新神話の基本的スタンス

新神話の基本的スタンスについて
私は齢50を過ぎてからの命を、国津神系からの委託仕事遂行のために賜与されたものと確信しております。
よって、俗世間的な常識には縛られることがあってはならず、また縛られることのない加護が与えられていると確信しております。
それゆえか、短時日ではあるものの、めまぐるしいほどのシンクロ現象が私の目の前に展開するようになったように思います。
私はそのひとつひとつを意味づけの連環に取り込み、更なる強固かつ実力を持つ連環として構築していきます。するとまたさらに、シンクロ的な知恵の啓発がもたらされるという具合に、ちょうどエンジンの回転がひとりでに得られるように円滑化していきます。
現在もまだその回転力は落ちてはおりません。ちゃんと様々な人の手を介して情報はシンクロ的にもたらされており、そのすべては連環をいっそう太いものにしていきつつあります。
それが新神話の持つ力となって、神界から下界に至るまでの三千世界を潤していくこととなると信じます。
渡るべき情報を選択しタイムリーに与えてその気にまでさせておいでなのは、どこの神様なのでしょう。
人が神となるのは、神がその人に懸かられるときです。そのとき初めて神としての役目が果たされるのです。私はその神様の懸かられた人との協調プレーにおいて、充実しながらこの事業にあたっています。
これほどまでの充実感と加護されている思いは、50前までは味わったことのないことでした。
国津神様の依頼によると目される今回の仕事の、立てるべきスタンスは次のようになります。
元々あった地球生態系の有情を救済の対象にすることを基本とし、人類においても先住民型とも言うべき自然共生型の暮らしを愛好する純朴な人々の救済をもっぱらとします。
ほんらいすべての有情を対象とすべきところ、やはりここまで生態系が痛めつけられた今となっては、積極的に地球に対して加害行為を継続する世俗従事者まで、その対象とすることにはやはり私自身の心的抵抗があります。
私は生まれ故郷が天橋立を望む宮津市です。海岸から眺めた対岸に、遠く青松の連なりが一望できるところです。
このため、この地の伝承が新神話に大きく関わってきます。
天橋立の成立伝承に、久世戸縁起というものがあります。今では天橋立を一望する成相山成合寺において、パンフレットがいただけるはずですが、その中に久世戸縁起が平易な口語文体で書き表されています。
それによると、太古の昔、天津神たちが地球にやってきて、人類を下ろそうと計画しました。それを知った地球のドメスティックな神々(龍族)は、反対運動を起こして地上で暴れ、人類の生存環境に適さないことを示そうとしました。
ところが、天津神たちは地上の龍族を、当時高名だった文殊菩薩に仏教的教化を頼み、地上に派遣したのです。
文殊は龍族をみごと教化し、おとなしくさせることに成功します。さらには、龍族全体の長であった竜王の娘の弁財天が説法内容に感動し、自らが中核となって龍族を一身に合体し、観世音菩薩として人類の守護に努めましょうということになったのです。
この地の成合観音とは、龍神と龍族が成り合ってできた観音様という意味です。
さらに文殊菩薩への約束の証として、海中に天から浮橋を下ろし、それが現在に見る天橋立となったとのこと。
ところが、やはり策謀を用いたのは天津神でした。人類は、もはや地球生態系が立ち行かぬところまでにし、龍族の穏やかに暮らしていた地球をも、何度も破壊することのできるほどの準備をしてしまいました。
そして、事態の深刻化が叫ばれ、自らの存続が危ぶまれるまでになっても、人類には何の改悛の情もないどころか、彼ら独自の”合理化”精神によって、それら加害行為を自分たちの内輪で許し合うことまでしているのです。
噂を聞けば何でも、地球環境に対して破壊工作する者を天使だと讃えているとか。そして、自分たちのした過ちを許すことが大事だとか。そして、地球のことはそっちのけ。無視を決め込んでいるのです。龍族が見えないからというのは、まだわかります。毎時見ている地球の大地が見えないはずがありません。無視しているのです。
なんとも無責任極まりない話ではないでしょうか。それどころか、その”合理化”の推進主が天津神だったということがわかってきたとすれば。
