六甲山UFO酒場


六甲山にはUFO酒場がある。
彼らはどこからともなくやってきて、
この酒場を交流の場にしているんだ。
異種族が主義思想の隔たりなく出会い、
最後は、音楽に合わせて踊り始める。
地の果てで、こんな光景が見られるのは
六甲山ぐらいのものだろう。

六甲山UFO酒場

作詞、作曲/森野奥人

歌詞

(1)

空を見上げりゃ
光が見える
UFO通りに
灯がともる
ここは六甲
地の果てよ
怖いもの見たさで
やってくる
ハァーハァー
出てきてください
UFOさん

(2)

君はどこ行く
六甲山がいいわ
UFO酒場が
あるんだよ
そこは異国の
ふんいきで
仮装姿で
踊ってる
ねえーねえー
一緒に踊ろう
宇宙ダンス

(3)

地球よいとこ
一度はおいで
UFOさんには
来てほしい
やがて地球も
正されて
宇宙文明の
仲間入り
あらーまあー
宇宙旅行も
夢じゃない

(さあーみんなー
アンドロメダに
行きましょう)

Copyright(C)2004

HP版はこちらです
https://rainbow.xn--kss37ofhp58n.jp/watch/ufo_rokko.htm

UFOビデオ撮影クラブ(1994~2005)の当時の懐かしいUFO撮影写真コレクションを紹介します。

虫型UFOもある
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/20021027-2.htm
魔法使いか矢印か
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/2003-4_2.htm
満天の白球UFO(スフィアビーイング?)
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/s-ufo/stellarchild.htm
これが放送されました
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/tv/fuji-tv/choijinden.htm
スカイフィッシュのほうも
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/tv/mystery-c/mu-mystery.htm
ロケ後に三角UFOが写り、放映日に武良氏の逆三角UFO映像が使われることを予告
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/20040619.htm
その日は「UFOの日」の取材ロケ日でした
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/tv/nihon-tv/nannohi.htm
まさかの神霊系UFO(シャチ)が撮れるとは
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/anime1/shachi.htm
上のHPがもとで、次のようなことに
https://rainbow.悠遊夢想.jp/general/tv/tbs/akko.htm

2004年はクラブの全盛期だったかも知れません。

ご当地UFOソング

ご当地UFOソング

《歌詞》

《・・・・・前奏・・・・・》

UFOさんとは言うけれど、いったいあなたは誰ですか。
空ゆく鳥も怖じさせず、見ようとすれど姿なし。
音もせぬならなぜ映る(なぜ映る)。
ホンにあなたは屁のような(屁のような)。
残り香だけでも嗅がせてよ。

《・・・・・・・・間奏・・・・・・・・》

雲の中におわすのか。山の彼方にお住まいか。
やはり宇宙がふる里か。それとも心におわすのか。
驚き映像イリュージョン(イリュージョン)。
謎は尽きねど 一つだけ(一つだけ)、
言えるは我らの想いかも。

《・・・・・・・・間奏・・・・・・・・》

この世に謎は尽きぬもの。じかに見せられ試すなら、
おかしな世界もそこにある。想ってみれば本当は、
うつつが夢ではなかろうか(そうかもね)。
UFOにピントあわすとき(あわそうか)、
辺りは縄文の故郷なれ。

《・・・後奏・・・96年8月29日作詞作曲(By OKUND) 》

質問::UFOの歌としては、ずいぶん泥臭い気がするんですが。

お答え:私には、UFOが宇宙から来たものというよりむしろ大地の底から沸き上がってくる力のような気がしてるんです。UFOとは、誰か人間が作ったものでなければならないというのは寂しい気がします。UFOは、地球という大地を通じて、宇宙のあらゆる星と繋がりを付ける伝令的存在なんじゃないですか。

