100禁 予言元の存在への疑問

一般的に、当たる確率の高い予言者のする予言は、世の中を賑わすものである。ノストラダムスの時はものすごかった。今回のジュセリーノ氏の場合は、もっとストレートに出てくるゆえに、またも社会問題化するのではないかと推測される。しかも、すでにしたように、彼の予言は昔の人がした結果ではなく、現在カレントな時点からする予知として、精度の高いものとして出てくるわけである。ノストラダムス以上の捉え方をすべきであり、彼もそれにカウンターを合わせるように、どんどん必要先には送り付け公開をしている。
さて、誰しもの観点はどうしても予言の内容と、少し突っ込んだとしても、予言者のプロフィール、職業や立場、信頼性、誠実さなど、予言の信憑性を測る目安までで止まってしまいがちだ。
ところが、予言の解釈者としては、それだけで完全と言うことはできない。予知夢付与者が別にいることを彼も公然と語っているように、この点にも目を向けなくてはおかしいのだ。これはノストラダムスの時には、まったく欠落した観点だ。ファチマの予言の場合は、聖母の出現の裏にUFO現象があったことから、やや進んだかと思える。だが、証されない仮説を生む程度のことであった。
今回のジュセリーノ氏の場合も、彼が言った限りのものに終わるなら、巷には仮説の域を出ないものが乱立するだろう。そのうち、予言もクライマックスに差し迫ってきたなら、予知夢付与者も正体を明かしてくれるかもしれない。また、人間界の上位にある世界がどのようなものか、どのような影響を下位に与えているかといったことも、順次出されてくるかも知れない。が、それはあくまでも異界の存在の任意による。
私は、どうしても物事の裏側のほうに目が行ってしまう。これは癖というもので、それがまた疑問を発すれば、即座に、もしくは忘れた頃に解答が情報の塊としてやってくるものだから、どうしてもやみつきになるわけだ。即座の場合は、閃くという感じ。忘れた頃の場合は、現象のシンクロニシティとしてやってくる。
正確な予言が示されるようになった。清廉潔白で情熱ある正確な予言者が現れたものだ。しかも、彼にはそれをする十分な正当性があり、人格的にも範たる人であった。
だが、それだけではにわかに信用するに足りないものを感じる。といっても、予言の内容についてではない。何かといえば、彼に予知夢を与える見えざる者(異界)の意図についてである。
なぜこの時期に、というのは分かった。このままでは滅亡を必至とする状況にあり、その時期も目前に差し迫っているというわけだ。今までは注意報程度だったものが、ついに警報が出されたというわけだ。
これを回避するには、かなり困難な条件をクリアーする必要がある。二つ条件で、破局が回避できると言っている。
しかし、滅亡を回避するための時間など、ほとんどないことに気付かされる。まず物理的には無理だろう。一般大衆がどう考えを切り替えたとて、為政者クラスに従来のやり方から決別させるほどの力にはなりえない。為政者らは、今ある幸福に酔い痴れて、我が世の春を謳歌できれば、花の如く散っても良いとすら思っている。いっぽう真面目な労働者は、先の未来に子孫を託そうとボロ雑巾の如く使われるだけ使われて、面白みの乏しい人生を送ってきた。そして明日からもまた労働に出る。
そのようなとき、まるで追い討ちをかけるように、存続の希望が断たれたようなことが宣告されたようなものとなっている。そうならないためには条件を満たせと、異界からの至上命令が下ったわけだ。
だが、その条件とは、為政者側にならまだ容易かも知れないが、労働者にはどうやっても手が出そうにない。
当面の地球温暖化対策という条件のクリアーは、まるで企業目標や政府の達成目標の数値の目安のような気がして、我々いわば労働者にとっては、より大きな親会社からの要請で、労働環境の締め付けがいっそうきつくなったような思いに襲われる。
我々は、決して好んで地球温暖化の音頭を取ってきたわけではない。むしろ、賢人側に立ち、このままでは危ないという思いを表明してきたはずだ。だが、権力には立ち向かえず、為政者や企業の言いなりになり、生活のために仕方なしにここまでやってきたのだ。
