救世主とは・・・ネアンの場合
「天上人の宴」
映画マトリックスの主人公の名はネオ(NEO)。その意味はギリシャ語のNEOS(新しい者)からきているとされるが、ノストラダムス風に解釈すれば、NEW OTHERの略とみなせ、新しい「別のもの」となる。
「・・・7000年には別のものが王国を築く。そのとき太陽は日々の運行を止め、私の予言も終わりになる」
すなわち、救世主の到来を予感させる暗号となっているのだ。
(そもそも、プログラムとしてしか存在しないのが歴史で、有情はそこに囲い込まれて、ただプログラムどおりに動いているだけ。神の化身サイババも言ったように、人はあわれな操り人形なのであり、主催神に知られずに心ひとつ動かすことはできない。というより、心の動きひとつすらプログラミングされていることなのだ。これはインドでは古くから知られた原理。ノストラダムスはプログラムの中から予言的ビジョンを拾い集めて詩にしたのである。ただし、彼の時代から先の未来はかなり分岐していて、そのすべてを条件式を使って詳細にすることなどできはしない。彼は最も可能性の高いルートを示したか、起きるべき要点を示したかのいずれかであろう。時系列でないことから、プログラムのコメント部分をあちこちに散らばった中から引いて記しただけのように思われる)
さて、「天上人の宴」物語に登場するネアンは、奇しくもマトリックスに先立つこと8年前に名付けられた新型の救世主の名であり、宇宙文明との面白おかしい関わりの中で、しだいに救世主としての才覚を発揮していくというストーリーである。
ネアンと名付けられた理由は、安らぎの庵「寧庵」と、その物語の出だしではなっているが、ネアンデルタールからきたとも。それは人類史上最も平和な民であり、そのゆえに滅んでいった種族であった。
そのネアンは図らずも、NEANすなわち、NEW ANOTHERの略となっており、先のネオと意味論的に変わるものではない。ただ、NEOが複数を許容するに対して、NEANは単数を暗示。徒党を組むことがないため、失敗しても自己完結で臨めるということが強みか。
こうしたシンクロは、新神話という救世物語シリーズを通じて、たいせつな暗号の符合材料(キーワード(合言葉))として取り込まれている。
またこの作者は、映画マトリックスが歴史上に登場する少なくとも20年前に、この現象世界のことごとくがプログラムとしての存在でしかなく、意識原理という観測の火を入れて始めて演算結果を得て、世界として認識しているに過ぎない真実を暴露していた。⇒
「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」(日本サイ科学会論文 および 著書「古事記と超古代史」)
それは、マトリックスの基本にある概念と等しいと言えるだろう。
そこで救世主とは、世界の真の仕組みを完全に知った者で、それに矛盾を感じ、根本的な改善策改革案を持ち、最勝の実力と方法を以て、閉ざされた人々とともにいて、マトリックス現実の仕組む艱難辛苦を克服しながら打開の努力する者として描かれなくてはならない。
「天上人の宴」は、単なる夢物語であったという結末となっているが、果たしてその真相がどうであったかは不明である。
というのも、作者の見た夢が物語の起点になっているとしているものの、宇宙人と関わった実体験が、記憶を消された後に夢で追体験されたものという説明も別のところで施されており、ストーリーの最後に出てくる大量のUFO艦隊の出現などは、実際にメキシコ上空や神戸において彼の友人などによって目撃されつつ撮影されていたりして、あながちフィクションと片付けられないからである。
しかしこの作者は、UFOの大量出現についても、古事記の神話の解釈から、歴史のプログラムの最終課程で出てくる必然であるとしている。
というのも、神話は総じて預言であり、”歴史プログラムのインデックスもしくはコメント部分を見てきたもの”と考えているからだ。
つまり、作者の全思考が元よりマトリックス的な世界像をもとにしていて、その一貫性は物語を通じて発揮されている。
だから、UFOがあたかも世の最終局面で人類の救済摂理のようにして出てきたとしても、それはマトリックス上の出来事と覚悟しておくべきことを求める。つまり、いったん救済されると見えても、マトリックス主催者の罠に再びはまる覚悟で臨め、とアドバイスする。
天上人シリーズの更に続編となる「新神話」。そこでの主人公ネアンは、宇宙だけでなく霊界神界にまで広がる舞台で働きをし、”ネオ的な妥協”を許さない「邪悪とその展開の土壌たるシステムの破壊」の方向に舵を切っている。
邪悪側の出方によっては、最終的にマトリックス世界すべての強制的廃絶をも視野に入れていて、妥協して死んだネオとは違った格段の強さが救世主の属性に盛り込まれ、システムのターミネーターとしての機能を併せ持つ者こそ救世主であるとしている。
では、ネアンは単なるシステムの破壊者でしかないのかというと、そうでもない。
あらゆる現象は「梵天の見た夢」というインド哲学に基づき、梵天が夢見に入ろうとする際に、夢の迷宮の中で暴走や迷走から、梵天が帰還できなくなったときの、神自身の救済摂理として救世主が用意されていることを述べている点だ。
そしてストーリーの中身も、現在進行形の迫真性で臨んでいる。
マトリックスは仏教哲学によって解明しやすくなる ⇒ まんだらやさん の ここを参考に
釈迦は真理探求の末、この世のマトリックス的本質を掴み、その捉え方とそこからの脱出方法を伝えていたのである。
マトリックス主催者に媚びて安全を図ることを勧める西洋的救世主と、マトリックスからの逃亡を勧める東洋的救世主。ナワリズムも後者。
いったいどちらが本物か。
救世主を預言する歌
かごめかごめ マトリックスに閉ざされている
かごの中の鳥は 救世主は
いついつ出やる いつになったら出てくるのであろう
夜明けの晩に 夜明けを迎えようとする最も暗い時代に
鶴と亀がすべった 鳳の印と龍の印が合体した
うしろの正面だあれ それを背景にして現れるのは救世主なり
カバラでは救世主についてこう解釈されている。
邪悪サタンとその眷属たちは、存続のエネルギーの淵源を神の火花に頼る。
だから、彼らは神の火花を自分たちの領域に取り込んで逃がそうとしない。
だが、神の火花たる救世主は、わざと彼らの領域に下って取り込まれており、いずれ邪悪を内部から改革もしくは破壊して出てくることになる・・・と。
かごめ歌はカバラの秘儀の流出であろう。