ほんとうにわかりやすかったですね。このアセンションの解説は。
https://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/2012/05/post_3647.html
我々じじばばには、これを仏教的に言えばわかりやすかろうと思います。今は銀河の中心から、大乗の波動が押し寄せている。これに乗っかるチャンスが来ているのだと。それまでは自己修行に明け暮れて小乗の達成を成し遂げて聖人となったものが、比較的簡単に達成できる可能性があるというわけです。私も20年前に拙著で、こう予言してました。
https://rainbow.xn--kss37ofhp58n.jp/monoomoi/qbl-5.html#15
>これは一般人にとっては戸惑いのある迷惑な話かも知れないが、ある者にとっては福音となろう。カバラは人の超人化に寄与する難しい修業体系を持つが、その下で修業することと比べれば、直接に神との会見を図ることは、その長く地味な行程を短縮するものと考えないではいられないだろうからだ。つまりその時点に生き合わせることの特権である。
しかもただ、アセンションを希望すればいいとまでされているではないですか。私だって、今のこの地獄状態にとどまっている気はありません。災難や戦争などでお尻を槍で突かれれば、思い余って希望することでしょう。しかし、アセンションとはどういうことなのか、その定義がほしかったのです。
が、知ったのは、アセンションが次元上昇によるものであって、元の次元とは、時空的に隔絶されてしまうということらしい。
古事記の神話にもこのことは書かれています。黄泉津比良坂をどんどん登っていって、その峠を越えた先に、塞えます黄泉戸の大岩を据えて、両方の時空を断絶するとなっているんです。坂を登ることが次元上昇的でしょう。元の黄泉世界は、どんどん人口を減らしていくが、越えた先の世界は、人口が増えていくとまで書かれている。だからこれは、この歴史のオリジナルパターンとしてそうなっているんだろうなと、わかるわけです。
しかし、私の理想とする世界ではないことに気がつきます。理想とする未来を記述する新神話を編んでますが、その最終形は、すべての帳が下ろされて、隔絶とか断絶といったことが、どこにもなくなり、そのことによって風通し、光の流通が盛んになり、三千世界に隠れ(闇)なしという状況が作られる。このこと以外に、理想はないし、それこそを黄金楽土と呼ぶと自分で定義していました。
たとえばアセンション信徒のかたにお伺いしますが、私がいま飼っている猫たちはアセンションの恩恵に預かれるんでしょうか。彼らは、アセンションの定義も知らないから、希望することもないでしょう。生き物全部にそれは言えます。人間だけの特権なら、どこかいびつだなと思わざるを得ないのです。
次元上昇と隔絶がアセンションなら、私はそれをもっといいものに変えたいわけで、私の理想のほうがおそらくまともだと思いますが、いかがなものでしょう。と、素人衆にお尋ねしてもわからんでしょうし、それなら別に選ばなくてもいいんだよと言われてしまいかねないですから、あえて申しませんが。(もう申してるがな(笑))
つまり、定義がトップダウン的にもたらされていて、それ以外には選択肢(選択の余地)はないんだという落ち着き方になるわけでしょう、これが違和感の元になっていて、なおさら、私の理想とするものではないと確信されてくるのです。
緊急的一時避難先としてアセンションするなら別ですよ。ただし、その体制に組み込まれる気にはなれません。それがたとえシリウスの方針だとしても。
だって、大昔の先祖は、アヌンナキを信仰して、人類史の初期設定をしてこの歴史を営んできたんでしょう。アヌンナキに、エンリル派とエンキ派があり、邪と正を闘わせている。統括するのは大計(おおばかり)というマッチポンプ計画といってもいいようなことらしい。それが宇宙の寿命を延ばすというシステムで、要はゲーム世界を自動創造させているわけです。こんなふうに思うから、私は自分の理想を確固として持ち続けるにしくはなしと思うのです。
・・・といったことを、つらつら思いふけっていたここ二三日でした。そんなときに、愛息のブーが5/12頃から咳やくしゃみをしだし、5/13にはいっそう悪化させて、食事だけ食べにやってきていました。しかもたびたびの雨で、身体をずぶ濡れにしながら。たぶん12日未明の寒さのぶり返しに、野宿生活の身がやられたようでした。
いわゆる猫風邪。これは伝染性で、猫にとっては致命傷になることが多いとされています。ブーは家の中に休憩する場はないか探していたようですが、みんなとの折り合いがふだんからよくないため、結局外にまた出て行きました。13日の午前中までは確認しているのですが、以後現れませんでした。
