生き物の不思議は続き(第n回目)

ムカデ、ミツバチ、蛾、アリに続き、今度はセミです。
セミは種族によって、鳴く時間帯を明確に分けている感がありますね。
中でもヒグラシは、朝と晩の比較的涼しい時間帯にだけ「そそ」あるいは「よよ」と音を発して鳴き、その声どことなく物悲しく、山暮らしの身には同情的に聞こえて、鄙びたいいひと時だなあと思うことがしばしばであります。
そのように、時間帯を取り決める何かがあるのかもしれない中に、真っ暗になっても、思い出したように、あるいは寝言のように、森の中から「コー」という声がするときがあります。
セミ、特にヒグラシが、連続的に鳴かずに、つい粗相の声を漏らしてしまったといった感のある声なのです。それが、「コー」あるいはもっと縮まって、「コ」と聞こえるのです。
実は、ここ数日、当地は夜も蒸し暑く、私は家の中で寝ているわけにはいかず、とうとう半完成ながらも、ベランダから地続きにした倉庫の屋根に、テントを張ったりして暑さをしのごうとしたのでした。
一日目は、テントの中も蒸し暑く、午後九時過ぎぐらいから、気温が下がったものの、夜半に、テントに持ち込んだ布団類が湿気るという事態に見舞われ、ちょうど家の中も涼しくなったこともあって、寝床を変えるというようなことをしたわけでしたが、二日目は、防水天幕も張っていることでもあり、直接、布団と蚊帳を設置して、涼風を受けながら寝てみようとて、試してみたようなことでした。
寝入るまでは、煌々と蛍光灯スタンドの明かりをつけていたわけですが、そこにまず蛾がいくつもやってきました。次に羽蟻。これもシロアリの羽蟻ではなく、黒アリのオスということで、無益な殺生の対象にはなりませんでした。
そんなとき、例の「コー」が、出る時間帯を間違えたというより、ちょっと光が差せばその気になるおっちょこちょいとでも言うのでしょうか、やってきたのです。
セミの図体ですから、他の羽虫が音もなしにやってくるのとは違い、ばたばたとけたたましいこと。静寂なあたりに遠慮もせず、騒音を立ててやってきたのです。
スタンドは、蚊帳の外に手を伸ばせばスイッチに届くような距離にあったので、セミは幾度かの場所替えののちに、スタンドの下に落ち着いたのですが、私からすれば手の触れるところにいるわけで、私はまた例によって妄想を膨らませるわけでした。
「おおー、こいつは私に縁を感じて、逢いにきてくれたんだなあ」と。
愛らしくなって指で触れると、「コー」と一声して、その辺に飛んでいってしまいますが、森に帰るでもなく、近くに戻ってきて、こちらをじっと見ています。
また間違えて触れてしまうと、「コー」と鳴いて、不思議なことに、いっそう近い場所にとまるのであります。
そして電灯を消します。しばらく目を瞑り、意識のリラックスをした後に見ると、蚊帳の真上、私の目の前15Cmほどの蚊帳の表にいて、じっとして動きません。
「ああ、こいつ寝てるよ。添い寝してるつもりかもなあ。こんな時間に私の元にやってくる夢見人は誰」などと思いを胸に、眠りに就いたのでしたが、そのまもなしに、天幕を叩く雨音がしてきました。
半時ほどしたころです。雨音が激しくなり、じょろじょろ、ぼたぼた、屋根の上に水がこぼれるような音により、これはもしかしたら、布団に水がつくと思い、電灯をつけてあたりを見回しますと、たしかに屋根の周辺部で、想定した程度の水の流れにはなっていたものの、たいしたことはありません。
見れば、明るい中にも、セミは蚊帳の上でじっと眠っていました。
電灯を消してまた寝入ろうとします。
雨はいっそう激しくなってきて、天幕にも傷ついてできたか、いくつか小さな穴があります。そこから雨水が入ってくるようになったようで、やがて足に、ぽたりと冷たいものが。
「ああーっ」
当然、足は布団の上であるわけですから、あわてて跳ね起きます。
電灯をつけ、蚊帳の外へ出て、取り込みのどたばた騒ぎの中で、いつしかセミはどこかに姿を消していました。
こうして屋上利用二日目も、寝床を元に戻す失敗に終わったのであります。

生き物の不思議(?回目)

