活躍の場を異界交信掲示板に代えて・・・2012年10月記載分(4)

2012/10/10 (Wed) 12:58:00
>10・10
Q 人間の心が読めるなら、その方法を科学的に説明して  A カメラで 連続撮影
心を写すカメラがあるそうです。怖いカメラですね。
はい。聞くところによると、死後、閻魔大王の前で、生前の行いをすべてフラッシュバック的に見せてくれる装置にかけられます。そして、場合によっては1000問の質問に即答していかなくてはなりません。その結果、再誕生先が決められ、そこへと転生させられていくわけです。
とくに、邪神配下の一つ目監視ロボットが、反逆分子に対しては殊更詳密に、撮影しまくっています。それが閻魔大王にとっての参考材料かどうかは不明ですが、支配神側という見方をするなら、それが提供されているのかも知れません。
私は今までのことのおおかたを忘れてしまいましたが、その装置にかかれば、心の動きから何までぜんぶ見せてくれ、逐一思い出すことになる。情報処理の世界だから、非常に短時間にそれはなされることでしょう。
サイババも神の立場から言ってました。私に知られずに心ひとつ動かすことはできない、と。が、それが邪神の監視の目とイコールかどうかというと、そうではないと思います。というのは、神は情報処理的に次元が上位であり、すべてのパラレルワールドの把握者だからです。我々がその中のどのルートを辿っているかといったことは了知の範囲でしょう。
だから、全善なる神のもとでは、どんなことも許されている。しかし、後天的な邪神の裁量にかかって、ひどい目に遭わされることがあるということでしょう。
まあ、その意味でキリストの言ってる誰しもみんな罪人というのは正しいのです。生まれて母のお腹を痛めたときが最初、それからほんの少し動いただけでも罪を作っているのですから。裁量しだいで、罪はいかようにでも作り出せるものなのです。
キリストは邪神におもねた救世主。いや、邪神には抗せないからと、別の方法で救済しようとした者でした。しかし、確信犯罪者の罪の意識の軽減に利用されることまで、理解していたかどうか。
いっぽう、真の救世主がいたとすれば、邪神を駆逐する者なのではないでしょうか。
2012/10/10 (Wed) 17:37:10
怖いカメラの話が出るのも、最後の審判の日が間近になったためでしょう。
私が、それを怖くないかというと、そんなわけはありません。
しかしね、私はあのとき、魂も何もかもなくす覚悟をして、直上の神に抗議しているのです。それが、何ゆえか、拾ってもらえたのです。私はこれを、命をなくすことを覚悟で臨む、勇敢な兵士として見てもらえたのだと思っています。
誰しも命まで投げ出してまで、いっちょうやってやろうという人はいません。それが永遠の命の元・魂を消してしまっていいなんて人はなおさらです。まず、そんな取引をする御仁はいない。
しかし、私はそれをしました。だから、取引の結果としての50歳以降があるし、神々の領域にまで及ぶ影響力も持たされた。そして、おそらくは、もしうまくいかなければ魂が消し去られるであろうところの、ルシファーの雛形も受け持っている。
むろんうまくいけば、ルシファーはじめ正神の回復がなる。そしてこの世に黄金時代が再来する。それらは、このゲーム空間における実験として今が営まれているから、どう展開するかはわからない。
いいじゃないですか。志が達成できなければ、いわゆる切腹するようなこと。それも肉体ではなく、永遠である魂を捨て去るのです。
そのために、私は独自の宇宙論を構築したのでしょう。インスピレーション頻々として、これを作ったのです。私は言うなれば、命知らずの志願兵養成コースを学んだのかも知れません。だから、それなりの知識が得られるように条件付けされた。この理論を知れば、魂というものの意味と全体の位置づけがわかるようになる。
むろんそれが本当であろうがなかろうが、永遠の命を落としてもいい覚悟を持つことができたのです。インド聖者からすれば、何たる馬鹿なことをとなるかも知れません。しかし、私はこれを自分の真理として、朝に道を聞かば夕べに・・・の心になっているのです。今生をもらった大きな意義があったというものです。私にとっては。
みなさんは、ゆめ、自らの魂を軽んじたりしないようにしてください。むろん肉体の命もです。これは私だけに起きた事象なのです。みなさんを道連れにしたりする気はまったくありませんので。
ただ、秘教のトップ、邪神から直令を受けている者たち、および邪神たち、いわゆる左端を、私は救世主として、魂を消す境涯に置いてあげようと思っています。彼らとともに、私も去るのです。先導をこのルシファーの雛形が務めようというのです。なぜなら、彼らはそれなりの役割を演じ終わったからです。
秘教の手下たち、拝金のおこぼれに自己満足していた人たちは、心的欠陥者ゆえ、矯正措置をみなさんにお任せしましょう。
最後の審判を間近に臨んで、ひとつの決意を語らせていただきました。
2012/10/12 (Fri) 08:28:03