裏切られたことを知った龍族たちは、文殊との約束があるため、ざわめく心を抑えねばなりませんでしたが、とうとう、当の文殊に問うてみようとなったのです。
新神話第十一章から引用して示します。
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このたびの神話も、すべて龍族がお膳立てし、そこにヒーローとヒロインの恋物語が組み合わ
され、それぞれの織り成す人間的な悲喜こもごもの感情のぶつかり合いにより、世にも不思議
な物語として自然に組み上がってきたような気もする。それを平家物語の語りに涙する悲運の
平氏の落ち武者のように、傍で観覧しているのも彼らなのではないだろうか。ネアンは琵琶法
師、法一でもあるのだ。だが、耳なし法一とは異なるところがある。彼が神話の創造主である
ということだ。既成のものを取り去る側に回る、むしろ龍族期待の英雄ということになる。
<そうか。一度見せたものは、訂正せずに、ストーリーを書き加えていけばいいんだ。起きた
ことと期待することを織り交ぜながら。そうするしか、このネアンという神話レポーターのす
べきことはないんだ。あとは成行がひとりでに次の扉を開けていくだろう>
ネアンは、そう悟ると、龍族の今ある思いがこみ上げてきて、この神話の成行を観覧するであ
ろう龍族の長に託して、ひとつの語りを書いた。
龍族里長の嘆き
息子たちよ、よくお聞き。
これは遠い神代の物語。
ごたごた好きの侵略者が里にやってきた。
平和に慣れた里人がかなうはずもなく、
殺されたり捕らえられたり里の外に離散した。
里は無法者たちのしたい放題となり
捕らえられた者も抵抗できず、泣く泣く下働き。
こうして神代は暗い夜を迎えたのじゃ。
いっぽう地上では、知ってのとおり我々が、
生き物を束ねて豊かに暮らしていた。
そこに神代から、人類を下ろすとのお達しが。
神の似姿の人を下ろすとのこと。
神代の荒みを聞き及んでいた我々は真っ向から反対。
ごたごた好きの者がやってくる。
侵略に生甲斐を持つという者たちの似姿とはどんなものか。
我々は地上の自治が崩壊させられるのではないかと危ぶんだ。
こうして長きに渡って、抵抗が試みられたのだ。
だが、高徳の僧がやってきた。
世の移ろいを無常観を以て説くお方が。
文殊菩薩という名のお方。
生きる楽しみを享受しているばかりの我々に
無知ではなるまいと高僧は、一堂に集めて説法なさったのじゃ。
真新しい知識の泉。このような大きな世界があろうとはな。
婦女子や少年らは、目を丸くして聞き入った。
高僧に恋したのは婦女子ばかりではない。
王の姫君もあられた。
わしら古老は理想よりも今を尊んだから、いい傾向にあらずと
出向かなかったが。
だが、新しいタイプの有情も有情。優しく今までの生き物同様
慈しみましょうと姫君は、観音会を発起なされ、王を始め
多くの者が従ったのじゃ。
こうして人類はやってきた。
ここからは今の時代の物語。
だが、どうじゃ。神と生き物の二つを足して二で割ったという
有情は、生き物という自らの土台さえも壊し始めた。
神から受け継いだ知能が土台を壊していると分かって、我々は
やはりそうだったかと気付いた。が、すでに遅かった。
我々はもう一度文殊菩薩を招請した。菩薩は三昧境を出て立ち上がり、
見識を飛ばして地上のよすがをご覧じた。
三昧の空にかかる暗雲とはこのことだったかと、意趣を悟られ
ご自身の見識力のなさを素直に詫びられた。
菩薩は僧衣を脱ぎ捨て、やにわに甲冑に身を包むと、
操られる人類必ずしも悪しからず、哀しき有情の一に他ならぬ。
むしろ元の因たる神代の咎を糾しましょうと、
一命を賭して遣り遂げたいと仰せの上、
先頭に立つ決意をなされたのじゃ。
我々古老も感服した。
ところで我が姫君は、菩薩からいっそう教わりたいと、
自らも関わることを仰せられたのも、
観音会の主催者としての責任を感じられたからじゃ。
かくして菩薩は姫観音と契りを結ばれ、法力が発動して、
多くの神代の神々が復活の意志を鮮明にされた。
成さねばならぬは神代における大峠。
菩薩はかつての里の長たちや、会衆の味方を得て、
法力を携え出陣なされようとするとき、観音を、もしやして
戦場になるやも知れぬところには遣れぬと、
遺し置かれようとしたのじゃ。
