人の認識のシステムに関する仮説

これは人の認識に関するひとつの仮説です。
[UFOを「見る」「見ない」の違いとは]
UFOを「見る」人と「見ない」人の違いはどこから生まれるのか。
前に坂本氏の目撃しながら撮ったというUFOデーターを見て、これほどの数のUFOが出ているなら、神戸市民のかなりの人が見ているだろうと期待しました。
ところが、そのような話は一つとしてありませんでした。
では、彼が見たというのは嘘だったのか? そんなわけはありません。
UFOの写るビデオテープは先頭から六甲山系の上空に向けて、時折の山や周囲の景色に向きを変えるカメラアクションをまじえながら一連なりに撮り続けられているものの中にあります。
CGか何かで映像を差し込んだなどということもありませんし、そのようなことを実現する技術も能力も持ち合わせておりません。
また、我々のクラブに参加されたYさんは、このUFOデーターの流された我々の出演番組を見て参加されるようになられた方ですが、昭和51年を中心に数にして何十万機というUFOを見たと言われる人物です。
UFOがそれこそ満天に大量出現し、千変万化の湧出劇を繰り広げている様を、約三ヶ月に渡って目撃しておられたといいます。
しかし、家族や友人にその出現しているまさにその場を見せても、誰の目にも見えなかったというのです。
カメラという手段を思いつく前に、誰に言っても仕方ないという思いから、UFOを無視するようにしてしまわれたことが心残りのようで、分かってくれる人を求めて、我々のクラブの門を叩かれたのでした。
なぜ、UFOが特定の人だけに見えて、その他の人に見えないのか。
この点をクリアーにしておくことは、我々のクラブにとっても、非常に重要なことです。
人間についてもう少し掘り下げることで、分かってくることはないのか、と思っていた矢先、坂本氏から決定的手がかりと思える話を聞いたわけでした。
それは、彼が通常時において、昏睡時の脳波波形をしているという話です。
過去五ヶ所の病院において脳波測定をされたそうで、どこにおいても、これで生活できているのかと驚嘆されたそうです。
ネットで調べましたら、デルタ波は瞑想の熟達者に見られる場合があるとのこと。
確かに彼は日々座禅の時間を設けておられます。
また、生来の行者であるとご自身言われており、超次元的な武勇伝に富んだ人でもあります。
また、Yさんは気功師さんです。この方の傍に座っただけで向いた側の半身が熱くなるとともに、肩こりが半分なくなってしまうほどでした。邪気とか霊気を見ることもできるそうです。
また、私どもがお世話になっているHさんは、ご自身はこうした力をお持ちではないのですが、ご家族が霊の見える霊能資質をお持ちで、こうした環境にいるとどうしてもその謎を解明したいとお考えになるそうです。
ここに集まる者は、みなそれぞれに共通の疑問を抱えているとも言えそうです。
UFOと霊は我々は別物と捉えていますが、霊についても「見る」「見ない」という論議が昔からなされていましたから、トータル的に捉えられる概念が必要である気がしました。
そこで私からひとつの仮説を出そうと思ったしだい。
いま精神医学では脳の機能についてこんなことが分かっています。
言語、論理思考、分析などは左脳が得意とし、これが活性していると脳波はベータ波という細かい振幅のものが支配的になります。
一般的に活動時、覚醒時の人はこの波形のもとにあり、左脳が活躍しています。
いっぽう、空間認識、イメージ、芸術性、直感などは右脳の動きです。
この働きの活発なとき、アルファ波が支配的でありシータ波が混在します。
リラックスとているときや集中しているとき、目を瞑るときアルファ波がよく出ます。
いかに人間にとって、イメージ性豊かな状態にあるとき、くつろげるかが分かります。
深い瞑想状態でシータ波となりデルタ波が出てくるようになります。
坂本さんはちょうどこの状態で日常生活を送っておられるわけです。
こうしたことから、脳内電流の振幅に応じて、機能分化された脳内の部位が優位的に励起され、その他の部位が劣位的に従うといった関係があるように思われます。
[サバンの人の脳にみる人間本来の能力]
11月29日の毎日放送21時からの「人間の脳」のメカニズムの深奥に迫る番組「生命38億年スペシャル・人間とは何だ!?」を見て、さらに思いを巡らせてみました。
脳神経系に障害があることによって、逆に何らかの天才的な能力を発揮するという症状をさして「サバン症候群」と呼ぶそうです。
この番組では、脳梁が欠損しているキム・ピーク氏の才能の分析を通して、我々の脳内でどのようなことが行われているかが推測されていました。
彼は瞬時に任意の日付の曜日あての高速カレンダー計算をやってのけ、見るものすべてを間違わず脳の中に記憶してしまいます。
記憶の貯蔵力は少なくとも3才以降の事柄すべてにわたり、日常見聞きする事柄から、図書館規模の蔵書にいたるまでくまなく暗記し、しかも情報の取り出し時にはそれら情報間の相互の関連が見事に取れているといいます。
また、事故によりそうなった後天性サバンの人の場合は、記憶の力とカレンダー計算する能力が独立したものであることを示しました。
しかも彼は曜日を「(勘で)言い当てる」という言い回しをしています。
キムさんのように脳梁が欠損すれば、右脳と左脳の連携がとれません。
ではキムさんのコンピューター顔負けの演算能力はいったいどこにあるかというと、番組では明確にされませんでしたが、私は直感の座、右脳だと思います。
サバンの人は解答をイメージとして頭の中に湧かせており、彼自身何らかの演算用の公式を頭の中にインプットしたわけではありません。
