異界の名探偵オクンドにはこんな基礎と塞翁が馬があり申した

いま人気の関暁夫さんは、関が開く、堰が開くというとても言霊的にいいお名前。これからの時代の担い手を予感させるものがあります。これは本名らしいので、親様がいい名づけ方をされたのでしょう。
飛鳥昭男さんもまたいいてせすね。飛鳥は日本最古の都が置かれた場所、明日を開くという意味があるように思います。こちらはペンネームでしょうが、名は体を顕わすようになるものですから、よろしかろうと思います。

安倍さんのアベは古代の部の民制の頃からある旧い名前で、新規開拓者の意味合いのある新時代を先駆けるにふさわしいお名前。
麻生は朝に生まれるという、これもまたいいですね。そこに甘利さんの天の理が加われば、鬼に金棒の新時代幕開けを飾る3Aトリオが揃い踏みすることになりました。

しかし、日本の3Aリーグはまだ米大リーグからすれば格下です。ときおりすごい選手を米大リーグに送り込みますが、やはりヤンキーからすれば、イエローなのも手伝い、格下に見られてしまいがち。
またそれゆえにいいことも多くあります。柳に風の飄々たる物腰に、今まで平和に世渡りしてこれたのだと思います。これからもそう願いたく思います。

さて、オクンドの場合は、本名からして「異界の深奥の扉を押し開く」という言霊をしております。この姓名も、我が父が幼少の頃、養子に出されたことに発します。実家のほうの姓は小じんまりとした生真面目そうな姓で、もしそのままの姓を引き継いだのであれば、私はどこかの地方公務員ぐらいで終えていたことでしょう。しかし、養子縁組先が「異界の深奥の」という意味の姓だったことにより、本名からしてゴロが良く異界の探偵職を襲名することになりました。姓名は天職を表します。意味深な暗号名のような姓の方もおいでですが、私のものはいたってストレートです。

我が父も、後で養子に出されていたことを知り、不本意だったかも知れませんが、物心つかぬ頃のこと、三人兄弟の次男として生まれ、丹後半島の最北端の小さな漁村ゆえに、家系が途絶えようとしている家の養子縁組を村長に薦められ、貧困だったことからひとり男子を出すことにしたという次第だったようです。これも塞翁が馬と申しましょうか、それによって今の我あり、異界の名探偵オクンドを輩出するための基礎になっていること、ずずずいーと、お見知りおき願いたく存知奉りまする。

さて、オクンドの場合は、本名からして「異界の深奥の扉を押し開く」という言霊をしております。
と申しました。

ところでこの事実に私が気づいたのは、2001年になってからでした。
というのも、前年9月27日の移情閣シミュレーションに続き10月6日鳥取西部地震が起きたことで、もしかすると異界の扉が開いて火の鳥が飛び立ったわけで、いったいどうしてなのかを様々に推敲を巡らしていたからでした。

そこでこの事実を移情閣の彼女に伝えると、「うん、そのことは知っていたよ。だからあのすぐ後で、こんな短歌に詠んでるでしょ」と、当時二人の共通の趣味として、応答恋歌を歌い合っていた中に、その歌があることを示してくれました。ここに歌い込まれているでしょ、と。

この胸の 一番奥の 戸を開けて 黄金の鳥 今解き放つ

その3月末には、千数百年前に作られたキトラ古墳で、火の鳥”朱雀”がまさに飛び立とうとする姿で描かれたものが見つかりました。
火の鳥復活の兆候はあらゆるところで揃っていた。
それを感じ取った彼女の歌でした。そこに私の名前を織り込んでいるのですね。
それゆえ私は、キトラの四神獣のうち、朱雀のパートを受け持つことになったのです。
彼女は玄武を受け持ち、最初の彼女は青龍でした。(白虎は当時、未定でした)