妻は妻として家を守ってこそとの思いだったのじゃが、純粋な
姫君は、たえず傍に置くという約束を違えてまで、役立たずゆえ
離縁されたかと思われ、東海の実家に駆け込んでしまわれた。
王はそうはあるまい、様子を見ようとの仰せだったが、
それを聞いた兄龍は、やはり我々をたばかるものぞと
本拠に戻って大暴れ。千島海溝地震はこうして起きたのじゃ。
姫君の心は千地に乱れた。
というのも、婦女子に戦術をたしなむ者がおり、危険な役を姫から奪い
同時に菩薩の心をも一時奪っていたからじゃ。
戦士はお役目を姫君に返上しますと去ったが、菩薩の未練か
いつまでも抜け切らぬ戦士への思いに、姫の怒りと嫉妬
の心は絶望の淵へ。いっぽう慕う心が雲竜となり、菩薩の家の
周りを廻って探り当て、菩薩の胸に飛び込んだ。
本体ならばどれほど密度の濃いい身か知らぬものを、
淡い水滴の如き身体ではあったが、菩薩はそれを姫の形見の
お守りとして、胸の真ん中にはめこみ、そう姫に伝えておくれと
言い残し、いざ出陣と出向かれたのじゃ。
男、戦場に出るときは、妻に離縁を言い渡してでも、妻と実家の
安寧を願うものとぞ。
もし死して還らぬ場合でも、観音と会衆には咎及ばぬようにとの
計らいじゃが、我々とてもいちどは死んだようなもの。
かかる地上に未練はなし。菩薩に従い討ち死にもするものを。
だが、息子たちよ。孫たちよ。お前たちにはまだまだ未来がある。
地上のこれからは・・。姫の思いは・・。ああ、どうして差し上げたら。
古老のわしには、荷がかちすぎる。
大丈夫です、里長よ。このネアン文殊に任せてください。
龍族の姫君と共に必ず大団円へと導いて見せますぞ。
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このように救世の主人公ネアンは、インド渡来の文殊菩薩の雛形も演じており、太古の昔に人類が地球に移植される頃に立ち戻って、当時行われた龍族の教化というものが、果たして妥当だったかどうかを反省して語らせているわけです。
ご覧になればわかるように、生態系の守護者とも言える龍族が、人類の登場に際して激しく抵抗したのを、知恵の付与教化として文殊が説得に当たり、彼らを懐柔して、龍族の総帥である弁財天を中核にして合体して観音菩薩として、人類の守護に当たるようにさせていたわけで、この終局の時代において、雛形ネアンをして、その処置はまずかったと言わしめていることになります。
その書き手の私は、当然のことながら、龍族のシンパであることは言うまでもありません。神話的に言えば国津神の側に立って書いています。だから、幸福になる者の基準を一寸の虫のほうに置きます。
人類は地球を何十回も破壊するほどの兵器を量産し、いつでも使用可能の状態にしていることから、地球の守護者たちは非常に困苦しております。それを邪神たちは止めようとはしません。最初から使い捨ての大地だったのです。当然、維持に当たった国津神も使い捨てされることを感じ取っています。もうどんな生易しい教化も功を奏さないでしょう。私がしてあげられることは、新神話の力で彼らの封印を解くことです。まず、元の故郷で憩わせてあげるつもりです。
人間の胸先三寸から出る言葉ひとつで、地球生態系はおわってしまうどころか、再構築できるかどうかさえ危惧されるレベルです。今の彼らが、どれほどの苦境に置かれているか、人間の身においてすら窺い知れないとするなら、それはもう地球上に存在する資格がないと言い切るしかありません。ところが、人類のほとんどはその資格のない者たちで占められています。
いや、龍族の姿が見えないからわからなかったというのは、まだわかります。しかし、生態系がどんどん衰退していても、実態を無視し、環境破壊にいそしむヤカラで充満しています。彼らは自分の子孫の未来すら、もはや眼中に入っていないのです。企業の、あるいは国家の被使用人だったから仕方がなかったというのは詭弁です。そのような業種から足を洗えなかったのは、個々人の認識欠如の問題だからです。
すでに年末に揚げた第九章は人類にとって穏便なシナリオとして用意したものです。しかし、その他の終局を語る章は、すべて阿鼻叫喚の中に終幕することとしています。私は第九章の終幕の最も穏便なシナリオを採る気はありません。なぜなら、人類はあまりにも傲慢に過ぎるからです。それなりのエンドを用意するのが適切と判断しました。