予言者本人に抗議するつもりはない。彼もやはり上の言いなりになって、仕事大事と夜に昼を継いでがんばる労働者だ。問題は、彼の上にある存在のことなのだ。
こうしたケースは、私も現実に直面したことがあるので、話をそれに置き換えてみよう。
私は以前の会社で、百人ほどいる従業員が毎朝の朝礼に並び、管理職からの訓示を受けるときに、たいがい前日に起きた一人ないし少数の従業員の不祥事をあげつろい、綱紀粛正を論ずる中で、あたかも全員の連帯責任であるような言い回しになっていたことを憶えている。だが、その問題を絶えず起こす従業員を、よく調べもせずに雇い入れたのは経営者側なのである。組合長は、そうした矛盾点を何一つ突くことなく、そういうわけで会社には頭が上がらないのだといつも言っていた。結局最後に、組合長は管理職に昇格したのだが。まあ、どこの社会にも見られるような御用組合の光景といえばそうだった。
喩え話の趣旨はお分かりいただけただろうか。この卑近な例は、もしかすると、この神霊界、宇宙人社会など仮定できる異界を含めてのオカルト的な世界にも通用するのではないかと思っている。そこで喩えの会社はまだましなほうであり、この世の仕組みでは、問題児のほうが為政者の座に就きやすく、失政をしても責任を認めようとせず、兵隊を使ってでも潔く下りようとしないというおかしな事態が生じているのである。
労働者はそれに対して、苦笑ばかりしていて、引き摺り下ろす行動にも出られないような子羊ばかり。今はその大人しさが裁かれようとしているとでも言うのだろうか。これではまるで、ストライキか暴動でも起こせと言わんばかりだ。
だから、迂闊に彼の予言には、はあそうですかと同意了承してしまうわけにはいかないのだ。予言は建前であって、本音の部分ではないと思えるものだから。
本音の部分とはおそらく・・無理難題・・できないことが分かっていて、むりにやらせてできずに終われば処罰するという、江戸時代のお家取り潰しの幕府の画策のようなことなのではないか。
それを、こちらから見えないことをいいことに、異界の側はやりたい放題やっているのではないかというわけだ。
よく考えてみたらいい。キリスト文明とイスラム文明の衝突ひとつとっても、見えないところにいる存在には信仰と帰依を誓い、見える当面する敵と殺し合い傷つけ合ってきた。同列にいる者や弱者には敢然と立ち向かっていくが、見えない者に立ち向かった例はひとつもないだろう。相手が神だから、見えないから戦えないというのは詭弁だ。要は、どちらの陣営も、見えない上位の存在にはよう歯向かえないように仕組まれているのだ。これは催眠術でしかない。オカルトの世界丸出しの中にあって、何も矛盾を感じていないのが人間なのだということだ。
私の友人も同様の考えで、私が災害の備えだけはしておいたほうがいいからこの本を読んでみたらという方向で話したのだったが、急に疑わしい顔つきに変わり、そういうのはあちら(異界)の意図が見え隠れしているから見たくないと言い出した。彼は労働者側の痛みが分かる清廉潔白な人間だ。何もそこまでしなくてもいいと思うほど、異界の本音を鋭く見据えている。
二人とも奇しくも同意見になったことから、私はそこで、そうだ、これは異界にまんまと嵌められているのかも知れないと思ったわけだった。ジュセリーノもこう言っている。これを知ったときから、その人には責任が生ずると。しかも、私は知らせることで責任を果たし、知らされた者は受取人として責任を負うと。予知を受け取った責任を転嫁するために、彼はそれを然るべきところへ回す。彼はそれで責任の荷を降ろす。受けた者は、次に然るべきところに回していかねば、全面的に責任を負ってしまうという論理。
こんな卑近な例は、どこかで見たことはないか。そう。不幸の手紙だ。この不幸を幾分かでもやわらげたいのなら、別人に回せと。その手紙が異界から流されてきているというわけだ。しかもシステマチックに。
だが、この場合は不幸というより、不幸の原因を知らせることによる回避策を授ける手紙だ。だから、妙な意図は感じることなく、ありがたく思ってしまう。身の安全を図る情報を教えるという目先の利益に、我々はついほだされて、飛びついてしまう。
しかし、そこには「責任が生じる」という曖昧模糊とした謎の契約文が付いている。善意のオブラートに包んだ何か妙なものを飲まされたような違和感がしないでもない。