計算公式が古代からの遺伝によって先天的に原始的脳に築かれているという推測が学者さんから出されていましたが、これには疑問をもちました。
同様にイメージの湧き上がりとして情報が訪れる「遠隔透視」や「テレパシー」などは、脳内だけで説明できる話ではありません。
「遠隔透視」のように外界で起こることを肉体に備わった観測能力を使わずに観測する現象は、何か別のものを仮定せねばならないはずです。
私は、右脳あるいは原始的脳が仲介してさらにアクセスしている未知の何かがあると考えます。
右脳はインスピレーションの受信をもするので、直感脳と言い換えてもいいでしょう。
サバンの人は、直感的にイメージとして正解を得ているのです。
イメージとして湧いた情報が、正しい答えである可能性が高いとすれば、人間は余分な迂回をせずにすむことになります。
ただし、サバンの人のように純粋であり、余計な偏見をいだかなかったら、という条件がつくようです。その偏見とは何か?がこれから論ずる問題なのです。
何ゆえ記憶の質の良し悪しがあるのかについて、ある精神医学者は、サバンの人の脳は見たものを一点の曇りもない鏡のように捉えて記憶の貯蔵庫に運び込んでいるのに対して、一般人は物事を幼い時から培ってきた「既成概念」を通して見るため(たとえばボールを直接に見ているのでなく、ボールという概念で見ているため)正確に記憶され難いという話をしておりました。
また記憶力がいいとは、正確に記憶したものを、すばやく取り出す力が優れていることです。
一般人はキムさんのようにはいきません。記憶と情報取り出しの能率が、脳梁を介しての左脳との情報交換を経て減殺されている可能性があるのです。
番組では、「損なわれている」とか「減殺されている」といった表現は使っていませんでしたが、記憶力の良し悪しが人の優劣をも決めている学歴社会の元においては、このように表現する
のが適当でしょう。人はみな、これを解除する魔法の種をほしがっているわけですから。
しかし、サバンの人の脳は、元来人間の脳とはこういうものだ(った)ということを示しています。
なぜ元来備わった記憶力がクリアーにならないのか。私はこう考えます。
右脳の認識が左脳の回路を経ることによって、培われた「概念」(常識など)によって分析され、取捨選択されて顕在意識の上に最終確認事項として認識されているのではないかと。
これが記憶の錯誤になったりすると考えます。
元来、記憶とは、曇りなく記憶されれば、ちゃんと脳の中にしまいこまれます。
実際、催眠術では直接施術者が被験者の脳に直接働きかければ、その時刻に何があったかの細部まで思い出せることが知られています。
これは最初に左脳の認識のフィルターを通す以前に、どこかの脳か(右脳でしょう)がストレートに記憶していることを意味しています。
ところが、被験者が普通の状態では、思い出せないのです。
左脳という分析脳が記憶を取り出すときに、何か細工をしているわけです。
それを称して、「潜在意識」はけっこう何でも知っている。
潜在意識に働きかければ、みるみる記憶能力が開発されるなどと言っているわけです。
その意味は単純に、左脳の思考回路がいかに邪魔しているかを物語っているわけです。
ほんの隣にある自分の持っている記憶でさえ、認識できないようにしているのが、自分の中に同居している。
矛盾している気はしますが、これはこれなりに重要な機能であることは紛れもありません。
無駄な機能など、人間にはありはしないはずですから。
もっと言うならば、右脳で認識するものと左脳で認識する(認識したがる)ものは違っているのではないかと考えられます。
右脳がストレートな認識とそれによる記憶を促進するものなら、左脳は右脳の無闇な認識と、溢れるほどの記憶の流出を押さえ込もうとする機能があると考えられるからです。
ただし、どちらの認識も自己保存を基本にすえているため、対象の認識はひどい歪曲をされたりはしません。
決定的に違ってくるのは、既成概念の枠にはまらない不可知の対象が現れたときです。
右脳であればストレートに捉えますが、解釈分析の左脳がそれを都合のいいように加工してしまうことがあると考えられます。
このとき、その人が右脳思考に偏っていれば、見たままに捉えやすくなり、左脳思考に偏っていれば、見る対象を別のものに置き換えて認識させたり、見えなくしてしまう(認識されなくしてしまう)こともありうるというわけです。
この仮説のもとになった啓発的な概念は、中南米のシャーマニズムのナワリズムです。
カルロス・カスタネダの呪師シリーズは本邦でも読み親しまれていますが、この中の師匠ドン・ファン・マトゥスの言葉として、「人は一覧表を持っている」というのがあります。
一覧表とは、自分の意識が傷つかないための認識の一覧表、つまり既成概念で培った砦のことで、人は知らず知らずのうちに、見る対象を一覧表と照らし合わせて捉えて認識しているというのです。自分の意識のコントロール下に置くことによって人はようやく安心できる。そこで人類は長年の経験を通して、一覧表の砦に立て篭もることに安住を見出してしまったというのです。
そこでナワリズムの世界に入るには、この一覧表を壊すことから始めるという具合に、弟子であるカスタネダを訓練していくという話なのですが、弟子になる基礎的な資質についても語られています。それは、ある程度の霊能資質というもののようです。
UFO発見のメカニズム
UFOを「見る」「見ない」は、以上の考え方で説明できるかも知れません。
どうなるかと言いますと、視覚に入った情報は、視覚野でいったん像を結びます。