一つ目監視ロボットは、邪神の指示で動いてますから、世に悪事を働く者にやさしく、正義漢には厳しく作用します。自ら悪事を悪とも思わず為す者には、証拠写真も少なく、閻魔の前でのお咎めもほとんどありません。逆に重箱の隅をつついて悪を炙り出すタイプの人には、その本人の為した違反行為(悪事)について厳しく詮議があります。
それを不公平とふつうは言いますが、要は自己の内の神が自分を裁くのです。自らの秤でもって、自らが測られるのです。正神邪神ともに自己の内にある存在。自らを創造主として、誰しもが左端と右端を、左右の両の手を持つ如く有しているということなんです。
そして裁きは何も死後のみにあるのではなく、ただいまの現実として享受している環境も、与えられた裁きの結果なんです。
キリストが許せよと言ったのは、他人や環境にだけでなく、自らに対しても手綱を緩めるように教えたのです。しかし、言葉足らずが確信犯へのみ便宜を与えた格好になってしまった。そこはぬかった救世主と言うしかない。神も死んでしまえば、この世と縁が切れてしまうもののようです。というより、彼が真に神なら、手抜かりをつくったりしなかったでしょう。単なる、やや物知りの人だっただけなのです。
もしどうしても詳密な正義を随所に貫きたいのなら、そしてまったき正義の世界を手にしたいのなら、自己の内の左端を自分で駆逐しなくてはなりません。左手を切り落とせというのではありません。心の中にも行為にも、正義の体現者になること。精進潔斎の極致です。
黄金楽土に至りたいなら、初回の転生で生まれた赤子のような心であるべきです。それなら、すでに存在する黄金境に生まれることでしょう。数々の転生で、人はたくさんの予備知識をつけてしまいました。猜疑心はその最たるものです。それがあるだけで、世の悪を自ら詮議しだします。それがめぐりめぐって、自らの環境を作り出します。今の世の有様は、自らが創造主たる結果のアウトプットです。
私が船長エイハブとして、ここまで引率してきました。が、みなさんも同じ心の傷を持つ。だから、ここまでやってきたんです。
完璧な世界を求めますか。洪水が魂にまで及ばねば、清算できるはずもありません。
それができずに、なお求めるなら、左端モービーディックとともに消え去ることでしょう。
そんな中のアセンションの位置づけですが、転生の繰り返しでひがんだ心の末の地獄の流砂、地獄の息子となっていく、手遅れになる前に置かれた止まり木であり、そこから上昇階梯が出ているところのセーフゾーンといった捉え方です。
それは自己が出した助け舟であり、よほどの拒否する動機がない限り、掴まり得る止まり木です。これもよし。あれもよし。
2012/10/15 (Mon) 07:05:44
いろんなところに、求めていた解答が載っているんですね。
古事記=第二の聖書。その内容は決して善良なものではない。短命に何事も推移するという理念が、すべての事象にかかるという非情さと、弱肉強食的な神々のかもす世界観をあらわしていた。
聖書という言葉から、聖書の暗号に思いがいたるのも、当然の経過だったかも知れません。
コードというのは、ここでの使われ方(Wコードなる)もそうかどうかわかりませんが、プログラムのことです。我々は、ソフトウェアを最終的に作る形をプログラミングと言いました。これはコーディングとも言います。つまり、コードとはプログラムのことであり、コードはプログラムを全体としたところの、局部を指すものでもあります。
この世を記述するものとは、私の推測では、神の言語を用いたプログラムに他なりません。それはこの世(下界)でのそれとは次元が異なり、ものすごく質、量ともに大規模なものでしょうし、それを索引し実行するコンピューターも多次元の超・超コンピューターであるに違いないものです。
ただ、このコンピューターも、実行するプログラムに従って、画面に展開するものが異なり、入出力機器の動きも違います。またそのプログラムは、当初は企画書から始り、設計書が書かれて、それが仕様書として詳密になり、プログラム化(コード化)されているわけです。
何事も我々の観測にかかる画面上の出来事は、このプログラムの実行を通して見るわけですから、その当初の設計書の内容をどうしても我々は見ることになります。
古事記で言えば、プログラムはただいまのところ、黄泉の国の段の部分を実行中であるといえるわけです。見るに耐えない、嗅ぐに耐えない現象の数々を賞味しなくてはならないのも、肥溜めの中をただいま通過中だからです。
よくこんなのを潔癖な我々にヤラせるなあと、私ならずともお思いでしょう。聖書の暗号を解読したイオン・アルゲインさんは、こんなことを発見されているそうです。
https://www.biblecode.jp/intro.php
>聖書の暗号には闇の勢力が残した「悪のコード」と、ムーの最後の王ラーマなどがそれに上書きした「愛のコード」の両方が含まれているようです。
ムー文明の崩壊は巨大彗星の落下によるものと暗号には出ています。その際ムーの王であったラーマや科学者でもあった次の王たちが、その彗星を回避しようとしていたのですが、闇の勢力を目指す悪の側がその彗星のデータを改ざんしたため、地球への激突が起こってしまったというのです。闇の勢力は、愛の文明に向かっていた地球人をいったん崩壊させ、改めて闇の勢力による、闇の勢力のための、闇の文明を築こうと画策したというのです。
