私がかつて北卓司というペンネームを用いた理由は、須弥山の北面を司る神・毘沙門天にあやかろうとしたからだ。ネーミングを通して、この神の諸力に預かろうとしたのである。
その結果、生まれた書籍が「古代日本にカバラが来ていた」であった。それはかつて学研ムー・懸賞ミステリー論文で優秀作品賞をいただいた「古代日本を動かした中東思想の謎」原稿の全文プラス増補版なのであり、このときは奈良の天川弁財天の応援を得ている。気の流れのすばらしい土地柄であった。
七福神のうちの二神に私は祝福された。そして、私なりに二神の意図される救世行為をしてきたつもりである。人々を直接救うのも救世行為なら、シンクロと理論で魔方陣を構築するタイプの救世行為もある。私は、多くの人々と関わらずとも良い後者によって行動した。
2000年から今現在までそれは続いている。私をとりまく世の中の諸現象が次々とシンクロを運んできてくれ、それを私は理論によって結びつけていき、結果を導き出そうとするもの。いわゆる魔法である。
ただ、私の救世は通常思い込まれている救世行為とは趣がまったく異なる。巷には、我こそ救世主なりと宣言したり、あるいは客観的にそう信じられるケースが満ちている。すなわち、彼らは専ら体制護持を掲げ、人が不幸なのはその人自身のせいであると帰結させる論法を採る。
彼らも神界から嘱望されて動く救世行為者なのであろう。だが、もし神界そのものが邪悪に汚染されていたとするなら、果たしてその救世行為自体、核心を突くものになりえているかどうか。厳しく精査する必要があろう。見識力を持ち合わせないのが人間となら、世にどんな良言諫言を吐く者がいたとて、ついていくべきではないだろう。参考にはしても、決してついていくべきではない。
この宗教が駄目なら、あの宗教を当たってみよう。などと、信仰対象探しの宗教遍歴をする御仁がよくおられる。確かに、どこの宗教にも神界の神様が下っておられる。だが、出所の神界自体が曇っていたならどうなるか。
多くの人々が宗教者に騙され、財産や操さえもなくす人が後を絶たない。偽者だったと後で分かるのは取り返しがつかなくなってからで、その後自らを責める人がいるが、そもそもの始まりは、「神探し」の動機にあったことを認めるべきだろう。神はいないのではない。いても、曇らされているから、頼るべきではないというのだ。
ただし、現実的にいちばん頼りになる神様は、厄除け八幡様である。敬虔にお参りしたら、純粋に厄を軽減したり無にして下さる。経験的にそう断言する。
前に述べた毘沙門天と弁財天は、現・神界の神々の権力(利権)構造からすれば、異端である。だが、その出自は神界の神々よりもはるかに古いのに、政権を奪取されて今に至っている。この神に私が関わったのは、あたかも偶然のようであったが、我が生前より仕組まれていた印象を持つ。私は導かれるままに、政権を奪われた旧い神々の下で働かされていたのである。
だから、私流の救世行為とは、神界を旧いよすがに戻すこと。ひいては、曇らされた神々の思考を正し、下界におけるすべての有情の幸福を導引することにある。個々別々に贔屓を作って優遇するような、またお金の積み具合で功徳を授ける体のシステムなど許容されるはずがない。
だが、巷にはうそまやかしの占い師や宗教家がはびこり、政界すら窺っていたりする。彼らの築く資金力は莫大で、政界入りには資金が大量に要るのにちょうど道筋が付けられている。確かに、彼らのバックには神がついていて、そのように道を開けているのである。
格差社会。その裏には神々がいる。人界に贔屓筋を作り出し、公平さや正義を実現できない神界のよすがを正すことが重要なのである。
人はとかく生き死ににこだわる。だが、世の大峠では、生き死ににこだわっておれない状況となるだろう。それを越さずに世の中が存続したとするなら、またあなたは希望の減殺された環境で生き延びるか、転生してござるをえなくなる。死ねば、いったん霊となり元あった自由を獲得する。そして、次なる不自由な転生に否応なく備えさせられる。望みもしない転生であっても。