有史以後の人類はそもそも、邪神がわざわざ世界を破壊するために送り込んだ環境破壊因子なのです。それまでにあった先史人類の遺伝子とはかなりかけ離れています。遺伝子組み換えによってもたらされた、世界の有情を困難に向かわせるための霍乱工作部隊であり、知能を獲得するに従い、凶悪化していく獣だったのです。
むろん私もその遺伝子を受け継いでいますし、認識欠如の症状を呈して、悪しき業態に就いていました。内心はこんな世の中、絶対よくないと思いながらも、人間関係の中にあると、そんなことは二の次になってしまったのです。
工業系企業はほとんどが邪悪です。しかし、お金を得なくては暮らしていけないからと、目を瞑らされてきたのです。
今でも大人口を抱える大企業は、彼らにお金を分け与える機関ゆえ、彼らの間では善良とされていますが、”合理化”による思い込みにすぎません。絶対的には極悪です。
地球の大地を支えてきた国津神たちはことごとく邪神たちの封印に遭って、メンテ要員となってきた経緯ですが、このたび封印を我々が解いており、順次故郷帰りを果たされているところと観測します。すべての神はここからいったん撤退して、この世界をたたむことにいたし、その間、邪神たちと人類の残存を皆無にして、もしやり直すのなら無菌状態から励起しなおすこととせねばなりません。
私はそのための最後のご奉公をさせていただく所存です。正神の皆様は、人類の進むべき方向を振り分けていただきたい。故郷に帰らず居残った者たちの魂は、邪神とともに焼却処分といたしますゆえ。
※ 私の創造していく宇宙では、かくのごときでありまして、みなさんの個々が創造するものとは異なるものとお断りしておきます。なお、拙シナリオ通り事態が推移しましても、私ひとりの責任において成就することであり、みなさんとの共有を目的にしたものではありません。被害を受けてはたいへんだとお思いの節には、私の創造宇宙から離れていてくださいますようお願いします。もし同調されるなら、それも可能ですが、自己責任であることを自覚しておいてください。

新神話の主眼

新神話は有情の魂を解放することに主眼がある
神話は世界の始まりから記載される体裁をとる。
新神話もそのように構成しなくてはならず、小説のような技巧を排除して読み物としての魅力を落としながらも、メルヘン調に仕上げている。
読み手はたくさんでなくていい。神界にうまく伝われば、神々の読み手が集合し、それを神楽として舞ってくれるのである。神楽とは神界での神々の上演されている舞台を模したものなのだ。
この場合、巫女資質の人が読むことが最も効果的となるのも、神々に伝えやすいからだ。
今回は巫女さんたちをもっぱらの読者とし、巫女でもある奥津嶋姫弁才天の化身が読んでくれたため、好意する神々の間で広まり、旧神話を凌駕するほどにまで発展したのであり、この巫女さんたちや化身さんは新神話工作員としても果敢に活躍し、同時に宣伝もこなしてくれるという獅子奮迅の働きをしてくれたことになる。
化身さんは、本体(ハイラーキー)が弁天様であることがわかっている。しかし、新神話中ではさまざまな神々を併せ演じていて、中でも海神の娘、乙姫(豊玉姫)の性格は強く出ていて、顕現は龍であるとともに亀である。
大過去において封神されたときに、国津神の中でもきつい(呪詛が解けにくい)部類の”かごめ”の中に魂が封じられていて、彼女のオーブ(魂の形)はもとより六角形だ。
スサノヲ、大国主系の神々はみなそうで、出雲系神社のご神紋が縦長の六角なのは、彼らの魂の形だからである。
これは天神に逆らえないように、結界に封ずる処置が施されていたのだ。
その効果は、三次元的行動が比較的自由なるも、精神的に閉ざされた環境に置かれることとして現れる。それが彼女の現世に反映して、人から見れば羨望されるほどであっても、精神的には孤立感、空虚感の中に置かれることが常だった。それは池や湖の中に孤立して佇む弁天様の精神環境と同様である。
私は1997年頃、思いもよらず、弁天様に恋してしまった。あろうことか、求婚までしてしまった。