質問2:縄文の故郷とは、何かの思いこみがあるのでしょうか。

お答え:縄文の時代の人は、自然の流れの中で生きていたといいます。彼らは大地の営みと共にあり、宇宙の営みとも共にあったと思われます。自然界のすべての命がそうであるときに、いつしか人間だけが浮いた存在になってしまったようです。高度な知性を持つようになったから、そうなったといいますが、果たしてそうなのでしょうか。高度な知性があれば、悟性に基づく抑制が働き、先の先を読み、読み誤らない判断が生まれるはずです。無分別な富と権勢の伸長の歴史。結局、我々の歴史は、こうした知性に依らないものによって作られてきたというしかありません。縄文時代に、もし権勢を誇張しようという意図があれば、偶像的遺物がたくさん出てきて、彼らの歴史がもっと鮮明にもなったはずですが、偉大なことに、彼らは慎ましやかであった。偶像を必要とせぬほどに、目の前にある生活に満足していた。だから高く評価されるべきと思うのです。

発想の根拠になったUFO現象とは

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これは1994年10月9日に兵庫県高砂市石の宝殿の一枚岩の頂上で西の山並みを撮影していたときに偶然撮られた瞬間的映像のコマ送りした写真をグレー化して明度を落とし合成したものです。
詳細は ⇒ UFO撮影同道記 をご覧になってください。

アニメにして説明を施しました。
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時間経過と事象
経過時刻(単位:秒) 発生事象 その他気がついたこと
・・0 M氏が大くしゃみ(音声) くしゃみの音に関わらず、カラスが乱舞していた
・14 上に掲載のアクロバットUFOの通過 カラスがいったん山の付近から消えた直後のことだった
・29 クリスタル型UFOが山上に出現(発進) このときもカラスの乱舞が収まった直後
・30 山陰から高速UFOのニアミス(全4コマ) この高速UFOは3コマ目から2つに分裂した
・34--・36 クリスタル型UFOが滞空 滞空解除後、進行方向に若干頭を傾けた感あり
・45 クリスタル型、画面右上方に去る 第1回目のクリスタル型UFOの出現時間は16秒間だった
・80 クリスタル型UFO画面左上から出現 右方向へ懸垂線を描くように飛行
・86 同UFO画面右上に去る 第2回目のクリスタル型UFOの出現時間は6秒間
125 クリスタル型UFO画面右上から出現 左方向へ懸垂線を描くように飛行
129 同UFO画面左上に去る 第3回目のクリスタル型UFOの出現時間は4秒間
合計1分55秒 ・・ ・・

★★★

M氏と共に、石の宝殿の一枚岩でできた裏山に登って、西の山並みを撮影中に、この映像が得られている。M氏は別の方向を撮っていて、同じものは撮れなかったが、氏のアドバイスで場所の設定をし、ほぼとなりあわせにいた氏が大くしゃみをしたことが、不思議タイムの皮切りになったことは紛れもないことである。
装備はシャープマイビデオVC-320Sと小西六カメラCV-300のセットと三脚、そして12Vが得られるカーバッテリーを持ち運びやすくキャリァーにくくりつけたもので、両手の重量に息を切らせて登ったのだった。UFOは、この異形の装備に驚き喜んだのかも知れない。
背景の西方の山というのは、石灰岩の採掘で破壊され、このような峻険な形になったものと思われる。これをUFOが遊び場にしているかのようだった。やがて採掘の末、山がなくなるとしたら、彼らはどうするのだろう。まあ、そのようなこととは無関係に彼らは無邪気だった。
M氏は、こうした現象を遙か前から知って、孤軍奮闘していたのである。この一連の映像は、氏の長年の数多ある撮影実績の根拠の正当性を応援するものである。しかしながら映像はあまりにも淡いシルエットとしてしか映っていない。プロの方には撮り下ろしの本物のUFOをぜひご覧になって、真実の姿を味わっていただきたいと思う。
(以上は1996年の記事から)

