琵琶湖周航の歌4・・・神々の能舞台

いよー、ポン
いよー、ポン
ここはあふみの能舞台
永くかはらぬ風情なれ
四季おりおりの作り物
揃えてみなを楽します
思ひをまねく春霞
舞台に映える神々の
舞ぞ近くに見えるとぞ
夏の高津日逢ひ引きの
男神女神の吐息ゆへ
暑き光と気吹きなれ
四海波の頂に
おのもおのもの神坐す
はやす囃子の秋祭り
冬のおろしははや来たり
時改めの伊吹神
かける神世の白装束
春の芽吹きのふきのとう
土手に佇むねこやなぎ
廻る出会いの季節なれ
かかるあふみの豊かさよ
神は神話の舞を舞ふ
愛でる心ぞ豊かなれ
能の何たるかも知らぬ下手な構文でありますが、万葉人の心にあやかってみようとの思いから、一席ぶってみました。
Pさん、メイさん、琵琶湖関係の記事の制作への写真面、発想面の協力、ありがとうございます。

琵琶湖周航の歌3・・・蓬莱山神仙物語

Pさんが提供くださった琵琶湖周辺の景観写真を見てまいりたく思います。
まず、野洲川から見た三上山(御上山)です。近江富士と呼ばれるにふさわしい秀麗な神体山です。
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【湖東平野に悠然とした雄姿の三上山(432m)は別名近江富士といわれ古来神が宿る山、即ち御神山(三神山)と呼ばれ俵藤太の百足退治の伝説に因んでムカデ山とも呼ばれている。社記によると人皇第7代孝霊天皇6年(296年)6月18日天照大神の御孫天御影神(あめのみかげのかみ)が参上に御降臨になったので神孫の御上祝(みかみのはふり=神主)等は三上山を清浄な地とし神体山と崇め祀った。
頂上の奥宮の正面にある磐盤は奥津磐座(おくついわくら)と呼んで神宿る神磐といわれている。山中に水を蓄えているので氏子等は竜王様と称し信仰の聖地となっている。毎年6月18日未明祭神御降臨の日に登頂し神迎えの山上祭がある。弧峯に見える三上山も近くでは男山女山の二峯から成り山麓の御上神社とともに歴史的に名高い。】

男山女山で成るとすると、山影が重なっているのでしょう。
前の記事は、この山頂からの眺望写真でした。
次は琵琶湖の西にある蓬莱山からの眺望写真です。琵琶湖の形がしっかり捉えられています。
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神仙の蓬莱山は竜宮とも同定され、山の神と水の神のロマンの舞台であります。
浦の嶋子と乙姫の物語は古事記のホホデミノミコトとトヨタマビメの物語と同根で、山神と海神の異界ロマンの物語です。
蓬莱山でこの二人は鶴亀となって、共に仲睦まじく暮らしているとのこと。
その故事を古代人が地形に投射していないはずがなく、琵琶湖西の蓬莱山は奥津島姫を祭ると思われる沖島とは等緯度で、どうも意識している模様。
奥津島姫は姉弁天であり、ロマンの相手は大峰山系・弥山の山の神。弥山は須弥山のことなので、如何神なのかおよそ分かります。
日本調では烏帽子狩衣八の字髭で太刀を佩いたりりしい姿。されどかなづちときているゆえ、麓の天川に弁天逗留のはなれを用意してあるとか。
男女神の醸す情熱の気は峰峯に充満し、たえず潤い生態系の営みはどこよりも豊かに営まれているとか。
三上山は沖島-弥山の途中にあって雄山雌山で成るということは、この両神の仲立ちを果たすことの意であり、頂上の龍頭は弥山の方角(やや西よりの南)を向いていると推察するわけですが如何でありましょう。
Pさん、磐座を龍頭と見立てたときに、その向きはどっちを向いていたか分かりませんでしょうかね。
さて、そのようなとき、今度はメイさんが謎のキーワードを持参されました。
夢の中で訪問せねばならない山があるとか。男の人は白山に向かったが、女人は豊橋から北東のいずこかの山に向かうべしとのこと。
果たしてその山とは。
私は現時点の話題の流れからすれば、蓬莱山しか浮かんでこなかったので、そう申しました。
しかし、メイさんご自身が確信(確心)を持てなければ、間違いであるに違いないのです。
その原則は念頭に置きつつも、私は豊橋の北東を地図で調べてみました。
すると隣の新城市に鳳来寺山という山がありました。が、神社がない模様。
神社があるということが要件ですから、ここではありません。
さらに北東に辿ること数百キロ。栃木県佐野市に蓬莱山があるようです。
ここには蓬莱山神社があり、その謂れでは、この地の蓬莱山は西と東の両峰があり、西は市杵島姫を祭り、東は大山祇命を祭るとのこと。
あまたある神々をさしおいて、水の神と山の神が水入らずで寄り添っている様子。これが海のものと山のものが併在する神話ロマンなのであります。
しかしこのお山がそうだと申すわけでなく、また行ってみてほしいと言うものでもありません。
メイさんの心の赴くままです。
次はPさんの修行場の写真です。こんなところにカマクラ作って瞑想修行!? 
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さて、私はたまに神話モードになったときだけ作動するイミテーション山の神でして、なぜかこんなふうなことが勝手に脳裏に浮かんだりして皆さんを混乱させております。
イミテーションは雛形ともいい、たまに神人形になったふりして神話の域を脱しない範囲の何かをやらかしてしまうというわけで、普段はIQ100あるかないかの凡人なのでありまして、狡猾な邪神の目を欺くための十重二十重の仕掛けがなされているようなことかもしれぬとは思うものの、やってる本人あまりに阿呆な人生に、空を眺めて阿呆ーとカラスの鳴き真似をして暮らしているようなしだいであります。
変な想像かきたてられるようなら、ご容赦のほど。