それをまず、右脳が処理して記憶にイメージのままに送り込みます。
ところが左脳に送った段階で、既成概念と照らし合わせて、認識するにまだしも妥当な部類のものは、多少のコメント付けをした上で、顕在意識の上に乗せてしまいます。
得体の知れない動物が目の前を通過したなら、これは狸ではないかといった安心できるコメントを付けてです。こうした反応は、誰しも経験されていることでしょう。
ところが、霊やUFOのように不可知のものが現れたときは、パニックを避けるために、あえて顕在意識の上に上らないようにカットしてしまうというわけです。あるいは、気のせいにしたり、鳥や飛行機と見間違えさせてしまうこともある。
だから、むしろ「見ない人」のほうが、けっこう特殊能力を駆使していることにならないかと思います。
坂本さんのUFO撮影テープは、彼のみが目撃し、見たままにカメラ機材によって捉え得たという事実を示しています。
ならば、どちらがおかしいか、という言い方をするなら、一般人のほうがおかしいのではないか、となるでしょう。
むろんUFOが彼だけに特別見せて撮らせたのだ、といった解釈もできるでしょう。
そのほうが簡便なように思えますが、ではUFOとは何ぞやの話となり、途方もない思索がまたぞろ必要となるでしょう。しかし、この時点では、この奇妙な話も、心理学や精神医学のより一層の発達で解明される問題だと思うのです。
さて、この記事を発信しているのと並行的に、つい先日、Gの嵐の取材ロケ時に出てきた、六甲山ホテル上空の20~30機の球体UFOは、テレビカメラには星のような白色発光体として映っていながら、私の目には薄橙のバルーンのように見えました。
私ももちろん一覧表を持ってます。不可知なものに対する「合理化」精神を持ち合わせているとでも申しますか。(^^; いくらUFOには寛容といえども、この程度だったかと思っているしだいです。
社会脳進化の過程
右脳が自在な認識脳とすれば、左脳は社会脳と言えそうです。
集団の中で折り合いをつけて暮らすには、老若、年功、地位序列、専門非専門などの組織に従う、掟に従うということが要求されます。
チームワークをとるために、元来あった能力をもわざと封じねばならなかったのでしょう。
人類の進化の過程を見るような気がします。
おそらく、脳幹は純粋な観測機能のみであったものが、右脳ができて観測する対象をどう認識するかという機能がついた。この段階までが、たぶん神話に言う人類の黄金時代だったでしょう。
彼らが神の示された全地を見て愛でる役割を持った人々だったのです。
しかし、生めよ増やせよ地に満てよ。その結果、狭い全地に折り合いをつけて暮らす必要性が出てきて、神はもう一段階左脳を付け加えられた。
人々が集団の中で、限られた資源をどう分配するか。
このために適当なところで折り合いをつける社会脳が必要だったというわけです。
いま、私は神がなされたふうに書きましたが、長い何百万年の進化の結果そうなったとお考えになればいいでしょう。
現在では社会脳は、見えないもので証明されないものは認めない、という流れです。
これに従うことによって、人々は安泰に暮らしていると言えるのです。
しかし、なくしたものも多かった・・・と。
[見れども見えずの妙技と、社会脳の醸す閉塞感]
既成概念なしにストレートに対象を捉えることができれば、記憶もスムーズに行き、脳の記憶の貯蔵庫にスムーズにアクセスできる。何と素晴らしく、また難しいことでしょう。
かつて私も、中学の頃は無邪気で、ストレートに先生の話が耳に入っていました。
背筋を伸ばして、いい話だなあと先生の顔を注視して話を聞いていただけで、家で勉強などせずとも、友達とボール投げをしている間に、マンモス学年のトップクラスに行っていました。
記憶力だけで勝ち取った優秀高校への進学でした。
社会で必要になるはずの論理力はありません。今でも。
物憶えの天才とは、物事にレッテルを貼らないで記憶する人のこと。
サバンの人は、徹夜の苦学とか、連想記憶術とか、計算の公式の準備なしに、本来人間に備わっているコンピューター以上の能力の存在を証明しています。
そのスムーズな情報の流れを阻害する要因こそ、培われた「概念」であり、こうあらねばおかしいという意味づけのレッテルであり、個々人のそれぞれで少しずつ異なる「心」だったことになります。
それは決して悪いものではないというのが、現代に暮らす人のあり方となります。
ナワリズム的解釈によると、人はみな一人一人が、外界で生起する様々な出来事に関する「意味づけの一覧表」を持っているということです。
それは彼が未知の事態に直面したときに、とっさに認識を変えるための「合理化」の砦のようなものです。
もしこれがなかったなら、ただちに彼の脳はパニックを起こし、より重要な部分にダメージを被ってしまうことでしょう。
特にこの複雑化した社会に適応するには大事な機能と言えます。
その結果として、思い出したくない記憶を失ったり、直面した対象を自ら認識できる範疇のものに置き換えて認識するといった芸当まで行っていると解釈できます。
すべて、自己の安全を図るための脳の起こす防御機能です。
それが過度に複雑になってしまったのが、現代人の脳。
だから、そこにあるはずのUFOが見えないという不思議も生じるし、それはそうであって差し支えないことです。
しかし、非常に多くの可能性を、手ごろな安住と引き換えにしてしまっているとも言えるのです。
みなさんの脳は本当にそれで満足していますか?
閉塞感に苛まれてはいませんか?
脳は本来の自分を取り戻したがっていませんか?
