松原照子さんのどんな情報商材を買ったかもうすっかり忘れてしまって40年になりますか。それからややあって、30年くらい前になるかする頃、松原さんから直接、一枚の葉書が届きました。
葉書の表には私の住所と松原さんの所属先だったかの住所。裏面にはなんと、ただ「それで OK!」と大きなイラスト文字が書かれてありました。
何かの勧誘でも何でもありません。ただ、「それで OK!」との大きなメッセージに、そのころは特別に進路に迷っていたわけでもありませんが、他人からすれば無価値とも思えそうな趣味のライフワークとしてやっていることのほうに、どこからか(天からか)太鼓判が捺された感じがしたわけでした。
たしかに、私は何の躊躇もなく、趣味のライフワークを自分の使命として精魂傾けてきたのでした。こんなことしていていいのかという思いも多少はあったかも知れませんが、なぜか「これでいいのだ」という安堵感が支配的だったのも、温かい見守りの葉書の言葉のお蔭だったかも知れません。
今から思えば、どうも松原さんは、たくさんある読者リストの中から、ちょうど地図の上をなぞるようにして適切な人を調べ、この人に差し出そうと閃いておられたのではないだろうかと思うのです。その当時でも多かっただろう読者のひとりひとり全員に葉書を出すのは、経費の面からも手間の面からもたいへんだったろうと思われるからです。葉書コピーなどない時代だったこともあります。
松原照子という御名は、白砂青松の松原に照るほのぼのとした太陽を思わせます。天橋立を対岸に臨む地で生まれた私には、その光景がいっそうわかる気がするのです。しかし、そこは本来、蓬莱島の白砂青松であるべきと思ったりします。
私がグレたと母に見咎められた若い頃(十九歳)、母は祖母にどうしたらいいものか相談したようです。祖母はよく知った評判のいい見立て屋さん(拝み屋さん、今に言う占い師)を回り、この人は(私は)「最上の松に泊まる鶴じゃ」「松下幸之助じゃ」「一生、食いはぐれることない」といった見立てを得て帰り、「特に悪いようには聞こえんかったが」と母に話したそうです。
それでも母は、私がグレたと信じて、ある宗教の錬成道場に入れることにしました。そこでひと月の修行を満了した卒業式の日に、私は破門を言い渡されたのでした。腹の立つ教団。その名は生長の家。今になって思えば、やはりトンデモ教団だったことに合点がいきます。しかし、その反発心がライフワークに導くことになったことは紛れもなかった。この教団なくして、今の私はない。無駄な人生だったとはまったく思わないから、この教団ありて、我いま活在せりなのです。
ところで、祖母の持ってきてくれた「最上の松に泊まる鶴じゃ」は、2000年9月に有効化します。不思議な霊能女性との出会いで、私は鶴、彼女が亀というとりあわせとなり、不思議人生が起動することになりました。初めての出会いの場所は、中国の華僑の建てた移情閣。そこは「蓬莱第一」を旨とする風雅を好む趣向にあふれていました。そこで実際に語らった、御伽草子の「浦の嶋子」物語。私は嶋子(浦島太郎)で彼女は乙姫。二人は元々蓬莱島に住む鶴と亀の精であり、時来たるを悟り、衆生世界に現れて瑞象を演ずるという霊獣。
僭越な話になりました。申し訳ない。
しかし、私の思いの中の鶴とは、蓬莱島に住む鶴のことであり、いずれ帰還する先は蓬莱島と心に決めています。浦の嶋子は玉手箱を開けて骨灰と化し、魂魄ぬけて鶴に変じて蓬莱島へと去って行きます。そこが我が故郷。そこで、何事もなかったかのように、鶴と亀とは睦まじく暮らす。時が来ればまた物語を演ずるために衆生世界へと行くことも。それまでは・・・。
そのような光景の中に、いつもあるのは太陽でした。朝日か夕日かを問いますまい。「それで OK!」と無条件に認可を与えてくれる穏やかで温かい陽光がそこにはあります。