お知らせと琵琶湖周辺霊場周航の歌

まずお知らせから。
本日午後7時からのフジテレビ系放送の
「脳内エステIQサプリ」怪現象ミステリーSP衝撃!UFO映像公開未確認生物&すごい技ガチャピン 
において、坂本さんのUFOビデオ映像が紹介されるとのことです。
ゴールデンタイムなので、夕食を摂りながらご覧になってください。
また、さる20日のローカルラジオ放送・AM神戸の谷五郎のラジ関アフタヌーンで
武良さんがUFOコメンテーターとして電話生出演されたそうです。
M総研さんは求道者によく見られる身の周りのシンクロが幾多起きているようです。
整理がつくまでブログを更新なさらないようです。
再開のときは、表示記事数をもう少し減らしてページを軽くするようお願いします。
(私のPCは限界です)
みんな活躍の時期がきているように思います。
さて、今回の記事は上記お知らせだけではありません。
前記事に続き、琵琶湖周辺霊場周航の歌を少し歌わせていただこうと思います。
古事記の「誓約」の段は、天照大神とスサノヲが相互の身の潔白を証そうとして、それぞれの持ち物から子供を生む物語であります。
その舞台になるのは、神話世界の天の真名井の上空となるわけですが、古代人はそれを現実の空間に投影させて、琵琶湖を真名井になぞらえて、自ら住居する空間に神仙の息吹を感じ取って生活していたようなんですね。
おそらく古代人の居住環境にはすでに土地の性状を織り込んだスケールの大きい神話伝承が語られていたと考えられます。
スサノヲの持ち物の太刀は三段に折られて三貴姫が生まれ、竹生島をはじめとする島々を貴姫の御神体とする信仰を生みました。
天照大神の持ち物の珠を噛み砕いたものからは、オシホミミ、天津日子根などの五柱の男神が生まれ、天皇家を補佐する豪族たちは積極的に神々を戴祖して、自家の格式を神に連なる者としての権威と格付けを図っていきました。
むろん御神体としての身体を持った男神もいました。天津日子根の子・天の御影神は近江富士と讃えられる三上山に鎮まりました。この神は鍛治の神とのことです。
火の神や鍛治に関係する神名には、およそ「みか」の言葉が使われています。タケミカヅチ、ミカハヤヒは火の神であるとともに鍛治の神、そして戦神です。ミカゲも火と鍛治を司り、天津日子根の意味する錬金術科学の系譜としてふさわしい流れとなっています。天津日子根神も湖東の彦根の地名として残るわけで、土地が御神体となっているわけです。
三上山も三つの上(神)の山とするなら、その三つとは何なのかを調べねばなりませんが、ミカの山すなわち錬金鍛治のいわれとするなら、分かりやすくなります。
また近隣の伊賀の地名も、「みか」⇒「いか」の転であり(mが抜けたのね)、このあたり一帯が鍛治や窯業を行っていたことによるわけでしょう。設楽焼きなどの窯業はやはり火を使う、当時の錬金術科学です。
また、天の御影神は天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)に同じとされるようです。この神は目がひとつしかない神で、やはり鍛治や窯業の様子を表しています。また、ギリシャ神話に言うキュクロプス(サイクロプス)というチターン神族の鍛治の神そっくりです。
しかし、そればかりか古代人は火山もイメージしました。
鍛治の赤々とした坩堝と火山の噴火口はスケールは違っても似ています。古代人の得意な相似像イメージングがここで生きてくるわけです。
キュクロプスなどは、神々の支配の交替期に呼び出されて使役されて、また地底に幽閉されているわけで、哀れといえばそうですが、火山のマグマならしかたないです。つまり、地上の生態系の変貌をもたらした摂理とさえ理解されていたんです。
これは一つ目ということから、さらに台風の目を想像させ、活火山や台風として、この神の存在意義が規模を大きくし拡大されていくわけです。
近江地方の古代人は、ギリシャにおける詩人がオリムポスの神々の臨在感を抱いていたのと同様に、高天原の神仙境にあることを自覚していたのでしょう。万葉人の心のおおらかさはこうして作られていったようなんですね。
また神話の比良坂は、歴史が坂道が上り詰める究極の時代を意味しています。比良山という山に見立てて、きっと比良の上り坂の峠の先にイザナギが作るであろう輝かしい青空の時代を夢見ていたのでしょう。
まだまだ続きますよ。今回はここまで。

