Kさんのメールより引用
>その(和気清麻呂の)流刑先が宇佐国の主流である?津川上流より降る犬飼滝地域だった。
つまり、現在の「日当山」の湯治温泉だ。温泉に軒並みの眼前する犬飼滝が和気清麻呂氏の流刑先だったとしている。
その滝の丘に和気神社が鎮座されており、和気氏が此処で帰幽してることから、この地域は恵まれた自然環境が保たれている。正面の川西側の土手には熊襲いわば古代隼人族の人穴があって古来士族の熊襲の襲撃を受けまいと陣の拠点としていたようだ。事例に景行帝の指示により大和の尊皇子が隼人族を騙して征伐したという、その場所を和気氏の流刑の地としている。
従って、和気清麻呂は神事の責務にあったせいか、和気氏の流刑先には九州といった筑紫国が関わりをなしていて、流刑と言えども深い谷合いに葬られた歴史上の人物として名高い。
Kさんは、九州における和気さんの帰幽地を実地調査していて、確信を持っておられます。
歴史的な記録では和気さんは道鏡の逆鱗に触れて九州に流されたとされていますが、称徳天皇が亡くなって道鏡が失脚してから、都に戻され元の立場に復帰しているとされています。
道鏡は僧侶にありながら天位を得ようとし、ご託宣をわざと自分に有利にしようとして、和気さんに一発逆転を食らって、その恨みから流罪にしたとされています。しかし、道鏡は皇位につけませんでした。つまり道鏡をやっつけて、みごと凱旋したことになっているわけで、その後、桓武天皇の平安京造営にも貢献したあと、68歳で亡くなったとされています。
もし九州の流刑先で亡くなったとすれば、40歳そこそこで悲嘆の中で亡くなったことになるでしょう。しかし、墓所はそこに確かにある。
そうである以上、どこかで清麻呂さんの歴史は別人のものに置き換えられているのでしょうか。
京都の護王神社というところに祭られているようなので、帰幽地もまた異なっているような。
いやいや、そうなのではなく、
どっちが正しい歴史ということではなく、どっちも正しいことがありうるのです。
理由は、人は人生として、複数のタイムラインを持っているからで、短命に終わる悲劇もあれば、天寿まっとうの満願成就のタイムラインもあって、それぞれに墓所が異なるのが当たり前とも言えるのです。
いずれにしても、和気さんはここ備前から美作さらに播磨にかけての英傑偉人のようです。
また彼の姉の広虫姫もまたすごい人徳の方だったようです。日本で最初に孤児院を作った方といいます。
満願を果たした仲良し姉弟の美談は、いやあ、いいものですね。
Kさんはこのほか、卑弥呼のいた真の場所として、山口県の山門を挙げています。九州でも大和でもない。面白いですね。
またKさんは、イエスの到来した場所は九州の諫早だとしています。ゴルゴダの丘で死んだ、死んでない。東北に渡来した?
しかし、ぜんぶオーケー。人生には多数の選択可能性があるという拙論(ゲームソフトモデル)からすると、なんの問題もありません。
ああだこうだと論争している学者さんたちを、あくびこらえて見ています。
さて、Kさんのタイムラインも複数あるように、私のタイムラインも複数ありまして、実は救世主になるタイムラインもあるのです。しかし、その手筋はこの今のタイムラインの先にはありません。魂の経験としては、すでに終わったか、次なのか、それもわかりません。そして当然ながら、複数あるそれぞれにおいてモニュメントも帰幽地も異なっているわけですね。