現代人は、複雑な人間関係、難い仕事やノルマの数々に、現代人の脳は「変換認識」(私の造語)をフル回転させています。つまり、様々な合理化の繰り返しです。
これは自らの純粋な心を偽ることでもあり、いよいよ人は純粋状態から離れていきます。
このようなことが多くなれば、この人の脳は、やがて最も自らを安定的に維持できる認識形態を作り上げ、それ以外のやり方を排除するようになっていきます。
それに社会的に成功したという経験が付加されれば、この生き方しかだめだと思うようになり、年をとるに従い頑固者、偏屈者になっていくわけです。
ところが、人それぞれに経験することが異なるため、それぞれに違う認識形態を作るわけですから、なかなか折り合いのつくものではありません。
心の多様性だけはどうにもならないからです。
自分の持つ認識形態を最善として、それぞれに違うはずの他に対して強制するようなことは、悲劇を生む元となります。
今の社会(世界)は、一律の既成概念を作り出し、画一化を懸命に進めています。
それは社会脳の活動の促進が目的なのでしょうが、今の世界はどう見ても、うまくいっているようには思えません。
相手が人間であるだけに無理だと思うのです。
そのような社会では、脳は反抗するか逃げ出すかのどちらかです。
生理学的な脳は素直ですから、創造性を封じられれば、大脳を持っている意味はないといじけ始めるでしょう。
また、脳はリラックスできないような状態を継続させられたら、自殺を企てるかもしれません。
といっても、欝とかボケとかいった縮退する形でです。
断眠実験をした例を見ましょう。睡眠中の夢を継続的に妨げただけで、白昼夢を見たり精神異常をきたしたりするといいます。
また、一日八時間の睡眠を取れない状態が一週間続けば、三日間断眠実験した脳と同レベルのぼんやり脳になるという実験結果も出ているそうです。
人は眠りを必要とします。目を瞑り、眠りにまさに就こうとするときに、彼の視覚の中には、色彩豊かな幾何学模様が形を失っていく様を見ます。
このときアルファ波からシータ波が支配的となり、右脳が活発化します。
そして夢見の状態となり、現代人はそこで初めて脳を遊ばせることになります。
つまり、現代人は、脳のストレス状態から駆け込むようにして得る、安眠の状態の二極を行ったり来たりしているのです。
そのバランスが崩れたとき、自律神経失調とか精神神経症状なども起きてきます。
もしも、リラックスした脳の状態で仕事が続けられるなら、彼は睡眠など必要としないかもしれませんが、そのような仕事が得られないのも現代社会というものでしょう。
自殺者の増大、ボケや欝病や薬物アルコール依存の増大。キレやすさが原因の凶悪事件の増大。
人生がこれほど面白くなくなった時代もないとお考えの方も多いようです。
すべて、脳の禁断症状ともいえるものかと思います。
かつてありし日の脳が怒っているのかもしれません。
人権とは、肉体の存続に関わるものだけではありません。
意識を持つ個としての尊重、そして自由な創造性の保証があってはじめて人権と言えるのです。
加えて、立場の違い、経験の違い、培った概念の違い、ひいては培った心の違いを互いに認め合うべきことを、新しい精神医学分野の研究は物語っているように思います。
まとめ
余談ばかりになってしまいましたが、私の論じようとしたことは、いたって簡単です。
1. 人はイメージを扱うストレート脳で記憶を正確に簡単に行うことができる。
2. ストレート脳は、見たものを見たままに捉えている。
3. それを顕在意識に安易に上らせない分析脳が存在する。それは社会脳とも言える。
4. 分析脳は、視覚で捉えたはずのものさえ、思考のフィルターをかけて、意識上に像を結ばせない作用をすることがある。それは脳にダメージを与えないための機能である。
5. UFOや霊現象が一般人に見えないのは、分析脳のフィルターでカットしている可能性がある。
以上のようなことを、長々と論じました。
小さい子供は、神様や霊などをよく見たりします。
しかし、長じるにしたがって、その能力は失われていきます。
社会脳が成長して、ストレート脳を凌駕していくことによります。
こうしてその子は、普通の社会人となっていくわけです。
もったいないような気もしますが、仕方ありません。
しかし、稀に資質をそのまま残して長じる人がいることも事実でしょう。
(メルマガ13号の記事から若干の補稿を加え)

随想 宇宙人はや

私が論文「超宇宙の仕組みを考えるモデル概念」を世に出したのは1983年のことである。物理学とはあまりにも乖離していたために、超常物理をためらうことなく扱ってくれる著名な学術団体に依頼したのである。論文が採用されて出されるまでには多少の放置期間もあったようであるが、出された後は、見所があると考えてくれた識者も少なからずあったようだ。
この論文は、古来からある東洋哲学とくにインド哲学で経験的に育まれてきた聖者たちの教えを、理解しやすくするための基礎理論としてモデル化したものであり、続編の随想「死の科学」において霊魂の真相に肉薄することにより、一般に死後の世界や霊魂存続のあいまいな領域に考察を与えながら、その存在を明瞭に学術的に表現できる手法として提示できたつもりであった。だが、残念ながら論の意義を理解してくれるような機関ではなかった。
私はその道に時間をかけておれるだけの専門家ではなかったため、後続する研究者にアイデアを提供できたらの思いだけでいたずらに時間だけが過ぎてしまった。
ところが、2000年に始まる米国の映画「マトリックス」は、もののみごとに拙論の要旨たるものを物語化しており、世界にその脅威が公開されたのである。
むろん拙論が物語「マトリックス」の発想のきっかけになったとは言わない。しかし、いつかは誰かがこのことを言い出すであろうと思っていたことが、よもや映画として登場してこようとは思いもしなかったことであった。もし拙論がアメリカにあれば、異端とはいえ何らかの発明発見にもなったであろうにと思うことしきりであった。