ムー文明はあの世、ニルバーナにあるアカシックレコードのプランによって発展していました。闇の勢力はそれを書き換え、悪のプランによって、次の文明の簒奪を図ったというのです。そのためにヘブライ語の聖書を作り、人類の指針となるように人類に与えることにしました。それをムーの崩壊直前に察知したムーの王たちが、その人類完全支記の計画書である聖書に、愛のバイブルコードを上書きしたということです。これはずこい話ですね。ここが大切なところなので、Iさんの解析結果をみなさんで詳細に検証してみてください。
これは、悪のコードと愛のコード、この2つのせめぎあいの中で、人類は実はより早く愛の文明に目覚め、愛の文明にシフトするという創造主の大きな計画の一環でもあるように思います。
悪(闇)のコードと愛のコード、これはWコードそのものです。私はこの中の、「ムー文明はあの世、ニルバーナにあるアカシックレコードのプランによって発展していました」という箇所に惹かれました。これは、前記事にした常緑樹(エバーグリーン)の設計書ではありませんか。全人類の憧れであった常緑樹。永遠の楽園のプログラムといっていいもの。それが神界に元々あったのです。
これが、闇の勢力によって書き換えられて、悪のプランに次の時代以降が乗せられてしまった。たぶんアトランティスも悪のプラン下にあったのでしょう。そして現文明時代。この設計書が、下界にパラフレーズされて、一年生草本の短命な理念でなる古事記に記載されたわけですね。このため、人々は、短命が理由の悲劇に泣くことになっています。
世の歌のほとんどすべてが、悲しみや憂いを含んでいる。希望を歌うときはきまってまだ見ぬ未来のことです。ほんとうに、みんな苦労している。涙ばかりが先行する世です。それを美として見る心もあるから、苦労から抜け出せないでいるのかも知れません。選んでやってきた我々も、こんな観客であったりします。
いっぽう、第一の聖書たる旧約聖書には、設計書からプログラミングされた、プログラムの側の神の言語の直訳形が記載されているようですね。だから、ここからアガスティアの葉をもしのぐと言われるほどの情報が読み取れたりする。ちょうどDNA情報をどういった法則で読み取っていけば、人体を構成するどの臓器になるかといったことが可能になるような感じです。
そこには愛のコードも上書きされているという。私は古事記しか知らないから、それらしい箇所を挙げるとすれば、イザナギの黄泉国脱出などでしょうか。これによって人類絶滅はかろうじて避けられてるからです。天孫降臨も、良いふうに展開すれば、宇宙文明の移植になったりする。が、今は高度科学文明の興隆として現れていますから、いいようで悪い両刃の剣ですよね。闇は愛のコードの展開にも、下界の活動を通して横槍を入れているのでしょう。
またたぶん、ラーマ王は、闇の勢力によって設計が改変された事実を、上書きされた愛のコードの中に含めたに違いありません。後世に、コンピューターが登場するようになって初めて、見つけ出せるようになりました。その意味では、コンピューターは、この世界をシミュレートできる機材としても登場しているのです。
>すべての情報がシンクロしている
私の探求においても、そうでしたよ。今回のこのページからだけでも多大なシンクロを得ていますし、どんどん繋がっている。
そして、ムーが天則にのっとった人々の住む島だったこと。これもはっきりしました。私の新神話も、ムーが海没して、その残存した一部が浮き締まって蓬莱島になったことを書いています。そこが正神首脳の集う場ともなっている、この宇宙の治外法権の場にもなっているとしています。
ラーマ王が設計段階で愛のコードを上書きしたのなら、新神話はプログラムテスト段階で愛のコードを上書きしようとしたことになりませんでしょうか。それも、ラーマ王の計画も知らずにです。だったらいいのにな。面白いのにな。何か新神話に対してやる気が沸いてきます。
その楽園ムーが沖縄まで伸びる大陸だったことも知りました。身内さんはそんな沖縄からあの世に還ったのでした。今は猫のウーちゃんとなって意識の交流をしてますが。これ打ってるときも、ウーちゃん、膝の辺りに来て、私の愛撫を受けてるんですよ。彼女はよく食器棚のところに行って、寂しげな声を出して鳴くのです。彼女の在りし日の仕事だったんだもんな。私も、いずれ蓬莱島に還ります。そこで鶴と亀に戻って仲良く暮らすつもりです。
時悟り 蓬莱出でて 鶴亀は 此地に渾りて 瑞い世開く
そうであればいいのにな。面白いのにな。
あんた、左端と一緒に解脱するんじゃないのかい。へへっ、おいら火の鳥だ。マグマに身を投じて、左端を見送った後、よみがえるのさ。そして、丹頂に火の色を志して鶴になり、蓬莱島でくつろぐのさ。じゃあ、な。

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