前の記事・第二部の続きです。
ところで、この図柄と拙著の中身の文章を転用している著書がおりました。
彩明日迦というペンネームで、その著も「弥勒降臨」という著書名で、名古屋の友人が見つけて文章が転用されているから抗議したほうが良いと言ってくれたため、その存在がわかったところのものです。
見れば、くどいほどに出典が明記されており、転用は心情的に許容できるものでした。それが今回の出会いとその意義に関わりがあると、後になって分かってきたのです。
私の図柄が彼の著書「弥勒降臨」に転用されている場所というのが、なんと「つるとかめがすべった」の童謡に関する彩明日迦流の解釈の個所でした。
彼の解釈では、これは預言歌であり、鶴と亀が出会うことにより、鳳凰(火の鳥)が出てくると書いてあり、その解釈部分に、私の出案した図柄と私の書いた幾分かの文章が転用されて、しかも挟まれてあったのです。
これにより、鳥取の日野の大地震は、シンボル的な鶴と亀が出会ったことで、鳳凰火の鳥の復活の兆候として起きた天変地異だったと認識せざるを得なくなりました。
2000年10月6日とは、移情閣でのあの日、あの時刻からジャストまる9日=216時間(=2+1+6=9)でもありました。そして日野・鳥取=火の鳥です。
イナンナさんは大本教系宗教団体MOAの篤信者でもありましたから、九という数の重みは知っていました。九とは大本教が復活を見込む「ウシトラノコンシン」を古くから奉祭していた九鬼家にちなむもので、私も九鬼文書の解釈本などから、出口王仁三郎の思想に接近しようとしていたことがありましたから、まず象徴的数字である九は特別な数と分かりました。
しかも、この人の友人である同教団信者のMさんという人から、大地震の起きた日が、旧暦の九月九日(ひのととり)の日であると知らされました。いよいよ我々がかもし出したことの神秘と、大本教の数の神秘に触れることとなったのです。
また情報をもたらしたMさんの家の家紋が、八角形の中に三の字が入る(角に三もしくは角に三木)というもので、まさに三層八角の移情閣すら暗示したものとなっており、我々に分からせるための符合が幾重にもなされていることが判明したのです。
さらに、その年の内に、飛鳥キトラ古墳の壁画で南面の見えなかった壁に朱雀がまさに飛び立とうとしている様で描かれているものが見つかったことは衆知のこと。それまで飛び立つ寸前の朱雀は発見されていません。
こうして、あらゆる現象が火の鳥復活の兆候として出ていたことに納得し確信する我々でした。2000年の末から2001年にかけて、武者震いするほどのシンクロ現象のラッシュだったのです。
「弥勒降臨」という著は、著者は決して賛同はしていないものの、火の鳥の神話に置き換わっていくどんでん返しの秘術について看破していたのです。この著者は、私の考え方にけっこう感化を受けたとみえ、私の文を随所に取り入れています。まるで私に成り代わろうとしているかのようでした。
また、2003年になってからのことですが、ネットを見ていると、つるとかめの秘儀について、以下のように解かれたページを見つけました。
この解釈は私が施したものではありません。おそらく大本教系の人物が施したと思われる解釈文です。
そこにはイナンナさんと築いた「八角形の篭目、火の鳥、夜明け前、鶴と亀の渾一、蓬莱島、国常立神」といった新神話に取り入れたキーワードがことごとく並んで出てきたため、あまりにも強烈でした。
その起動役を果たしたのは、神々の雛形を背負った我々でした。我々はついに神話を乗り越える方法を見つけたのです。絶望を希望の方向にレール換えしてしまう簡単な方法をです。
では、次にやるべきこととはなにかということが問題となりました。
イナンナさんが関わるのが大本教神話でした。では、分派したとはいえ、悲願にしているのは、ウシトラノコンシン(国常立神)の復活ではないのか。九鬼文書によると、国常立神は邪神のクーデターにより殺され、丑寅の方角に封印されてしまったとされています。いやしくも神ですから、死ぬということではなく、魂が何らかの呪術によって拘束されているというわけです。この拘束を解き、元の主神の座に復帰していただくことが、この世の建て直しには必要だということになります。