「マトリックス」は東洋哲学的な色彩を帯びたテーマと評価されていた。その反響のすごさは、見る者の共感を呼んだからである。そう。我々が漠然としか抱けなかったところの、世界を裏側から操る機構の存在をあぶり出したからである。古来、どのような聖賢も「空観」によってしか自分を解放できないと、無視する以外に抵抗する手段を持てなかった存在。それを暴露する意表をつくアイデアは、東洋の側からは畏れ多くて永久に出せるはずもなかったであろう。合理的な欧米だからこそ、東洋思想の不可触領域に踏み込むことができたのではないだろうか。
それより二十数年を遡る昔、私はその原理を説いていた。少なくとも、そう自負している。
論文「超宇宙の仕組みを考えるモデル概念」の論点は、存在のすべてがプログラム(マトリックス)であることを論じ、それを前提にした観測者を中心プロセッサとする相対論的時空論を展開していることである。
これによって応用的に解答を与えることができる世の事象は、以下のように超常現象を筆頭にしてあらかたである。
人という意識を持つ者の意義
霊魂の存在
UFO
パラレルワールドの存在
パラレルワールド間の交通手段たるべきUFO
臨死体験の手続きと現れ方の多様性
意識と認識における働き
意識の存続と意識原理のたどる時空の輪廻
総じて経験時空の意義
特に、難解なインド哲学や漠然とした東洋哲学へのアプローチ方法として、最も有効に機能する概念となるものである。
私は、論を証拠立てるとともに、展延できる目新しい現象はないものかと、かねてより材料集めを行っていた。
ところが、縁は異なもの。付き合い始めた人物が証拠そのものであったのだ。
その人物の名前は、坂本廣志氏。彼は幼少期から五種類の宇宙人と遭遇し、実際にUFOに乗せられ宇宙人から教えられた様々な体験や知識を語って聞かせる。彼のその如才のなさは天才的とも言えるものであり、もし彼が作り話を話すものなら、その想像力のたくましさは一級品であると言っていいものである。
周りにいる誰もが信じ難いだろうと思うようなことも、目の前で起きている如くさらりと言ってのける。その様に、新しいタイプのコメディアンの出現と思い好感を催す人も少なからずいる。
だが、彼に対して失礼にも、それは嘘でしょうなどと言おうものなら、目を大きく見開き、血相を変えて怒り出すはずである。彼にしてみれば、真剣なまじめな話なのである。それを否定されたりすれば、全人格を否定されたが如く怒り出す。それは紛れもなく、事実だからに違いないと、どんな懐疑的な人でも一考せざるを得なくなるだろう。
私には原理的に分かっている。本人は本当にまったく見てきたままに話をしているのである。彼は実際に宇宙人と会っているのだ。
ただし、現実の中にどっぷりと漬かって暮らしているみなさんに、同じ宇宙人体験ができるかというと、難しいだろう。ただ、彼の体験は事実。みなさんの体験できないことも事実。その原理を簡単に説明できるのが、拙論なのである。
その説明の前に、坂本氏の快挙をひとつ挙げておこう。
彼は2003年9月27日に、自宅の屋上にビデオカメラを構えて、神戸市上空の中心から仰角45゜の範囲内の中天の広域にわたって、数千とも目される数の星の如き白い玉のUFOを、白昼堂々30分に渡って目撃しながら、そのうちの終わりの10分ほどを撮影することに成功している。
その当日は、翌日に主役として出演するフジテレビのUFO番組ロケを控えているという状況であった。前日にUFOの大群を撮ったという快挙が、番組の中で放映されたことは言うまでもない。彼とUFOの蜜月の関係を端的に示す出来事であった。
ところが、ここに不思議な事実があった。30分にも及ぶ中天全体を覆うほどのUFOの大群の出現にもかかわらず、神戸市民の彼を除く誰一人として目撃していなかったのである。100万神戸市民のどれくらいかは空を見上げていただろう。目撃があれば、新聞社などに投書や連絡が引けもきらなかったであろうに、そのような情報はいくら探しても見つからなかった。つまり、彼一人のみが見て、証拠を記録に収めたというわけなのだ。
UFO録画の中には、UFO映像と共に都会のありふれた喧騒が収まっていた。音声だけを後で付け足したものではない。彼はCG映像を作ったり音声合成したりする技術や道具などまったく持ち合わせていないのである。
いわば、空のアトラクションと地上とは時空が切り離されたかの如きものであったのだ。その両者の仲介として存在していたのが、坂本氏であった。
パラレルワールドが存在しているのである。そしてそれを特別に知覚できる人がいる。
彼は、私と知り合った当初から、宇宙人と遭遇した話と同時に、胎内被曝者であることから医療面では手厚い保護を受け、診療費が無料ということから様々な検査を惜しむことなく受けてきていることを話してくれていた。
その中に、脳波を測ったときにいろいろな医師から言われた言葉がある。「あなたは昏睡時の脳波をしていても生活できているのだなあ」というものだ。
一瞬そのような脳波が現れることは常人にもあるという。だが、彼の場合は、一時間でも二時間でも持続しているというわけで、検査のたびに医師の驚嘆を誘っていたというのだ。
昏睡時の脳波とは、θ波かδ波であろう。非常に振幅の大きい波形をした脳波が主流になって出てくるというもので、一説にはヨガの達人に見られるといい、一般にはてんかん患者の発作時に診られるものであるという。
具体例が今まで実験的に示されたことがあるのかどうか分からないが、おそらく霊視能力者や超能力者にも類似した脳波が主体的に見られるものと思われる。