まったくの善意なら、災害予知情報を伝えるだけで済む。二つ条件が付帯するところに、ユダヤ的な発想を垣間見る思いがするわけだ。すると心の警戒が呼びさまされることになる。
契約書なら、まだサインするしないによって反故にもできるが、聞いちゃったといえば聞いちゃったんですよ、の村上流に言えば、一挙にインサイダーに問われることにもなるわけだ。興味深々が招いたこととはいえ、こんなところにも嵌め込みがあるのかと思ってしまう。
いや、私の誤解ならばいいのだ。高い情報料を異界に対して払わされるのではないか。そんな思いがして、ぞっとさせられたわけだった。
問題は、その「責任」とは何かということだ。また、どの程度で責任を果したと言えるのかということだ。
最低限、知ったことを然るべき人に回すこと。これは責任の転嫁、横流しになる。あるいは知らせ、共に避難すべき人に行動を起こさせること。個人的にできるのはその程度だ。それ以上のことを望まれても、できる話ではない。
だが、もしかすると、地球の未来への責任ということはないか。全地球人が総和して未来を改善して、希望を先に繋ぐこと。責任を取らされるのは、滅亡させてしまった時ということにならないか。
それは連帯責任なのか。私はやめておけと、ずっと昔から言っていたのに、一部の権力志向者や拝金主義者の不祥事に付き合わされる破目になるのか。それはないだろう。雇われ人の清き一票しか持たない者に何ができるというのだ。
どんな責任の取らされ方をするのか・・まあそれ以上は考えないことにしよう。土台、なんの予備知識も付与されているわけではない。しかし、また同様の試行錯誤ゲームの振り出しからやり直させられるようなのは、金輪際ご免被りたい。あるいは火と硫黄の燃える池に放り込まれるというのも、お門違いもいいとこだ。
ゴキブリなら多少の抵抗もしようが、手足もがれた柿の種のような我々人間だ。責任取れと言われたところで、もう殺せと、裸になって開き直るしかない。
こんな気味の悪い状況に追い込まれたら、人によっては合理化(心理学用語の)の道を選んで、これぞ福音、伝道するにしかずと、異界側に就職したような気分で行動するかも知れない。それで昔から闇雲に原始信仰を弾圧し、逆らえば容赦なく殺戮していったというのも、集団ヒステリーのようなものではなかったかと思ったりする。
要は彼らは病気の蔓延に加担する同胞作りを積極的に進めてきただけであり、洗脳されて破滅の道を突き進むことを待望し、世界の穏便な平和的存続の志を裏切ってきた罪は歴然としている。
世界人口の60%が、地球文明と人類の滅亡に無関心もしくは待望の気持ちでいるという現実。その方向に思想的に舵を切らせたのは、異界からの入れ知恵。その異界から、今度は警告が発された。異界には対立する複数の勢力があるという仮説もある。ならばいったい、地上世界の人類とは何なのだということになる。ところがこの人類は、科学万能人類至上を掲げ、異界の存在などないと徹底して言い切る。だが、そのすごい力で宗教を正そうという気も毛頭ないらしい。恐ろしい戦争の源になっている宗教対立。それを科学という力で矯めようともせず、この領域だけは信教思想の自由だと、推奨していたりする。そこで、ああそうかと気付くのは、私ばかりではあるまい。
科学界の象牙の巨塔の裏にも異界があるという推測が立つ。陰謀論となるが、フリーメーソンとか、異界のエージェントのような存在に行き当たるわけだ。科学全盛にして、地球温暖化を促進し、シナリオどおりに滅亡の淵に人類を追いやる。シナリオはちゃんと世界人口60%以上が知っている。そして、期待しながら固唾を飲みながらクライマックスのイベントを待っている。ゴグ、マゴグよ、米猶よ、まだやらんのかと。
つまり、どこを向いても異界に牛耳られているということだ。一般人と同様に、知らぬ存ぜぬの三猿主義を貫くのが正解かとなってしまうわけだ。ああ、これはすべて向こう(異界)の終始一貫したやり方じゃないか。そう気付いた時は、すでに引き返すことのできない地点にいたというわけだ。
ああ、これはすべて向こう(異界)の終始一貫したやり方だよ。そう気付いた時はすでに遅し。