大局に立てば、大峠こそは神界から下界に至るまでひっくり返ることは、従前のシステムから決別できるチャンスである。それを真の救世の摂理と言わずしてなんとしょう。
私のハイラーキーは直接、梵天である。形而上世界における私は、いろいろな人の夢に、梵天として出てくる。私が夢しているわけでもないのに訪れるので、私そのものでなく、ハイラーキーであろうと推定している。
梵天は世界を創造した唯一神である。彼の見た夢として、この世界(神界から現界にいたるまで)が出来上がっている。彼が夢を見終われば、世界は消えてなくなる。神の火花として様々に分化し増殖した有情たちの意識は、夢の終わりと共に唯一神に吸い取られる如く帰命してしまうのである。彼は全意識原理の賦活者であり、時間や空間を起動するスイッチを入れた者である。であるのに、後発神によって首座を奪われて隠居している。
梵天は、弁財天の夫であると共に父親である。毘沙門天は梵天の娘婿である。このように、いつしか私は、今は異端であるかつて退去させられた神々に取り巻かれていたのである。自ずと私の使命も理解されてくる。不思議なことに、思い至る内容も、旧き懐かしき時代への回帰の思慕と、奮い立つ意欲であった。
神界には人界から見えぬことをいいことに、唯一神を名乗る神がいる。あるいは、国によって宗教も信仰も異なるように、種々様々な神がいる。それらすべて、人と神との共同作業で作られた役柄の神である。人が名付け神話にしたときに、その神は現れている。かつて神官は、その原理を知り、次々と神々を生み出していった。そして、神界は神話どおりに力関係と階層構造を呈するようになった。
神人混交の時代には、あらゆる帳が開けられていたゆえに、隠し事などいっさいなかった。隠せるものもなかった。帳が下ろされてから、邪悪な原理や規則がいくつもでき、隠し事ができ、神人の交流が容易ではなくなったのだ。
だが、神々も人間も、その本質は同質である。ストーリーが差別化を作り出したのであり、権力の階層構造もその中で出来上がっている。
梵天はそれらすべてを夢として見ている。あらゆる有情の意識に活力を賦活すると共に、各自の意識の奥底から感覚器を通して見ているのである。だが、もはや座視できない状態ともなれば、目を覚ますしかない。
天にある如くが地にもある。人界の階層化社会、格差社会は神界も然りだからだ。トップに総裁がいて、独裁を奮っている。衆議に諮っているように見えて、実は日本の与党のような強行採決がまかり通っている。根底にあるのは、権力と利権維持の精神だけである。そのような不正義が指導層にあって、下位の世界が幸せになろうはずがない。ちょうど人界は、古代ローマのコロッセウムの中で行われる競技に等しく、観衆(神々)は贔屓の代理を立てて戦わせて楽しんでいる。有情はその持つ魂にこそ永遠性がある。だから、肉体は何度擦り切れて滅ぼうとも、問題なかろうというわけだ。それが人界における命が軽んじられている理由である。当の代理する本人の逐一の苦労はあまり考慮されていない。本人と神が共にそこから何かを学べばよいというわけである。
学びによって、神界の精神をも矯めることができるというのが神界長老衆の考えである。だが、学びの結果がいつ出るのかは定かでない。人界の歴史が、極度に残酷なものからしだいに民主的人道的なものに変貌を遂げていることが、学びの証と捉える向きもある。だが、それさえも、彼らの計画によって元の木阿弥からの出発が予定されているとするなら、いったいいつになれば学びは完了するのかと疑われるわけである。いやむしろ、またも初期の心根の粗暴さから始まる文明の輪廻を繰り返そうとする、神界の権力構造維持の意図が見え隠れしているのである。
さて、そのような中にあって、クーデターによって異端とされた旧来の神々は、今までの経緯から総じて欺瞞と断じ、いきおい大政奉還を迫っている。元あった正義と秩序が優先される神人混交の世界を取り戻すために。
我々および同胞の手で、古来神を封じるための結界は次第に外されており、やがて魔法の完成と共にすべての神は元の力に戻るであろう。
そこで神界における一大決戦となるか、それとも素直な大政奉還となるかが、明らかになっていくであろう。