このうち、霊視能力者とは、別の世界を今の現実の世界に重ね合わせるようにして見ることのできる人である。別の世界とは、パラレルワールドと言い換えられる。霊視される世界とは、この場合、時間軸をこの世界と同一にして運行している並行世界のことだ。映画「アザーズ」が参考になろう。
坂本氏にも霊視能力者と同じことが当てはまると考えられるのである。
霊魂がビデオカメラなどの映像メディアに捉えられ、よくテレビ番組などで取り上げられて恐怖をお茶の間に振りまいていたりしている。これを見ると、「別の世界(の存在)は映像メディアに捉えられる可能性がある」ことを示している。
同様にUFOも、別の世界の存在であり、映像メディアには捉え得ると考えることができる。
よって、見る人は見ることができるが、見ない人は見ないと言うことができるとともに、映像メディアでは、その捕捉が可能と考えられるのである。
坂本氏のように、たとえて二つの世界を垣間見ることのできる人とは何であろう。きっとメーテルリンクの「青い鳥」のチルチルがダイヤルつきの帽子を被ったが如き状態を言うのではなかろうか。そのダイヤルを、何かの拍子に回してしまい、非現実的な環境に晒されるというわけだ。
坂本氏は、ごく最近にも自宅に宇宙人が侵入して、何度も身柄を拉致しに来ていると言う。とんでもないタイプの宇宙人が拉致しに来たときは柱にしがみついて拒否したり呪術で戦ったりして逃げ、知り合いの宇宙人の場合なら、UFOに誘われるままに乗り込み、その船内をビデオカメラに収めてきたことさえある。
彼にとっては、UFOばかりか、それに搭乗する宇宙人も紛れもない日常的実在であり、一般常人には見ることのできない並行世界の存在とコンタクトしているというのが、私の考えだ。
私は、持論を確かめるべく、彼の自宅を訪ねた折や一泊した折に、室内をデジカメで撮影した。すると、果たせるかな半数以上のコマに、たまゆら(オーブ)が写っているのである。私自身の家の部屋で何度写しても写らないオーブが、彼の家の中ではたいがい写るのだ。埃が漂いすぎているからではない。埃なら私の家のほうがずっと多い。まぎれもなく、謎のものが写り込んでいるのである。
オーブは霊体であるという。肉眼では見えないが、カメラやデジカメには写り込む。しかし、霊能者が見れば、人の姿をとって見えたりするわけだ。それはどういうことなのか。
映像メディアは、物理的な光線部分だけを捉えているはずである。だが、人(霊能者)は、そこに骨格と肉付けを与え、そして着物までまとわらせて認識するのである。つまり、どこからかプログラムを索引してきて、つじつまのあう現象として組み立てるのが、拙論に言う観測機としての人の機能なのである。
人の感得能力には、光線だけでない高次元の情報が複合的に観測され、それをもとに知覚機能がホログラム像を作り上げて認識に繋げているというわけだ。これは霊能者に限ったことではない。催眠術などでは、被験者に言葉のキーを与えて、プログラムを索引させ、彼の知覚機能にホログラム像を結ばせてしまうのだ。
また、プログラム索引に関するものすごいケースもある。
カルロス・カスタネダの著書を読まれた方は少なくないと思う。カスタネダは、民俗学的な研究目的で接触するようになった中南米のインディオのシャーマンのグループに知らぬ間に弟子入りし、科学的合理性に裏打ちされたその世界の奥義を極めていく。「ドン・ファン」シリーズは、感覚的に閉ざされたこの世界のさらに外側にある世界の全貌へと向かうガイドシリーズとも言えるものである。
そこでは、ある程度の天性的資質を持った者が彼らのグループに見出されて、彼らの中で訓練を受けて、伝統的なシャーマンになっていく課程が示される。
彼らシャーマンの技術的達成の証はテレポーテーションであった。そのために、師匠は弟子たちに断崖から飛び降りさせてテストした。地上に激突する前に、弟子は別の世界に移行しなくてはならない。
それを彼らは「世界を組み立てる」と表現した。彼らは「A地点からB地点に瞬間移動した」とは言わず、「世界を(能動的に)組み立てる」と表現しているのである。
それができるのも、意識を有する観測者がベースになって、時空プログラムをローディングしてきて、そこから実行を開始すれば、その時空がただちに彼の観測にかかるというわけである。理論的には簡単であるが、我々の観測機能は麻痺していて、よほど幼少から訓練でも積まない限り、柔軟な機能は発揮できないのだ。
それを達成したとき、ドン・ファンの師弟一行は、夕日にきらめく一列の隊列をなして空中に去っていく「羽根飾りをつけた蛇」(英雄ケツアルコアトル)のように見えたという。
その叙述から、私は彼らがスカイフィッシュになってしまったのではないかと思ったほどだ。
坂本氏の感得するUFOと宇宙人の世界は、霊能者の知覚する世界と類似している。それは、幻覚でも白昼夢でもなく、別の並行世界での現実なのである。彼がもし、宇宙人に関する知識をいっさい持ち合わせなかったなら、彼は妖怪変化や魔物として、別の世界の存在を感得するはずである。実際に彼は、過去幾多の魔物と戦ってきたことを聞かせてくれている。
また、知り合いのM氏は、とても理知的な論理主義者であるが、彼の奥さんが霊視能力者で、娘さんもその血を受け継いでか霊能者であるという。家の中によく霊魂が入ってくることがあるらしく、その場合に彼はひとり話の輪から浮いた存在になるという。だから、信じたくはないが、霊魂の存在は否応なく信じざるをえないと彼は言う。
この場合、霊魂がどのような情報を彼女らに伝えており、それをどう受け取る側でアレンジするかによって外見も異なるはずである。彼女らは、知っている範囲からプログラムを引っ張ってきて、ホログラム像を組み立てて認識する。もしかすると、それが異界の宇宙人であっても、身近なものに見立ててしまうことはありうるだろう。
