進めているからだ。
また山師的なところも似ている。今の私は何か漠然としているが、やはり宝を見つけようとしている。
世界を救う宝(神話)とかUFOとか。それも自分で手にとってみなくてはならないと思っている。
足は歩かねど、ものすごい冒険をするインディー・ジョーンズのように思っている。
それも雄牛のように正義感に燃えた冒険家だ。想像世界の冒険家だ。
悪者を駆逐し、地球と人類を守り抜く雄牛でありたい。
*村上良行氏のことはさすがのネット情報にも出てこなかった。
また、帰雲城城跡の場所も、未だに諸説ふんぷんとしてあるようだ。
未だに怪しげなグループがあっちだこっちだとやっているようである。
https://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/
実に怪しい。というのも、石組みをたどって山すそを掘り起こせばよいだけのはずなのだ。
帰雲城に詳しいサイト⇒ https://woodone3831.web.infoseek.co.jp/c-1-3-5-6-siro-KAERIGUMO.html
そう。そこは潤沢な金を蓄えていたであろう内ヶ島氏の居城であった。最大級の埋蔵金伝説の地なのであり、もしやの利益に絡もうとする県教委や新来の発掘調査団体は、場所がすでに分かっていても、衆目をくらます対策を講じているに違いない。こうなれば埋蔵金が出尽くすまで、城跡が特定されることはないだろう。
村上氏の功績はこうして封印された。彼の名は今やどこにも載っていない。まるで帰雲城とともに埋蔵されてしまったかのようだ。あの人はほんとうに実在したのだろうか。今となればメルヘンとなってしまった。
ただ、昭和54年に地元有志によって建てられたという帰雲神社が、村上氏はじめ我々一行の往時を記す記念碑になっている。