発狂的真説
天神地祇の理論
神話力学的に見るとき、天神は人類を地祇の平和に暮らす地球にある計画の移殖のために下ろしたのである。
天神はこの際宇宙人と読み替えても良く、宇宙人と地球古来の生き物たちとの攻防がこのとき始まったと言っていい。
しかし、宇宙人は圧倒的な制圧力によって地祇を強伏した。
そして、人類を強制的に移住させたのである。
そのときに、地祇に対しては、表世界に出ず、物陰に隠れているように促した。地祇の長は地祇全体をそのようにとりまとめていくことを約束した。
以来、地祇は人間の行動に対して、露骨な集団行動をとるようなことはせず、一部的に親密にしたい人間を特別に援助したり、テリトリーの侵犯などのときに感情的な敵対行動を一部的にしたりする程度となったのである。
一方、天神は人間に地祇と交流する力を与えない施策をとった。見れども見えず、聞けども聞こえずと、感覚(観測)上の能力を殺いでいったのだ。
だが、人間はそもそも地球にあった生き物の遺伝子を土台にしていた。だから、その能力をすべて殺ぐことはできなかった。注意力のある者は地祇の世界を感得し、見えない聞けない人々にシャーマンとして伝えたのである。
ここで重要なのは、人類は天神と地祇の両者から孤立して創造されているということである。
根深い地祇の天神系への不信。いつまでよそ者の横暴するに任せているのかといった議論が地祇の間で交わされていたのは、すでに昔のことである。
だが、地祇は戦争に負けて地球を明け渡した格好になっていたから、いつ戻してくれるのかといった話も空虚なものであった。
そのうち、地祇は人間が地祇的な感情を併せ持つことを知り、そして喜び、新たな仲間として認める動きもあった。
だが、天神はそのようなことを許そうとはしなかった。
人類には、人の第六感以上のものから次第に乖離させるべく、また計画の進行もあいまって、人の心を平和から攪乱擾乱の方向へと加速させていったのである。
目先欲に人々を駆り立てるマネーゲームの坩堝に放り込み、あらゆる階層において心が休まる状況を作らせないようにしていった。
そもそもの天神の人類移殖計画は、宇宙の存続に関わる重要な計画のもとにセットされていたのである。
それは、この宇宙はそのままにしておけば数百億年の後に萎縮し崩壊してしまうと測られていたことによる。
それを延命させるのは、生命力の活発な動きとされ、とりわけそれを誘導するのは、生きたいという精神波動であると科学的に結論されたのだ。
このために、宇宙の様々な拠点にこの種の精神波動惹起のためのシステムを構えたのである。そのひとつが地球であった。
この閉ざされた生命系の中で、最も効率的と考えられた善悪混交の演劇をやらせれば、そこから生産される精神波動エネルギーはある程度確保される。
それを他の未発達惑星へと照射していけば、同類の進化を遂げる惑星生命系ができていくというわけである。
これ以外に、地獄モデルという戦と怒号に明け暮れる生命系の普及ではどうかと測られたが、これは逆に生命力の不活性を招くことが分かったため、地球モデルに悪の要員を送り込むための補助機関として据え置かれた。
地球人においても見込みのある者はここに送られ特訓されるのである。
地球はこうして、いくらあがいても幸福とは無縁の世界となったのである。むろん、功過によって幸福な一生を過ごせる者もいる。だがそれはごく一部の理想状態であり、努力目標の好例として掲げられる程度で、ほとんどは精神不安定の状態を揺れ動かねばならないのである。
ただ、人は死ぬとき、一生の中でしてきたことの整理をさせられると共に、そこから査収されるべき個人的な悟りを学習する。それと同時にやってくる愛ある存在との邂逅は、彼をして最大限に安らがせるひとつのプログラムである。
そして、地球上でしてきたことの功罪を背中から下ろす。
それは彼が本来天神などと同格の意識原理の目を持つゆえに、最後に計らわれてもいいはずの摂理としてあてがわれている。
いわゆる「お疲れ様」摂理なのだ。
こうして彼はいったん地球上の事象とは離れた存在となる。
しかし、様々な未練などが転生の域にとどめるため、何度でも再来を繰り返すというわけである。
人類はこうして、天神からの愛のない擁護と地祇の怨念の間で暮らす孤独な存在となっている。
山古志村の大地震
山古志村を大地震が襲ってちょうど一年となった。
神話には古志のヤマタノオロチが年々やってきて処女を食うと書かれる。