このようなアレンジの端的な例は、臨死体験に見られる。臨死体験そのものもプログラムであり、基本的な手続きとして存在しているのである。それが臨死者の宗教や信条にマッチしたプログラムによってアレンジされて、彼にとってなじみやすいものとなるのである。
UFO研究家T氏の話も非常に参考になった。彼はある地域のUFO研究団体に行った折の話をしてくれた。なんとそこに、特定のメンバーの人にくっくいて動き回っている宇宙人を見たという。彼や坂本氏は、その辺の感得能力を持っているのだ。
それはいわば霊体であるが、ある勢力の宇宙人であって、自分たちの存在が明らかにされることをたいそう嫌がっているふうであったらしい。彼はそれでたいそう警戒したのだが、それに憑かれた人物は奇妙なストーカー行動に出てきたという。それで、彼はその研究団体の思考は、UFOなど安易に存在しないという方向に振り向けられているのではないかと思ったというのだ。
しかし、いわばこの研究団体は宇宙人とすでに知り合いと言える。羨ましいような話だが、こんな宇宙人とつきあうとろくなことはない。地球維新間近というときに、皮肉にも彼らは未だにUFO写真の真贋論議に明け暮れていて、いっこうにUFO問題の先行きを打開できないでいる。
私は地球のために、ぜひ友好的な宇宙人を招請しなければならないと思っている。地球というレベルが、悲しいほどに無駄の多い状態にあるのも、タイムスケジュールが設定されてそう仕向けられてきたからである。人類にとって不利益になる宇宙人が陰にいたりするから気をつけたいものだ。逆に友好的な宇宙人は、その辺の矛盾を解くノウハウを持っているはずであるから、何としても人類のために彼らの支援を求めたいのである。
だが、彼らがパラレルワールドの存在であり、常人に交流が叶わぬならば、またぞろおかしなシャーマンによって人々が誘導されないとも限らない。友好的宇宙人の科学力で複数の並行世界をたがねることはできないものだろうか。その辺の要請もしてみたい。
ここで坂本氏の驚嘆に満ちた宇宙人遭遇体験を一部記しておこう。
坂本氏が初めて宇宙人に遭遇したのは昭和25年。まだ彼が保育園児であった頃であった。宇宙人は全員が女であり、彼の男の持ち物に興味をもっていたとみえ、彼が小学生になる頃から4年間にわたって彼女らに犯され続けていたという。もっぱら子種を授かるためだったらしく、生まれた子供もそのたびに見せられたという。
天女として現れた宇宙人たちは、それぞれ名前が大和言葉の習いに従って番号制でつけられており、31(ミヒ)32(ミフ)33(ミミ)34(ミヨ)139(ヒミコ)という具合で、卑弥呼も宇宙人の名付け方にちなんでいるという。彼女らは平均年齢3500歳と告げたが、18歳くらいにしか見えない天女500人以上と彼はたゆまず肉体関係を持ち続け、それぞれに子供を授けたという。
先に書いたUFOの大群の出現は、明日は初陣という日を前に、彼の子孫が応援にかけつけてくれたものだと彼は言っている。
昭和31年には三角形のUFOに搭乗し、こげ茶色の宇宙人と会話したのをきっかけに、その後1年つきあいが続く。
翌年にはキューピーに似た十文字山の宇宙人と会い、地球外を見学しながら難病を治してもらう。
どちらの種族ともみな女であり、その間にも数え切れないほどの子供を作ったという。
昭和33年には恐ろしいグレー種族の宇宙人に拉致され、血液ならびに子種を採られた。
その後、宇宙人との交流は途絶え、平成15年頃から我々のクラブに入会しUFOを撮影し始めたのをきっかけに、平成17年になって宇宙人と再会。またも別の難病を治してもらっている。
彼の体験談には、このほか宇宙空間に出たときのものや、宇宙船内部の設備や様子に関するものがあるが、ここでは割愛したい。
彼の体験談は、まさに今見ており、現実に目の前に展開しているかのごとく話す点に特徴がある。彼はもしかすると白昼夢を見ているのではないかと思わせるほどに迫真なのである。
先ほど来の私の解釈における、パラレルワールドに遊ぶケースのようであり、その内容は夢解釈という見方をすればふさわしいのかも知れない。
フロイドは夢判断において、人の潜在意識の大部分を性的欲望が支配しており、おのずと夢の中にその要素が出現するものであると説いたが、彼の場合は白昼夢において出現していたかも知れないと思われる節はある。
しかし、彼の性欲の強さをここで論じるつもりはないし、そのような詮索は無意味なことである。儚く消える夢にどんな意義があるかをここで論じたいのだ。
パラレルワールドは夢の世界なのかというと、そうではない。夢は頭の中で意識が、様々な経験の中から要素を拾い上げて勝手に作り上げたビジョンであると考えられているが、この場合は現実に存在する世界であり、いや正確には別のマトリックスプログラムが彼の観測にかかって、世界が彼の前に構築されているのであり、夢は現実がマトリックスプログラム起源であると同程度に確かな現実世界なのである。
ただ、記憶する箇所が異なるために、記憶の伝達がうまくいかず、目が醒めれば思い出せなくなってしまうという事情があるのだ。つまり、脳波の振幅の違いやその他の要因によって、脳の中で励起される機能や領域が異なっているはずなのである。ふたたび同程度に眠くなれば、夢の続きを思い出しそうになることは誰でも経験しているはずで、眠りのパターンに陥ろうとするときに、パラレルワールド移行の段階に達していると考えるわけである。
坂本氏がΘ波やδ波で日常を送るとは、白昼夢をいつでも体験できる状態にあることを意味していよう。このことは、ちょっとしたきっかけでUFOや宇宙人などの異世界の存在との接触を容易ならしめる。
同様に、そのパラレルワールドの時空は、ちょっとした思いや信念に従って、容易に造形されてしまう物理的性質を持っているのだとすれば、つまり夢の世界のような可塑性が伴っているのだとすれば、超能力者ならできるとされるスプーン曲げや物体瞬間移動などは、両世界の隔たりを一瞬にでも取り去った脳の働きによるものと説明がつくはずなのである。