このことが機縁になったとしか思いようがない。それまでに天に対してしていた、人並みのこともできないこんな面白くない人生、50年で終わらせてくれ、そして金輪際再びこんな世界に生まれさせないでくれ、という一方的契約を、弁天様の化身が満50になる直前日に関わることによって、契約自体が無効になってしまったことになる。
天はいとも簡単に、契約を笑い飛ばしてしまったのだ。
当の弁天様からすれば、彼女の願いを叶えるべき人間を見つけたことになるのかも知れない。ちょうど、かぐや姫が四人の求婚者に難題を与えてみごとクリアーすれば結婚を叶えるといった話に似て、私は弁天様の不遇ばかりか、国津神たち、さらにはこの局限宇宙に閉じ込められた全有情の不合理な状態の解決を図る使命を与えられたように思われる。
私が50歳以降にもらった命は、唯一このためだけに捧げられなくてはならない。
うまくいけば、私は果報者になる。が、うまくいかなければ・・・またぞろ、こんなくだらない世界にやってこねばならぬのだろうか。いいや、そのときは魂を消し去ってもらうことを改めて私は希望する。かつてしたように何度でも一方的契約を取り付けるだけだ。
魂からの解放が新神話の主眼
新神話のことをしばしば話題に出すが、その効果によって世界が平和裏に回復していくことを想像されている向きには失望となろう。
新神話の目的は、全有情をこの宇宙から解放することにある。この宇宙は高々ゲーム空間に過ぎない。ゲームに凝っている人々は多くいるが、もともとゲームの世界なのにさらにまたゲームに興じようという、夢のまた夢に遊んでいるに等しい。
いや、突き詰めれば、私以外はみなダミーなのだから、私だけ解放されて全有情の解放が併せて行える。私がゲーム空間に関わらなければ、もとよりこの世界および有情はないに等しいのだから、という原理的帰結となる。それが通用するのが、この怪しげなる世界の実像なのだ。
別の視点からすれば、有情はこのゲーム空間に関わるために、魂という殻をかぶってこの世のどこかに視座を移しにやってくる。
魂があるから、この世界の観測ができる。ゲーム空間に遊ぶ参加資格を得ているのだ。逆に言えば、魂を返上すればゲーム空間とは縁が切れる。だから、誰でも嫌になれば、本心から一方的にでいいから解約すればいい。重ねて言うが、本心からでなくてはならない。ここの胴元にはそれを拒否する権限はない。
ところが不思議なことに、特に人間は永遠の命を希ってやまない。何十回目かに、うまくすれば、思い通りの人生が営めるとでも思っているようだ。だから、魂が永遠不滅と聞いて喜ぶ。魂がすべての苦悩の源泉であることを理解できていないのも、本能的に生き続けることを願うように作られているからであり、死に際しては激しい苦痛という関門を通過しなくてはならないことがあり、死という事象以降の話が隠されているから不安と恐怖を催すからであり、また生存を自然で最善の選択であるかのように説諭する先達がたくさん居るからである。
ところが、真相は霧中の中に隠蔽されているにすぎない。また、真相をあえて隠そうとするのが、ゲームサーバー側だ。ゲームサーバーは、何とかこの世界から有情を抜け出せないように仕組んでいる。さまざまな真新しいソフトを提示して、射幸心をあおる。その麻薬が切れ始めたら、今度は負債を負わせて支払いが済むまで引き伸ばそうとする。
新神話では、そのような捕り篭められ、洗脳された有情たちが、このゲーム世界存続のためのいわば「人間の盾」として使われていると規定している。
また新神話では、魂の良さを吹聴する者たちの多くが邪神に操られているとしている。聖者たちがそれをいいもののように説いているわけだが、彼らほど嘘をまことしやかに話す者はいない。この宇宙は今目下、邪神の支配下にあるから、日和見の聖者たちは邪神の利益のために話しているのである。加えて、ピラミッドの上位は居心地がいい。下位でどんなに苦悩していようが半ば放置していることが邪神の意向に沿うことゆえ、あえて何も講じようとはしない。
そこはカーストの仕組みでできている。新参者は底辺から一歩一歩上に上がっていくことを要求される。日和見殿たちは、上から見下ろして、ただ教訓を垂れていればいいのだ。それで本領安堵されるのだから、現今の資本主義社会の搾取構造となんら変わるものではない。地にもある如くが天にも、また途中にも然りの相似像となっている。