召還の兆し

今日未明にリアルな夢を見た。これはさる25日未明に見た母の夢に次いでのものである。
異世界の夢ではあろうが、ガラス張りのビルに落雷して、破壊が起きていた。ふつうではありえないことだ。これではいかんと家に入ると、畳敷きの広い目の部屋がいくつかあり(私の家は総板張り)、その中にいて外は依然雨が降り(今朝は雨だったからかも)雷が鳴っていて(現実は雷は鳴っていない)電源の入っていないテレビが雷のたびに誤作動して映るという不気味なもの。外を高電圧高電流が支配している感があって実に気味が悪い。もしや天変地異頻発の終末の様子かと思わせるものがあった。
ところが、もっとたいへんなのは、家の中にいたのが、すでにとうの昔の亡き父、祖母、そして母であったこと。それぞれが別の部屋にいて、不気味なテレビを見ているふうなのだ。
私はこれが来るべき時代かの思いを多少もちつつ、さかんに「遺言しときなさい」という言葉を聞いていた。遺言。お金と葬儀のことについてはもう書いてある。頭についたのは、このブログのことだった。誰かに引き継がねばと思案していた。
そのとき私は今晩、地域住民の輪番で年末警戒のパトロールに回らねばならないことを思い出し、「集合場所まで車で行くのかな」と質問すると、母が「それは歩いていかなあかんで」と答えたのだ。6Kmの道を。まさか。(実際は車でもいい)
荒唐無稽な内容だが、私も召還が間近だなあという思いを抱きつつ目覚めたわけだった。
私にはもう少しやっておきたいことがあった。
小スペースで自給自足に準じた暮らしができないかという方法の試行と模索である。
都会暮らしの人には自ら食の生産ができない。そう思い込んでいたりしないだろうか。
これでは今後、食材が尽きたり流通が滞ったりした場合、たいへんなことになる。
何らかの方法で、ベランダなどの小スペースで少人数用の野菜が作れたら。
M総研さんは、菜園で野菜作りをされているそうだ。
露地植えは、地続きだから虫害にあいやすいかも知れないな。
広いと目も行き届きにくくなるだろう。
鉢植ではどうだろう。水耕栽培というのは難しいのか。
それらができたら、小スペース栽培も面白くなるだろう。
ただいま試行中。