彼は、幼少期に超能力のコントロールが効かず、周りに多大な影響を及ぼすので、父親の命でエクソシストに預けられたほどであるという。
私はこの論理から得られる結論として、残念なことに我々常人はUFOはおろか、目指す宇宙人にも会えないかもしれないことである。
私は、坂本氏がそれほど会えるものなら、絶対に会わせて欲しいと頼んでいる。その理由は、限りなくたくさんある。
だが彼は、よっしゃ会わせたると言うだけで、一向に約束を果たしてくれない。片務契約的にサービスばかりしているのは問題ではないかと思っていたのだが、こう考えていくと、基本的なところに力及ばぬ点があったのではないかと思わざるを得ないのだ。
しかし、彼自身の力場の中に私を入れて、友好的な宇宙人のいるパラレルワールドに移送することは可能なはずだ。ぜひそうしてもらわなくては、面白くも糞もない。

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ジュラシック・コード

本日のテレビ朝日・午後7時から「ジュラシック・コード」なる人類進化に関する特番を放送しておりました。
人類の脳は、古代に築かれた”爬虫類”脳や”哺乳類”脳の上に、とって付けられたように築かれているといいます。
それはあたかも、古い構造物を土台に新しい建物を積み上げているようなもので、不安定さと危険性を潜在させているそうです。
衝動的闘争本能を我々は理性で押さえ込むことにある程度成功してきたものの、ストレスの過剰状態が旧脳の行動を呼び覚ましてしまう可能性を秘めていること。
昨今のどうしてこんな人が・・という凶悪犯罪の影に、旧脳の暴走がありえているとしたら。
この番組では、旧脳の弊害がことさら強められていましたが、その利点もあったはず。たとえば、災害予知能力などは本来あって然るべきものです。それに代わるものとして、火や集団行動する社会や武器を生み出したとは思いますが。
もし新人類が誕生するとすれば、おそらく不安定の上に積み上げられた脳を持つのではなく、旧来の欠点を克服した、一から合理性に貫かれた脳の持ち主でありましょう。
そのビジョンは最近明らかにされてきています。将来像が予見できるというわけです。
旧来のものは、試行錯誤の課程の中にあるものとして淘汰されてしまう可能性があるわけで、その大きな意味で現人類の滅亡も必然のものといえるかも知れません。
その不完全性を預言していたのが聖書です。666というコードは人間をあらわすとし、滅ぶべきものとしてスケジュール化までされていたようなのです。
一体誰によって・・宇宙人? 神? いや問いますまい。
それは人類が黎明期を迎える頃から存在したとすれば・・。
古代日本謎の中東思想渡来考

畿内の五角形の謎(1)

学研ムー10月号(現在発売中)の白黒ページには、我々のスカイフィッシュの分野における活躍が並木伸一郎氏によって取り上げられている。いわばムーブックスの詳細特集のダイジェスト版である。ぜひ読んでいただきたく思う。
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同じく10月号の白黒ページのP99に、読者の皆さんもどこかでご覧になった図像があるはずだ。(上図)
現在このサイトで取り上げているし、旧くはムーの1990年8月号で巻末二色刷り特集として掲載された「古代日本を動かしたカバラ思想の謎」で取り上げた、論点の中核を形成した図像である。
無断であたかも自分の発見の如く安易に取り上げる学研ムーの所作も憤りものであるが、私はこの作品によってムーミステリーコンテスト優秀作品賞をいただいたしだいだ。物好きが昂じて報われたときの喜びをはじめて味わったころのことだからそういう意味では感謝してもいる。
主要な祭祀霊場を繋ぎさえすれば、この幾何学図形が発見されるのは、時間の問題であっただろう。だから、誰かが先鞭をつけていなかったのが不思議なくらいだったのであるが、ただ私がそこから導いたのは、オリエント思想の流入した可能性であった。そう、そこからは私独自の理論へと伸展していくことになる。そこにはピラミッド幾何学やカバラの生命の木の図像が隠されていたのであるから。
これら祭祀霊場などを結んで得られる直線をレイラインと言ったりする。
だが、レイラインのルーツ、つまり誰がどういった思想でその拠点を布石したかといったことは、カバラ思想なのかと言えば、そうでもないようなのだ。むろん太陽神信仰に基づく太陽の道とかでもない。なぜなら、祭祀霊場は多く巨石組みや神体山を基本にして営まれているのが常であり、その当時の人々にどう願ってもそれらを組み上げる能力があったとは思えないからである。
それ以前に、巨岩列石あるいは神体山的マウンドをあえて造っていった文明があったのだ。後世に龍蛇神信仰として名残を残す文明、すなわち大地のコントロールに関するノウハウを持った文明があって、彼らにしか分からない物理科学のルールに従ってそれらはなされた。
その不可思議な伝統と噂はより先住民の宝として古代日本にあったと解される。
それを踏襲した民族が、日本で最も知られた古文献「古事記」を作り出した人々であったようなのだ。
詳しくは「古代日本中東思想渡来考」をご覧あれ。

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もともと奇抜な仮説ばかりを収録したサイトではありますが、さらにオカルト度が強い記事を以下にします。そうとう物分りが良く、精神力ある人向けの読み物として区別し、ブログの発生以前の日付で記載することにしました。
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