今の世界は、滅ぶことが義務付けられたかのような状態です。誰も彼もが利己主義者となり、世界の退廃するのをなんとも思わない現実があります。そのこと事態、異常であり、さじを投げているに等しいものがあります。これは邪神の為せる業、起こさせる業というものです。早々に邪神を更迭せねばなりません。
ところで、このサイトにかつて一小説が置いてありました。再度ここから掲載します。
舞台はシュメール。その中でスサノオが古代都市スーサの王として出てくるほか、国王が暗殺されているのですが、イナンナさんが幼い頃から夢で見た、国王である父親がクーデターに倒れたという過去世のビジョンをアレンジして書いています。それは遠望的に国常立神をモチーフとしているのです。
私はこの人が国常立神にまつわる神話を過去世において模擬しているのかもしれないと思い、ならばこの神の救出と復活こそが我々縁を得て集まった者の使命かと考えたわけです。
ちなみに、この人はこんな夢も臨死の時に見ています。
黄金の鳥の背中に乗り、地獄の最下層から、天国の入り口まで見聞したというもので、天国はまだ建設途上のぼうぼうたる光の状態で、いずれ出来上がることが予感されたとのことです。未完の天国こそが、国常立神の建設する世界であろう。黄金の鳥とは火の鳥ではないのか。火の鳥、国常立神、その復活、これらが我々の間のテーマであるようでした。
それによって導かれるものは、世の善良なみなが理想とした正義の時代の打ち立てです。誤った価値観が人を支配する邪神支配を終わらせることです。
この人も、はじめはそれが達成できることを喜び期待しました。あらゆる有情の黄金時代を共に夢見たわけです。後はいかにして、復活劇を演出するか。ここまでくれば、狂気の沙汰かもしれません。
我々は、巨大な怪物に挑むドンキホーテとなったのです。
いっぽう、イナンナさんは、鳥取西部大地震のあった月のうちに、夫と離婚を成立させてしまいました。あまりにも速い展開でした。というのも、夫のほうが急に悪夢を見るようになり、その原因を彼女と考えて、家出して別居するようになり、背に腹は変えられぬと離婚をほのめかしてきたというのです。それを好機と捉え、この人は承諾したといいます。
こうして、生活面においては、閉塞状態を作り出していた元凶から解放された感がありました。しかし、離婚の結果は、子供ら三人をすべて引き取らされ、しかも自分で働かねばならなくなったことでした。こうして、今度は家族によって縛られることとなったのです。それは臨死のときに采配の霊との約束に基づくことであるかのようでした。だが、はるかに解放されたものになったことは確かだったでしょう。仕事に就き、潜在させていた営業能力を発揮し始めたからです。さらに、私を近未来のパートナーに選んでいてくれたのもこの頃です。
それからというもの、この人は生活面での子育てや仕事にいそしまねばならなくなり、形而上の事柄に関しては、私が主体的に動いていきました。これは大本教流に言うなら、裏神業ということになります。この教派の人も誰一人知りません。それゆえ裏神業なのです。
私はかつて千数百年前に作られた旧神話によって、現代すらも動かされているかのような状況を見て、神話は現実をリードするものだと仮定することができました。たとえば、日本が原爆を受けた後、国津神の地位に転落し、常勝の天津神アメリカの追随をすること。この国津神の国は貿易で富み栄えること。潮(相場)の上げ下げで貧乏にされることなどが古事記には書かれています。このような神話に歴史をリードさせていては大変です。日本経済の破綻が叫ばれているだけに、怖い話なのです。
逆に神話を、特別に励起された力を得た者が作り直し、築いた成果を台無しにすることなく、精神文明と科学文明を調和的に発展させることも可能です。