今日は晴れて暑くなりました。
半曇りではありますが、30゜以上にはなっているでしょう。
また濡れタオルを背中に、扇風機を回している状況です。
さて、昨日までに雨が降り、倉庫の屋根はまたもや雨漏りしました。
今度はさらに浸水が広がってしまっておりました。
見れば、新規購入の防水シート、というのは名ばかりで、みごとに透過してしまっております。
安くて薄っぺらかったこともあります。軽くて扱いやすかったのは確かですが、今日はシートをみなひっぱがして、今度はポリフィルムシートの、吹けば簡単に舞い上がるようなのを先に敷き、その上にUVシートを敷きました。安普請による工夫、うまくいくかどうか。何度目かの正直と出てほしいです。
シートを引っ剥がしたと申しましたが、昨来の雨水がたまり、小さい池になっていたわけです。まだ日が経っていないので、さすがのボウフラの影はありません。ところが、大きな塩辛トンボが池の周りをいつまでもうろついているのです。けっこう大きいので、威圧感を感じるほどなのですが、どうもこの池に未練があるようです。もしかしたら、産卵したてだったのかも知れません。何度も懇願するように私の近くを飛び、池の土手に停まるたびに、私のほうを向いてじっと見ています。
しかし、そんなものがあっては造作がかないませんから、シートを縁のほうへと移動させ、中の水をジャバーっと下に落としました。
それを見届けて、塩辛トンボはいずこともなく去っていきました。
さしずめ、私は鬼であります。もし、雨漏りさえなければ、屋上の小さな池のひとつやふたつ、残しておくのですが、目的が達せられないことだけのために、残酷なことも知ってや知らずややってしまうといのが、私なのであります。しかし、トンボの思いは痛いほど伝わってきておりました。みな幸せになるような、いい時代になってほしいものです。
ムカデは、あのポリ袋に入れたムカデ夫婦を神棚に祀って以来、一回だけ間違って入ったことを後悔したようなムカデが、殺虫スプレーの照射を甘んじて受けることがあって以来、家の中で目撃したことがありません。ゲジも神棚に祀っていますが、やはり以後姿なしです。私は殺虫スプレーに手をかけるたびに、辛い思いになるのですが、彼らも気を利かしてくれていると思うことしきりです。
いっぽう、1cm級の黒アリが夜間真っ暗な中、家の床を縦横無尽に走り回っております。何度かトイレ起きするから、そのたびにわかります。さしずめ、夜勤で清掃作業をしている清掃婦といった感があり、朝明るくなればいつの間にか姿を消していて、パンくずや砂糖のこぼれなどが、みんな後型なくなくなって、清掃されているのです。
そうかといって、食材をテーブルや冷蔵庫の上の棚に無造作に入れ、砂糖などもこぼしているのですが、この大アリがたかっているのを見たことがありません。まるで人の聖域をわきまえているかのようです。
以後、私は夜勤に励んでいる清掃アリには、「ごくろうさん」と声をかけ、彼らを誤って踏んでしまわないように心がけております。それでも、私の視力もよくないもので、よく事故が起きて、彼らの死骸が横たわっていることがしばしばです。
私自身が不必要悪な存在にならぬよう、心したく思っております。
不必要悪といえば、スズメバチなどはその例でありましょう。こいつはただ獰猛なだけ、人間でも動物でも怖くないらしく、つっかかっていくようです。幸い、私はここで何度も遭遇するわけですが、彼らが襲ってきたことはありません。しかし、偵察するように現れる。そして、警告するように脅していくという感があります。あの重低音の羽音。ときどきコガネムシだったりしますが、空気の振動が少し違います。
問題は、ミツバチがハルンの泉に仕事しに来ているのを、どうやら狙っているらしく、たくさん来ていたのが、最近は2,3匹くらいになってしまいました。それでもミツバチは、けなげなことに、私が居るかとハルンの泉を覗きにいくと、どこにいたやら、上空からぷーんとやってきて、ハルンの場に停まって、愛想よくお尻振り振りしながら飲み出すものですから、私はそうかそうかと、なけなしのタンクを絞って、その近くに出してやるのです。暑いから、生産量がまかなえないので、彼らをがっかりさせないかと心配です。
最近は、夜間トイレ起きのハルンをとっておいて、乾いた日などには補助しといてやります。
こうして、ミツバチとはツーカーの仲となっておるのです。
さてしかし、蛾は蛾でございますな。夜は遊女のような妖艶さをガラスの向こうに披露してくれるわけですが、朝になって、二日酔いかでベランダの床でよたよたして、箒のお世話になるのは彼女らがもっぱらです。
そればかりか、ついに小松菜に青虫をくっつけて、穴だらけにしてくれました。
このため、今日の造作の前に、全部刈り取ったような次第です。
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彼女らの行為が不必要悪とまで言うのは酷というものでしょう。
ピーマンやししとうも収穫すべきはしときました。
収穫前
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収穫はまだ半分
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さっそく焼きピーマンにして、醤油をかけて食べますと、これがまた甘いこと。
下手な桃よりよほど美味いのです。
さらに甘いのは、このトマトであります。
収穫前
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赤いのだけ収穫
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これがまた、下手な桃よりよほど美味いのです。

