4月14日のこと

4月14日のこと
私はここのところ夜寝ても2時間おきぐらいに目が覚める。しかし、眠ったという思いはあり、不眠だとは思っていない。
そのような短時間単位の寝起きの原因については、飼い猫が起こしに来ることや、尿意が近くてすぐに覚醒させられてしまうことや、寝相による寝苦しさなどがありえようが、意外と、起きている時には思考が混乱して解答が見つからなかったものが、起きざまに思考が整理されていたり、解答が見つかっていたりするから面白いものである。
この脳の自動整頓機能とでも言うべきものが活用できている今の状況は、やはり天与の恩恵によるものと思わざるを得ない。と同時に、あといくばくも残されていないゆえの時間活用が自動的に果たされているような感も持つ。
今この記事を打ち込んでいるのは、午前2時である。この透明なすがすがしく充実した気分の下で、こんな時間を楽しめているのはすばらしく贅沢なことだ。
さて、昨日(4月14日)は、すでにここで紹介を何度かしている水本龍之師の、護摩焚きの秘儀を披露していただいた。
場所は大阪府高槻市の神峯山寺傍の龍光院というところで、水本師はそこの専属祈祷師をされている。当日は、龍光院の副住職さんと水本師の護摩焚き共演・競演(こんな表現は変か?)となり、被験者は私、およびわが妹という按配であった。さて、普通の人がご覧になれば、おかしな表現ばかりかと思うが、それは筆者の私がまったくの素人ということでここは勘弁願いたい。
私は今とても爽快である。やはり神峯山の霊気に浴し、このようなところに居れば心身もリフレッシュするのが当然というものか。とにかく、先の3月31日の龍王山登山の強行軍にもかかわらず、心肺機能の改善したことに次いで、またも心地よさに満たされている。
わが妹はパーキンソン
そうなのである。2008年6月にそれとわかった。頭に覆い被さるような不快感や平衡感覚の不調から始まった症状を、専門医とされた神経内科、心療内科、脳外科などを巡り、原因不明といつも診断されていたものが、ある鶴の一声で診断が確定されることになった。そう、鶴を自称するこの兄の私の一声によってである。叩けよさらば開かれん、求めよさらば与えられん。妹はひたすら原因を求めたゆえに、こんな素人の私によってさえ、解答が与えられたのだと推測する。
そして今、亀であり龍であられる水本師によって、治験が試されているというわけである。
映像は、副住職さんによる護摩焚きと、続いて水本師による護摩焚きの模様である。許可を得て、ここに掲載する次第である。