ムー、アトランティス、レムリア、小さくは短期間に興亡した幾多の国家や文明。まさに地球文明とは、宇宙に飛び出す一歩手前でいつも頓挫している観がありました。
そこには、おりおりに生じた細かい問題の数々よりも、トップダウン的な理念に問題があると見なせます。
滅びの理念(神話)が常在するゆえに次に進まず、精神的発達の未熟な子供の時代の繰り返しに終わってしまう。これは遺伝子のようなもの。元を良くせねば直りません。歴史のシナリオの規定された遺伝子を遺伝子工学的に改良せねばならないというわけです。
こうして旧神話にとって代わる新神話を作ることになりました。私が他の神話を凌駕する宇宙創生から恒久的な宇宙運営が可能となるところまで、新神話のシナリオを作りました。
かなりエッチな脚色もしました。文章が下手で、子供っぽい部分もあるかも知れません。御伽噺レベルですから。でも、いずれにしても、新神話です。一年以上かかって謹製しました。
それは、確かに稼動したのです。新神話に登場する主神梵天は確かに我々に力を与えていました。私には直接かかり、たぶん超宇宙論の発想を与えたり、今では神話制作を指導しました。この人には夢見において、鼓舞と教導を与えました。夢の中の梵天は私に似ていたといいます。ただし、もう少しりりしかったと。
私は、邪神の妨害を感じ取り、早々に邪神駆逐の過程が実現するようにシナリオを組みました。そして、2002年6月6日に天下分け目の決戦の時を置き、正神勝利へとシナリオを誘ったはずでした。
ところが、見込みが甘すぎました。邪神の妨害。そう言わずにおれない事態が発生し、計画は頓挫してしまったのです。
イナンナさんの背信がそれ以前からあったのです。神業に携わる者がよもや裏切ろうとは思いませんでした。そもそも、この人が私にこの大役を持ってきたのです。私に貴重なキーワードを与え、それによって魔法のパワーを身につけた感じの私ともなったのです。私に加勢していた宇宙創造神である梵天が、頻繁にこの人の夢に現れて、教唆していたというのに。梵天すらも私の目を介してこの世を見ているせいか、この人の嘘を見破れなかったのです。
彼女には、霊媒体質という重大な欠陥がありました。それはちょうど霊体に空いたホールのようなもので、この人の場合、過去世から訓練によって作り上げてきたもののようでした。つまり、巫女としての転生を繰り返してきたのです。
私はこの人が精神的に萎えたときのために、なるべく会うようにしていました。いつ何時、おかしな霊がそこに取り付かないとも限らないので、気が萎えないように、私は自分の幽体の一部をそこに残すようにしました。これは、その意味を示した短歌です。
-人知らね一羽二羽と幸に換へ織れる錦の鶴の毛衣-
会えないときは、電話で。この人のことを思えば、それだけで愛情の流れとともに、私のパワーがこの人に向かいました。そして、そのつどこの人は精神的な安堵感を得たのです。
ところが、敵はもっと狡猾でした。もっと悪いものが取り付いてしまったのです。それはこの人が生活していかねばならない現実問題の中に潜んでいました。この人は急速な離婚後、仕事を探さざるを得ず、贋物の太陽をシンボルにかざした企業に勤め出したのです。この企業の売り物は、人の命でした。最も大事なものを軽からしめることを生業としていたのです。
これが私の第一の敗着でした。私がこの人の家族を十分養っていくに足る仕事と資力を備えていれば、強引にでもこの人と家族を引き受けたでしょう。そうすれば、どうあっても私の協力者であり続けてくれたことでしょう。ところが、私は自分の身だけがケアーできればいいという程度の仕事に甘んじていたために、この人を手元に置けなかったのです。つまり、人生を軽んじたことの結果なのです。
第二の敗着は、この人の企業内での出来事に対して、外部の私では力になれなかったことです。