私の塞翁が馬人生

私は以前にも書いたように、5歳の頃、盆踊りの光景を生まれて初めて見て、ここは魑魅魍魎の世界だと感じてぶっ倒れそうになったこと。

以後、この世界のありとあらゆるものに対して猜疑心と怖れを抱くようになり、特に対人関係では当たり障りのないようにすることに腐心しました。小学校では、話し相手に対して必ず「さん」や「くん」付けをしましたから、関西では男の子の間では呼び捨てが当たり前の風土にあって、なにをしとるんだとばかり、いじめに遭いました。するとまた余計に引っ込み思案になるといった具合でした。

五年生のときに盲腸炎になり、一週間の入院と一週間の自宅療養をして、家の中での引き篭りが心地よくなり、学校から帰ると近所の子らと遊ばず、漫画をいっぱい読んだことで、家で空想にふけるようになりました。

当時、ピストルのプラモデルを4つばかり持っていたので、それが別格の優秀なキャラで、あとどこかにあった寄せ集め的な小道具、ガラクタ類が空想の世界のキャラになりました。
その空想の中で、私は宇宙創造をいつしかしていたのですね。

彼ら玩具でなる10数人ほどは、元々ある程度知性がある人間のような存在といった設定で、彼らが漂白するうち、奇妙なまん丸の透き通った玉を見つけるのです。それを手に取っているうちに、思ったことがその通りになることに気付きます。
ピストルの最も優秀なリーダーが、これはどんなことでも思いが叶う性質があることを発見するのです。そしていろんなものを叶えていくのですが、たとえば玉から絵の具を作り出し、それで描いた世界に入っていってしまうということまでできるんですね。

トンネルを描けば、そこに入っていける。それから先は、玉を持っていさえすれば、どんな出口世界でも創り出すことができるというわけです。

それで彼らは一つしかない玉を持ってしばしみんなで新世界の旅をするのですが、自分たちの老いを何とかしなくてはならないということで、リーダーは玉の分割と、みんな一人ひとりが一つずつ持つことを考え付くのです。彼らは同じ性質の玉をたくさん作り、いちいち手に持っておくのは面倒だと、それを飲むことで自分と一体化して、自分が玉の性質を受け継ぐという具合にしたのです。つまり、何でも思い通りという全能性と永遠性が、みんな個々に付与されたのです。

彼らにも子孫が生まれ、また旅するうちに知り合う者も多くなり、入魂の者に玉を付与するといったこともあり、人口は増えていくことになりました。当時はまだ、悪事などというものはなく、みんな信頼の種族でした。リーダーはそれでも、みなが様々な宇宙を考え出すわけですから、巡回指導に当たるようになります。私はもっぱらリーダー達グループのストーリーに熱意して、様々な宇宙を創り、その中で旅をしていく面白さに熱中しました。当時は「宇宙家族ロビンソン」といった連続テレビ番組もあって、そこからヒントももらいました。ディズニーランドもそうです。冒険ものに熱中し、それを空想の世界での創造活動に充てていました。

はて、このような話、どこかにありましたね。そう、「あめなるみち(天成神道)」で創造神が独白した内容にちょっと似ていませんか。何でも思いつくことが叶う。そのような自分を多数分割して、創造行為を続けていくというのは、まさによく似ています。だから私は、この独白のページを見て、むしろ上から目線で読んでいたのです。そうだ、このような表現方法もあるだろうと。

そして、「あめなるみち」を読んで、そうだこの世界は、玩具のハンマーが創った宇宙ではないのかと思い至りました。ハンマーはちょっと独立心が旺盛で、リーダーの意図とは相容れないところがあり、試行錯誤が多くて、よく失敗もするのです。こうと思ったら、どんどん行ってしまい、その場その場で諌めることが難しく、リーダーが常に見ているわけにも行かないですから放っておきます。