私は興味深々で入り込んだはいいが、ついに終わりの日の到来を告げるあの人たちと同じ者になってしまったに違いなかった。
いや私の場合は、遥か前からそうなってしまっていたに違いない。古事記にも福音は書かれていたのだから。その解釈を本にした時点で私は伝道者になっていたのだ。
こうしていつしか、私は羊を囲いに追い込む側に就職している自分を発見する。就職すれば、その他いろんな情報を閃きというネットで入手もできる。だから、心は下種でも学者以上に博識になっちまった。へへへ。ナザレの。お前もか。なに、お前と違って上種だと。言ってくれたもんだぜ、この罪作りがよお。
だが、私の博識ぶりは、バモイドオキ・サタンにも一目置かれたし、神々も苦々しく思っていてもしたい放題させてくれている。異界は邪神の征するところとなってしまっているのだ。
地にある如くが天にもあり、神々の世界に覇権争いのあったことも知っている。これではあかんよと思いながらも、一介の異界のリーマン。勝手にしろ、そのうち粉飾でイカれるぞ、とかね。
どうせ滅び行く人類向けの知識をここで書いているのかも知れない。下種であることも手伝って、自分は一生懸命と思っていても、信憑性のない、あるいは見向きもされない役立たず情報になって出力だ。
ジュセリーノはその点、誠実で真面目だ。連帯責任を負わせるばかりでは辛かろうと思ってか、滅亡回避の方法も授けてくれている。それはとてつもないノウハウだ。
地球に思いを振り向けて感謝すること。自分をこの場所に置いてくれた創造主に感謝すること。これは窮極の魔法だ。
えっ。たったそれだけでいいの? 自分だけでいいの? 知った者全員でしなくてはならないんじゃないの?
それはそうに決まっているだろう。一人より全員がそうあれば、地球に対して思いやりの施策だって講じられるようになる。
政界や経済界をも動かすこともできるだろう。渋ちんの悪魔国家だって、世論の高まりには敵わず、考えを改めるかもしれない。
だが、オカルト的なことはとかく白眼視されて、どうしても科学者が否定するし、彼らが権威付けて世論を誘導しない限りは難しい。だから、たゆまぬアクセスと実績の披露が、頑迷の壁を破るしかない。不思議なことに、彼はそれを律儀にやってのけるスパルタンな精神力の持ち主だ。さすが、異界からの派遣者ならばこそ。そう思ったとたんに、幻滅してしまう。
「不都合な真実」も、彼の手紙を送りつけるたゆまぬアクセスが生ましめたのかも知れない。米国民主党の主張するところとなっている。議会多数派ともなっている。年末のタイムリミットまでに、間に合うか。異界には、やはり対抗する二つの勢力があるのかも知れない。実際、邪神の徒党がいるなら、正神陣営もいるはず。
ジュセリーノはこうも言っている。もう神には何も願ってはならない、と。これも、二つの対立軸があることを示すいいヒントだ。
神と創造主は別物だということに注意したいものだ。無理やりくっつけると、パラドックスを抱えて鬱になるだけだ。
感謝するのは、生態系という土台を整えて、人間一人一人に土の息吹を吹き込んだ地球。そして、魂(意識原理)の直接付与者である創造主に対してだ。こちらは正神側と言えるだろう。
いっぽう神とはゼウス様で、シュメール神話やギリシャ神話から読み解くと分かるように、人類を憎むお方だ。人類の歴史をこうあるふうに仕組んだお方だ。楽園追放をなさったお方だ。その始末もできないのを見て、容易にお見放しなさる。
「そうか。まんまと火を盗んだか。それで得意げになっているようだが、プロメテウスよ。それは人類にとって大いなる禍でもあるのだぞ」と。確かに火の誤用でこの世はヤバくなっている。
それを一介のリーマンの私が端から見てどう思うか。いちおう社長だから尊敬語を使うが、本当はその権力志向の強さと愛情のなさが見え見えで、ベーッて感じなんだ。こんな奴に支配させておくなよ。
しかし、人類の目先の利益主義に狂奔する向きの多いこと。まあ、社長の人類教育の成果なんだが、一向に気が付かないとは、あきれてしまう。
世界経済の破綻で大打撃して初めて気がつくのかも知れないが、うまく問題を糊塗して絶妙な綱渡りをしていること。ちょっと下から息を吹きかけてやろうかと思ったりするね。
