新世界が稼働中なのは当たり前だのクラッカー

3次元平面に生きる我々が感得できる範囲はとても狭い。
一歩この世界を離れたら、どこにいるやわからない、どこへ行くかわからない。
行ってみて初めて分かる現実なのだろう。
しかし、別の立場から書かれた大局観ある神話・古事記からは、ちゃんとそれがわかるようになっている。
何度もここで取り上げているが、現代は古事記神話「黄泉の国」の段の実演が、この世と言う舞台で行われているところである。
この舞台には、あちこちに雪隠タンクや野壺が置かれていて、しかも中身が観客席からも丸見えと言う、実に不愉快な設定がなされている。
それがまたリアルなんだ。
2014年8月10日未明の夢に、我が家らしいところの台所の下に隠し板がはずれて、ぼっとんトイレのうんこ溜まりがモロ見えという光景が出てきたの。しかもそれが台所に流れ込んできそうなほど溜まってるんだよね。その日は後日、台湾の盂蘭盆にいう鬼月の中日だということがわかったんだ。死者の世界? それとも過去から蓄積したカルマの海? そこに黒っぽい生き物がいて、開いた口からこっちを窺ってるんだよ。それよりキモイのは、
溜まり切った汚物溜めの表面は、モロうんこがふやけて膨張し、何とかパイの表面みたいになっているの。
夢が覚めてから、これは我が家ではないと、何度も心で否定したもんね。
しかし、我が家=この世ということの象徴かもしれないね。そうしておこう。多少、気楽になった。
観客の皆さん、単なる舞台設定なんだろうと近づいて、手でそれを掬い取ってご覧な。
ぷ~んと、あれのにおいがするんだから、おいおい、これは本物かよと、劇場トイレに駆け込んで、石鹸でしばらく手を洗うこと請け合いだよ。
席に戻ってみれば、もう役者さんたちが舞台で演劇やってるじゃないか。
しかし、こんなぷんぷんたる臭いの中、役者も何やってるだか。観客も、もうどうでもいいと、観客席の後方部で立ち見している有様。
まあなにか、遠くから見れば、役者なのか蛆虫なのかわからない、台本に載っているのか載ってないのかわからないような、蠢き方をしているんだわなあ。
これが「黄泉の国」という演目なんだと、後になってからでないと思い出せないほどの気持ち悪さなんだよ。
やってる役者は大真面目。見ている観客どっちらけ。パパンガパン、パパンガパン、誰が殺したクックロビン・・・(^^♪
まあ、内容は、ここを見てください。⇒ 黄泉の国
不思議の国でも鏡の国でもありません。黄泉の国。
迷い込んだら百年目。
そこの魅力に取り憑かれて、もうしばらくいたいという心になるそうだけど、私はごめんだね。
さてそんなわけで、ここで書いたように、ここにはおれんと、マジの世界に行きたがる人々が増えるという傾向、これは致し方ないですね。
では新世界と言われるイザナギの渡せる世界というのは本当にあるのかどうか。
なかったら、行き場を失ってしまうもんね。
大丈夫と思いますよ。
なぜなら、神話・黄泉の国が実際にここにこうして実演されてるじゃありませんか。イザナミの黄泉の国は確かにここにある。
ならば、イザナギの渡った世界もすでにあるにきまってるでしょ。神話の保証がついています。
イザナギの世界がないのなら、当然、イザナミの黄泉の国もないことになる。
ところが、現実に目の前にあって、みなさん役者さんしてるじゃないですか。
もっと野壺にしっかり漬かってください。身体がふやけるまで、まだ少し時間がかかりますよ。
なに? 嫌だ? そんな役者は懲役300年だ。
黄泉軍(よもついくさ)に捕まったらさあたいへん。黄泉の国の栄養を注入されて、あなたもバタリアン。
だから、すたこらさっさと、イザナギは遁走したのです。
そして、身に着けているものすべてを投げ捨てて、川に飛び込んだ。
そして、手についた汚物やら何から何までみんな洗い流しました。
それを禊と言います。
一般の生き物たちは、すぐにきれいになります。
しかし、人間だけはアクが強くてねえ。
針の孔を大金抱えて通ろうとして失敗するんだよね。
だから、それを駱駝が針の穴を通るよりも難しいと表現したのです。
失敗したら、黄泉の国に舞い戻り。いつまでもうんこの海を我がものにしてください。住めば都、野壺も一定住処ぞかし。
うんこは黄金色。
へっへっへっ、お代官様。きなこをたっぷり入れたお餅を持参しましたから、どうぞよしなに。
ふっはっはは。越後屋、そちもなかなかのワルよのう。例の油の許認可、してつかわそう。
お代官様も、なかなかのもので、私など足元にも。ありがとうございます。
まあ、ここで言いたいのは、イザナギの世界はすでにあるということ。
見えないから、あるのかないのかわからないという恐怖。仕方ないものはあります。
しかし、神話は現実をしっかりと誘導しています。
イザナミの世界が目の前に如実に存在するのに、どうしてイザナギの世界がないと言えましょう。
2013年12月11日未明の夢で、デス体験しました。といっても、臨死と言うのではなく、肺から息がすべて抜けきっていく体験の後、ただちに透明の身体になって空を飛んでいました。千の風とはこのことか。しかし、コントロールの効く滑空でした。
その前夜、私はイザナギの精神を実行してみたんです。この世のものすべての喜捨の心。するとその翌朝、さような夢を見ることになりました。
実際の死は、もっとどたばたしたことになるでしょう。そんな心を催している閑などないかもしれません。でもね、心の訓練というか、練習はしておいたらいいんじゃないかと思います。地上の欲が減ることは請け合いです。
しかし、この舞台、悪臭がひどいねえ。
まあ、なるべくなら、生きるところまで生きて、死ぬるときは喜び勇んで参ったらよろしいかと思います。

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