ちょうどそうした宇宙創成物語が神話ゆえに必要だと、新神話に書いているある日、ネットでデンバー空港の壁画を話題にしていたサイトがありました。秘密結社系の気持ち悪い壁画や馬の像。それをいくつか見ていくとき、ああっ、こんなところにハンマーのやつ、自己表現しているではないかと、見つけてしまいました。
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この絵画は、おそらく救世主の少年が、軍隊を破壊している様を描き、庶民がそれを賛美しているふうに描かれているものです。ところが、少年が手に持っているのは、ハンマーではありませんか。
お・お・おまえ、結局おまえが救世主なのかよ、とハンマーの宇宙のストーリーの自作自演ぶりには目を丸くしたのでありました。

ハンマーとは伴魔、悪魔を混在させた世界を初めて創造した神のことです。こんな傾向が他所の世界に飛び火してはたいへんなことになります。ハンマーよ、リーダーに従えないなら、全能性を取り上げることも視野に入れねばならないがどうだと、ただいまのところ意向打診中といった一幕でしょうか。
この宇宙および関連宇宙は、ただいま強固なファイアーウォールで隔離されているといったところ。
新神話では、そのような設定にしています。

さて、私が六年生の頃にもうひとつ関心を持った書物がありました。父の蔵書の中にあった古くなった医学書でした。紙の端がほころびるほどの使われ方をしていましたが、それを読むうち、引き込まれ、ぜんぶ読み通すことになりました。そして学問としては、よく理解できたわけで、弊害というか副作用というかが即座に出ました。人間とは病気の巣窟だと理解したために、それまででもこの世界の魑魅魍魎ぶりの怖さに辟易していたに加え、症状に照らした何らかの病気を抱えていると思い込む不安神経症になり、心臓神経症という脈が速くなる病気になりました。

またその本は、戦前か戦中に書かれたもので、文語体で印刷されているのです。たとえば今なら気管支炎なら、気管支が古い活字体印字で、しかも気管支カタル(表記は、くわたる)になっているのです。肺炎なら肺カタルですね。「でしょう」という末尾の表現も「でせう」になっているのには慣れましたが、いつまでも理解しにくかったのは、「くさめ」という言葉でした。耳鼻咽喉科の章に書かれていたので鼻が臭う臭鼻症のようなことかと思ったり、くしゃみのことかなと思ったり。後から思えばくしゃみのことだったのですが。
このことによって、古文の読解には得手たわけで、後に古事記の文語体の神話にも、とっつきが良いというメリットもありました。

当時は、外界に出ると伝染病だらけという思いがあり、いちばん嫌なのが学校でした。いじめられたのもありましたし、自己主張できなかったため不利な役回りをさせられ、小六のときは一年間通して給食係りをしました。昼になれば三角巾とマスクをして100m離れた賄い場から、グランドを横切り、教室のある3階まで重い汁物のドラム缶を運んだものです。

お蔭で痩せていても、脚力はついていましたね。今でも、9年の山奥暮らしでまだ一度しかこけて膝を土に付けたことはありません。天狗さんたちが守護してくれたことが大きいですけどね。

中一のときのいじめにはついに激怒してしまいました。心臓神経症ということでいっそう病気らしくなってしまっていましたが、あのときばかりは突然激怒してしまい、机を立って、いじめ相手を廊下まで追いかけ、げんこつを一発頭にくれてやりました。相手は、いたたたたーと、その場に座り込むほど。私が机に戻っていけば、クラスの多くが拍手していたですね。「ようやった」という声も。これにはどう言っていいやら、びっくりでした。日頃いじめられていたのを、みなが気にかけてくれていたのです。

これではきっと仕返しされると、てっきり思いますわね。ところが再びいじめられるようなことはまったくなくなったのです。それもまた不思議なことでした。
中二から、クラス替えもあり、どこか自信もついたか、学校での休み時間にも外で仲間とボール当てゲームの遊びをするようになり、心臓神経症もしだいに解消されていきました。不安というかが軽減し、世の中への対処の仕方にも自信がついたのでしょう。

