「夢に胡蝶となる」について、物思うこと多いこの頃です。
最近、めっきり夢を見なくなったからでしょうか。
前回の夢はどんなものだったか思い出すに、この日のコマのひとつになったときの夢でした。核爆弾使用の判断を下す王族のひとコマです。これを私は、北朝鮮の金○○と見立てたわけでした。もうひとコマ、王族はいて、その二人で全責任を負って実行せねばならないと、周囲の雰囲気から追い詰められている感じがしていました。金親子かな。王族でない三コマほどは、軍部の重鎮ではなかったか。ほんとうはしたくないんだけど、抜き差しならないようになっている感じでした。だって、王族の継承が適えば、正日にとってはいいわけですから。
あれから何日間見ていないのか。昔はそんなことは絶対になかったのに。
同じ背景の夢を、ストーリーを違えて見てみたりしたこともよくあったのに。
今は、その夢すらないというか、憶えていないだけなのか。
それで結局、私の存在すべきパラレルワールドが、もういつしかなくなったのだろうということしか言いようがないのです。パラレルワールドの私のほうが先に死んでいるのでしょうか。こちらの私が死ねば、どこに行くのだろうと思ったりするのです。
さて、そこで前回の不思議な夢について、また深く考えてみるわけですが、
私のパラレルワールドはもうない。しかし、他者の人生を自分のことのようにして味わうことはできていそうです。
たとえば、金正日の側近になって、彼をしてユーモアたっぷりにゼスチャーさせてみたりしたのは、他でもない、私だったのです。
これは他化自在という境地なのではないのでしょうか。つまり、その人物に成り切って、コントロールすることもできるといった。
北朝鮮にばかり意識が飛んでしまうというのも変な話なのですが、金の側近になってみたり、そのものになったりしているのでしょう。
そして、彼の心情も何となくわかるのはなぜ。
彼は親日の心を持っているように感じたのです。
親の日成が、もしかしたら日本人の種だったのではなかろうか。
もうとうに話半分の世界ですが。
日本には、ノドンで百発狙っていても、彼は撃ちたくない。
攻めるなら、むしろ韓国のほうを攻めるだろうと。
日本への敵愾心を誇示することで、国内の意思統一を図ったが、それは星一徹を超えようとする飛雄馬のようなもの。ほんとうは故国への憧れのようなものがあるのではないか。
しかし、築いてきた敵愾心が周囲の側近たちとの共有物になっていて、もはや意志の変更は効かなくなっているといったことですね。
まあ、話半分、妄想半分ということで。
今回、孤立感を深めた北は、もしかしたら原爆記念日から終戦記念日までの間に、暴発日を予定していたのではないか。それを事前に察知できるのは米国だけで、これではまずいと考えた米は、クリキントンを贈って、北の意思を和らげたのではないかという気がします。
あの正日の喜びようはほんものですよ。クリキントンとの取り決めがあって、軍部に対して成果を出すことができたからです。
それに比べて日本は、裁判員制度で持ちきりで、こんなノー天気な国民もないでしょう。マスコミが日本人面して威張っているだけの国なのです。
そのような日本には鎖国こそが似合っているのであり、世界にそう宣言して篭らなければ、国が存続しないような気がします。まあ、奇跡的に保っているのは、国津神の守護が徐々に浸透しつつあるからとしておきましょう。