ここのところ、切断と接続のテーマであったような

人類は、知らず知らずのうちに、チャネリングしています。
チャネルとは接続のためのチャネル装置もしくはチューニング装置のことであり、チャネリングとはそれを介して行う、時空(プログラム)とのアクセスおよび情報伝達のことです。人はそれによって、独自の宇宙を組み立てているのです。
独自の宇宙に居る人は、他の宇宙に居る人を理解していません。他の存在を知ったことによる、理解しようという努力があるだけです。同じものを見ている、同じように感じていると錯覚しているだけなのです。
同様に、人が接続する、もしくはアクセスする時空もそれぞれに異なっています。しかし、大同小異という範囲において理解が及ぼし合えているという思いに浸ることで、人類が生まれています。すなわち、寂しがり屋の人の群類的集合が人類なのです。
そのアクセスする方向が間違っていなければ、間違ったことにはなりにくいです。しかしどうやら、今の人類は間違ってしまったようです。滅亡までのカウントダウンの途上にあるようですから。
我々の前には道標が時折示されます。前以て渡されていた地図と見比べることができるように。しかし、事前の地図もすでに間違った方向に入ってから渡されたものであったりします。間違った地図をもとにしていては、先が思い遣られますね。
我々は、生れ落ちたときから、すでに間違った方向の中に生れたことに思い当たらないでしょうか。
すでにチューニング先には時空が与えられていたのです。生まれてすぐにその質の優劣を知ることなどできません。やがてしばらくして、その質の程度を知ることになります。
時空のディスパッチャーとは誰でしょう。確かにそれは存在していて、おそらくたくさんあって、それぞれに電波を発信していて、チューニングしてくるあなたを待っていたのです。
「おめでとう。よく来ましたね。歓迎です。この世界を楽しんでね」
「ふはははは、取り込んでやったぞ。今日からお前は奴隷だ。うまくいったな。では次の餌を仕掛けよう」
いろんな挨拶をされると思います。
ピンからキリまである中で、この世界はどうでしたか。
率直な感想を聞かせていただきたいですね。
しかし、我々には方法が与えられています。それが「切断」です。有意志的にそれを行なうことが必要ですが、なかなかできるものではありません。一定の信念と勇気がなくては。
「美しき緑の星」では「切断」が重視されていました。いつも見ている対象を直覚視すると、今までと異なって見えることがあります。キャベツの葉一枚であっても直覚視すると、今まで見えなかった真実が見えたりします。トルテックのナワリズムでは、これを特別に「見る」という言葉で表していました。今までの「ものの見方」を「切断」して得られる新しい「ものの観方」による知見です。それに習熟すれば、新しいアクセス方向が定まり、人はその方向に向かうようになります。トルテックの勇士の誕生です。
「切断」の一例をはっきり見せてくれたのが、13歳のバーネット師でした。
「学んではいけない。考えるんだ」「習ったことはみんな忘れろ。自分で考えるんだ」
「その分野の生徒になるんじゃない。自分が分野になるんだ」
「学ぶ」とは、既存の世界のことを追認することになります。それが嘘であってもなくても、まず自分に与えられた時間と手間が失われます。また既存の世界という木の良否を知るには、その果実を見れば一目瞭然です。滅亡への道が必然化しているなら、その木は病木か毒木でしょう。それに追随する愚は、賢者であるなら採らないでしょう。自分で「考える」ことはとても大切な「切断」術になります。
予め与えられた地図は往々にして間違っていたりします。
「なんだこれは。神のご計画は、アルマゲドンを以て人類滅亡とは。なんてこった。ゴールは決まっている」
人々はその地図を頼りに、ゴールに向けて絶望しながら、それでいて、その先にあるという神の世界を希望にして歩みます。それは確かにこの時空の真実でしょう。しかし、あなたはそれに納得し了解を与えるのですか? 子供の頃は、納得しないし、いっぱい夢と希望を持っていたでしょう。それが教会で毎日曜に繰り返し繰り返し学ばされて、とうとう大人になってからは、思うようにならない世の中にも絶望して、神のご計画に委ねることにしたのではなかったですか?
その頃には、もう一人前の絶望した枯れた人格が居るだけです。
「トゥモローランド」のアテナは、夢と希望を諦めず困難にもめげずに進む勇士に、トゥモローランドに入るバッヂを与えました。
私は、いま武良さんに、バッヂが与えられたように思います。彼と知り合い同行するようになったのが1994年。彼はそれより十年以上前から、まだビデオ機材のなかった頃から、UFOの姿を追っていたのです。この今、老人となった夢多き少年に、バッヂはもたらされました。彼は生徒にならずに、今や「分野」になったのです。
しかし、アテナの示したトゥモローランドは、悪魔の支配下にありました。選民のみを受け入れ、地球の歴史を操っていました。そして、地球滅亡まであと58日といった時から始まる、一見何事もない世界が映画の始まりです。まるで、今の世界がそのようなこととして、映画にダブります。(デジタル表示が居皆亭的に今の世界のカウントダウンの暗号になっているのですが)
救世主は17歳の少女ケーシーと老年のフランク、そしてアンドロイドのアテネ。
少年の頃のフランクはそれこそ、バーネット師を彷彿とさせる「自分で考える」少年で、不完全ながらも人間ロケットの発明をします。
未来を諦めないケーシー、諦めず「考える」フランク、そこに異界のスカウター・アテネ。
彼らの活躍で、せっかくの未来都市トゥモローランドはいったん邪悪な者とともに破壊されますが、そこからの再建が新世界のトゥモローランドで開始されるというエンディングです。
たくさんの人々がそこでは必要になります。絶望しない人でなくては務まらないのです。
夢と希望と存続の方向にチャネルさえ調節すれば、誰でもバッヂを手に入れて、トゥモローランド再建に協力できることになっています。
古事記にも、黄泉の国を脱したイザナギの新世界として描かれています。なにもかもかなぐり捨てて、すっぽんぽんになってゼロからスタートするという設定になっています。
黄泉の国とは、今のこの世界そのものです。⇒ 「黄泉の国」解釈
そのように、古事記の神話は、知恵の預言書として機能してきました。しかし、誰も教訓として用いることはしませんでした。そもそも、折々の為政者は何が書かれているかさえ知らなかったのでしょう。
では、何に使われていたか。それは預言であり、神のご計画としての書としてであり、それに忠実に歴史は従わねばならないとする、歴史のコントローラーのための指令書として機能したと解釈します。知る者は必ず居て、彼らだけの秘伝であったのです。
要はメルヘンこそを重用するのがコントローラーであり、作られたメルヘンをいかにいいものにしておくかが、問われているのです。それに瑕疵がなければ、歴史はまったく問題ないようにもできたはずなのです。
西洋では旧約聖書がその役割を果たしました。ルター以降はそれがあからさまになり、万民がそれを読んで、神の威光にひれ伏しましたが、日本ではコントローラーだけのものに据え置かれたのです。
トゥモローランドも、救世主により破壊されるまでは魔の支配下にあって、エッフェル塔からは歴史誘導電波が地球上に発信され、人々はそれにチャネルを合わせて、まるでレミングの如く川へと向かいました。暴動、核戦争、人口削減。みんなその足音に気付いているのに、渡された地図がそうなっているので、諦観で臨みました。絶望は滅亡に至るということを映画は示しています。
いっぽうトゥモローランドでは、選民だけの裕福で超文明的暮らしが行なわれている。その両者を支配し監視する魔の総督。
まさにアヌンナキ的かつ居皆亭的だなあと思いますよ。
こちらでもそろそろ救世主が必要になっている昨今ではないでしょうか。

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