日曜日だったので、医院は休院。14日朝にでも現れたら、身柄を確保して医院に連れて行こうと思うのですが、14日の午前2時頃に目覚めたときに、今頃虫の息になっているのではなかろうかと、それまでの彼との経過を思い返して、約束のひとつも果たしてやれなかったことを悔いながら、愛念を送っていたのです。
すると未明の夢に、彼は出てきまして、思いもよらないところに案内してくれたのです。次に書くこと、天地神明に誓って、ほんとうのことですから。
それはあのゴリラのココが言っていた、心地よい(苦労のない)ホール(穴)のようなもののところでした。
手話できるゴリラのココの話
https://d.hatena.ne.jp/saruya_akira/20110418/1303147998
それは、前に突然閃いて半自動書記した記事のように(https://itsukakit.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8110300)、大河と直結したものであるらしく、
>滔々と流れる大河。我々はそこからちょっと遠慮がちに引き込んで、水道の蛇口をひねっていたようなことでしょうか。そしてそれを愛と感じておりました。表現は幾つにも異なっておりましたが、みんな共通する大河から取水していたもようです。
大河は無尽蔵で公平です。ここにミミズがいままさに土くれを頬張ろうとしているときの観測エネルギーは、創造神が目の前にする全宇宙創造のエネルギーと等量です。有情はこのように偉大。みんな形は異なれど生きています。そしていつかは形を滅し、心地よい大河の流れに合流するのです。
ものすごい愛のエネルギーが湧出して、ちょうど巨大な噴水のようになっておりまして、その先端にたくさんの生き物たちが心地よさそうに顔だけのぞかせているのです。そのエネルギーは私の愛念と同じ質のものでしたが、はるかにパワフルでした。私も夢の中でしたが、そこで改めてチャージしたほど。
その噴水の中にブーのまん丸目をした顔も。チンの顔もあったような。待てよ、まだチンは死んでいないだろうに。その他ネズミなどもいました。それらがみんな温泉に漬かったように、喜びと安堵の表情をしているのです。
捕食の争いなどどこにもない。それぞれが、そう、お疲れさんを言い合っているようでした。やがて彼らは、穴に入り、大河の流れの中に戻っていくと直感できました。なんだ、すでに黄金楽土はここにあるじゃないですか。死の先にあるとは言うものの、人間が通過するバルド(中陰)というものでもない。だって、生き物の生き方に閻魔が裁きを与えるなんてことがありますかね。彼らはただあるがままに生きているのですから。
そのすごい噴出穴を見て、現実界の残酷さは、一過性の演出にすぎないと思いました。現に起きて床を見れば、トンがネズミを食い散らしていて、二匹分の尻尾と臓物の一部が転がっていました。しかし、ネズミはネズミでこれでよしとしていると思えました。私はたえず持ち続けていた、すまないという思いが消えましたから。つまり、現世に起きることは、さほど意に介さなくなったのです。
ブーはきっと死んだのでしょう。縁ある生き物は、たいがい報告して死んでいきますが、ブーは悔い悩む私に、行き先を見せることで、報告に代えたのだと思えました。
ブーは初期の夢見では神様のひとりだった。ウー(現存)と夫婦をあちらでは営んでいる。豊富な過去世ゆえに神ともなれたのか。なのになぜ、生き物の帰るべき共通の穴のほうにいたのか。起きてから思いました。そこで、突然に気づいた(閃いた)のです。
神と仏とは異なるかも知れませんが、仏とはあらゆる所有観念をなくした境地でしょう。神もほぼそうなのでしょう。彼らには、所有すべきものがない。つまり、過去世すらもないのだと。というより、あったとしても放棄している。すべて大河の流れに帰すべきものとして返してしまっている。
人間だけなんです。所有観念を持っているのは。アクがあるのは、人間だけ。そう閃いたのです。
そういえば、こんな物語もインスピレーションして書いておりましたね。この最後の”方士Comment”をどうぞ。
https://rainbow.xn--kss37ofhp58n.jp/story/yamannba2.htm
きっと人間は、人という特殊な生き物形態を持つことを、どこかで約束してきているんでしょう。以後、過去世がまず所有の対象となり、その経歴が彼の所有財産となった。その必要から、記憶機能や知能が生まれた。あとは所有のバラエティを増やしていくばかりとなり、その極限が、ついに偶像(金銀銅石木でできた貨幣)集めとなって、それが皮肉られての宿命的帰結としての世界滅亡、人類滅亡へと結びついてしまっているのだと。そして個々に卒業するかどうかとか問われたりしているのだとすれば。・・・あまりにも滑稽ではないですか。