この人は、新参者が通る先輩の嫌がらせの洗礼をしばらく受けていました。それに対し私には心の持ち方を説く程度しかできなかったのを、企業内の上司が下心から、助け舟を出すように装い、あるいは他の新人以上の叱咤激励を与えるなりの落とし手段を駆使して、貞操観念の強かったこの人を次第に手なづけていったのです。
数ヶ月に及ぶ恩着せがましいセクハラ上司の口説きが繰り返され、この人はついに2001年の8月に関係を許してしまいました。一線を越えれば、もう黄泉の囚われ人になるのに暇はかかりません。
私は、霊体のホールに懸かる以外に、このような侵略妨害の方法があったことに思いがいきませんでした。彼女の顕在意識だけは、ボンドガールのものと私は信じていましたから。
だが、この人は、この上司を過去世からの縁者であるといった筋書きすら作って擁護するようになりました。それは彼女自身の罪への合理化でもあったようですが、このような神話を別に作られていては力が殺がれることにもなります。
いっぽう新神話には、二股掛けを寛容に扱うようなシナリオはありませんでした。
なぜなら、私自身、精進潔斎など、彼女とのこの期間は自らに厳しく望んでいましたから。だから、彼女にもそれを暗に要求していたのです。
それはこの人にとって、自らを自殺に追い込むほど苦しめたのかもしれません。この世は、いい加減であって普通の世界だったというのに。
しかし、神業に携わる者としての厳格を守れなかったことへの反動がこの人に起きてきました。2001年の下旬に、夜の道路をぼんやり横断していてベンツに撥ねられてしまったのです。この人は、この時点で死にました。魂が起こした自殺といってもいいかも知れません。
ところが、この人に残された寿命は、臨死のときに授けられたものです。このまっとうのために、つまり両親と家族のために生きるという目的のために、生きなくてはならない宿命を残しておりました。こうして、翌日には怪我も収まり、何事もなかったかのように仕事に出て行きました。
また撥ねた側は、同和の人で、罪にも問われませんでした。補償もむろんありません。まあ、いかに黄泉らしい世相でしょう。
私はこの人の死を見極めることができませんでした。寿命の終わりではない、使命を持った魂としての死を。
そもそも、この人には、霊魂が複在するという状況がありました。神がかりするのもひとつであり、私と知り合う以前から、複数の霊魂がこの人の肉体を共有しておりました。だから、ボンドガールとして使命を持ってやってきたはずの魂が分離して去るということが実際にあったようです。(それは白蛇の霊でした。のちに青蛇のかかったカンナオビに合流して、新神話を助けることになります)
逆に、邪推してその他の憑いていた霊魂が、私の妨害に回るようになったのです。元の意識状態のように見えますが、どこか性格が変化しています。かつての記憶を引きずっているため、にわかに変化するようにはみえなくても、敬虔さや貞淑さが失われていっても、また嘘だらけになっても、平然と普段を装うようになりました。
こうして私は何事も知らぬままに、ずるずると関係を引きずりました。そして、2002年6月の不成功。それでもなお、私はうまくいったと思っていたのです。
しかし、この人に起きた二度目の事故は、その名も「鶴亀」さんという珍しい名前の人物の車の飛び出しによって起きました。これはまったくの本名です。その人の車が優先道路を走っていた彼女の車にぶつかってきたのです。
簡単に処理が終わるかと思われたその後の処理が、鶴亀さんの勤めている司法書士事務所の主によって妨害され、長い間解決がつかず、彼女の気苦労の元となったのです。
この時点で、この人の不義を見極めて、神話を寛容なものに作り変えるくらいのことが必要でした。それも私は洞察できませんでした。
第三の事故は、ついに大本教の篤信者の老人のバイクとの接触事故という形で起きました。
このシンクロが、この人が自らのした罪に対する恐れを持った最後の機会になったようです。私と共に新神話に関わる限り、意味深な事故は続くと判断したようです。