ところが、残念ながら、いまだかつてオリジナルのビデオを見たいと言ってくる御人は皆無であった。

さて、そんなとき、石の宝殿の撮影場所に、霊視能力者を伴なって先日登ってみた。能力者の女性二人は、それぞれ、この地に古来から土着している精霊を目視した。それは、ちょうど”たがめ”のような格好の生き物(普通人の目には見えぬ精霊)であり、その姿を描いてくれた。それはまさに、M氏がよく撮影する不定形な円盤型UFOの姿そのものであった。あのときのクリスタルUFOとは似ているようで異質の感があった。
霊能者は自発的に、テレパシーでコミュニケートして彼らに事情を聞いたようだ。
そして、このような今にもなくなってしまいそうな土地にしがみついていなくてはならない者たちの悲哀を知り、考えさせられて、しばらく落ち込んだという。

”千と千尋の神隠し”的な世界が、いまでも存在していることは確かである。
(赤記は2002年の記事)

太陽と月の神話

太陽と月の神話

曲名
アラディア

作詞作曲 
森野奥人・G氏


歌詞

1番

時は流れ
日々はすぎて
雲立つ空よ
風は巻いて
木の葉散らし
影立つ君よ

まだ見ぬ人よ
私の胸に
灯りを点して
去った人

ああ今日会うのね
限りある命に
ようやく巡ってきた
この時

ああ、これも青春
年を経た青春

2番

ネットの海
小船浮かべ
ただ待ちました
行過ぎるは
冷たい風
凍える心

待ち続けても
帰らぬ人と
思い固めて
幾年月

ああ今日会うのね
限りある命に
ようやく巡ってきた
この時

ああ、これも青春
年を経た青春

(リーランドの伝えた)「アラディアもしくは魔女の福音書」に書かれている神話によると、主神はディアナと呼ばれるグレートマザー、大いなる女神である。ディアナは「あらゆる創造の以前に最初に創造され」、「彼女の内に全てがあった」という。やがて彼女は自分の内から光と闇を分化させた。光がルシファーで、彼女の兄弟であり息子である。
そして、彼女自身は内部に闇の部分を保有した。注意すべきは、この「闇」は悪ではない。むしろ、陰と陽のそれに近い、相互補完的な観念と唱えるべきだ。

 ディアナとルシファーは万物を生み出すものとなった。
 そして、光と闇は分化したままではなかった。「光を掲げる者」のルシファーは地上に落ちたが、ディアナは彼と再び一緒になろうとする。ルシファーは地上の生命の中でも最も美しい「猫」を愛していたので、ディアナは猫に化身し、彼と交わった。こうして生まれたのが、アラディアである。
 
ディアナが猫に化けていたことを知ったルシファーは怒り心頭となる。そこでディアナはアラディアと相談し、ルシファーをなだめる歌を作って歌うことにより、ルシファーの怒りを鎮めたという。

G氏は、そのときのディアナとアラディアを夢見たようだと言った。
いま流れている曲は、G氏の夢の中に出てきた古いイタリア風の二人の魔女の、音律のない言葉だけの歌の記憶を再現した曲である。彼は、いま伴奏に流れるドシドレシラ・・・・・と唱える魔女たちの発する言葉を夢の中から記憶して持ち帰り、私・奥人のところに訪ねてくれたので、それをDTMで再現し、それに似合いそうな曲と歌詞をつけてみたものである。

 原始信仰におけるルシファーは、輝ける者、太陽のことだった。ディアナはその配偶者で月であり、生まれたのが魔女のルーツ的神格アラディアという構図である。
そこにキリスト教が入ってきてこの旧概念を排斥し弾圧し、魔女狩りなどへと発展していった。
ルシファーは太陽の座をキリストに奪われ、金星へと強制的に退去させられて、僭越な光を放つ者と貶められた。つまり神々の世界における世界共通の原初神引退神話がここにも存在しているのである。
 キリスト教にしてみれば、土着の宗教神話は排斥されるべきものであり、いきおいルシファーは堕天使からさらに悪魔にされ、その妻や娘は魔女とされたわけである。