成績もぐんぐん良くなり、記憶力だけのことでしたが、中三の頃には600人いる中三生徒の中の席次で10番以内にもなりました。
そういうわけで、高校はちょっと程度の高い普通校に通うようになりました。中三のときの担任は、進学校なのでちょっときついかも知れんから、一ランク落としてはどうかと薦められたのではありますが。

しかし、人生は塞翁が馬ですね。大学は国公立と受験に落ちて、大阪の私大が受かり、親には多大な出費をさせながら通学することになったものの、通学時間が乗り継ぎで最低でも立ちっぱなしの1時間半。着いてみればゲバ棒持ったヘルメットに覆面の学生が校門から校内にかけてわんさといて、何とか授業の教室に入ってみれば、三百人ぐらい悠に入るマンモス教室で、黒板の字もよう見えんので理解できず、休講の授業もいくらもありで、これは高校での噂どおり、大学は勉強するところではなく遊ぶところという定説どおりだなと思った次第でした。そして帰りは乗り継ぎがうまくいかず2時間かかり、これはもうアカンわと諦めの早いこと。下宿すれば遊びながら学業もいいかなと思ったものの、家の出費が多くなるためダメだと言われ、これなら早く所得を得てみようと、近隣のゴム工場で働くようになってやがて発覚。
母は私がグレたと思い、祖母に相談して、祖母はよく知った拝み屋さんに見立ててもらいに行くと同時に、ある新興宗教の修業道場に行かせることにしたという顛末でした。

祖母が見立ててもらった私のことですが、別に悪くはなかったがなあと母には言ったようです。
二箇所で見立ててもらって、一箇所では「この人は、最上の松に泊まる鶴じゃ」「一生、食いはぐれることはない」との見立て。もう一箇所では、「この人は松下幸之助じゃ」との見立て。ははーっ、ありがとうございます。
そして精神道場では、ほぼ一ヶ月の修行ののち、卒業式の日に、祖母の見ている館内で、館長から破門をおおせつかったわけでした。おばあちゃん、お気の毒様。

しかし、人生は塞翁が馬ですな。高卒だから就職しやすく、横浜市戸塚区の日立製作所ソフトウェア工場が神戸まで来て採用に動いてくれて入社。しかし、上司のお覚え悪く、臨時員期間を延長されたため一年で退職。
その後、富士通に入社がすぐに叶ったのですが、もう一社採用が面接時に内定していた会社がありました。鎌倉に本社のあるOA研究所というところ。そこの社長と専務がともに母校中学の先輩だったことからウマが合い、絶対来てくれよとまで言われていたのでしたが、蹴っちゃいました。理由は、もう少し自宅でのんびりしていたかったという、ただそれだけ。その数日後には富士通に行かねばならず、ほとんど意味がなかったのですがね。

もしOA研究所なら、人生で社長になれた可能性のあるタイムラインだったでしょう。だって面接当時、従業員は20名足らず。今では400名いる本社と支社を持つ上場企業になっているのです。

しかし、人生は塞翁が馬ですな。2003年に知り合った坂本氏が、彼は超能力者で、タイムラインを選んで遷移する能力があって、第一世界で私に出会ったときは、私が社長をしていて、過去世のよしみで話をしにいったものの、けんもほろろだった、カネ儲けのことしか考えてなかったからガッカリしたとのこと。
彼はいま第三世界に来ていて、ああ元の私に出会えてよかったとおっしゃってるのです。なるほど納得。私も喜んだことはむろんでした。

彼はいっときは私がOA研究所にいるときのタイムラインに遭遇していたのですね。その会社に行かなくてよかっと言うのではなく、私はそのタイムラインもすでに経験して、プレイバックしてすべてを総舐めしているので、大事な坂本さんに対してけんもほろろにしてきたこともあったんだな、その節は会社大事で、申し訳なかったなあといった気持ちなわけです。

まあ、このようなことがあって、コンピューターの基礎知識は身につけた状態で、10年ほどで富士通からも退職して真理探究にいそしむようになったのでした。

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