このころ当然、この人の使命を持った魂は逝去して、邪神にいつでもすげ代わるような打算的な邪霊がこの人の記憶だけ借りる格好で居ついていました。ただ奇妙なシンクロだけが不思議さをかもしていたのです。
最初の頃に懸かった邪霊は、彼女が霊媒状態になったとき、こんなことを言いました。
「悪いことをするのがなぜ悪い。この世には、お前みたいな考え方が嫌な者がたくさんいる。しようとしていることから、手を引け。さもなくば、この女がどうなってもしらんぞ」と。
それでもまだ彼女は、まともにもどったとき、記憶にある限りのキーワードを私に提供してくれようとしました。
しかし、当初の使命感はなくなり、むしろ私のしていることに嫌気を催すようになりました。そしてついには、サイババの集会所に催しの行われていない時に行き、そこにいた邪霊の感化を受け、その後中華博物館を見に行った時点で、この人に取り憑いていた呉錦堂時代の悪霊が表面に浮上してきて、帰り道、いきなり二度目の移情閣訪問を要求してきました。
私は何か意味があるものと思い、それに従ってしまいました。その日、いつもは閉ざされていたはずの三階がたまたま真っ暗闇ながら開いていて、そこに取り憑かれて吸い込まれるようにして入っていくこの人を追いました。私は背後から持っていたデジカメでフラッシュをたきながら5枚ほど写してみたのです。持ち帰って見れば、ほとんどの写真に何体かのオーブと、発光体で虫食いのようになった孫文の銅像の前に、明らかに女性の顔をしたオーブが、うらなり顔の大きなオーブと寄り添うようにして写る異様な写真が撮れたのでした。
その後間もなしに、閉ざされた三階に居ついていて非業の死を遂げたという「ファンナン」という名の娼婦の霊がこの人に懸かって、私に対して過去世の呉錦堂の行状について文句をつけてきました。私が呉錦堂の転生と思い込んだこの霊は、彼女を介して露骨な妨害をかけてきたのです。彼らは地縛霊ですから、生きている人間よりもはるかに視野狭窄に陥っており、私の書いた新神話の文章の手掛かりだけで、本質を見極めることもせずに怒っているのです。
私は神話にシンクロを与えようと、そのような設定をしただけなのですが、この霊たちはまじめに捉えてしまっているのです。しかし、神話が迫真のものとなったことは確かでしょう。
するともう、かかられた彼女の心は復讐心の塊のようになり、本末転倒の考えにしかなりません。彼女のまだしもモラルのあった思考回路が、すでにどこかへ行ってしまっておりました。
慈善家であったと思われる呉錦堂が、何か忌まわしいことを女性に対して行っていたというわけでしょうか。それとも、この人の嘘つきの癖がこのような芝居を打たせたのでしょうか。
そもそも、なぜ移情閣の三階だけが今なお開かずの間であるのでしょうか。理由について外部の者の知らぬところですが、何か忌まわしい過去を引きずった霊による現象が起きるゆえに閉鎖されている感も、あれだけのオーブを見れば頷ける気がします。(呉錦堂はフリーメーソンリーで、三階をメーソンの儀式の間にしていたことが判明。そこでおそらく、纏足をさせた娼婦を使った生贄の儀式をしていたようです)
しかし、ここが毎日のように日の目を見ない限り、閉ざされた霊たちは浮かばれることはないし、また世界にも真の夜明けは来ないと言えるのです。それはこの著や新神話を読み進まれるなら分かることと思います。
簡単に申せば、三階は鳳の間であり、ある謎の神霊の居場所だからで、そこがこのような悪霊の汚すところとなっていることは、そのまま雛形である私への霊障という現状を表わすものだからです。結局私は、こうした悪霊たちの妨害に遭うこととなりました。また、私は二階の龍を解放し、結果的に彼女の道を開きました。これはいつの頃からか二階以下が開放されていることの理由でもあると思われます。