また、カルマの制度を作ったのは邪神であり、ゲームを面白くするために功過の点数制度を作ったのだ。負債があれば、それを清算するまでゲームから抜け出せないというルールが、有情をゲーム世界に閉じ込めることに使われる。ちょうど、賭け事にのめりこんだ顧客が、なんだかんだいちゃもんつけられて、賭場から出られなくされているに等しい。
もとよりそのようなルール作りは違法(梵の全系の法則に違反)なのだから、どんなに負債があろうが、「もう終わる」の一言で事足りるのだが、まじめな有情たちはルールを何とか守ろうとする。犯罪者心理のようなものが有情には植えつけられているのだ。それが原罪意識というものだ。
こうして、ほんとうにゲーム好きな者と、嫌々ながらも負債の清算のために居残っている者で、この世界はひしめき合っているというのが真相である。
今回の新神話は、このようなさまざまな立場の者(有情)を強制的にも梵の全系に復帰せしめて、自らの故郷を確認させることに主眼がある。そのためにはこの宇宙が元の創造者によって接収されなくてはならない。このために、邪神の駆除の工程が必要となり、さらに害毒の除去までがなされることとなる。
邪神による病態の再発を招かないためには廃絶がなされるべきである。だが、教育上の観点から博物化されて随時体験の要求に応ずることもありうるわけだ。
ゲーム空間の廃止あるいは監督強化に伴って、有情の中に利害のもつれが生ずるに違いない。この流れを食い止めようと、かつては悪霊が戦いを挑んできたこともあったし、今でもすでに妨害の手はいくつも私の身辺に伸びてきている。人間の身に生まれては、現実問題に時間を割かれねばならないが、邪神はその隙を突いてくる。
それによって死が私の任務遂行を妨害するとき、邪神による陰謀死として認識され、最大の怒りを以て最終処理の課程に入ることができる。私はこの一身に代えて、容赦なくこのゲーム世界のクリーニング焼却を行う。それが新神話シナリオの最終仕上げ工程となる。過度に働けば、ゲーム世界どころか、ハードまで焼ききってしまうだろう。すると梵の見た夢も終了することになる。
現在、新神話は有効に機能している
新神話の働きで、新時代がすでにやってきている。神界がまず正神の執政下に置かれ、やや遅れて下界に新時代の波が押し寄せる。ただし、黄金楽土となるのは、当初はこの宇宙においてではない。
いまは、上下の差別や権威に拘泥しない純粋な心の神霊や精霊たちから順次、魂の殻を解消して、梵の全系に復帰しつつある。そこが元々あった黄金郷である。
しかしこれは、邪神どもにとっては、痛い誤算だ。ゲームを支える要員が数を減らすことで、人質も少なくなる勘定だからだ。
自然界の神々や精霊が下界からしだいにいなくなることにより、自然界の守りが薄くなり、ひとりでに天変地異が多発し、生態系は滅びに瀕するようになり、いっそう有情の撤退は加速する。ホピのいうコヤニスカッチの事態が鮮明になり、大規模な天変地異で、地球上は荒廃することになろう。
その前に、人類は互いに絶滅させあうことだろう。なぜなら、人類すなわち人間は、邪神の計画によって送り込まれた生態系破壊因子だからである。これによって邪神の思惑どおりとなるわけだが、ところが、それは邪神ら自らの滅びを意味していることでもある。それににうすうす感づいて、今頃パッチ作業をしているようなことだ。しかし、たいした延命策とはならない。
しかし邪神たちが焼却処分になるときには、苦しみを与えた分の苦しみを受けて悶絶することになるだけであって、彼らの魂は消去され、梵の全系は意識原理を回収することだろう。それは強制されてする解脱である。私も自らの願いとしてそうなることを望む。
昨年には化身さんが魂を解消して、ゲーム空間を去られた。梵の全系へと復帰されたのだ。それを希われての解脱という。そこから次にどのような行動をされるかは、梵天様と相計ってのことになろう。私のもとには、女郎蜘蛛として視察に来られたことはすでに述べたことである。
私も適当な時期に行かねばならない。まず肉体を去り、神界で邪神焼却作戦を遂行する。それが終わって後、わが身を焼却する。そして魂を解消し、金輪際、ゲーム世界とまみえることはない。

メルヘンの功

新時代とは
私は、パラダイムシフトと言われるものは、新時代を前提にしたものであると思っています。