まあしかし、そうなればそうなったで、自暴自棄の世界大戦でも起こしかねない。本当に強欲のズルムケ族に変貌した人類は処し難し。
そんな中に置かれて、責任論が出てくるとは。あー、責任なあ。殺せーと開き直るしかないか。
いやいや、この態度が良くないのだ。この世のおかしいのを、みんな人のせいにしている。
お前らの暗愚のせいで、この世はヤバくなっているんだ。そんなことをしていたら滅ぶぞ。かなわねえ奴らだな。俺はお前らの地獄行きに付き合いたくなんかないんだよ。と、何十年前から思っていたことか。
そうした自分の心を分析すれば、人類への蔑みと呪いがわだかまっていることに気付かされる。それは、自分の心を否応なしに、その結果を見届けねばならない時空に縛り付けてしまっている。人を呪わば穴二つ、とはまさに真理だ。
賢者に多いこうした心の動機は、一見正しく見えるが、知識的優位を傘に着て、他者排撃しているだけであり、翻って自分の関わっている時空に対しても排撃していることになることに気付いていない。すると時空はそれに相応しい反応を返してくる。するといっそう矛盾に満ちた外界となってはね返ってきて、泥沼にはまっていくというわけだ。その結果、ジュセリーノの赤札警告付きの時空にとうとうぶつかってしまった。
真の賢者にあるべき心の態度は、今自ら受けている幸せを、この置かれた立場や環境に感謝することである。足るを知り、地球、創造主、そして与えられた時空に対して心から感謝する。そのような賢者は、いかなる忌まわしいニュースを聞いても、人を排撃することなく、等しく愛せるものなのだ。馬鹿になれというのとは意味が違う。守備範囲がこれだけしかないくせに、余計なお世話を焼いて、守備妨害するなというわけだ。知ること見ることにおいても、足るを知れ。そして、生き抜くための知恵を得ること。手元にある時間は、迂回しているほどありはしない。
ジュセリーノは、少ないノウハウの文意の中に、個人的に通用する回避策を語っている。
何も人類の過半数以上をその気にさせる必要もない。たった一人だけでも、滅亡の道をすり抜けられることを語っている。
それは、私の超時空仮説とタイアップすることによって、なおさら自明の理となる。
だから、堂々と何も恐れることなく、我々を育んでくれた地球と創造主に対して、愛情に満ち溢れた感謝を捧げよう。
そこから自ずと涌いてくる自然界に対する謙虚さを実行していくことだ。
ゴミをポイ捨てする心と、ひとつ拾い上げる心には雲泥の開きがある。高下貴賎はその際、何の関係もない。とは、ひとりでに心の赴くままにそうふるまえるようになるということである。
そして、いざ最後のとき、いっぽうは滅亡の肥溜めへどうぞ。いっぽうは指定席へどうぞ。こんな感じかなと思ってしまうのは、まだ私ができていない証拠だ。
自分を流路にして、創造主と宇宙の愛情のありったけを地球に注ぎ込もう。あとはイメージ。色だ。色即是空、空即是色。この簡単な原理解説はここの後半に物語風の記事にしている。
自分で色によって空を動かし、更新された色へと変貌させるのである。
世界を組み立てるとは、テレポートを可能にするナワリズムの言い回しだが、まさにそのようなことである。
他人に頼る必要はない。
意識原理を有する者が、一人だけでも救われれば、その人に伴って地球も外界(時空)も歴史も栄光を得て救われる。あなたが救世主になるのだ。
あわただしい騒乱の歴史から乖離すれば、もっとそれ以上の真実を理解する時間も得られる。まずは彼のもたらした心のノウハウをありがたく活用しよう。
それから、しばらく自らの身の安全を図るために、事件予知情報を活用させてもらおう。それは、自分の位置がどのへんにあるかを確認する海図としても機能するだろう。
もっとも、あなたがさっさとあの世に行ってしまったら、この時空から離れることはできる。そういう自動的な時空切替の節理を頼みにするのも良い。が、生ある限り、この時空とそれに伴う責任はついてくる。自殺は責任放棄と契約違反を問われ、あとの処置がきついから駄目。
生きて生きて生きまくり、うまくいかなくとも最後は裸になって開き直るもよし、首尾よく生きて娑婆世界に脱出するパピヨンさながらを演じてもよし。
そういうわけで、これ以後は脱出のチャンス獲得のための自己保身対策としての実用論を主体にしていきたい。