しかし、三階は中国政府の意向によるのか、何の理由かも明らかにされず、開放のめどは立っていません。これは明らかに、世界の解放に対する妨害工作とも言えます。三階に魂の典拠を持つ者として、厳重に抗議したいことです。そもそも、私は龍を助けることによって、封じられる対象が鳳すなわち私に付け替えられただけなのです。恩知らずの龍は、自分さえよければと、私をおかしなシンクロの中に取り込み、見捨てていったのです。私はこの龍と移情閣の管理者に腹を立てています。
こうして、この人は前日に起こした不義密通による家庭内トラブルを逆手にとって、怒りに任せて、2002年8月下旬に、一方的に別れを通告してきました。
そしてあろうことか、新神話で最も肝心の日に、この人はあえて神話崩しさえもやったと言いました。これによる千億兆の有情の損失は計り知れないものとなりました。私は有情の分を含めて未来永劫この者の魂を憎むことにしました。
元の魂が逝去していれば幸いです。乗っ取った邪霊のみに未来永劫危害が加わることでしょう。むろん、使命のない邪霊の魂が神話崩しの術などをかけても無駄なのですが、この人の口から今まで嘘で塗り固めてきたことを宣言したため、私はそれを真に受けて、この人と自分で作り上げたキーワードによる「脈」を断たれて、新神話を頓挫させてしまいました。この人は二つも三つも、妨害の意図に満ちた暴言を吐いて去りました。そのどこかで、頓挫するだろうと踏んでの物言いでした。ひどい話です。
私は梵天の命を受けてシナリオを動かそうとしていました。この人が純粋に私に協力してくれていたとき、梵天はこの人の夢の中に立ち現れました。この人の使命の魂が逝去した後にも、梵天は夢見をさせました。
しかし、私の計画をぶち壊したと宣言した時点から、梵天も意趣を悟り、私と共に怒りました。私が事態を悟れば、梵天も事態を悟ります。梵天は私の目と意識を介してこの世を見ているのですから。
しかし、この人は厚かましくも、別れたかなり後に、さも名残惜しそうに梵天が夢に出てこなくなったが、どうしたのかと問い合わせてくる始末でした。また、いろんなインスピレーションがかつてはもたらされたのに、いつしか途絶えてしまったといった話もしました。
当然のことでしょう。いくら心のねじくれた者でも、自分の裏切りを棚に上げ、そこまで厚かましいことは言えはしません。元のこの人の高尚だった魂は肉体から逝去した。だから、霊感はなくなったし、梵天の妻の弁天も懸からなくなった。それをさも残念そうにしているのは、肉体の側の記憶というものを、ひねくれた邪霊が損得感情で語っているだけなのです。そうでなく、まだ元の魂が残っているのなら、単なる無能な工作員としてのそれです。元の魂よ、もう金輪際でしゃばるなと冷ややかに言ってやりたい。
かつて弁天を気取った者も、もはや邪霊が記憶を借りて言わしめているだけのことで、梵天とは無縁のものとなったのです。そして弁天もこの人に関わるのはやめました。
それでも私は、この人のことを、私に重要な使命とそれを実現するためのキーワードとパワーを与えるためにやってきて、図らずも逝去せざるを得なかった戦士として記憶してやりたいと思っています。
しかし、新神話の頓挫の結果、歴史の成り行きだけが早まった感があり、火の鳥もコントロールを失って、どう動くか分からない状況となりました。今でも頓挫したなりに、新神話は動いており、新神話の規定するとおり、世界の成り行きは旧神話の規定するものとなりました。このままでは世界は滅び、選民によるサバイバルが行われるという過酷なものとなりましょうか。
これは2003年前期の時点の記録ということになります。
平成十五年十一月 奥人
追記
その後、新神話を補完してくれそうな女性が次々と、二人現れました。その彼女たちは、思い込みが強いか無関心で、協力関係を築くことはできませんでした。そのうちのひとりの話 ⇒ 岩戸別けその一
しかし、イナンナもよほど申し訳なく思ったか、私の50歳の帳を破る役目の最初に現れたカンナオビに連絡を取り、復縁まで道筋をつけたため、それからはカンナオビがすべてをフォローしてくれることとなったのです。