そこでは旧来の法則のすべてが改変されるべきものだとも思います。旧弊はそこで濾し取られねばなりません。
カルマや因縁を説く霊大国と言われたインド国内の貧富やカーストのもたらす問題が、何一つ解決できないでいる現状。これをあたかも、学習過程にいる霊魂たちへの恩寵システムのように言う聖者もいるようです。では、その学習とは何ぞや。これを詳述した話にはお目にかかったことはまずありません。愛の拡大のため、魂の能力の拡大のためと、旧体制の弁解説を出される方もありますが、ではその拡大された先の愛とは、あるいは拡大した魂の能力とはどのようなものなのか、理解できているのでしょうか。
はるか宇宙の彼方に意識を飛ばすことができるようになったことを、霊的能力向上というなら、笑ってしまいます。高次元世界を旅できるという話も同様です。愛にいたってはさっぱりわからんでしょう。聖者たちは言葉だけ独り歩きさせて、煙に巻いているのです。
私はそれらをカーストを存続させるためにまことしやかに意味づけされた詭弁と申したいのです。学習システムなのではなく、実態は監獄制度でしょうと。その上に胡坐をかいてのさばる伝説上あるいは実在を含めて聖者とは、いわば監獄の中の牢名主のようなものです。我はここまで修行してきたから、この位階にいる、ピラミッドの上位に居ることに安住しているのです。当然、その地位と権力を手放したくなく、この体制をぐらつかせる者の存在をうとましく思い、改革者を妨害さえします。
しかし、私に言わせれば、彼らがそこに居続ける限り、カーストと差別相は存在し続けるわけなので、旧来の監獄体制を強化し加担する邪魔者でしかありません。こちら側を正神とすれば、彼らは邪神の一味であり、邪神の作った旧態システムの護持者であるのみですから、戦いあらば殲滅の対象になります。
人々がもしも新時代を真に望むのなら、旧時代の体制を心底から拒否すべきであり、それができないなら、その理由を考えてみるべきです。何らかの処罰への恐れとかによるものなら、そのあたりへの呪縛にひっかかっているのです。
自ら理想とするものを掲げましょう。こうあればいいと思う世界をイメージすればいいのです。ほとんどの人が理想状態をイメージできていないから、新時代到来が見えてきていないのです。新時代のプロトタイプはいくつも出されてきています。イメージしにくかったら、そのいずれかに合流しましょう。
むろん旧体制の延長上にしか理想を描けない御仁もおいででしょう。その方たちは、自由意志でそれを選ぶのですから尊重されねばなりません。存続可能な旧システムの時空のどこかに彼らの経験されるべき世界として存続するでしょう。タイターさんなどは、そちらのほうから来ていたかも知れませんね。自力で転生を重ね、所期の目的を達していただきたい。
私の理想とする新時代は、旧宇宙という幻術世界から脱却したところにあります。誰しもの故郷とも言うべきところです。そこではすべての善が存在し、見渡す限り知恵の宝庫です。ゲームにほとほと疲れた人たちが戻るべき永遠の憩いの場となっています。というより、我々が元いた世界と言えば言足りるでしょう。
旧世界が懐かしいなら、そこでゲームに再トライするかどうか、検討されたらいい。あるいは体験版として、数回ぐらいトライするのもOKです。しっかりとしたガイド付ですから、行程が安全に計らわれるに加え、ゲームオーバーに際しても、閻魔と評議衆のお決まりの裁判手続きの際に有能な神の弁護士がつき、下手な転生契約をさせられたりせずに済むでしょう。人間転生の生と死を含めた一連の出来事は、こうした形でも学べることが理解されると思います。
神話とは
私は伊勢神宮の神には異議を持っています。今の伊勢の神は贋物と言い切ります。夜明けがきていないとしながら、どうして太陽神がまともに存在するのでしょうか。贋物をいくら拝しても、夜明けにはなりません。本物を据えてこそなのですが、秘教の五ぼう星結界の先にあるような場所に、本物が据えられたいと願うでしょうか。それはまたぞろ、秘教の監督下に置かれるようなものですから、太陽神のほうが拒否されるでしょう。