今年という山を越えるにあたって

まもなく2007年が過ぎ、2008年を迎えようとしている。
古代人は時間を道に喩えたので、ひとつの山を越えるという表現ができるかもしれない。
それも路傍に立つ道標としてのジュセリーノ氏に言わせるなら、最後の改善の見込まれた道のりが、満足いくものでなかった先の峠越えといった感じになる。
2008年から2040年頃まで、人類は激動と艱難の歴史を歩むことになるらしい。
しかし、彼はその先に希望の火を置いてくれた。
むろん彼が置いたわけではなく、神が、予定していた人類の絶滅のシナリオを変更してくれたと考える。
以前の彼の予言が絶望的であったものから、今は希望が見えている。彼は昔、希望についても予言していたと言うかも知れないが、少なくとも私は、つい今しがた良好な並行世界へと移動したからだと考えるわけである。私がこの世界の観測主体だと信じるわけなので。
むろん私は、希望の時代に生きて至ることはあるまい。しかし、私の時空を共有してくれる人々がもしいるなら、彼らや彼らの子孫が希望の時代に橋渡されて、新しい人類の時代を築いてくれるだろう。
私は今のようなおかしな世相に生まれることはまっぴら御免だが、新時代に至った子孫たちの間に生まれることは光栄なことだ。我々が良い時代の招来に希望を託すのは、我々のためにもなっている。だから、子孫たちがハードルを越えていくための礎、土台になることに喜びを以てあたりたい。
黄泉世界を経験したイザナギノミコトが、徹底的な「禊」を行わねばならなかったように、我々も衣服(持てる財産)をかなぐり捨て、川の水流を潜って身を清め、命のバトンを確実に渡しながら、艱難辛苦して苦境の時期を抜けねばならないわけだろう。
日本人に生まれたことは、その点とても意味があると思う。
古来から伝えられた古事記には、そのシナリオが語られている。日本人に与えられた、日本人のためのシナリオかも知れない。
私はどちらかというと”超古代”趣味から、日本の隠された地上絵を見つけ出した。おかげで日本民族のルーツを中東にまで辿ることとなった。そのアウトプットとして「古代日本中東思想渡来考」(原著名・古代日本にカバラが来ていた)を出した。時折噂になる日ユ同源の話題にも、超常的発想から賛成しているしだいだ。
かの中東の地からシルクロードを経て、向こうの文化とともに民族が流入し、東の最果ての地に理想国家さえも創ろうとしたこと。その上に、役割を持たせた神がいたことは重要だろう。
偶然見つけたいささか古い宇野正美さんの講演ビデオだが、年頭にみなさんも初詣することになる神社に、ユダヤの伝統を感じ取っていただけたらと思う。
https://video.google.com/videoplay?docid=3191043469565067131
しかし私は、この神を邪なゆえに憎んでいる。おどろおどろしい生贄要求の神で、年々娘を生贄に出せというヤマタノオロチと酷似している。こんな者を頂いたなら、明日は何を差し出せと言われるか分かったものではなかろうに。
だが、この神が、唯一見込んだ民を日本に送り込み、その子孫にやらせようとしていることが、決して人類の滅亡ではないということも分かる。支援した相手が、馬鹿がつくほどの平和愛好の民だからだ。ただ現在、強者追随のパシリでしかないことが、見込みのなさを醸しているが、奈落の谷に架けられた細い吊橋を渡るようなときに、真価が発揮されてこよう。
そういった観測予想も、未来予言や異界通信に頼るしかないのは言うまでもなく、それゆえ世間をなるべく高所から眺めているようなわけである。
が、私は受動的でいるつもりはない。
私は今見ている世界が、私の責任ある固有の世界であるゆえに、私の理念の中に描かれる神々に物申し、是正を求める。過ちを過ちと認めてもらい、それが是正できないなら追放する。私の時空からは消えてもらわねばならない。(みなさんの時空ではいかようにでもされたらよい)唯一神に正邪の両義性があるというなら、邪なる病患部の側を斬り落とすことになる。神話の魔法を使い、病変部を邪神組織として浮き上がらせて切除焼却するわけだ。日本人の真価発揮に役立つ方法としても用いたい。