昨年の10月末に、我が家から山道にして4キロ離れた場所の廃屋に運んでなじませようとして、餌と水置き場と猫砂トイレを設けて、家の中をひととおり案内して、どうしても出たがったのが広い解放感あるベランダでした。
高いから安心と思って開けたベランダの窓から、ベランダ伝いに出て、いちばん低いところを探して飛び降りてしまい、森の中につつつーっと去っていき、それが彼女を見た最後になりました。
ウーちゃんが先行してあとの猫たちも運ぶ段取りだったのが、みんなおじゃんになりました。ひとえに、私が怯弱だったのです。ちょっと隣人に、車に上がって傷つけられたとねじ込まれたため、何を動転したか、猫たちの移転先を求めるような失態を。
廃屋を買ってしまった以上は、プラン通りにしようとして、最初にリーダー格の母猫ウーを運んだのでした。
道中、彼女はパニックになっていました。グニャグニャ道で方向感覚も掴めず、ついた先でやや落ち着きを取り戻したものの、ほとんど鳴いたことのないウーが、呼吸するたびに鳴き声を上げていました。
私の弱った心臓はもう、寿命が尽きそうでした。同様に、彼女もこれが最後の別れだと感じたに違いないです。
その翌日行ってみれば、置き餌を食べた跡があり、猫砂トイレの片隅に、おしっこした跡がありました。
いったん帰ってきていたのです。それは彼女に言っていた約束を果たしてくれたもののようでした。
その約束に、私がした約束が、いっしょにしばらく寝泊りするというものでしたが、私はもうウーが帰らぬものと思い、宿泊することもせず、帰ってしまったのです。
彼女はそれから元の家を探す漂泊の旅に出たのでしょう。私をずっと心の中で疑いながら。それでも一縷の望みを持ちながら。
約束を守ったのはウーであり、私はとんだ勘違いの延長上に、きらなる勘違いを重ねたのです。
最愛の猫を、自分の手で。なんという愚かさ。
その後は、廃屋に行くのもおっくうになり、年末26日に餌に異常がないのを確認して、今年の9日に行ってみれば、餌も水もぜんぶなくなっている。もしかするとと、また餌を山盛りにして14日に行けば、山の端が削られている。しかも、白い毛が一本落ちている。いつ落とした毛なんだ。もしや、まだ生きているのか。
19日に行ってみれば、少しかじった跡はあるも、どうもより小動物がした跡らしい。好物のクリスピーキッスに食べた跡はなく、そのまんま。
ネズミかもしれません。長く開けていれば、いろいろ入ってきますから。そして、22日には、やはり小さくかじった跡があっただけというわけです。
そんな錯誤者が新神話などという大それたものを編んでいるとは。むろん、隣人を使って邪神が妨害してきたに違いないのです。うちのメンバー、みんな妨害に遭ってきたのです。猫も。
まあ、そのお蔭で、私は命などまったく惜しくなくなりました。煮るなり焼くなりなんなりとしんさいの気持ち。
この命が尽きた後には、新神話では本番スケジュールが待っているのです。
せいぜい、邪神どもよ、やったんさい。いまのうちだぞ。
しかし、新神話は、何の抑止力にもなっていないんだなあ。およよ。