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そう、これが末世の症状だ。古事記に言う黄泉の国はさらに糞尿の熟成の度合いを加速していくだろう。最後にまったりとした優れた肥料となるために。
この被害男性、被害女性に起きたような課題が、これからの日本人にも課されてこよう。もう耐えられない、という極限から、さらに飛び越えることまでさせられよう。従来の宗教は、何の役にも立たないことを誰もが痛切に感じ取り、どこにも救いのないことを痛感するだろう。
ヒンヅー教とてこんなものだ。インドが霊大国?、笑わせるな。恥ずべき国よ。そんな欺瞞がいつまでもまかり通るとでも思っているのか。
世界の人々は、こうした現実からすべての宗教を見限り、唯一、ルシファーの教理に集まってくることになる。
ルシファーの教理は、人々の心から深刻さ、真剣味、厳格さを取り払う。すべてはバーチャルリアリティだという結論によって。
もう何事にも真剣に向き合う必要はないのだと、すべての人が知るようになる。すると、目の前に起きる忌まわしい現実が、あたかも悪質な映画でしかなかったように認識されることだろう。こうして、彼は罪穢れの観念から自由になる。それが解放への大きな大一歩となる。
人々は生死にこだわらなくなる。財物にこだわらなくなる。彼らは、急かされるような何ものも感じなくなる。食べられればそれでいい。食べられなくともそれでいい。自然に従って、生き死にする姿が世界に充満することだろう。生存本能すらも、それによって超克されていく。
上に立つ者は命令しても誰も反応せず虚空に空しく吼えるだけになる。下にいる者は、煮るなり焼くなりなんなりとしろと居直るだけだ。次々と銃殺されても、彼らはひとつのゲームが終わったとしか認識しない。生死に対して真剣な上司はそれだけで発狂することだろう。こうして為政者というものは意味をなさなくなるのだ。
それは新型のほんものの平和だ。お金や財物がつくる相対的な平和ではない。自然が自然のままでありながらの絶対的な平和だ。それが万民に保証される。思想によって。
死人を収める墓など必要ない。死塁が臭うなら土を被せればいい。焼けばいい。読経など必要ない。意味のわからぬ経文など、その頃には焚書されてどこにも存在しないだろう。人が関わったところに穢れが生じるのが常というもの。こうすれば世界至る所が青山、墓場となって、なお汚らわしさのない清浄な世界になる。