人間であるみなさんは、自らの勲章とも言える過去世を捨てられますか。おそらく聖者といえども捨てられはしません。むしろ、その一々を首飾りにしておられるくらいでしょう。それが根源的な、生類と人間の違いと思えたことか。
おそらく生類のほうが神仏に近い。それを下等に見ているのは、人間の経験知の豊富さと、それを支える知能の優秀さの故です。知能が秀でたのは、所有を手放したくない、増やしたいという願望の現われです。が、それが彼らの優秀さとして意識され、神仏の境地との乖離がどんどん促進されてしまったのです。つまり、記憶とは所有欲が生んだ、欲望を死守するための必要条件だったのです。記念碑やメモリアムも然りです。
だから、あたかも賽の河原の赤子の贖罪行為のように、積み上げては鬼に崩され、また積み上げては崩されるということを、連綿として繰り返しているのです。それが転生システムの縁起だと瞬間的にわかったしだいです。
ココやブーは、大河に帰れば、何もこだわっていないです。むしろ私のこだわりによって、心乱されないためにも、私を大河の噴出する穴に連れて行ってくれたのでしょう。彼は先読みできる賢い猫でしたから。もともとは神ですから。最後に、大きな啓発を残し置いてくれました。
生き物で、人間と付き合うために生まれてきた命は、その意味でたいへんです。きっと、人間の発する想いに引き込まれて、人間に転生するようなケースもあるでしょう。しかし、それは進化というものではない。苦労の始まりであるのみ。私は彼らをそんなつまらぬ賽の河原に導くより、むしろさらっと、そっちで幸せにしてなさいよと、心の中でと、仏壇で言ってやれたらと思います。
ブーはそもそも、新神話の作成過程で、白虎の募集に応募してきたフーの父兄であり、人間界へは物見遊山に来ただけといった風情だったのです。それが、神にあってもコントロールが利かなくなるのがこの世。紆余曲折の苦労の一生を送ることになろうとは、の思いではなかったでしょうか。人間になりたくてやってきた? 冗談じゃないやい、と聞こえてくるようです。
人間の所有欲は過去世へのこだわりに発する。そこには怨みや因縁も引き継がれる。もっともっとと言うようになり、それが極限まで行ったのを強欲といい、制裁の対象とされるまでになってしまう。しかし、根底にどうしても所有欲は残ります。それゆえ、解脱ということは、人間にはきわめて難しいのでしょう。釈迦も世は三界からなると言いました。欲界、色界、無色界。解脱とは無色界に至ることですから。
あの大河のエネルギーは、このマトリックスゲーム世界を賦活する根源エネルギーなのです。そこに浴する有情たちには、何の不幸もないことを知ったようなことでした。彼らは、その気になれば、解脱しているのです。人間もそう。が、所有欲がぬぐいきれず、記憶の連鎖の中で輪廻しているのです。
大道すたれて仁義あり。仁義とは、筋道、規則、こうあらねばと思う心です。そこには、来世を引き寄せる磁場(アク)が生じて、幾度も幾度もそれを満たそうと試みることになる。大道は大河のこと。そこにはすべてが流れている。全成就と言ってもいい流れのこと。
ここでIn Deepさんの薀蓄話をひとつ。共通するものをお感じになれば幸いです。
https://oka-jp.seesaa.net/article/269648608.html
追記
5/15午前0時半(深夜)に、ブーは帰ってまいりました。いっそう身体を痩せさせ、咳も依然としてひどいありさまです。食事をしっかりとらせますと、また出て行ってしまいました。とにかく医者に連れて行かねばなりません。
追記2 5/18 8時
16日に医者に連れて行き、点滴、抗生剤、インターフェロン等打ってもらいましたが、ほとんど効き目なし。いっそう鼻水、咳、涙目、そして激ヤセして子猫のようになってます。さらにシャンにも伝染したもようですが、両名とも目下外出して帰らずのありさまです。
追記3
猫風邪がうつったシャンが、21日昼過ぎから帰らなくなりました。21日に医者に連れて行くべくすったもんだしているうちに逃げてしまったもので、あの時点で足元がふらふらしていましたから、22日の今現在、どこかで死んでいることでしょう。
それまでの経緯はここに。
https://itsukakit.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8145684