・・・やがて地上に人間が増えると貧富の差が生じ、富める者は貧しい者を虐げ残酷に扱った。富める者とはキリスト教徒であり、貧しい者とはペイガン(異教徒)である。貧しい者(ペイガン)達は都会を追われ、田舎へと居住する。
 この状況に心を痛めたディアナは、娘のアラディアを地上へと送り込む。こうしてアラディアは、「最初の魔女」となった。彼女は抑圧される貧しい者(ペイガン)達に魔女術を教えた。彼女は貧しい者(ペイガン)には保護者となり、富める者(キリスト教徒)には恐るべき復讐者として働いた。
 やがて、アラディアは天に帰らなければならなくなる。この時、アラディアはペイガン達に伝える。もし困ったことがあったら、満月の光の下に生まれたままの姿で集い、大いなる母に救いを求めよ、と。彼女はこれを「ベネベントの遊戯」と呼んだ。
ペイガン達は、この儀式のあと、三日月の形をしたケーキとワインで食事を取る。これはディアナの肉と血、魂を象徴するいわゆる聖餐式である。これこそがサバトであるという。
ここにおいて、「アラディア」では、こうしたサバトは断じて悪魔崇拝の儀式ではなく、被抑圧者の祈りであるとされていることだ。

あるいは・・・ペイガン (pagan) とは 「非キリスト教徒」 や「異教徒」という意味を持ちます。今でこそクリスマスはキリスト教の行事として定着していますが、その起源はキリストの生まれる遥か昔まで遡ります。キリスト教が布教される前のヨーロッパでは、人々は自然の中の神々を信仰していたのですが、彼らはキリスト教の布教につれて、ペイガンと呼ばれて圧迫されるようになって行きました。キリスト教はペイガン達を改宗させるために、ペイガンのお祭りをキリスト教の中に取り入れて行きました。季節ごとに自然の中の神々を祭るペイガンにとってのクリスマスは、もともとは冬至のお祭りでした。
太陽の照る時間が最も短くなるこの日、ペイガン達は、火をともして太陽の復活を祈り、常緑樹を飾って来たる春の豊作を願ったのです。常緑樹の枝や粘土で作った人形をプレゼントし合ったりする慣習もありました。
キリスト教はこうしたペイガンの慣習を取り入れつつ、この日をイエス・キリストの生まれた日として祝うことにしたのです。 キリスト教のもうひとつの大きな祝祭であるイースター(復活祭)も、もともとはペイガンの春分を祝うお祭りでした。

私は、毎年鞍馬で行なわれるウエサク祭(満月祭)のルーツに、アラディアの提案「ベネベントの遊戯」が存在するのではないかと思っている。鞍馬に祀られるのは金星王サナートクマラであり、いったん僭越な光を放つ者として貶され金星に退去させられたルシファーのことでもあると推理している。

月を体現すると言って去っていった女性が作った神話がある。それが次である。

悠久の昔、空には一つの大きな太陽と、七つの月があった。太陽は月を愛し、月たちは太陽にあこがれ一緒に昇るので、昼はまぶし過ぎ、地面は熱に焼け焦げ、夜は無明暗黒の凍結地獄。せっかく生まれたばかりの植物や、動物たちは、どこまでも広がる砂漠のなかで死に絶えていった。
見るに見かねた太陽は、「創られた者たちを守りたい、どうか私に近寄らないでおくれ。」と月たちに頼んだ。
ところが、太陽に嫌われたと誤解した月たちは、われさきにと自分を競い、手練手管で太陽に迫った。月の色香に迷った太陽は月を抱き締めようとしてぶつかり、大爆発を引き起こした。暦はそのたびに書き換えられ、歴史は消えていった。

最後に残った月は言った。
「あなたと一つになりたいわ。でもわたしがあなたになってしまったら、たった一人でこの空を照らし続けなくてはなりません。どうしてそんな孤独に耐えられましょう。それにもしわたしが消えてしまったら、弱き愚かな者たちに真の闇が訪れてしまいます。」
 彼女は夜の国に去っていった。別れのしるしに、彼女は小さなからだをもらった。旅がはじまりそしてそれは果てることなく続いた。雪は彼女を閉じ込め、闇は傷つけた。しかし彼女は祈り続けた。決して自分自身は見ることの無い、夜明け、太陽の光が生きとしいける者たちに降り注ぐときの訪れを。