では誰が今の伊勢に居座って太陽神だと偽っているのでしょう。それは瀬織津姫さまです。またの名を八十禍津日さまといい、イザナギが新時代に脱出したときに、付着していた穢れの神であり、いと穢き世にいたものだと、川の水で流し去られている神なのです。セオリツ=流れを折って澱みを作る意味、ヤソマガツヒ=長期間のわざわいの日々という意味で、元の太陽神(男神)が幽閉されてから、同じ位階に君臨した女神です。エジプト神話のオシリス(兄)とセト(弟)の物語としても伝えられています。それを言うなら、弟のスサノヲが該当し、太陽神の幽閉の直因としての記述ですが、女神アマテラスに反抗したという時点ですでに、一段階の改ざんが含まれているわけです。
むろん、この女神はクーデターを起こした邪神たちが擁立した主宰神であり、以後、あらゆる伝説の改ざんがなされるに至っています。しかし伝承の矛盾は散見され、研究者の注目しているところでもあります。古事記は矛盾の顕著な例でしょう。ホツマは系統において正確を期しつつも、筋書きにおいて改ざんしています。が、矛盾をわざと見つけやすくしている感もあるほどの探偵向け文献です。
改ざんが見つかるような神話をどうしてわざわざ残したのでしょう。伝承を抹殺し、新たな伝承に置き換えたらいいもののようですが、実際そうした神話もあります。それが聖書です。しかし、日本神話は改ざんで応えました。それは、先住民の神々の祟りが怖かったからです。そのため、太古神の旧い名前をある程度とどめながら、新参の神々の下に封じることで対応したのです。
というのも、神話は、歴史を誘導するために必要だったのです。それを陰からするのが秘教組織です。彼らはこの神話誘導の仕組みを新設した邪悪な神によってあらかじめ原理を教えられており、歴史の黎明期に神話構築をやりました。文明の開始から終了までの歴史のシナリオをその中にこめることが起用の条件になっています。そして、思うように行っていない場合は、わざと神話に盛られた兆候を現出するようなことまでしています。すると、続くシナリオのステップが誘導されて出てくるというわけです。
ならば、対抗手段として、神話の置き換えをすればいいという話になります。大衆読み物となった聖書や古事記に対して果たして敵うのか。それが敵うのです。
私は50を越える期間を余禄の期間としていただき、正神復活のために新神話を書かせていただきました。ひとえに、この役割のためと心得ております。思えば40半ばにして、不正義が正義面して横行する様をあきあきするほど見てきて、面白くもないので人生50年で終わらせ、転生は金輪際願い下げと、私をここに登場させた神に願い、魂が転生の因なら、魂を消し去ってくれとまで申し立てたようなわけでした。
だから我が神が、凝縮された面白さの余禄として下賜くださったものと理解し、この期間どんなに暴れ者ぶりをさらけ出し、どんな結果になろうとも、成功しても失敗しても、元の羅城門の前に立てばよしの思いで日々いたっております。我が神がまさしく実在されていることを、数々の奇跡を通して確認できたことだけでも、大成果と言えるのです。
そして、ありがたくも新神話の功なって、幽閉あるいは封印されていた正神諸神の救出が神界において叶い、これに注力してくれた協力者もみごと活躍を果たされ、いちおうの首尾を見届ける段にまでなっております。
旧世界に閉じ込められていた一寸の有情の魂すらも、元あった故郷に返すこと。それが新神話の目指すところです。
太陽神はあちらではすでに復活されています。夜明けがきています。こちらに現れるのは、もう明日あさってのこととなっています。
あとは、各自がイメージでそれを引き寄せ、獲得していただければいいだけです。イメージ乏しい生まれをした有情たちは、正神たちが元世界に連れ帰ることでしょう。
私がイメージするのは、ほとんどの有情の元の故郷への復帰です。その効果が出ていて、すでに植物の精霊や国津神たちがまず率先して元世界に去っています。各所からオーブ(魂の殻)解体の写真として、私の手元に集まってきているのです。その他にも今後、随所で情報が入ってくることでしょう。
私はこの世に不公平かつ不条理な人為的仕組みが存在する状態での存続はまったく望んでいません。カーストの存在することは絶対に容認できないのです。
よって、この一見、文明の最高潮と錯覚させている現代文明が崩壊してなくなることが、この世において迎える新時代のあり方でなくてはなりません。