最近、ミツバチは

最近、ミツバチは、私がベランダの出入り口を開けて外に出ると、どこか上のほうで待機していて、ぷーんとハルンの泉跡に降りていくのです。
私は、そうかそうかと、まだ溜まっていない袋を押さえてでも、出してやるようにしています。
すると彼らは期待のまなざしむけてくるのです。
一匹は必ず斥候として来ているみたいね。
そしてしばらくすると、三匹四匹といった具合になっています。

世界は愛だった

理想郷はすでにここにあった。
そして愛は・・・。
ここ数年、私は起きてくる出来事に、一連のシンクロを感じ、その意味を読み取ることで啓発をずっと受け続けてきた。
最近の啓発に満ちた衝撃的出来事は、藤澤ノリマサ君の音楽を知ったことだ。
特にダッタン人の踊りは曲も歌詞もすばらしかった。

[歌詞]
もしも今 すべてのものが
簡単に うしなわれても
けっして消えることなく残る それは愛
この世界が滅びて 最後のロンド 踊る日が来ても
あなたへの愛は幾千の 時をかさねて ここに刻まれる
消えることなく永遠に
未来など誰も知らない
真実は過ぎた日々だけ
ただ今は願い祈ること しあわせを
この愛は育ってく やがて広がる 大きな炎へ
苦しみや悲しみを超えて 燃え続けてく 暗闇の中を
光がさす場所まで
静寂と闇の中で 心とぎすませば
聴こえるよ 愛の歌が
愛は消えることのない炎
命をかけて 守りたい者は
君だけ

これは一種の異界交信と言っていいだろう。必要なものが必要なときにやってくるタイプのものだ。
彼の歌の歌詞によく出てくる「愛」という言葉。私はその意味がよく分からなかった。
汝の敵を愛せよと言った人の愛の意味は、許しだったろう。それは、とてもできそうにない許しを、無理に作った許しのことだ。それが愛というものなのか?と。こんな違和感を伴う愛など、愛とは呼べるわけがない。
愛は地球を救うとかいう人の愛とは、利他の心のことだろう。これも近づいた感はあるが、どうもしっくりしない。というのも、何か他人から強制されてやるような感があるからだろう。自分の思いや意志があってのことなら別だが、どうして慈善家である必要があるのか、という思いが違和感の原因なのだ。
ところが、ノリマサ君が歌っているときの「愛」は、力と心がこもっている。それはいったい何なのだ。それこそ愛と考えられるのに。
歌詞の中の「最後のロンド踊る日がきても」のフレーズにまず衝撃を受けた。
我々戦士は誰もが最後の日に、世界最後の踊りを踊ることになる、とはトルテックの時を駆ける戦士のドンの言葉だ。私はそのとき、どんなBGMで踊ろうかと、昔から曲の選択をしていた。高校時代は、ショパンの別れの曲だった。20年前には、久保田利伸のMAMA UDONGOの日本語版スタジオ収録曲だ。そして今、ノリマサのダッタン人の踊りにしたく思う。炎の美声を心の底から振動させて踊るつもりだ。戦士として最も誇らしい瞬間になることだろう。
「この愛は育ってく やがて広がる 大きな炎へ
苦しみや悲しみを超えて 燃え続けてく 暗闇の中を
光がさす場所まで」
私の前に照らし出される出来事の葉の一枚一枚に啓発と導きが必ずある。
そう。そうなのだ。無明の闇の中を燃え続けて照らすものが愛なのだ。世界は愛のために存在し、愛は世界のために存在していたのだ。世界は無明でなくてはならなかった。
愛は、生きているということだ。世界の中心に立ってこうして生きているということ、そのものなのだ。私はそれをビジュアルに体現している彼の姿の中に愛を見て共感して、私の心の奥底、魂が共振して、ものすごいエネルギーが溢れてくるのを感じている。
私が今ここに生きていることが愛なのだ。幾千の時をかさねて、大きく広がっていく炎なのだ。
私の愛に照らされて、世界が踊っている。たとえ世界が滅び、最後のロンドを踊って見せるのだとしても、私は広がり強くなっていく愛の主体として燃え続ける。
光さす場所まで。光さす場所に世界を導くまで。光の中に至れば、炎は要らなくなる。愛の炎は世界を救う救世主のことだった。
私のいるべき理想郷は最初からここにあった。
そして、世界の中心にある私は、愛そのものだった。
同じことが、みなさんにも言える。
愛の戦士たちよ。その名は、セーラー? ん?
では私だけでも。愛の戦国武者、直江? ん?
てなことはなく、そうだ、笑うセールスマン、喪黒服蔵。
ど~~~ん