さて、妹はドーパミン系薬の投与によって、杖を突きながらの歩行は可能なるも、筋力の衰えから腰のすぐ上の背骨が変形し、それが神経を圧迫して強い痛み(神経痛)を下肢に引き起こしている。座ると体重で負荷がかかり、車で搬送するのもようやくである。
それでも本人は一人住まいに徹して、最近の介護制度のうちの低いレベルのものを利用するにとどめて頑張っている。まだ動けるということと、介護付き老人ホームなどの供給量が乏しいせいで、このような次第であるらしいこともある。しかし、彼女の忍耐力にはほとほと感心するし敬服してしまう。よくそんな痛みと不調に、人は、いや妹は耐えられるものだと思う。
人の痛みはよくわからないという言葉通りの私であり、私は自分の痛みは何とか逃れようとするものの、妹の痛みにはどうしてやることもできないという立場で傍観するのみだ。
護摩焚き後の妹の具合を観ていただける懇談の中で、水本師はおっしゃった。
天は人に、耐えられないほどの苦痛は与えないものだ、ここまで我慢できるのは、天がこの人を耐えられると見越してのゆえだろうと。
私は、それを聞いて、すごいなと感嘆した。
水本師は、ご自身が、苦痛に耐えられないゆえにそのような試練は受けたことがない、耐えられないから与えられたこともないとおっしゃっていたが、ご自身、多くの修羅場を潜ってこられたことを語られ、人それぞれに何か課されたものがあるのだろうという締め括りをされた。  
私は横から横やりを入れて、この人は(妹は)神様信心しているのに、神様に何とかしてくれと一度も頼まないんですよ、と自分の被ってきた神様の恩恵について示そうとしたが、妹はさらさら関心がない様子だった。
妹を連れて帰る道中で、神様への悲痛な訴えによって(今から思えばさほど悲痛でもなかったかも知れないが)、私は50歳以降の人生が望む方向に好転したのだということを話したが、やはり関係ないというふうだった。
それも人生といえば人生。何かそれを通して得られる魂の成果があるのだろうと思うしかなかった。
思い測ってみるに、妹はたぶん、地球を卒業していくのだろう。エドガー・ケーシーの話からすれば地球から脱出的転生をするのは至難の業ではない。それをしていく者というのは、独特の主観を持ち、人生模様を展開するように思える。私の親族の女系はみんな業(カルマ)を悲惨さを通して解消して去って逝ったような感がある。私の祖母も母も叔母もそのようだった。今は仏壇でみんな祭って、幸せであるように祈っている。(いっぽう、男系はみんな罪作りの阿呆ばっかり(笑))
さて、そのような魂は次にどこに行くのだろうとか、ついくだらない思いにも浸る。妹はむかし、一個のUFOに乗って、地球上を航行した夢を見たという。そのUFOは意志の力だけでどこにでも飛んだという。彼女の飛んだのは、未来の地球だったらしい。しかしそれは、広範囲に赤茶けた砂漠の様子であって、ところどころに緑が散見されたというから、なるほどこのままいけば地球はそうなるだろうという印象であろうか。まあ、人類のすることは、決して彼らがしたいわけではなかろうが、どこかからシナリオ付けされているようにも思う。その理由も、ここが様々な試験の場であるとすれば、善解釈もできようというものか。
しかし、私にとっては有難迷惑だ。バシャールなどは、この地球人生は大学院コースだなどと言っていたが、私は、このオタメゴカシ野郎が、と思ったものだった。
私にとっては、邪神徘徊の、どうあっても正神に挽回してもらいたい地球の素性がそこにある。
私にとっては、人類とは未だ解放されていない、必ずや解放されねばならない、捕り籠められた存在なのである。
私の創る新神話では、すべての有情の魂が救済されるべき存在なのである。子供っぽい理想論かも知れないが。
だから、こんな大学院なら、取り潰してしまうことさえも妥当というわけだ。
私の大学時代(といっても一年で中退したが)には学生騒動がモロにあって、権力に対する反抗が見られた。
当時は遠路かけて登校してまで惨禍を受けることはないと、地元でバイトなどしていたのだが、いまなぜか自分自身が学生気分で独りで反抗しているのかなの感があって、それをまたオーケーしてくれる神様がいて、いやむしろ、捨てる神あらば拾う神ありで、捨てられた後で、拾う神に拾われたといったふうで、今があるような気がしている。
いったい、どっちがほんとうデイ。いや、人それぞれに宇宙があって、それぞれに創造主というのがほんとうだろう。どんなことでもやったらいい。みんな認められている。認めない神を捨てて、認めてくれる神を拾うのだ。
しかし幼いかなあ。
私など、今思うに、私の人生はもしかしたら小学生レベルではなかったかなどと思ってしまう。今はもういい歳なのだが、私が小学生の頃に、テレビでいちばん面白かったのが、毎日曜日の夜にあるディズニーランドだった。おとぎの国、開拓の国、冒険の国など四つほどのジャンルに分けて、どれがその週に放送されるかはわからなかったが、私がいちばん好んだのが、おとぎの国だった。メルヘンとアニメの世界。そのときに当たれば、ラッキーと思ったものだった。
この人生、少なくとも50歳以降は、おとぎの国だった。小学生の時に見た「白蛇伝」がほんとうのことになり、バージョンアップされた物語「青蛇転生」(香港映画)がやがて自分の人生に重なって、そしていまは、一度も見たことのない「ガッチャマン」のキャラに浸っている。
おいおい、私の先生は、保母の神様ですか?
それでいいんじゃないんかな。
武良さんの話によれば、宇宙文明はちょうど過去の共産主義国のソ連よりも厳しい体制下にあるという。それが優れた文明ということなら、私はよう行かない。それよりも、どうしてそのような体制にあることが大事なのだろうと思ってしまう。
黄金楽土を叶えて、すべての有情をそこで憩わせることが私のしたいことであり、そのようなところで宇宙創造するのが私の理想とする夢である。ああ、幼いかなあ。放っといてくれ。
いま見ているのは、おらの宇宙、おらの空だべ。

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