ヤマタノオロチは火山帯地震帯の意味である。
それをかつてスサノオノミコトが一計を案じて抹殺した。そのときに使った計略と言うのが、垣を作り廻らし、その垣に八つの門を作り、門ごとにサズキを結って、酒を置くというものであった。
オロチはその酒を飲み酔いつぶれるだろうと考えたのである。
その表現、八門遁甲を想起するむきもあろう。諸葛孔明が敵軍を死門に導き壊滅させたといった妖術だ。
その原初の形は、マウンド作りであった。
地祇との交流がないために、人間は何も知らずにいろいろな経済活動を行う。
そのマウンド群が今や崩壊の一途を辿り、オロチも復活するという象徴的な出来事として、山古志村大地震は起きていることを、神話は暗示しているのである。
突然のオロチの活動は、天神にとっては人界に擾乱をもたらすひとつの綾に過ぎない。
しかし、地祇の側の反動の規模が大きくなるのを押さえ込むべく活動はしている。
UFOがなぜ地震などと関連して多く出るか。
それは計画にそぐわない地祇の反動的動きを制圧するという行動であり、その意味において、人類にとってはありがたいことである。
だが本来のあるべき姿はこのようなものではない。
人類は地球に住む限りは先輩である地祇の温情の中で実り豊かに暮らすべきであり、天神の奇妙な計画から乖離しているべきである。
しかし、この方向に人類が気づき、至ろうとした場合は、それこそ「宇宙戦争」の事態となるだろう。
宇宙人。それは何か。
宇宙の永久存続を第一義とする天神の意向を受けて動く宇宙人グループと、まったく傍観者的中立な宇宙の広域にネットワークを持つ宇宙文明がある。
地球を訪れるUFOには、その二種類があるのだ。
そして後者は、地球という惑星の存在意義を知りつつも、同情の気持ちを持って人類を見つめている。
同様に、宇宙にはかつて全域を主催した神々がいた。彼らは宇宙を理想郷にすべく土台作りをしたのだが、クーデターにより邪神に乗っ取られてしまったのである。
権力への野望を持つ邪神たちは、宇宙を権力伸張の土台に作り変えてしまおうとしている。
こうして、天にもある如くが地にもあるという相似像がそのまま地球の支配体制にも端的に現れているのである。
だが、かつての太古の神々は死に絶えたわけではない。
正神たちは今の天神族を邪神であると断じ、宇宙はあるがままに運行させるという当初の目的が捻じ曲げられているとし、これを由々しきことと考えている。
要は、彼らの権利構造存続のためだけの宇宙の寿命論に終始しているに過ぎないのだ。
そのためにとんでもない不利益を被るのがその中に住む有情である。
このゆえに、正神はかつてあった理想状態に戻すことを前提に、建て直しのために総決起した。
正神側の最終兵器は火の鳥である。
これは今、フォトンベルトとして地球に向かっている。
邪神を地球に集めて最終決戦するために。
決戦の最中、地球にもし影響が及ぶようなら、第二の側のUFOが人類の救出に駆けつけるであろう。
そのとき第一の側のUFOにゆめゆめ乗ってはならない。第一の側は次の計画のために遺伝子操作実験にかけるだけだからだ。
時代の間に半人半獣のキメラ生物が幾多いたことに留意すべきである。
以上 奥人説 (様々な神話、伝承をもとに辿りついた仮説につき信憑性のほどは保証しない)
神話級の大地震はこのほか、2000年10月6日に鳥取県西部で起きた鳥取西部大地震がある。
鳥取県の日野町を震源とするマグニチュード7.4という、阪神大震災級の規模のものであった。
ところが、奇跡的に死者ゼロという状況であった。
これに関しては、火の鳥の復活という事象が神話的に考えられた。
当日は旧暦にして、奇しくも九月九日ひのととりの日であった。
日野鳥取という語呂もまた火の鳥を暗示していた。
火の鳥はすでにしたように、正神による王政復古の魁となる事象。
めでたい吉祥ゆえ、奇しくも・・の感がある地震であった。
2004年10月23日の古志の大地震はこれとは違い、大規模な被害を地元にもたらした。
古来より最も警戒されるべき悪しき地祇としての捉えられ方をしていたヤマタノオロチ。
その復活はこの際、必要のないものであった。
今後、火山地震活動が世界的にも活発となる可能性はすでに言われていることであるが、神話的流れからしても言えるのである。
神話的事象がいったん顕れたことで、もはや地元に同じことは起きまい。
しかし、未だに辛い状況に置かれている被災者の方たちの、早い復興復活を心から願いたく思う。